KOfyの「倍行く」人生

バイクで人生を“2倍”楽しみたい。勝手気ままな日記代わりの備忘録。

尼崎市塚口町の思い出(塚口中学・尼崎北高)

2020年04月03日 | 自分史あれこれ
3月31日(火)、阪急塚口駅近くのラーメン屋「麺69チキンヒーロー」へ行った際、
塚口中学尼崎北高校の時生活した場所なので、食後は、その思い出の場所を訪ねて
セロー号でパトロールしました。

【参考】
10年前に、先代オフロードバイクのジェベル250で、昭和巡りと称して、尼崎時代の幼稚園、
小学校、中学校、高校をめぐってツーリングしていました。

昭和探訪ツーリング - KOfyの「倍行く」人生


1968年、中学1年生の夏休みに、東京都杉並区から父の転勤に伴って、
兵庫県尼崎市塚口町1丁目に引越ししました。

尼崎の中学は坊主頭にしなければならないかと心配していましたが、
幸いにも坊主にする必要はなく、一安心しました。

英語の教科書は東京ではプリンスを使っていましたが、
尼崎ではクラウンの教科書で、内容が違うことを心配した母が
英語の塾を探してきて、人生初めて塾なるものに通いだしました。


また、国語の時間は教科書を読むときに、NHKのアナウンサーみたいと
言われたことが、少し、自尊心をくすぐりました。

実は、小学校1年の途中で尼崎から名古屋市昭和区に転校したとき、
そして、小学校3年生の途中で名古屋から東京都葛飾区に転校した際は、
国語の授業では、関西弁、名古屋弁を笑われたものでした。


方言では、相手のことを「自分」、借りてきたことを「かってきた」、
捨てることを「ほかす」など、少々戸惑いました。


塚口町1丁目の住宅は、ずいぶん大きな社宅で、敷地内に大きな倉がありました。
庭も広くて、壁に四角く的を書いて、ピッチングの練習などができました。
どっしりとした純和風の家だったと思います。
その後、社宅と隣の土地などを売却し、別の会社の集合住宅の社宅に代わっていました。

阪急塚口駅へ行く道も一方通行になり、バスは隣の道から駅に向かうようになっていました。

   


クラブはサッカー部に入り、レギュラーでセンターハーフのポジションでしたが、
尼崎市で一番弱く、西宮市で一番弱い中学と戦った時に0-0で延長まで行き、
延長で0-1で負けた時はショックでした。


塚口中学校は、尼崎市の北端に位置し、自宅から歩いて約1.5km、20分でした。


昔の通学路をすっかり忘れ、道に迷ってしまいました。
当時から、都市計画が進み、五合橋線やその他の道が拡幅し、
新たにコンビニやマンションなどができ、すっかり様相が違っていたのが原因です。


塚口中学校自体も、正門入ってすぐの校舎が東に移動し、校庭にすぐ入れるようになり、
南側に新たに通用門ができていました。
すっかり様相が違い、また、正門周辺は田んぼなどがありましたが、
すべて住宅で埋められていました。


【参考】
我が3代のオフロード愛車と母校塚口中学校の正門
 (左から、ホンダXL125XL、スズキジェベル250XC、ヤマハセロー250)

    



塚口町1丁目の住宅は社宅でしたが、途中で父が南塚口町に中古戸建て住宅を購入し、引越しました。
当時、猫が母猫でチー、子供がモトコ、タマサブロウ、ユキコと3匹いました。
また、姉が、高校に住みついていた「ハマケン」という教頭からつけた名前の犬の子供を連れて帰ってきて、
父がロンと名付けました。父はマージャンが好きで、母猫がチーで、子犬がロンでした。

犬の散歩は私が担当し、毎日、自宅の近所を連れて歩きました。
家の近所に広場があり、時々、ロンのリードを外して走らせてました。
ロンも喜んで、走り回っていたなぁ!

また、高1の時に原付免許を取り、父を説得して、ヤマハのミニトレを購入し、
通学でも使っていました。

   


兵庫県立尼崎北高等学校も2007年ごろ本館を立て替えましたが、イメージは大きく変わっていません。
校門西側の塀に沿って、バイク通学していた連中がバイクを止めていました。

   


受験勉強はまじめに取り組み、校門出て、100mちょい位のところにある公民館の
冷房の効いた部屋で、高校の授業を抜け出して自習勉強していたもんです。

   


尼崎市塚口町は、私の13歳から18歳までの多感な少年時代を過ごした思い出の場所です。
大学は、東京の一橋大学に現役で進学し、実家を離れましたが、大学2年の時に豊中市の
今の家に引っ越しするまでの45年前まで実家があったところです。



また、1982年に西宮にある阪神支社から、本社の営業開発部技術開発チームに転勤になり、
岩崎の京セラドームの場所にあった営業技術センターで勤務し、その中で、
近未来住宅の住まい方と住宅を研究し、それらの研究成果をもとに、あるべき住宅設備やシステムを
研究発し、実際に戸建て住宅に装着して居住実験をして検証するプロジェクト(アイデアル住宅)に
事務屋としてただ一人入りました。

その実験住宅をJR塚口駅近くの会社の土地に建て、1985年まで従事しました。
その思い出の場所も訪れました。実に、35年ぶりです。

当然その建物は撤去され、社宅の公園になっていました。
懐かしい思い出です。
このプロジェクトに従事している時に、結婚し東豊中の社宅に住みだしました。

   



■フォトチャンネル「尼崎市塚口町の思い出」 ※右下のボタンクリックで全画面表示


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