東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

お祓い

2024-09-06 23:39:16 | 日記

京都

2024-09-06 23:34:04 | 日記
 仁和寺の法師ですか・・・。
 
 京都にある仁和寺は真言宗御室派の総本山で、山号は大内山のようだ。仁和寺は明治時代の前は皇族の人が出家して住職を務める門跡寺院ということになってるらしい。
 
 土宜法龍という僧は西域やチベットを旅行して密教学研究の基礎を築いたらしい。土宜法龍は明治39年(1906年)から大正9年(1920年)まで仁和寺の門跡を務めたようだ。土宜法龍は金剛峰寺の座主にも就いたようだけど、真言宗連合総裁にも就いたようだ。土宜法龍は大正12年(1923年)に亡くなったらしい。土宜法龍は南方熊楠と往復の書簡をずっと続けていたようだ。
 
 インターネットで調べると、土宜法龍の墓は京都市右京区にある高山寺にあるらしい。本当か知らないけど・・・。高山寺の山号は栂尾山らしい。高山寺は真言宗御室派の寺だったらしいけど、昭和41年(1966年)に真言宗御室派から独立して、真言宗の単立寺院になったらしい。
 
 高山寺は明恵という僧の開山となってるらしく、高山寺の開山堂には明恵像が置かれてるらしい。明恵の御廟の近くに土宜法龍の墓もあるらしい。明恵は華厳宗の僧でいいの?。
 
 高山寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

京都

2024-09-06 23:31:41 | 日記
 明治維新の話は嘘の気がするけど、明治時代の密教の僧で、一番著名な僧は、この人たちみたいなんだけどなあ。
 
 京都にある仁和寺は真言宗御室派の総本山で、山号は大内山のようだ。仁和寺は明治時代の前は皇族の人が出家して住職を務める門跡寺院ということになってるようだ。
 
 明治以降の仁和寺の門跡はウィキペディアに載ってる。泉智等という僧は明治33年(1900年)から明治39年(1906年)まで仁和寺の門跡を務めたようだ。泉智等は明治41年(1908年)に明治時代の前の天皇の菩提寺の泉涌寺の長老になり、大正12年(1923年)に高野派の管長と金剛峰寺の座主に就き、大正13年(1924年)に真言宗連合総裁に就き、大正14年(1925年)には三派合同古義真言宗の管長に就いたようだ。泉智等は昭和3年(1928年)に亡くなったらしい。
 
 次の仁和寺の門跡の土宜法龍という僧は西域やチベットを旅行して密教学研究の基礎を築いたらしい。土宜法龍は明治39年(1906年)から大正9年(1920年)まで仁和寺の門跡を務めたようだ。土宜法龍も金剛峰寺の座主に就いたようだけど、土宜法龍の次の次の金剛峰寺の座主が泉智等らしい。土宜法龍も真言宗連合総裁に就いたようだ。土宜法龍は大正12年(1923年)に亡くなったらしい。土宜法龍は南方熊楠と往復の書簡をずっと続けていたようだ。
 
 仁和寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

京都

2024-09-06 23:30:39 | 日記
 滝行ですか・・・。
 
 京都にある醍醐寺は真言宗醍醐派の総本山のようだけど、醍醐寺は平安時代に醍醐天皇の勅願で聖宝という僧が創建したことになってるらしい。江戸時代の修験道は統制されていたらしいけど、真言系の修験道の当山派の総本山は醍醐寺の三宝院というところだったらしい。本当か知らないけど・・・。聖宝は当山派の開祖とされていたらしい。
 
 醍醐寺には上醍醐と下醍醐があって、山の上のほうに上醍醐といわれるエリアがあるらしい。上醍醐には醍醐水という湧水が湧いてる場所があるらしく、醍醐寺の発祥の地らしい。醍醐寺の鎮守は清瀧権現らしいけど、そばに清瀧宮があるらしい。
 
 醍醐寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

平群

2024-09-06 23:28:22 | 日記
 物部守屋が聖徳太子に討たれたという話は嘘の気がするけど、ここが怖いんだよなあ。
 
 奈良県生駒郡平群町にある信貴山朝護孫子寺は信貴山真言宗の寺で、HPを見ると、毘沙門天王の総本山と書いてある。昭和26年に高野山真言宗から独立して信貴山真言宗になったようだ。朝護孫子寺の由緒は聖徳太子の物部守屋討伐の話と関係あるらしく、聖徳太子が毘沙門天を感得して、毘沙門天の御加護で物部守屋を討つことができたらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 信貴山縁起絵巻という絵巻物があって国宝になってるらしいけど、命蓮という僧は醍醐天皇の病気平癒の祈祷をしたらしく、朝護孫子寺の寺号を賜ったことになってるようだ。信貴山縁起絵巻に命蓮の醍醐天皇の病気平癒の話も描いてあるらしい。
 
 朝護孫子寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか