東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

天台宗

2024-09-03 23:59:28 | 日記
 坊主丸儲けですか・・・。
 
 坂上田村麻呂の征夷の話も嘘の気がするけど、坂上田村麻呂の敵の蝦夷には安倍高丸や悪事の高丸や大嶽丸という人が登場するようだ。東北だけじゃなく、日本各地に坂上田村麻呂伝説があるみたいだけど、字は違っても高丸という人が登場することが多いようだ。
 
 天台宗の開祖の最澄の庇護者は桓武天皇ということになってるけど、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して東北の征夷を行った人も桓武天皇ということになってる。
 
 天台宗では明治維新の後に天台座主はいなくなり、明治17年(1885年)に復活したらしい。本当か知らないけど・・・。明治以降の天台座主も名前だけはウィキペディアに載ってる。
 
 明治以降の天台座主で一番著名な僧は山田恵諦という僧のようだけど、昭和49年(1974年)から平成6年(1994年)まで20年間も天台座主を務め、「一隅を照らす運動」の総裁を務めたようだ。
 
 山田恵諦という僧の前の天台座主の菅原栄海という僧は岩手県奥州市の江刺の出身らしい。岩手県の寺の本に、そう載ってる。菅原栄海は昭和45年(1970年)に天台座主に就いたようだ。菅原栄海は江刺にある勝軍寺という寺の息子らしい。勝軍寺の山号は愛宕山だそうだ。
 
 天台宗の総本山は滋賀県大津市にある比叡山延暦寺で、天台宗は法華経を根本経典にしていて、天台宗の発祥の地は中国にある天台山らしい。天台宗が今のようになったのも明治以降としか思えないんだけど、呪われた人生だったなあ。
 
 延暦寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

平泉

2024-09-03 23:58:08 | 日記
 斎藤実は海軍大臣だったわけだし、積極的に関わってるとしか思えないんだよなあ。
 
 本当に岩手県奥州市の水沢の出身か知らないけど、斎藤実は第一次西園寺内閣と第二次桂内閣と第二次西園寺内閣と第三次桂内閣と第一次山本内閣と海軍大臣に就き、シーメンス事件で海軍大臣を辞任したようだ。その後に朝鮮総督に就いたようだ。昭和7年(1932年)にあった5.15事件の後に総理大臣に就任し、斎藤実が総理大臣だった時には満州国の承認と国際連盟からの離脱があったようだ。斎藤内閣は帝人事件で総辞職したようだ。斎藤実は昭和11年(1936年)にあった2.26事件で暗殺されたらしい。
 
 ウィキペディアを見ると、子爵斎藤実伝というものがあるらしく、斎藤氏の祖は藤原叙用という人で、藤原叙用は藤原利仁という人の息子で、斎宮頭という官職に就いていたので斎藤らしい。藤原利仁も藤原北家の藤原魚名の子孫で、藤原利仁の子孫の氏族もたくさんあるようだ。
 
 藤原利仁という人と藤原俊仁という人が混同されてるみたいだけど、坂上田村麻呂伝説と似たような悪路王を退治した話があるらしい。御伽草子という書物や平家物語や保元物語や吾妻鏡や義経記に坂上田村麻呂と藤原利仁が似たようなかんじで書いてあるらしい。よくわからんけど・・・。  
 
 岩手県一関市にあった田村藩の田村氏は坂上田村麻呂の子孫ということになってる。戊辰戦争の頃の田村藩の田村氏の田村邦栄は角田石川家から来た人で、石川義光の息子らしい。戊辰戦争の後に弟の田村崇顕に家督を譲ったみたいだけど、明治15年(1882年)に再び家督を継いで、明治20年(1887年)に亡くなったらしい。田村崇顕も角田石川家から来た人で、石川義光の息子らしい。田村崇顕は大正11年(1922年)に亡くなったらしい。次の田村氏の田村丕顕は田村邦栄の息子で、田村丕顕は海軍の軍人で、田村丕顕は昭和20年(1945年)に亡くなったらしい。田村丕顕の息子の田村良顕が継いだようだけど、それ以上わからない。
 
 一関市の隣の平泉町に達谷窟毘沙門堂があって、坂上田村麻呂が悪路王を倒したという伝説がある。達谷窟毘沙門堂には達谷西光寺という別当寺があって、達谷西光寺は天台宗の寺だ。坂上田村麻呂の征夷の話も嘘の気がするけど、呪われた人生だったなあ。
 
 達谷窟毘沙門堂ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

斎藤

2024-09-03 23:56:43 | 日記
 斎藤実は海軍大臣だったわけだし、積極的に関わってるとしか思えないんだよなあ。
 
 第一次桂内閣が明治34年(1901年)から始まって、第一次桂内閣、第一次西園寺内閣、第二次桂内閣、第二次西園寺内閣、第三次桂内閣と続いて、第三次桂内閣は大正2年(1913年)まで続いたようだ。桂太郎と西園寺公望が交代で総理大臣に就いてた時代を桂園時代というらしい。
 
 日露戦争は第一次桂内閣の時の明治37年(1904年)から明治38年(1905年)にあって、日露戦争の後に南満州鉄道が日本に譲渡され、後藤新平は南満州鉄道の初代総裁に就いたようだ。昭和6年(1931年)に満州事変があって、1932年に満州国が成立したようだ。満州国は1945年まで続いたらしい。
 
 本当に岩手県奥州市の水沢の出身か知らないけど、斎藤実は第一次西園寺内閣と第二次桂内閣と第二次西園寺内閣と第三次桂内閣と第一次山本内閣と海軍大臣に就き、シーメンス事件で海軍大臣を辞任したようだ。その後に朝鮮総督に就いたようだ。昭和7年(1932年)にあった5.15事件の後に総理大臣に就任し、斎藤実が総理大臣だった時には満州国の承認と国際連盟からの離脱があったようだ。斎藤内閣は帝人事件で総辞職したようだ。斎藤実は昭和11年(1936年)にあった2.26事件で暗殺されたらしい。
 
 奥州市の水沢の街にある大林寺という曹洞宗の寺の墓地に斎藤実の墓があって、行ったことある。日本の歴史は嘘の気がするけど、斎藤実は海軍大臣だったわけだし、積極的に関わってるとしか思えないんだよなあ。
 
 大林寺墓地ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

後藤

2024-09-03 23:55:54 | 日記
 スパイですか・・・。
 
 明治維新の後に胆沢県ができて岩手県奥州市の水沢には胆沢県庁が置かれ、安場保和という人が来て大参事に就いたらしいけど、安場保和は熊本藩の出身で、水沢の地元の少年から選んで仕事をさせてたらしく、後藤新平も斎藤実も安場保和に見出された少年ということになってるらしい。本当か知らないけど・・・。後藤新平は安場保和の娘を妻にしたらしい。
 
 安場保和は福島県令になったらしいけど、後藤新平は須賀川医学校に入ったようだ。安場保和が愛知県令になると、後藤新平は愛知県医学校の医者になったようだ。後藤新平は明治23年(1890年)にドイツに留学したらしい。帰国後に内務省の衛生局長に就任したようだけど、明治26年(1893年)にあった相馬事件で5ヶ月間も牢に入れられ、衛生局長も辞めさせられたらしい。
 
 日清戦争は明治27年(1894年)から明治28年(1895年)にあって、日清戦争の後に台湾は日本の統治になって、台湾総督府が置かれたらしい。後藤新平は台湾総督府の民政長官に就いて、明治31年(1898年)から明治39年(1906年)まで台湾にいたようだ。
 
 日露戦争は明治37年(1904年)から明治38年(1905年)にあって、日露戦争の後に南満州鉄道が日本に譲渡され、後藤新平は明治39年(1906年)に南満州鉄道の初代総裁に就いたようだ。
 
 後藤新平は第二次桂内閣で逓信大臣と初代鉄道院総裁、第三次桂内閣で逓信大臣、寺内内閣で内務大臣と外務大臣、第二次山本内閣で内務大臣に就いたようだ。後藤新平は東京市長にも就任したようだ。第二次山本内閣の組閣の時の大正12年(1923年)に関東大震災があって、後藤新平は帝都復興院総裁に就き、東京の復興計画を立案したらしい。後藤新平は昭和4年(1929年)に亡くなったらしい。
 
 後藤新平の墓は奥州市には無くて、東京の青山霊園にあるらしい。後藤新平も奥州市の水沢の出身と思えないんだけど、後藤新平の経歴って、どこまで本当なのか、わからないと思いませんか?。
 
 青山霊園ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

伊達

2024-09-03 23:54:21 | 日記
 伊達騒動ですか・・・。
 
 岩手県一関市にあった田村藩の田村氏は坂上田村麻呂の子孫ということになってる。田村藩は伊達藩の中にあって、1つの藩のような扱いを幕府から受けていたらしい。田村氏は戦国時代は福島県の三春町にいて、戦国時代の終わり頃に途絶え、伊達政宗の妻の愛姫が田村氏の出身ということになっていて、伊達家が再興したことになってる。田村氏は伊達騒動の後に一関に来たことになっていて、一関に来る前は宮城県の岩沼市にいたことになってるらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 伊達藩の伊達氏は戊辰戦争の後に藩主が代わったらしく、伊達藩の最後の藩主は伊達宗基のようだ。伊達宗基は大正6年(1917年)に亡くなったよらしい。次の伊達家の伊達邦宗は伊達宗基の弟で、伊達邦宗は大正13年(1923年)に亡くなったらしい。次の伊達家の伊達興宗は伊達邦宗の息子で、伊達興宗の時に太平洋戦争の終戦を迎えたようだ。
 
 宮城県仙台市に大年寺という黄檗宗の寺があるらしく、伊達家の菩提寺らしい。大年寺の山号は両足山のようだ。坂上田村麻呂の征夷の話も嘘の気がするけど、呪われた人生だったなあ。
 
 大年寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか