東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

お祓い

2024-09-24 20:42:23 | 日記

臨済宗

2024-09-24 20:40:29 | 日記
 真っ赤な嘘ですか・・・。
 
 山本玄峰という臨済宗の僧は太平洋戦争の終戦時の日本の総理大臣の鈴木貫太郎の相談役だったらしく、終戦の時の昭和天皇の言葉の「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」を使うように勧めたらしい。山本玄峰は象徴天皇制も発案したらしい。
 
 ウィキペディアで調べると、山本玄峰は捨て子で拾われて育ったらしく、和歌山県田辺市にある湯の峰温泉の旅館の前に捨てられていたらしい。山本玄峰は20歳ぐらいの頃から眼を患い、眼病平癒のために四国八十八ヶ所の、お遍路を始め、7回目の途中で高知市にある雪蹊寺で倒れていたところを雪蹊寺の僧に助けられて寺に住み込みで働くようになり、明治23年(1890年)に雪蹊寺で得度して僧になったらしい。それ以後は日本各地の寺で修行して、雪蹊寺の住職にも就いたようだ。山本玄峰は生涯で17回も四国八十八ヶ所を巡ったらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 山本玄峰は大正4年(1915年)に静岡県三島市にある龍沢寺の住職になって龍沢寺を再興し、沼津市にある松蔭寺の住職も兼任したらしい。山本玄峰は昭和3年(1928年)に愛知県犬山市にある瑞泉寺の住職に就いたようだ。昭和8年(1933年)には愛知県名古屋市にある日泰寺という寺の住職に就き、昭和9年(1934年)に長野県飯山市にある正受庵という寺の住職を兼務したらしい。山本玄峰は大正12年(1923年)にはアメリカに行ってアメリカの大統領と会ったらしいし、イギリスとドイツを巡ってきたようだ。
 
 山本玄峰は太平洋戦争の終戦の時は総理大臣だった鈴木貫太郎の相談役だったようだ。昭和22年(1847年)には臨済宗妙心寺派の管長に就任したらしい。山本玄峰は昭和36年(1961年)に亡くなったらしい。山本玄峰の墓は和歌山県田辺市にある渡瀬という地区にあるらしい。たぶんだけど・・・。
 
 臨済宗の中興の祖ともいわれる白隠は静岡県沼津市の出身らしいけど、沼津市にある松蔭寺という寺で得度して、松蔭寺の住職になり、松蔭寺で亡くなったようだ。松蔭寺の山号は鵠林山のようだ。三島市にある龍沢寺という寺は白隠の弟子が創建で、白隠が開山ということになってるらしい。龍沢寺の山号は圓通山のようだ。
 
 龍沢寺と松蔭寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

臨済宗

2024-09-24 20:37:35 | 日記
 無の境地ですか・・・。
 
 ウィキペディアを見ると、釈宗演という臨済宗の僧と土宜法龍という真言宗の僧は福沢諭吉の慶應義塾に入学して慶應義塾精神界の二大明星といわれてたらしい。2人とも明治26年(1893年)にシカゴで開催された万国宗教会議に日本代表として行ってきたらしいけど、釈宗演は万国宗教会議で演説もしてきたらしい。釈宗演はアメリカの大統領と会ったことがあるらしい。
 
 釈宗演は福井県の高浜町の農家の生まれらしいけど、本当か知らない。釈宗演は出家して日本各地の寺で修行して、慶応義塾に入学した後にスリランカに行って仏教を学んできたらしい。釈宗演は円覚寺派の管長と建長寺派の管長を務めたようだ。円覚寺も建長寺も神奈川県の鎌倉市にあるらしい。釈宗演は鎌倉市にある東慶寺の住職も務めたらしいけど、釈宗演の墓は東慶寺にあるらしい。釈宗演は大正8年(1919年)に亡くなったらしい。
 
 釈宗演と一緒に学んだ僧で竹田黙雷という僧がいて、竹田黙雷は長崎県にあった平戸藩の藩士の息子らしいけど、本当か知らない。竹田黙雷は明治29年(1892年)に建仁寺派の管長に就き、大正2年(1913年)には開山栄西禅師七百年遠諱を行い、大正3年(1914年)には比叡山で栄西の遺跡を見付けて碑を建てたらしい。竹田黙雷は昭和5年(1930年)に亡くなったらしい。京都にある臨済宗の寺の建仁寺は栄西の開山ということになってるらしく、建仁寺の開山堂は栄西の墓所らしい。建仁寺の山号は東山らしい。
 
 建仁寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

京都

2024-09-24 20:34:46 | 日記
 禅ですか・・・。
 
 青森県には南北朝の南朝の3代目の天皇の長慶天皇が落ち延びてきた伝説があるらしく、弘前市の旧相馬村の紙漉沢というところに上皇宮があって、長慶天皇の墓所があるらしい。上皇宮は坂上田村麻呂が蝦夷征伐の時に宝龍権現を祀ったのが始まりということになってるらしく、宝龍権現宮や法龍宮や龍田神社ともいわれてたらしいけど、昭和40年に上皇宮にしたらしい。
 
 南北朝は南朝の4代目の天皇の後亀山天皇の時に、三種の神器が北朝の6代目の天皇の後小松天皇に渡されて、統一されたことになってるようだ。
 
 南北朝の前に天皇家は大覚寺統と持明院統に分かれたことになっていて、大覚寺統が南朝になって、持明院統が北朝になったらしい。亀山天皇から大覚寺統に繋がっていって、後深草天皇から持明院統に繋がっていったらしい。
 
 京都にある臨済宗の寺の天龍寺の山号は霊亀山のようだ。天龍寺には亀山上皇の墓所があるらしい。天龍寺は南北朝の時代に足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために夢窓疎石を開山として創建したことになってるらしい。天龍寺のHPを見ると、天龍寺は明治時代に復興されたらしく、明治32年(1899年)に法堂と大方丈と庫裏が再建されたようだ。
 
 高木龍淵という臨済宗の僧は明治25年(1892年)から明治30年(1897年)までと明治34年(1901年)から大正2年(1913年)まで天龍寺派の管長を務めたようだ。高木龍淵は今の京都府福知山市の出身らしい。本当か知らないけど・・・。関精拙という僧は高木龍淵のもとで修行して、大正11年(1922年)から昭和20年(1945年)まで天龍寺派の管長を務めたようだ。関精拙は今の兵庫県の新温泉町の出身らしい。本当か知らないけど・・・。
 
 ウィキペディアで調べると、京都にある臨済宗の寺の南禅寺は日本で最初の勅願禅寺で、京都五山や鎌倉五山の上の別格扱いで、日本の禅寺で一番格式が高いらしい。南禅寺の山号は瑞龍山のようだ。南禅寺は鎌倉時代に亀山上皇が大明国師といわれる無関普門という僧を開山として創建したことになってるらしい。南禅寺の法堂は明治28年(1895年)に焼失して、明治42年(1905年)に再建されたらしい。
 
 天龍寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

京都

2024-09-24 20:31:14 | 日記
 スパイですか・・・。
 
 青森県には南北朝の南朝の3代目の天皇の長慶天皇が落ち延びてきた伝説があるらしく、弘前市の旧相馬村の紙漉沢というところに上皇宮があって、長慶天皇の墓所があるらしい。上皇宮は坂上田村麻呂が蝦夷征伐の時に宝龍権現を祀ったのが始まりということになってるらしく、宝龍権現宮や法龍宮や龍田神社ともいわれてたらしいけど、昭和40年に上皇宮にしたらしい。
 
 南北朝は南朝の4代目の天皇の後亀山天皇の時に、三種の神器が北朝の6代目の天皇の後小松天皇に渡されて、統一されたことになってるようだ。
 
 明治維新の頃に宮家が増えたらしく、明治維新の頃にできた宮家は、すべて伏見宮家の系統らしい。本当か知らないけど・・・。伏見宮家は南北朝の北朝の3代目の天皇の祟光天皇の息子が創設した宮家らしい。伏見宮家の3代目の人の息子が天皇を継いで後花園天皇として即位して、今の天皇は後花園天皇の子孫らしい。
 
 京都にある臨済宗の寺の相国寺の塔頭の大光明寺が江戸時代の伏見宮家の菩提寺らしい。相国寺の山号は萬年山のようだ。ウィキペディアで調べると、今の相国寺派の管長の有馬頼底という人は久留米藩の有馬氏の子孫らしい。有馬頼底は九条の会の呼びかけ人の1人で、北朝鮮に何度も行ってるらしく、日本国内での北朝鮮絡みの会合にも出席してるようだ。禅の著書もたくさんあるらしい。
 
 有馬頼底は2009年からの3年間で約2億円の所得の申告漏れを指摘され、修正申告したとウィキペディアに載ってる。金閣寺と銀閣寺は相国寺の境外塔頭のようだけど、相国寺と金閣寺と銀閣寺の宗教法人から受ける給与で、年間所得3000万円超という報道もあったようだ。
 
 相国寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか