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岩手発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

鈴鹿

2025-09-06 19:19:12 | 日記
 天狗ですか・・・。
 
 稲荷神社の総本社といわれる京都にある伏見稲荷大社では宇迦之魂と佐田彦大神と大宮能売と田中大神と四大神を祀ってるらしい。伏見稲荷大社は秦氏の人が創建したことになってるらしい。
 
 伏見稲荷大社の千本鳥居の奥には稲荷山があって、稲荷山には鳥居がたくさんあって、ミニチュアの鳥居もたくさんあって、お塚といわれる場所がたくさんあるらしい。稲荷山が今のようになったのは明治以降らしいけど・・・。
 
 高山昇という神道家の人がいて、ウィキペディアで調べると、群馬県の今の吾妻町の出身で、大宮巌鼓神社の神職の息子らしい。本当か知らないけど・・・。高山昇は日本各地の神社の宮司を務め、大正13年(1924年)に伏見稲荷大社の宮司に就いたらしい。高山昇は稲荷山に禊道場をつくったり、神道を学ぶ学生のための稲荷神社奨学金を設立したり、附属稲荷講社を設立したようだ。昭和4年(1929年)には東京都西東京市に東伏見稲荷神社を創建したらしい。
 
 高山昇は昭和11年(1936年)に稲荷神社の宮司を退き、皇典講究所の専務理事に就いたようだけど、次の年の昭和12年(1937年)に退任して、その後は神奈川県藤沢市に移住したようだ。昭和18年(1943年)には藤沢市に鵠沼伏見稲荷神社を創建したらしい。その後も乃木神社の社司を兼務したり、神社局参与、神祇院参与、大日本神祇会顧問に就き、昭和20年(1945年)に乃木神社社司を退任して、新しく出来た神社本庁の顧問になったようだ。高山昇は昭和25年(1950年)に亡くなったらしい。
 
 三重県鈴鹿市にある椿大神社は伊勢国の一宮で、猿田彦大神を祀っていて猿田彦大本宮といってるようだ。椿大神社のHPを見ると、椿大神社には猿田彦大神の御陵の高山土公神陵があるらしい。椿大神社の宮司の名字は山本みたいだけど、山本家は猿田彦大神の子孫らしい。椿大神社は鈴鹿市の山本町にあるらしい。
 
 椿大神社ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

京都

2025-09-06 19:15:36 | 日記
 荒木貞夫って人も中国人か朝鮮人なのかなあ?。
 
 昭和11年(1936年)に2.26事件があって、2.26事件は陸軍の皇道派の青年将校の人たちが引き起こしたことになってるらしい。陸軍には皇道派と統制派の2つの派閥があったらしく、2.26事件の後に陸軍では大規模な粛清人事が行われて皇道派は衰退していったらしい。
 
 荒木貞夫という人は皇道派の中心人物だったらしいけど、荒木貞夫は犬養内閣と斎藤内閣で陸軍大臣に就き、第一次近衛内閣と次の平沼内閣で文部大臣に就いたようだ。荒木貞夫は文部大臣に就いて皇道教育の強化を全面に打ち出し、国民精神総動員の委員長を務め、戦時体制のプロパガンダを推進していったらしい。この頃から大学や学園の弾圧が始まって、思想弾圧も行われるようになったらしい。
 
 第一次近衛内閣の時の昭和12年(1937年)に日中戦争が始まって、国家総動員法が成立し、国民精神総動員という国の政策が行われ、国民精神総動員中央連盟が発足したらしい。国民精神総動員では「ぜいたくは敵だ」みたいな標語を作って街頭に掲げたり新聞に載せたり、パンフレットや教育映画やラジオなど、メディアを使って広めていったらしい。国民精神総動員は大政翼賛会に吸収されたらしいけど、そのような宣伝活動や広報活動のようなものは、その後も続いたようだ。
 
 荒木貞夫は太平洋戦争の後にA級戦犯になり、終身禁固刑になったらしい。昭和30年(1955年)に仮出所して、その後に釈放された後は日本各地を巡って講演をしたり、近現代史の資料調査をしていたようだ。荒木貞夫は昭和41年(1966年)に亡くなったらしい。
 
 荒木貞夫は宿泊先の十津川村で亡くなったらしい。荒木貞夫は天誅組や十津川郷士の関係の資料の調査と講演のために十津川村に行ってたらしい。幕末には天誅組の変があったらしいけど、十津川村にいた十津川郷士の人たちは天誅組に加わってたらしい。本当か知らないけど・・・。十津川村には荒木貞夫終焉之地碑があるらしく、当時の総理大臣だった佐藤栄作の揮毫らしい。
 
 稲荷神社の総本社といわれる京都にある伏見稲荷大社では宇迦之魂と佐田彦大神と大宮能売と田中大神と四大神を祀ってるらしい。伏見稲荷大社は秦氏の人が創建したことになってるらしい。
 
 稲荷山には荒木神社があるらしく、HPがある。荒木神社では稲荷大神の荒魂を祀ってるみたいだけど、荒木大神と荒玉大神と白砂大神を祀ってるらしい。今のように祀られるようになったのは明治時代の初め頃らしい。本当か知らないけど・・・。
 
 伏見稲荷大社ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

伊勢

2025-09-06 18:57:58 | 日記
 荒木貞夫って人も中国人か朝鮮人なのかなあ?。荒木貞夫は陸軍大臣だった時に竹槍300万本あれば日本の国防は大丈夫みたいなことを言ってたらしいけど・・・。
 
 それで、日本は太平洋戦争で本土決戦に持ち込んで、竹槍で戦闘機と戦おうとしてたの?。
 
 昭和11年(1936年)に2.26事件があって、2.26事件は陸軍の皇道派の青年将校の人たちが引き起こしたことになってるらしい。陸軍には皇道派と統制派の2つの派閥があったらしく、2.26事件の後に陸軍では大規模な粛清人事が行われて皇道派は衰退していったらしい。
 
 荒木貞夫という人は皇道派の中心人物だったらしいけど、荒木貞夫は犬養内閣と斎藤内閣で陸軍大臣に就き、第一次近衛内閣と次の平沼内閣で文部大臣に就いたようだ。荒木貞夫は文部大臣に就いて皇道教育の強化を全面に打ち出し、国民精神総動員の委員長を務め、戦時体制のプロパガンダを推進していったらしい。この頃から大学や学園の弾圧が始まって、思想弾圧も行われるようになったらしい。
 
 第一次近衛内閣の時の昭和12年(1937年)に日中戦争が始まって、国家総動員法が成立し、国民精神総動員という国の政策が行われ、国民精神総動員中央連盟が発足したらしい。国民精神総動員では「ぜいたくは敵だ」みたいな標語を作って街頭に掲げたり新聞に載せたり、パンフレットや教育映画やラジオなど、メディアを使って広めていったらしい。国民精神総動員は大政翼賛会に吸収されたらしいけど、そのような宣伝活動や広報活動のようなものは、その後も続いたようだ。
 
 荒木貞夫は太平洋戦争の後にA級戦犯になり、終身禁固刑になったらしい。昭和30年(1955年)に仮出所して、その後に釈放された後は日本各地を巡って講演をしたり、近現代史の資料調査をしていたようだ。荒木貞夫は昭和41年(1966年)に亡くなったらしい。
 
 荒木貞夫は宿泊先の十津川村で亡くなったらしい。荒木貞夫は天誅組や十津川郷士の関係の資料の調査と講演のために十津川村に行ってたらしい。幕末には天誅組の変があったらしいけど、十津川村にいた十津川郷士の人たちは天誅組に加わってたらしい。本当か知らないけど・・・。十津川村には荒木貞夫終焉之地碑があるらしく、当時の総理大臣だった佐藤栄作の揮毫らしい。
 
 奈良県吉野郡十津川村にある玉置神社は熊野三山の奥宮のようだけど、玉置神社には玉石社があって、大己貴命を祀ってるらしい。インターネットで画像を見ると、玉石といわれる石が埋まっていて、その周りに玉砂利のような白い石が敷き詰められてる。杉の木もあるようだ。玉置神社のHPを見ると、玉石社は大峰修験の整地で、本殿よりも先に参拝するのが習わしになってるらしい。
 
 ここに誰かを生き埋めにして、人柱みたいにして封じ込めてる気がするんだけどなあ。
 
 三重県伊勢市に二見興玉神社があるらしく、興玉大神は猿田彦大神らしい。HPがあるけど、読んでも、さっぱりわからん。明治43年(1910年)に二見興玉神社になったらしい。
 
 伊勢市に猿田彦神社があって、猿田彦神社のHPを見ると、猿田彦神社には佐瑠女神社があって、天宇受売命を祀ってるらしい。天宇受売命は猿女君の称号を受けたようだ。天鈿女命を天宇受売命と記載してるようだ、たぶん。
 
 猿田彦神社の宮司家の宇治土公家は猿田彦大神の子孫で、宇治土公家は伊勢神宮の式年遷宮の時に心御柱と御船代を作る役目を務めるらしい。インターネットで調べると、伊勢神宮の内宮の社殿の中には心御柱というものがあるらしく、建物の真中にあって、柱の役目をしてないらしい。その上のあたりに伊勢神宮の内宮の御神体の八咫鏡が収められてるらしい。
 
 伊勢市にある伊勢神宮の内宮は皇大神宮というらしく、御神体は八咫鏡らしい。伊勢神宮の内宮で天照大神を祀ってるのか知らないし、天皇の祖先は天照大神ではない気がするけど、天皇を信じてる人たちは地獄に落ちればいいのに・・・。
 
 伊勢神宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

お祓い

2025-09-06 16:36:45 | 日記

宝塚

2025-09-06 16:31:05 | 日記
 偽八幡ですか・・・。
 
 兵庫県宝塚市に中山寺という真言宗の寺があって、中山寺の山号は紫雲山のようだ。中山寺は明治天皇の母が安産祈願をして無事に明治天皇を出産したということから、日本で唯一の明治天皇勅願所らしい。本当か知らないけど・・・。明治天皇は中山慶子という女性の息子らしい。
 
 中山寺は聖徳太子が仲哀天皇の先后の大中姫と仲哀天皇の息子の忍熊皇子と麛坂皇子の追善供養のために創建したといわれてるようだ。聖徳太子が物部守屋の霊を鎮めるために創建したともいわれてるようだ。中山寺にある石の櫃は古墳らしいけど、仲哀天皇の先后の大中姫が埋葬されたといわれてるらしい。
 
 中山寺の奥の院は山の中にあるらしく、忍熊皇子の御霊が厄神として祀られていて、日本で最初の厄神らしい。忍熊皇子は三韓征伐から帰ってきた神功皇后に反乱を起こしたことになってるらしい。
 
 仲哀天皇と神功皇后の息子が八幡神社の祭神の応神天皇ということになってるらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 日本最古の観音霊場といわれる西国三十三所は奈良時代に奈良県桜井市にある長谷寺の僧の徳道上人が開き、平安時代に花山法皇が再興したことになっているらしい。兵庫県三田市にある花山院菩提寺は西国三十三所の番外になっていて、花山法皇の墓所があるらしい。
 
 徳道上人は冥府に行って閻魔大王から観音霊場を作るように命じられ、閻魔大王から御宝印と起請文をもらって、この世に戻ってきたらしいけど、観音霊場は当時の人たちには受け入れられなかったらしく、御宝印を中山寺の石の櫃に収めたらしい。平安時代に花山法皇が御宝印を見付け、西国三十三所を再興して、中山寺を西国三十三所の二十四番札所にしたらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 天皇ですか・・・。
 
 
 火をつけるか