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岩手発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

田村

2025-09-04 11:27:43 | 日記
 征夷大将軍ですか・・・。 
 
 諏訪大明神絵詞というものがあるらしく、征夷大将軍だった坂上田村麻呂は長野県の諏訪大社に戦勝祈願してから東北に来たことになってるらしい。ウィキペディアを見ると、諏訪大明神絵詞には坂上田村麻呂の敵の蝦夷は安倍高丸や安倍氏悪事の高丸と記されてるらしく、平安時代に岩手県にいた安倍氏は高丸の子孫とも記されてるらしい。
 
 坂上田村麻呂の征夷の話も嘘の気がするけど、坂上田村麻呂の敵の蝦夷には安倍高丸や悪事の高丸や大嶽丸という人が登場するようだ。東北だけじゃなく、日本各地に坂上田村麻呂伝説があるみたいだけど、字は違っても高丸という人が登場することが多いようだ。
 
 岩手県一関市にあった田村藩の田村氏は坂上田村麻呂の子孫ということになってる。田村藩は伊達藩の中にあって、1つの藩のような扱いを幕府から受けていたらしい。田村氏は戦国時代は福島県の三春町にいて、戦国時代の終わり頃に途絶え、伊達政宗の妻の愛姫が田村氏の出身ということになっていて、伊達家が再興したことになってる。田村氏は伊達騒動の後に一関に来たことになっていて、一関に来る前は宮城県の岩沼市にいたらしい。 
 
 戊辰戦争の頃の田村藩の田村氏の田村邦栄は角田石川家から養子で入った人で、田村邦栄は戊辰戦争の後に弟の田村崇顕に家督を譲ったみたいだけど、明治15年(1882年)に再び家督を継いで、明治20年(1887年)に亡くなったらしい。田村崇顕も角田石川家から養子で入った人で、田村崇顕は大正11年(1922年)に亡くなったらしい。
 
 次の田村氏の田村丕顕は田村邦栄の息子で、明治33年(1900年)にアメリカのアナポリス海軍兵学校を卒業して、帰国後は海軍に入ったようだ。田村丕顕は大正14年(1925年)に予備役になり、その後は軍事普及事務嘱託や岩手県立六原青年道場道場長や大政翼賛会岩手支部常務委員や岩手県翼賛壮年団団長を務めたらしい。田村丕顕は昭和20年(1945年)に亡くなったらしい。田村丕顕の息子の田村良顕が継いだようだけど、それ以上わからない。
 
 一関市にある祥雲寺という臨済宗の寺に田村氏の墓所がある。山号は大慈山のようだ。坂上田村麻呂の征夷の話も嘘の気がするけど、田村丕顕って人は直接関わってるとしか思えないんだよなあ。
 
 祥雲寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

諏訪

2025-09-04 11:22:45 | 日記
 安部氏ですか・・・。
 
 渋沢栄一は埼玉県深谷市の血洗島というところの出身らしいけど、血洗島の鎮守は諏訪神社らしい。ウィキペディアに、そう載ってる。血洗島は江戸時代は岡部藩だったらしいけど、岡部藩の藩主は安部氏だったようだ。安部氏は南北朝の時代に諏訪神党に加わってたらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 渋沢栄一の渋沢家は豪農だったらしいけど、渋沢栄一は一橋徳川家を継いでいた徳川慶喜に仕えて武士になったらしい。本当か知らないけど・・・。渋沢栄一は大蔵省に務めた後、明治6年(1873年)に日本で最初の銀行の第一国立銀行の総監役に就任し、開業翌年の明治7年(1874年)に総監役から頭取になったらしい。
 
 渋沢栄一は日本各地にできた国立銀行の指導や支援をしたり、新しい銀行の設立にも関わったようだ。渋沢栄一は様々な業種で新会社の設立の支援をしたり、役員に就いたようだ。渋沢栄一は東京商法会議所や東京株式取引所を設立したらしい。渋沢栄一は明治42年(1909年)に実業界から引退したらしいけど、民間外交や教育や福祉や医療などに携わり、昭和6年(1931年)に亡くなったらしい。
 
 岡部藩の最後の藩主の安部信発は神奈川県にあった六浦藩の米倉氏から養子で入った人らしい。安部氏は明治維新の後に岡部藩から愛知県新城市のあたりに移って半原藩が成立したようだ。安部信発は明治28年(1895年)に亡くなったらしい。次の安部氏の安部信順は安部関次郎という人の息子らしい。次の安部氏の安部信明は医者の池田謙斎という人の息子らしいけど、ウィキペディアを見ても、詳しいことがわからない。
 
 池田謙斎という人は日本の近代医学の礎を築いた人らしい。ウィキペディアに、そう載ってる。池田謙斎は今の新潟県長岡市の出身で、入沢家から池田家に養子に入ったらしい。池田謙斎は大正7年(1918年)に亡くなったらしい。
 
 大国主の国譲りの話も嘘の気がするけど、大国主の国譲りの話は大きく3つに分けられて、最初に天穂日命が大国主のところに送り込まれ、次に天稚彦命が大国主のところに送り込まれ、次に建御雷命が大国主のところに送り込まれ、大国主の国譲りが成立したことになってるようだ。
 
 大国主には息子に事代主と建御名方命がいて、国譲りは大国主から事代主に託され、事代主は国譲りを承諾して自分から海に沈み、大国主は出雲大社に引きこもったことになってるらしい。建御名方命は出雲から諏訪に逃げたことになっているらしい。
 
 長野県にある諏訪大社は信濃国の一宮で、建御名方命を祀ってるらしい。諏訪大社は諏訪湖の周りに上社と下社があって、上社の本宮は諏訪市にあって、上社の前宮は茅野市にあるらしい。諏訪大社の上社には本殿が無く、拝殿のみで、守屋山という山が御神体らしい。下社の春宮と秋宮は下諏訪町にあるらしい。諏訪大社の下社は春宮は杉の木が御神木で、秋宮は一位の木が御神木らしい。
 
 諏訪大社ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

諏訪

2025-09-04 11:19:41 | 日記
 2.26事件ですか・・・。
 
 本当に岩手県奥州市の水沢の出身か知らないけど、斎藤実は海軍の軍人で、第一次西園寺内閣と第二次桂内閣と第二次西園寺内閣と第三次桂内閣と第一次山本内閣と海軍大臣に就き、シーメンス事件で海軍大臣を辞任したようだ。その後に朝鮮総督に就いたようだ。昭和7年(1932年)にあった5.15事件の後に総理大臣に就任し、斎藤内閣は帝人事件で総辞職したようだ。斎藤実は昭和11年(1936年)にあった2.26事件で暗殺されたらしい。
 
 2.26事件は陸軍の青年将校の人たちが引き起こしたらしいけど、斎藤実は坂井直という人が率いる部隊に襲撃されたらしい。坂井直は三重県の今の四日市市の出身らしいけど、ウィキペディアを見ると、坂井直は2.26事件の前の2月9日に諏訪神社で結婚式をしたらしい。四日市市には諏訪神社があるようだ。
 
 安田優という人も坂井直と一緒に斎藤実を襲撃したらしいけど、安田優は熊本県の天草郡の出身らしい。熊本県天草市には本渡諏訪神社があって、天草の総鎮守らしい。長崎県長崎市にも諏訪神社があって、鎮西大社といってるようだ。
 
 河野壽という人は牧野伸顕を襲撃した後に自決したらしいけど、安田優と河野壽は旧制の熊本県立済々黌中学校の卒業生らしく、熊本県立済々黌中学校は今は熊本県立済々黌高等学校で、熊本の名門校らしく、著名人を多く輩出してる学校らしい。
 
 江戸時代の藩も嘘の気がするけど、長野県にあった諏訪藩は高島藩ともいうらしいけど、諏訪藩の藩主は諏訪氏で、ウィキペディアを見ると、諏訪氏は諏訪大社の上社の大祝を世襲していた氏族で、神氏とも称したらしい。本当か知らないけど・・・。神と書いて「みわ」と読むらしい。
 
 戊辰戦争の頃の諏訪藩の藩主は諏訪忠誠で、諏訪忠誠は慶応4年(1868年)に隠居して、明治11年(1878年)に再び家督を継いだらしい。諏訪忠誠は明治31年(1898年)に亡くなったらしい。 諏訪藩の最後の藩主の諏訪忠礼は諏訪忠誠の甥で、諏訪忠礼は明治11年(1878年)に亡くなったらしい。諏訪忠誠の墓と諏訪忠礼の墓は東京都文京区にある吉祥寺という曹洞宗の寺にあるらしい。吉祥寺の山号は諏訪山のようだ。
 
 諏訪忠誠の次の諏訪氏の諏訪忠元は新潟県にあった新発田藩の溝口氏から婿養子で入った人で、次の諏訪氏の諏訪忠久は兵庫県にあった出石藩の仙石氏から婿養子で入った人らしいけど、ウィキペディアで調べても、それ以上わからない。
 
 大国主の国譲りの話も嘘の気がするけど、大国主の国譲りの話は大きく3つに分けられて、最初に天穂日命が大国主のところに送り込まれ、次に天稚彦命が大国主のところに送り込まれ、次に建御雷命が大国主のところに送り込まれ、大国主の国譲りが成立したことになってるようだ。
 
 大国主には息子に事代主と建御名方命がいて、国譲りは大国主から事代主に託され、事代主は国譲りを承諾して自分から海に沈み、大国主は出雲大社に引きこもったことになってるらしい。建御名方命は出雲から諏訪に逃げたことになっているらしい。
 
 長野県にある諏訪大社は信濃国の一宮で、建御名方命を祀ってるらしい。諏訪大社は諏訪湖の周りに上社と下社があって、上社の本宮は諏訪市にあって、上社の前宮は茅野市にあるらしい。諏訪大社の上社には本殿が無く、拝殿のみで、守屋山という山が御神体らしい。下社の春宮と秋宮は下諏訪町にあるらしい。諏訪大社の下社は春宮は杉の木が御神木で、秋宮は一位の木が御神木らしい。
 
 諏訪大社ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

諏訪

2025-09-04 11:06:46 | 日記
 フリーメイソンですか・・・。
 
 本当に岩手県奥州市の水沢の出身か知らないけど、後藤新平は日清戦争の後に台湾総督府の民政長官に就き、日露戦争の後に南満州鉄道の初代総裁に就いたようだ。後藤新平は第二次桂内閣で逓信大臣と初代鉄道院総裁に就き、第三次桂内閣で逓信大臣に就き、寺内内閣で内務大臣と外務大臣に就き、第二次山本内閣で内務大臣に就いたようだ。後藤新平は東京市長にも就任したようだ。第二次山本内閣の組閣の時に関東大震災があって、後藤新平は関東大震災の後に帝都復興院総裁に就き、東京の復興計画を立案したらしい。後藤新平は昭和4年(1929年)に亡くなったらしい。後藤新平はフリーメイソンらしい。
 
 明治維新の話も嘘の気がするけど、明治維新の後に胆沢県ができて岩手県奥州市の水沢に胆沢県庁が置かれ、安場保和という人が来て大参事に就いたらしい。安場保和は熊本藩の出身で、水沢の地元の少年から選んで仕事をさせてたらしく、後藤新平も斎藤実も安場保和に見出された少年ということになってるらしい。後藤新平は安場保和の娘を妻にしたらしい。安場保和は華族になったらしいけど、安場保和は明治32年(1899年)に亡くなったらしい。安場保和の墓は東京都文京区にある吉祥寺という曹洞宗の寺にあるらしい。
 
 江戸時代の藩も嘘の気がするけど、長野県にあった諏訪藩は高島藩ともいうらしいけど、諏訪藩の藩主は諏訪氏で、ウィキペディアを見ると、諏訪氏は諏訪大社の上社の大祝を世襲していた氏族で、神氏とも称したらしい。本当か知らないけど・・・。神と書いて「みわ」と読むらしい。
 
 戊辰戦争の頃の諏訪藩の藩主は諏訪忠誠で、諏訪忠誠は慶応4年(1868年)に隠居して、明治11年(1878年)に再び家督を継いだらしい。諏訪忠誠は明治31年(1898年)に亡くなったらしい。 諏訪藩の最後の藩主の諏訪忠礼は諏訪忠誠の甥で、諏訪忠礼は明治11年(1878年)に亡くなったらしい。諏訪忠誠の墓と諏訪忠礼の墓は東京都文京区にある吉祥寺という曹洞宗の寺にあるらしい。吉祥寺の山号は諏訪山のようだ。
 
 諏訪忠誠の次の諏訪氏の諏訪忠元は新潟県にあった新発田藩の溝口氏から婿養子で入った人で、次の諏訪氏の諏訪忠久は兵庫県にあった出石藩の仙石氏から婿養子で入った人らしいけど、ウィキペディアで調べても、それ以上わからない。
 
 大国主の国譲りの話も嘘の気がするけど、大国主の国譲りの話は大きく3つに分けられて、最初に天穂日命が大国主のところに送り込まれ、次に天稚彦命が大国主のところに送り込まれ、次に建御雷命が大国主のところに送り込まれ、大国主の国譲りが成立したことになってるようだ。
 
 大国主には息子に事代主と建御名方命がいて、国譲りは大国主から事代主に託され、事代主は国譲りを承諾して自分から海に沈み、大国主は出雲大社に引きこもったことになってるらしい。建御名方命は出雲から諏訪に逃げたことになっているらしい。
 
 長野県にある諏訪大社は信濃国の一宮で、建御名方命を祀ってるらしい。諏訪大社は諏訪湖の周りに上社と下社があって、上社の本宮は諏訪市にあって、上社の前宮は茅野市にあるらしい。諏訪大社の上社には本殿が無く、拝殿のみで、守屋山という山が御神体らしい。下社の春宮と秋宮は下諏訪町にあるらしい。諏訪大社の下社は春宮は杉の木が御神木で、秋宮は一位の木が御神木らしい。
 
 諏訪大社ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

お祓い

2025-09-03 23:36:32 | 日記