映画「バルトの楽園」は、厳しい待遇が当然な収容所の中で、捕虜達の人権を遵守し、寛容な待遇をさせた徳島県鳴門市にある板東俘虜収容所での大戦集結までの2年10ヶ月間の奇跡の物語だ。
1914年、第一次世界大戦で中国・青島で敗れたドイツ兵4700人は捕虜として日本に送還され、各地にある俘虜収容所に振り分けられた。
地元民と捕虜との融和を図かった会津人の松江豊寿所長の指導の下、そこでは様々なドイツ文化が伝えられ、厚遇された捕虜にとってはまさに「楽園」だった。
この松江所長の放任的な捕虜の扱いは軍上層部に糾弾さるが、彼は『捕虜たちも、祖国の為に戦ったのです』と捕虜たちへの寛容な待遇の信念をつらぬいた。
会津人の誇りを持ち信念を貫いた人「松江豊寿」
彼の人道主義は、戊辰戦争での苦難に満ちた会津の人々の生活、特に厳寒の地・斗南での父への思いとがその底流にあったに違いない。敗者の苦しみを心に持つ人間・豊寿の優しさであると思った。
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斗南での辛い回想の場面を観ながら、柴五郎を思った。
「故郷の山河を偲び、過ぎし日を想えば心安からず、老残の身の迷いならんと自ら叱咤すれど、懊悩流涕やむことなし」
「ある明治人の記録」(中公新書 石光真人編著)の五郎翁の「血涙の辞」だ。当時十才の少年の純真な心情、その後の斗南での餓死との戦いを読むとき、いつも切なく胸が詰まる。
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開放され、自国に戻る事を許されたドイツ人達は、松江所長や地元民に対する語り尽くせぬ感謝の思いを込めて日本で初めて『交響曲第九番 歓喜の歌』を演奏する。演奏をバックに、その時代に生きた人間の心の動きが撮し出された。
後に松江は「板東は私にとってもっとも懐かしい土地であり、そこで私は自分の理念を追うことができたのだ」と語ったという。
板東収容所の閉鎖後、大正11年に豊寿は故郷・会津若松市長に就任、ここで白虎隊の墓地の整備などに力を注いでいる。
この映画を見ながら、今の平和な時代に、自分自身がどう生きればいいのかを思い続けた。多くの先人に支えられ今の日本が、故郷があるのだとあらためて考えた。
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