エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

秋雨の中のヒメシロチョウ

2015-09-07 | 自然観察

                                                  磐梯山  蕎麦の花

 何日も雨模様の日が続いた。ポツリポツリ雨が落ちる日もあったが、予定のない午前中は何日か、ヒメシロチョウ、コバネアオイトトンボを見に出かけた。

 いつものヒメシロの里へ着くと、雨が落ちてきた。小さな池にはオオルリボシヤンマが縄張り争いをしていた。

草むらから一頭のヒメシロチョウがひ弱にひらひら飛び出した。群れたヒルガオの花に止まって、雨の雫を吸っていた。

飛び立ちツルフジバカマの花に止まり、やはり雨水の吸水だ。

  

ズボンを濡らしながら鉄塔近くまで登ると、付近の丈の低いツルフジバカマがすべて刈られていた。

電力会社の管理道の確保だろうが、ここは結構卵を確認していた大切な場所だった。またがっかり、暗い気持ちになった。

町所有の草原は例年8月末に草刈りがされるが、未だだった。

鉄塔界隈にはムラサキのツルフジバカマが繁茂し、この日見かけた2頭目のヒメシロがその若葉に産卵していった。

 

 日が射した

これからは土手の草刈りはないだろう。どこかで孵化した幼虫が成長し、無事に冬を越えて欲しいと願った。

色づき始めた稲穂の上を、連結したノシメトンボが空中から卵を落としていた。

 

コバネアオイトトンボのポイントへ寄ると,いつか蕎麦畑に転用された畑にイチモンジセセリが集まっていた。

今年も渡りの季節がやってきた。もうオオチャバネセセリはいない。

よく撮れた飛翔  吸水 ツバメシジミ

 

コバネアオイトトンボは2,3頭見かけたがアオイトトンボが多かった。

 

池までののぼり道でゴイシシジミを数頭見かけた。笹の裏に止まるが、葉裏にアブラムシ類は見えなかった。

幼虫が純肉食のこのゴイシシジミは、どこかそんな雰囲気を漂わせている。

 ウラギンスジヒョウモン

池では、シオカラトンボ、ギンヤンマが旋回していたが、新顔はアジアイトトンボ、ほとんどが交尾態で飛んでいた。

 アジアイトトンボ

 キトンボ

しばらくぶりにキトンボも見かけた。まだ羽化したてだが、翅の先端は前縁部だけが橙黄い。

蕎麦畑の側溝にマユタテアカネがさかんに打水産卵を繰り返していた。

 

 

目に赤みがない.シュレーゲルアオガエル。                         ニホンカナヘビ             
 
  

マユタテアカネ ♂                                 ノシメトンボ♀ 

 

ナツアカネ ♂未成熟                                仲良くコアオハナムグリ

 

今年も、貴重なチョウ、トンボの生息を心配しながら、季節が終わって行く。
これから9月中半からは、一番心配しているマダラナニワに会いに,おそらく頻繁に出かけることになるだろう。

どうか、どこかで無事に羽化できますように。そして、その姿を確認出来ますように祈っている。


懐かしのKJ法

2015-09-07 | 教育を考える

       

 ともかく会議や研修会で縛られることが多く、毎日多忙な日々を送っている。
町内や地区の役員会、所属する山関係の会の研修会、どうしても聴きたい講演会などなど。 
 

先日初めて「ワークショップ」なるものに参加した。ところが、KJ法そのものだった。若かりし発想の豊かさが浮かび、楽しく進めることが出来た。

思えば入社した年、初めて知ったKJ法。

その後、KJ法は我が思想構築の助けになり、教職についてからも、いつしか「創造的な教育活動」がテーマの一つになった。

川喜田二郎(K.J)の「発想法」「続・発想法」は特に懐かしい。

思いつき、物置に眠っている書棚を覗いた。かつて繰り返し読んだ、変色した本を手に取った。

若いころのむさぼるほどの情熱を思い出した。不思議な感慨だ。

並んだ関連の本をメモした。
「教育の課程」「集団思考の心理」「21世紀の教育世こんにちは」「本当の教育者はと問われて」「創造力の育て方」「学問の創造」「創造力」

「創造の原点」「創造の風土」「創造的人間」「創造学のすすめ」「創造力の育て方・鍛え方」「私の知的生産の技術」「脳と創造性の謎」「独創の方法」

「活力の構造」「超発明」「創造する技術」「行動科学入門」「管理者の問題形成」「カンの構造」「チームの知的生産の技術」「可能性の探検」

「創造思考の技術」「脳を育てる」「発想の論理」「創造性の開発」・・・・

これらの書籍から教わったこと、考えたことが、もっと、血となり肉になっていればとの一抹の寂しさが湧いた。

我が人生の、確かにあった夢のようなときが甦ってきた。