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エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

『徳一と法相唯識』

2011-12-22 | 文芸

 妻を病院に送った。月一回の行動パターンは、診察の終わるまでの待ち時間に医院の近くの岩瀬書店で立ち読みをすることだ。

 今日は新しい発見があった。郷土コーナーを覗いていて、かつての親しい同僚、白岩孝一氏の新刊本『徳一と法相唯識』に出会った。
 もう4,5年になるか、退職後間もない彼は「徳一を尋ねて」を上梓した。彼は徳一開祖の勝常寺の檀家でもあり徳一を顕彰したい一心だったと思う。

その後、彼は徳一研究家として、地域の徳一研究会などの講師を務めていることを風の便りに聞いていた。
 今回の分厚い本 『徳一と法相唯識』は、前著で提唱した徳一の「倫理と論理」について掘り下げた続編、早速手に取って、走り読みした。
 「はじめに」と「おわりに」をしっかり立ち読みした。実に充実した文字を追い、仏教にある「唯識」についての彼の思いに引き寄せられた。

 この力作を手にとって、彼の心の動きを思った。
 物心両面の西洋思想と対比した、徳一の説く「こころ一つ」の思想哲学が示されていた。 

 前回「徳一を尋ねて」の発刊を新聞の報道で知り、すぐにブログに書いたが、今日は驚きの第二弾である。
  彼は工業高校機械科の教師だった。在職中は彼が徳一について研究していたことは知らなかったが、彼の工業技術教育の根底には、生徒にあるいは人間に訴える「唯識」思想、哲学があったのかも知れないと思った。教師の一番大切なことだろう。

 我々はだれも、学んだ先人の教えを自分の哲学にしてこころ豊かに生きようとしてきたのだと思う。今老いて知ることだが、自らを見つめると、いろいろな因縁で学ぶようになった先人の教えを支えになんとか生きてきたような気がする。
 それらは、老子、良寛、道元、兼行、賢治・・・・だった。そして今度は、その昔郷土に教えを広めた徳一、についても学んでみたいと思った。とりあえずは「唯識」について知りたいと思う。

  昔在職中には、学校改革の仕事でご一緒し議論しあった彼だったが、これからもときどき話しを聞かせてもらいたいと思う。そして教えて貰いたいと思っている。退職後は皆さようならで、ほとんどそんな付き合いはない。そのうち彼と連絡をとってみたいと思っている。

まだ立ち読みだけ、ネットで目次を調べた。(「BOOK」データベースより)
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徳一と法相唯識  白岩孝一著  (長崎出版)
 【内容情報】『解深密教』唯識論書などを俎上に在野の研究家が読み解く徳一が学んだ唯識とは。
【目次】 第1章『一乗要決』に見る徳一の教学/第2章 法相唯識への手がかり/第3章 法相唯識の歴史/第4章 法相唯識に関する仏典/第5章 法相唯識の入門書『法相二巻抄』/第6章 唯識思想の現代的意義
【著者情報】白岩孝一:1947年会津生まれ。東京の機械メーカー勤務を経て、福島の県立学校教諭に就き、主に工業高校で教鞭を執る。退職して徳一研究に勤しむ。
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会津若松城下絵図

2011-12-21 | 文芸

  つい最近、「会津若松城下絵図」が発刊された。
早速購入した親類から、貸していただいた。
  
   ********************************   ( 新刊の紹介から)
  詳解 会津若松城下絵図 〈甦る、いにしえの会津若松城下!〉
        菊変形判・オールカラー・約300頁
        定価:12,000円(税込)  歴史春秋社刊 
 ●本書の構成
  口絵「会津若松城下屏風」全景(折り畳み)/
  はじめに/凡例(本書の見方)/目次/
  概説・会津若松城下の歴史/
  会津若松城下の概要/
  会津若松城下絵図について/
  絵師・大須賀清光について/
  本文解説/索引(五十音別・分野別)
 ●解説分野(城下絵図の端から端までを全て解説)
  神社寺院、修験、神職、人物、藩士、白虎隊士、民間施設、検断、
  本陣、商家、刀匠、職人、藩施設、郭門、会津若松城、日新館、
  山川、橋、街道、一里塚、温泉、堤堰、史跡名勝、
  行事、村、町分、伝説、墳墓など 幅広く解
    ********************************

  内容については、〈はじめに〉から拾うと、 
 「1592 蒲生氏郷の都市計画によって造られた東北一の城下町会津若松は、鶴ヶ城を中心に以後幕末まで、276年間に渡り変わらぬ美しい景観を保ってきた。
      ・・・・
しかし会津若松城下は慶応4年(明治元年1868)の1ヶ月にわたる会津戊辰戦争により、武家屋敷や藩校日新館などすべてが灰燼に帰してしまった。
   ・・・・・
 この時代多くの遺構は失われてしまったが、幸いなことに城下絵図屏風など、貴重な絵図類が今に伝わり往時の城下を偲ばせてくれる。
その一つ大須賀清光画「会津若松城下絵図屏風」を元に、江戸時代の城下を多角的、総合的に解説したものである。・・・ 」
 
 江戸時代、特に戊辰戦争前後の街の様子や人々の暮らし、生活はどんなだったのだろうか。なかなかそうした様子が分からないでいる。
  当時の城下のそれぞれの町で生きた人々を想像しながら興味深く見ることが出来た。


  祖父や曾祖父、親類や知り合いの先祖を地名を参考にして捜してみた。
 当時の屋敷付近の解説に先祖の名前を見つけた。どんな生活をしていたのだろうか。

  そしてまた、今の我が家の周辺の昔の絵図を見た。今畑もほとんど無くなった住宅地、当時は神社や寺だけで、民家はほとんど無かったようだ。

  わずか150年前の付近の様子が浮かんできた。   

       

なにぶん高価なので、我が祖先に関わる記述箇所をコピーして我慢しようと思う。

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賢治をもう一度見つめてみたい

2011-11-30 | 文芸

【ニシキギ】

久々に本屋に立ち寄った。
NHKテレビのテキスト【100分de名著】12月号「銀河鉄道の夜」を求めた。
表紙タイトルの脇には、《悲しみを、乗り越えよ》《ほんとうの幸いとは 》とある。
十分知っているつもりの賢治をもう一度見つめてみようと思った。
特に、初めて知る外国人作家ロジャー・パルバース氏の解説に興味を持った。

今から彼の賢治観、日本観、自然観を楽しみにしている。


その裏表紙の広告に親鸞聖人の言葉を見つけた。
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きょうのことば
 「是非しらず邪正もわかぬ このみなり 小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり」(親鸞 正像末和讃)
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  親鸞聖人ですら人間の業に悩み、自身の恥ずかしさに深い慚愧の念を述べている。
また、「僧にあらず俗にあらず」と愚禿親鸞と名のり、自身を恥づべし、傷むべしとも。
この言葉に触れ、我が良寛の実践した漢詩「生涯懶立身」をつぶやいた。
 せめていつも、俗人の慰めとして念じていきたいと思っている。

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草木を以って燐となす

2011-10-16 | 文芸

 最近良寛の漢詩 「来韻(らいいん)に次す」を読んだ。

この詩は、いつも我が信条としている「生涯懶立身 騰々任天真」と同じ心境だ。
  ときどき焦る気持ちを、そう言い聞かせて過ごしてきた。そんな生き方に近づきたいからかも知れない。

   来韻に次す  

頑愚信に比無く
草木を以って燐となす
問ふにものうし迷悟の岐
自ら笑う老朽の身
脛をかかげて間かに水を渉り
嚢を携えて行く春に歩す
聊かこの生を保つべし
敢えて世塵を厭ふに非ず

 前に「庭を巡り、里山を巡り、日々自然の中で無為に過ごしている。これ以上の喜びはない。」とブログに書いた。【自然の中で、無為に過ごす。2011-04-26 】
 春から秋までは、日々里山を巡って身近な自然に慰められている。

ただそれだけでいい。決して欲せず、穏やかに過ごしていきたいと思っている。

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「愚かであり続けろ」の意味は

2011-10-12 | 文芸

  アップルの創業者のスティーブ・ジョブズ氏が亡くなった。彼の、数年前のスタンフォード大学の卒業式でのスピーチ全文を読んだ。

 そこで、彼自身の人生から、「たまらなく好きなものを見つけなければならない」「自分の心と直感に従う勇気を持て」「毎日を人生最後の日であるかのように生きよ」などを

卒業生に説き、「ハングリーであり続けろ 愚かであり続けろ」と締めくくった。

 これらの言葉はいずれも納得できるものだが、「愚か」とはどういうことなのだろう。

 ふと、良寛を思い浮かべた。彼は自らを「大愚」と号し、師である国仙和尚も「良や愚の如くして、道うたた寛し」と評している。

良寛は道元の説く「ただ我が心を生かすために力を尽くす」そして「今を生きる」を実践した。

 ジョブズ氏は良寛や禅を学んだのだろうか、まさによく似ていると思った。
  
  「愚かであり続けろ」の意味は、知識以上に実践、創意工夫、創造性が大切であると言っているように思える。

彼は、社会に出て活躍を期待される大学生に、大切なことは決して知識量ではなく、疑問を抱き、主体的にその課題を解決する創造性こそが

生きる力につながることを教えたかったのではないだろうか。

 思えばこれは、かつての「ゆとり教育」の理念のようだ。

 幾多の受験体制の弊害の反省から生まれた「ゆとり教育」だったが、学力の低下の元凶とされてしまった。

豊かな情操や感性、そして人として生きゆく大切な心を育む「ゆとり教育」だと、今でも信じている。  

  そうそう、ノーベル化学賞を受賞した福井謙一氏、物理学賞を受賞した江崎玲於奈氏を思い浮かべる。

 書棚から、福井謙一氏の著作「学問の創造」、江崎氏の「創造の風土」、そしてまた、それ前の加藤与五郎著「創造の原点」を取り出した。

 

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ふくしま総文、写真部門を鑑賞

2011-08-06 | 文芸
 
きのう、夏のお城を写してきた。
 「赤瓦鶴ヶ城フォトコンテスト」に応募しようと思っている。
 この春、会津鶴ヶ城はこれまでの黒の瓦が赤瓦に葺き替えられた。
 総事業費約4億3千万円の葺き替え事業が完成した。震災前ならこんな計画は出なかったろう。

 昨年暮れに、拙ブログ【赤瓦の鶴ヶ城 2010-12-21】 で赤瓦について触れた。
  「1611年の大地震で天守閣や石垣が損壊し、28年後の加藤氏の時代に現在の5層の天守閣(黒瓦)となった。
   文献や発掘調査から、1648年に黒瓦から赤瓦にふき替えられ、戊辰戦争当時も赤瓦だったらしい。」とある。

 フォトコンテストは、春の部と夏の部があり、春には桜の枝越しに赤瓦の天守閣を撮った。今度は夏を撮ろうというわけだ。
 夏と言っても、夏らしさはむずかしい。
 積乱雲と一緒にと言っても形のいい雲はない。観光客の半袖半ズボン姿もいいかも・・・などと考えた。
 まずは濃い緑の中のお城を狙ったが、なかなかいいアングルはなかった。
 めったに行くことのない真夏にお城を歩いた。

















 お城の横の県立博物館へ寄った。今、全国高校総合文化祭が福島県内で開催中だ。
博物館では、写真部門の展示が開催されていた。
 全国の高校生の選抜作品300点が展示されていた。なかなかの作品だった。
若者が感ずる日々を垣間見ることが出来、うらやましさと、懐かしさに浸った。





これから日本を背負っていく若者の写した写真を見ながら、新しい時代の一つの表現を見た。
そして、すべての写真に共通するテーマは「生きているること」ではないだだろうかと推察した。
 でも、感動は今ひとつだった。それは、「写真」に対する思い込みにあるのかも知れない。

いつか山形の酒田市に土門拳記念館を訪ねた折りに、少し写真の価値について考察したことがあった。
そのエッセイを拙ブログ「土門 拳を観る」(2009-03-18)に載せた。
 そこに、「写真の素晴らしさは、どれだけ見る者の心に響くかだと思う。」との感想を綴ったことがあった。

 土門は、「実物以上に実物である写真が本当の写真」とか、「写真は肉眼を越える」などと言う。
 記念館で日本人の心を写しきった彼の芸術を静かに鑑賞したのは、14年前のことだった。

 今はデジタル化が進んで、性能もアップして楽に作品が出来るだろう。
 だから、かえって土門の言う「肉眼を越えた写真」に近づき易いかも知れない。
 でも、要は、何を写したいのかだろう。
 日頃、身近な虫たちばかりを映している自分だが、もう少し、生きている証を撮ってみたいと思った。
 そんな収穫があった今日の写真鑑賞となった。


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アート遊具で遊ぶ

2011-04-05 | 文芸
           
快晴、孫にせがまれ短大グランドへ。
子どもたちの春休みも今日まで、特別なことはしてやれなかったが、伸び伸び楽しい毎日だった。
短大の構内に、変わった遊具がお目見えした。昨日までブルーシートがかけられ、何だろうか気になっていた。
洗練された木製のベンチらしきもの、孫たちは早速登ったりして遊んだ。
大学の職員が、ニスを塗りにきた。まだ完成前に、一番乗りだったようだ。
 卒業生の卒業作品だと聞いた。

 家に戻り、短大のHPで「 2010年度 デザイン情報コース卒業研究発表会研究要旨集目次 」を見つけた。
そこに【アート遊具の研究と提案 小笠原 智美】があった。
( http://www.jc.u-aizu.ac.jp/11/142/thesis/gsd2010/05.pdf )
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【研究概要】
 大学をはじめ、地域で様々なアート遊具と呼ばれるオブジェが制作されている。このアート遊具を調査、研究し子供たちの創造性に寄与するアート遊具を提案、制作する。
【研究目的】
 人で賑わうことのない公共空間には、アートを取り入れることが有効ではないかと考えた。本研究ではアート遊具を実際に制作し、アート遊具があることによって人々の心を豊かにし、子供たちが創造力をもって遊べることはもちろん、多くの人が訪れ、憩う公共空間になること
を目的とする。
【最終作品提案】
 作品のコンセプトは「創造・展開」で、幾何形体である三角形を基本にデザインしている。単純な形である三角形は、複数組み合わせることによって有機的な形となり、立体としての表情を豊かにする。また、単純でありながらも組み合わせによってあらゆる形状に発展していくことから、形状だけでなく、ひとつのモノから人の行為が派生していくことを願い、デザインを決定した。最終作品は、デッキ状になっていて、地面に平行した面はベンチやデッキとして利用でき、斜めになった面は子供たちがよじ登ることができる遊具となっている。デッキ部分があることで、座って話しをしたり、お弁当を広げて外で食事をしたり、待合場所としてなど、多目的な環境装置としての役割をもつことになり、用途が派生することが考えられる。
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 作品のコンセプト等を読み、確かに、モノから人の行為が派生し、ベンチやデッキとしての利用や、子供たちの楽しい遊具であると思った。
目的も十分に達成できた立派な研究成果だと思った。
卒業生の今後のご活躍を祈らせていただきたい。
 


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幾たびも涙こみ上げ「荷車の歌」

2010-12-03 | 文芸
             【 映画「荷車の歌」フィナーレ 】
 

 近頃、涙もろくなったような気がする。
今日も泣かされた。つまりは何度も感動したということか。

思えば、ここに出あったいづれの出来事も ”意味ある偶然 ”であろう。

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○ 昨夜も寝床に入り、いつもの海坂藩の心に響く物語を読む。
藤沢周平の海坂藩大全 (上、下)だ。
手が冷たいこともあり、だいたい一編を読了し、目を閉じる。
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○ 眠れそうにない、ふと傍らの本棚の原民喜の著した「夏の花」に手が伸びた。
著作の『壊滅の序曲』『夏の花』『廃墟から』を、「夏の花三部作」という。
いつか8/6に手に取ったことがある、自身の被爆体験を基に書いた作品だ。
その扉には
  「わが愛する者よ請う急ぎはしれ
   香わしき山々の上にありて(のろ)の
   ごとく小鹿のごとくあれ
」とある。
書き出し部分は
私は亡き妻と父母の墓に、なんという名称か分からないが、黄色の可憐な野趣を帯びた、いかにも夏らしい花を手向けた。
その翌々日、街に呪わしい閃光が走り、私は惨劇の舞台に立たされる。
川に逃げ、次兄と出くわす。次兄と上流へ遡って行く際に、私は、人々の余りにも目を覆う惨状を目の当りにする。
やがて、私と次兄は甥の変わり果てた姿を確認する。
次兄の家で働いていた女中も落ち合い、一緒に避難する。
彼女は赤子を抱えたまま光線に遭い胸と手と顔を焼かれていた。
「水を下さい」と哀願し続け、一か月余りして死ぬ
。》と。
今の夢のような平和のなか、写実的に描写される、あの悲惨な生き地獄を思った。
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○ 眠れずに1時を回った。
 ラジオ深夜便のインタビューで 県立新潟西高校教諭…栗川治氏の
「NHK障害福祉賞入賞者に聞く」、思いがけずに大切な話を聞くことが出来た。
  後日 栗川治氏のHPを見つけた。
 http://homepage2.nifty.com/samusei_syoukyouren/kurikawa.html           
 これから、視覚障害を持つ現職教師の心打たれる提言をゆっくり読んでみたい。
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○ NHK朝ドラ「てっぱん」またまた泣かされた。
 19年前に、あかりの母が残した手紙を、家族全員で見るシーンだった。
 毎回、家族一人一人の心の動きを見つめて楽しんでいる。
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○ 睡眠不足で本調子でない午後、炬燵にあたりながらBS放送の映画「荷車の歌」を視聴した。
50数年前の『荷車の歌』、山本薩夫監督、主演 望月優子 三國連太郎
《広島県の山村にくらす貧しい農家の娘セキは、荷車引きの茂市と結婚、義母のいじめに耐えながら毎日荷車を引いて働き、2男3女の子供を育てる。
やがて人がひく荷車から馬車の時代になり、戦争の足音が近づいてくるなか、セキの苦難の人生は続く。
明治から昭和にかけての激動の時代を懸命に生きた一人の女性の苦難の半生をつづった年代記。
農業協同組合の婦人部320万人のカンパによって制作された山本薩夫監督の力作。》
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毎日、悩みながらの日々だが、今日も慰めとなる、涙流れる感動をいっぱい貰った。
明日もまた・・・。
(2010.12.3)

「逝く母と詠んだ歌五十三首 永田 紅」

2010-11-04 | 文芸
          【キキョウの種】
    文藝春秋11月号で
 「逝く母と詠んだ歌五十三首 永田 紅」を読んだ。
新進歌人の永田 紅さんは、8月に乳癌で亡くなった歌人の河野裕子さんの娘さん。
最後まで、枕元に手帳を置き歌を書き続けていた辛い別れの日々を、家族が歌っている。

・最期の歌
  「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が
・亡くなる前の日の歌
   「あなたらの気持ちがこんなにわかるのに言い残すことの何と少なき
・他に
   「俺よりも先に死ぬなと言ひながら疲れて眠れり靴下はいたまま
   「大泣きをしてゐるところへ帰りきてあなたは黙つて背を撫でくるる
・夫や息子さんも歌人
  「エーンエーンと生きる母にもぐりこみ泣きいる紅を羨しみて見つ」 永田 淳
  「おはようとわれらめざめてもう二度と眼を開くなき君を囲めり」 永田 和宏
・衰弱してゆく母親を介護し看取った河野さん自身に癌が再発したのだ。
 母を歌った
  「みんないい子と眼を開き母はまた眠る茗荷の花のような瞼閉じ

  歌人・馬場あき子は、追悼文で「歌人としての河野さんは天衣無縫の才質をもち、独特の詩材から物ごとの真に迫り、
 甘美な伸びやかさと詩的独断を併せもって、しかも言葉つづきの柔軟さには天性の品位があった。」と語っている。
 
 「ブラウスの中まで明るき初夏の陽にけぶれるごときわが乳房あり
 美しい歌と思う。

 
 最期はつらい。その日々を家族が歌に歌う。
 かえりみて歌を詠めない自分は、どう別れの気持ちを残そう・・・。
一年一年、何と早く過ぎていくことか。
 あれから7年、あれから15年、30年と、思い返す懐かしかったあのころ・・・
生きた密度は比べぶくもないが、私も妻も、河野さんと同い年だ。
 本当に人生は短いと思う。
 また、家族の幸せを思う。 



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詩集「念ずれば花ひらく」

2010-10-28 | 文芸
アマゾンから坂村真民の詩集「念ずれば花ひらく」が届いた。
一篇一篇の詩の心を静かに見つめた。
 ほとんどが初めての詩、どれもが心に響く。
 その中の「今」「ねがい」を転記した。
 そして、「今を生きる」をあらためて胸に刻んだ。

*************************
ねがい

いつかは
その日が来る
その日のために
一切が生きているのだ
飛ぶ鳥も
咲く花も

その日は
明日かもしれない
いや
その日の
夕方かも知れない

それゆえ
その日は
つゆくさのつゆのように
うつくしくかがやきたい

********************


今を生きて咲き
今を生きて散る
花たち

今を忘れて生き
今を忘れて過ごす
人間たち

ああ
花に恥ずかし
心いたむ日々

********************
老いること

老いることが
こんなに美しいとは知らなかった
老いることは
鳥のように
天に近くなること
花のように
地に近くなること
しだれ柳のように
自然に頭のさがること
老いることが
こんなに楽しいとは知らなかった
**************************

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茶碗の絵付け

2010-09-18 | 文芸
また、会工同窓会のN先生から、記念品に使うという茶碗の絵付けを頼まれた。
 いつもの、湖水に浮かぶ秀峰磐梯のスケッチだ。
 昨年も頼まれたが、今度は数えたら60個もあった。
  1週間くらいでゆっくり描こうと思っていたが、今日一気に30個ほどを描きあげてしまった。
1時間くらいだったろう。1個当たり2,3分の早業だ。
 座布団に座って呉須を適当に薄めて、下書きなしに直接描く。
ラジオを聞きながらの、こういう仕事も嫌いではないと思った。

折角なので、無断で自分用のデザインを2個描いた。
 ひとつは、良寛の「生涯」の漢詩の一節を、もうひとつには、麗しの磐梯のスケッチに「風の道」の詩を添えた。
 焼きあがったらいただこうと思っている。


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湯呑の絵付け

2010-07-08 | 文芸
  
 湯のみの絵付けを頼まれた。
眼をつぶっても描けるいつもの絵、猪苗代湖に浮かぶ秀峰磐梯だ。
ふるさと会津を離れた方の会社での、記念品にするという。

下書きもせずに、なれない筆で呉須で描く。
山肌は少し薄く雪をイメージするいつものパターンだ。

 懐かしい伝統工芸に接した若かりし頃が浮かんできた。
 昔、陶芸に没頭した一時期も、陶板に描く絵は磐梯山ばかりだった。
ほとんどが学校祭で販売され、手元に残ったのはわずか数枚だ。
 そのひとつ、大皿一枚が床の間に置いてある。
 他に、いくつか気に入った小さい絵皿は、板につけて飾ってある。

磐梯大皿 

 久々に、食器棚の奥から作品を出してみた。
 大きいお気に入りは、たまの特別な来客のときに刺身皿に使うくらい。
 猪苗代湖のヘリに磐梯が聳えているオリジナルデザインだ。
 ときどき自作の器で、一段とおいしい食卓になっている。
 


今朝触れた 青春の心

2010-05-14 | 文芸
             【建立された歌碑 ネットより】

   今朝早朝のラジオで、盛岡の視聴者からの話題報告を聞いた。
JR盛岡と花巻の間の日詰駅の駅前に賢治の歌碑が建ったという話だった。

  さくらばな 日詰の驛のさくらばな
      かぜに高鳴り こころみだれぬ
 ”

宮沢賢治が1917年賢治21歳、日詰出身の初恋の女性を訪ね、駅に降り立ったときに詠んだ歌だそうだ。
ネットで調べてみた。
 18歳盛岡中学を卒業後、蓄膿症を患い岩手病院に入院。そのとき、看護婦の高橋ミネさんに恋をしたが、父に反対され失恋した。
賢治は後年、この成就されなかった恋の経緯をうたっている。
******************* 
 桐の木に青き花咲き/ 雲はいま 夏型をなす
 熱疾みし身はあたらしく/ きみをもふこころはくるし
 父母のゆるさぬもゆゑ/ きみわれと 年も同じく/
 ともに尚 はたちにみたず/ われはなほ なすこと多く/
 きみが辺は 八雲のかなた
 わが父は わが病ごと/ 二たびの いたつきを得ぬ/
 火のごとくきみをおもへど/ わが父にそむきかねたり
 はるばるときみをのぞめば/ 桐の花 むらさきにもえ/
 夏の雲 遠くながるゝ     」
**********************
この初恋のほのぼのした恋心を知り、あの堅物な、詩人、童話作家、農業指導家、地質学者、哲学者である賢治の別の一面を見る思いがした。

今朝も目覚めが早かった。4時過ぎに起きで朝刊を広げた。
朝日の「文化」欄で「伊東静雄 恋多き青春日記」という記事が目に入った。
 『我は今日以下のことを天同盟わん。強気力を以て。・・・・我は詩人なり」-詩集『わが人に与ふる哀歌』で知られる詩人とあった。初めて聞く詩人だった。
彼が「見せないで」と弟に託したノート5冊から、長女が刊行したという。ノートの表紙には『詩へのかどで』とあった。解説には近代抒情詩を代表する才能が刻んだ『若い詩人の肖像』が、生々しくよみがえる、とある。

 早朝に触れた2つの話題に、同じ時代に生きた、苦しみながら過ごした青春の心を思った。そして、生きていることの素晴らしさを痛感した。
わずか37歳で逝ってしまった賢治の人生をもう一度巡らしたいと思った。
また、知らなかった伊東静雄について作品に触れて見たいと思っている。 




藤沢周平記念館が開館

2010-05-12 | 文芸
 
  【今朝のヒヨドリ   庭のえさ台に来るヒヨドリを飽かず眺めている。】

 ふるさと鶴岡に藤沢周平記念館ができた。文藝春秋6月号に、記念館の開館の様子がグラビアで載っていた。また、児玉 清×杉本章子×遠藤展子の対談記事「藤沢周平この三作」もあった。さわやかな藤沢作品が浮かんできた。
本棚から、以前に求めた「藤沢周平の世界展の図録」を取り出し、ひと時藤沢周平に浸った。藤沢周平の作品はいい。いつも「凛として生きる人間」が描かれている。
 何年か前に、「蝉しぐれ」が映画化され、在りし日の『海坂藩』を訪ねたこともあった。
 鶴岡へは3度行ったことがある。一度は芭蕉の足跡を訪ねたおり、また、出羽3山を巡ったとき、そしてもう一度は藤沢周平のエッセイに書かれた作品の源郷としての、美しい荘内の風土、歴史に触れたかったからだ。清らかなさわやかなイメージがある、山紫水明の地だ。
 ここまで書いたが、昔のブログでも同じようなことが書かれていて、一人苦笑いをしている。
(参)拙ブログ 「魅力の藤沢周平」(2008-05-13)
        「藤沢周平の世界」(2006-12-11)


 これからも、まだ読んでいない作品もたくさんあるから、楽しみだ。ゆっくり、すべてを読んでみたいと思っている。また、いつの日か訪ねたい記念館を想像している。 


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春に口ずさむ青春の歌

2010-04-24 | 文芸


この時期、口ずさむ歌がいくつかある。
 いずれも燃える青春に出会った歌で、今、しみじみと歌う自分がある。

○一つは山の歌。題名は知らないが、詩歌は忘れずにいる。
四季を詠う信州での山の歌だった。ゆったりしたメロディも何とも言えない。
山の友に教えられたが、どこのだれが作ったのだろうか?
*************************
緑が淡く野に萌えて 残雪白き山肌を
友よ登らん 信濃の山に 友よ忘れじ 信濃の山を

可憐な花が咲き出ずる 黒い岩肌 青い空
友よ登らん 北アの峰に 友よ忘れじ 北アの峰を

秋の時雨(しぐれ)に濡れる道 落葉を友に一人行く
友よ歩まん 峠の道を 友よ忘れじ 峠の道を

粉雪の峰滑り行く 日々の思い出 遠い日の
友よ語らん 燈火(ともしび)の もと 友よ語らん 燈火のもと
 
*************************

○これまた学生のころよく歌った、旧制松本高校の寮歌「春寂寥の」だ。
”春寂寥の ~ ” ”あわれ悲し 逝く春の ~”
 もの悲しく、青春の寂寥感漂う旋律が 心を揺さぶる。
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春寂寥の 洛陽に
昔を偲ぶ 唐人(からびと)の
傷める心 今日は我
小さき胸に 懐(いだ)きつつ
木(こ)の花蔭に さすらえば
あわれ悲し 逝く春の
一片毎に 落(ち)る涙

岸辺の緑 夏木立
榎葉蔭(えのきはかげ)の まどろみに
夕暮さそう 蜩の
果敢(はか)なき運命(さだめ) 呪いては
命の流れ 影あせて
あわれ淋し 水の面(も)に
黄昏(たそがれ)そむる 雲の色

秋揺落(ようらく)の 風立ちて
今宵は結ぶ 露の夢
さめては清し 窓の月
光をこうる 虫の声
一息毎に 巡り行く
あわれ寒し 村時雨
落葉の心 人知るや

嵐は山に 落ち果てぬ
静けき夜半の 雪崩れ
榾(ほだ)の火赤く さゆらげば
身を打ち寄する 白壁に
冬を昨日の 春の色
あわれ床しき 友どちが
あかぬまどいの もの語り 

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○もうひとつ、サクラ吹雪のころ、さわやかな初夏を肌で感じる詩は、三好達治の「甃(いし)のうへ」だ。
教職にあったころ、専門外のこの詩を板書して、生徒にノートさせるのが常であった。
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甃(いし)のうへ

あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ

をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍みどりにうるほひ
廂々に
風鐸のすがたしづかなれば

ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃のうへ
 
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 今、過ぎ去りし若き日のまぼろし、時の流れを静かに見つめている。 


(参)拙ブログ 『甃のうへ』(2008-04-24)


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