今期、ディベート甲子園の高校論題にチャレンジする選手ならびに指導者の皆さん。
ご用とお急ぎでなければ、ディベートのリサーチ、準備の一環として、以下の問いかけに、少々お付き合い頂けまいか?
【問い】「こういう人」に対して、「こうすること」は、「良いことなのか/良くないことなのか」? それは「どのような理由によるものか」?
この問いかけに対して、いくつかのケース・場合分けを用意した。そのそれぞれについて、選手や指導者の皆さんは、如何お考えになるであろうか?
●【ケース1】「死にたくないと思っている人」を「殺す」
このケースは、いわゆる「殺人」である。「良くないこと」であるとする答えが返ってくるのが当然であろう。
しかし「そんなの、あたりまえだよ」で済ませないで頂きたい。
ここで重要なのは、あえて立ち止まって考え、「その理由」について思いを巡らせ、仲間と意見を交換することである。
「いのちの大切さ」について思いを到らせ、それを言語化しようと試みることは、今回の積極的安楽死ディベートの出発点になるはずである。
指導にあたる方々向けに論点を整理しておくと、その理由の説明は、
―生命の尊重・肯定
―社会の維持・存続・発展
―相互契約的倫理・権利との背反
といったアプローチから議論することが可能であろうと考えられるので、付記しておく。
●【ケース2】「死にたいと思って、自殺の実行を考えている人」に、「手を貸して、死なせる」
これは、いわゆる自殺ほう助、あるいは自殺関与である。法的にも、処罰の対象となる「良くないこと」である。その理由についても、殺人のケースに準じて考えられるであろう。
ここで注意しておくべきは、ケース2がケース1と異なるのは、「殺される人」が「死ぬことを願っている」という点である。・・・この点、追って言及したいことがあるので、ご留意頂きたい。
●【ケース3】「死にたいと思って、いままさに自殺しようとしている人」を、「傍観するだけで、自殺をとめない」
自殺に対して、手を貸しはしないものの、止めもせず、看過するという状況である。
もちろんこれは、倫理上よろしくないと考えられる。
と同時に、基本的には、法律上の咎めはないという点に留意が必要である。すなわち、このような状況が望ましくないと考えられる説明として、
―生命の尊重・肯定
―社会の維持・存続・発展
という観点から、殺人の場合と同様に、いのちの大切さという趣旨から論ずることができるものの、「相手と自分の行為を相互に拘束するための社会的契約が成立しているから」という説明アプローチには、少々無理が生じる。誰の手も借りずに行う自殺の場合、行為は一人で完結するので、他の誰かが介在する余地がない。
そうした場合、上記以外のアプローチで、自殺禁忌を説くためには、
―他者の悲哀や嫌悪感への共感
―死後の世界における罰則への恐怖
といった視点によるものになってくるであろう。
***
以上は、導入分析に過ぎない。安楽死ディベートに際して、皆さんにお考え頂きたいこと=問題提起は、ここからである。
ご用とお急ぎでなければ、ディベートのリサーチ、準備の一環として、以下の問いかけに、少々お付き合い頂けまいか?
【問い】「こういう人」に対して、「こうすること」は、「良いことなのか/良くないことなのか」? それは「どのような理由によるものか」?
この問いかけに対して、いくつかのケース・場合分けを用意した。そのそれぞれについて、選手や指導者の皆さんは、如何お考えになるであろうか?
●【ケース1】「死にたくないと思っている人」を「殺す」
このケースは、いわゆる「殺人」である。「良くないこと」であるとする答えが返ってくるのが当然であろう。
しかし「そんなの、あたりまえだよ」で済ませないで頂きたい。
ここで重要なのは、あえて立ち止まって考え、「その理由」について思いを巡らせ、仲間と意見を交換することである。
「いのちの大切さ」について思いを到らせ、それを言語化しようと試みることは、今回の積極的安楽死ディベートの出発点になるはずである。
指導にあたる方々向けに論点を整理しておくと、その理由の説明は、
―生命の尊重・肯定
―社会の維持・存続・発展
―相互契約的倫理・権利との背反
といったアプローチから議論することが可能であろうと考えられるので、付記しておく。
●【ケース2】「死にたいと思って、自殺の実行を考えている人」に、「手を貸して、死なせる」
これは、いわゆる自殺ほう助、あるいは自殺関与である。法的にも、処罰の対象となる「良くないこと」である。その理由についても、殺人のケースに準じて考えられるであろう。
ここで注意しておくべきは、ケース2がケース1と異なるのは、「殺される人」が「死ぬことを願っている」という点である。・・・この点、追って言及したいことがあるので、ご留意頂きたい。
●【ケース3】「死にたいと思って、いままさに自殺しようとしている人」を、「傍観するだけで、自殺をとめない」
自殺に対して、手を貸しはしないものの、止めもせず、看過するという状況である。
もちろんこれは、倫理上よろしくないと考えられる。
と同時に、基本的には、法律上の咎めはないという点に留意が必要である。すなわち、このような状況が望ましくないと考えられる説明として、
―生命の尊重・肯定
―社会の維持・存続・発展
という観点から、殺人の場合と同様に、いのちの大切さという趣旨から論ずることができるものの、「相手と自分の行為を相互に拘束するための社会的契約が成立しているから」という説明アプローチには、少々無理が生じる。誰の手も借りずに行う自殺の場合、行為は一人で完結するので、他の誰かが介在する余地がない。
そうした場合、上記以外のアプローチで、自殺禁忌を説くためには、
―他者の悲哀や嫌悪感への共感
―死後の世界における罰則への恐怖
といった視点によるものになってくるであろう。
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以上は、導入分析に過ぎない。安楽死ディベートに際して、皆さんにお考え頂きたいこと=問題提起は、ここからである。