嶽南亭主人 ディベート心得帳

ディベートとブラスバンドを双璧に、とにかく道楽のことばっかり・・・

【ディベート甲子園2010】 安楽死論題について思う(その1)~議論の出発点としての「いのち」の問題

2010-03-30 21:37:30 | ディベート
今期、ディベート甲子園の高校論題にチャレンジする選手ならびに指導者の皆さん。

ご用とお急ぎでなければ、ディベートのリサーチ、準備の一環として、以下の問いかけに、少々お付き合い頂けまいか?

【問い】「こういう人」に対して、「こうすること」は、「良いことなのか/良くないことなのか」? それは「どのような理由によるものか」?

 この問いかけに対して、いくつかのケース・場合分けを用意した。そのそれぞれについて、選手や指導者の皆さんは、如何お考えになるであろうか?

●【ケース1】「死にたくないと思っている人」を「殺す」

このケースは、いわゆる「殺人」である。「良くないこと」であるとする答えが返ってくるのが当然であろう。

しかし「そんなの、あたりまえだよ」で済ませないで頂きたい。

ここで重要なのは、あえて立ち止まって考え、「その理由」について思いを巡らせ、仲間と意見を交換することである。


「いのちの大切さ」について思いを到らせ、それを言語化しようと試みることは、今回の積極的安楽死ディベートの出発点になるはずである。


指導にあたる方々向けに論点を整理しておくと、その理由の説明は、

 ―生命の尊重・肯定
 ―社会の維持・存続・発展
 ―相互契約的倫理・権利との背反

といったアプローチから議論することが可能であろうと考えられるので、付記しておく。

●【ケース2】「死にたいと思って、自殺の実行を考えている人」に、「手を貸して、死なせる」

これは、いわゆる自殺ほう助、あるいは自殺関与である。法的にも、処罰の対象となる「良くないこと」である。その理由についても、殺人のケースに準じて考えられるであろう。

ここで注意しておくべきは、ケース2がケース1と異なるのは、「殺される人」が「死ぬことを願っている」という点である。・・・この点、追って言及したいことがあるので、ご留意頂きたい。


●【ケース3】「死にたいと思って、いままさに自殺しようとしている人」を、「傍観するだけで、自殺をとめない」


自殺に対して、手を貸しはしないものの、止めもせず、看過するという状況である。

もちろんこれは、倫理上よろしくないと考えられる。

と同時に、基本的には、法律上の咎めはないという点に留意が必要である。すなわち、このような状況が望ましくないと考えられる説明として、

 ―生命の尊重・肯定
 ―社会の維持・存続・発展

という観点から、殺人の場合と同様に、いのちの大切さという趣旨から論ずることができるものの、「相手と自分の行為を相互に拘束するための社会的契約が成立しているから」という説明アプローチには、少々無理が生じる。誰の手も借りずに行う自殺の場合、行為は一人で完結するので、他の誰かが介在する余地がない。


そうした場合、上記以外のアプローチで、自殺禁忌を説くためには、

 ―他者の悲哀や嫌悪感への共感
 ―死後の世界における罰則への恐怖

といった視点によるものになってくるであろう。

***

以上は、導入分析に過ぎない。安楽死ディベートに際して、皆さんにお考え頂きたいこと=問題提起は、ここからである。


【ディベート甲子園2010】 安楽死論題について思う(序)~東北地区指導者研修会にて

2010-03-30 05:26:03 | ディベート
過日、お招きにより、掲題の研修会に講師として出向いた。

志を同じくする人との語らいは、楽しくも、とても勉強になった。

同日お話した内容、それに、これを機に整理した考えについて、ここでも、報告したいと思う。例により、ぼちぼちと進めるので、その点は悪しからず。

****

当日の講義は、以下の引用で結んだ。

ミク友であるmasashiさんの省察に触れて、脳裏に浮かんできた、ある本の一節である。

(引用開始)

「かくしてチャーリイは、ひとびとを引き裂いてしまう楔から芽生えてくる、言語の、肉体の、虐待や暴力行為の問題のいくばくかを癒してくれる重要な洞察をわれわれに与えてくれたのだ。

 おそらく彼はこう示唆したいのだろう。つまり、知識の探求に加えて、われわれは家庭でも学校でも、共感する心というものを教えるべきだと。われわれの子供たちに、他人の目見、感じる心を育むように教え、他人を思いやるように導いてやるべきだと。自分たちの家族や友人ばかりではなくーーそれだったらしごく容易だーー異なる国々の、さまざまな種族の、宗教の、異なる知能レベルの、あらゆる老若男女の立場に自分をおいて見ること。こうしたことを自分たちの子供たち、そして自分自身に教えることが、虐待行為、罪悪感、恥じる心、憎しみ、暴力を減らし、すべてのひとびとにとって、もっと住みよい世界を築く一助となるのだと思う。」

ーーーダニエル・キイス 「アルジャーノンに花束を」 日本語版文庫への序文より

(引用終了)

今回の論題、中学論題も高校論題も「いのち」を扱う点が共通している。

ディベーター、それに指導にあたる先生方には、「いのち」に対する畏敬の念を新たにして頂いた上で、聞き手の感受性に思いを致し、そうして、もの言いに関して十分な留意をお願いしたいのである。

前回の安楽死論題では、

「ガンは不治の病気です」とか

「AIDSになったら助かりません」とか

天真爛漫ながらも、誠に不用意にして、粗忽な言明が散見された。私ですら、聞いていて、気を悪くした。いわんや一般の方々、それに当事者の方々をや。

特に高校論題におけるスピーチに際しては、ぜひとも聞き手の立場に身を置いて考え、そして言葉を選んで欲しい。

まずはその点を、切にお願いしたい。