澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

日中共同歴史研究報告書

2010年01月31日 22時20分11秒 | 歴史

北岡伸一・東大教授(日本政治外交史)が日本側座長となった「日中共同歴史研修報告書」が公表された。
実は、共産党一党独裁の中国と「共同歴史研究」などできるのかと思うのだが、ニュースを見る限りでは、日本側はきちんと自らの立場を主張したようだ。

「南京大虐殺」については、1970年代に洞富雄・早大教授(日本史)が、著作を発表し関係者の関心を呼んだ。その後、朝日新聞の本多勝一が「中国の旅」(1972)で採り上げ、センセーショナルな話題になった。
現在、本多の記事は中国側の主張をそのまま採り上げたため、信憑性に欠けるとされている。当時の中国は「文革」のさなかで、鎖国状態であり、本多のインタビューがまともな状況で行われたとはとても考えられない。
そもそも当時「南京大虐殺」が一般の中国人の関心を集めることはなかった。毛沢東の恐怖政治のもとで、人民は今日を生きるのが精一杯だったのだ。
これを一方的に騒ぎ立てたのは、日本の日中友好人士と呼ばれる人たち、進歩的文化人とされる大学教授などだった。

「南京大虐殺」キャンペーンの中心人物が、洞富雄という早大教授だったのも暗示的だ。「野党精神」だか「反体制」「東大コンプレックス」だか知らないが、早稲田にはこういう教授が何人もいた。「日中友好」を表看板に体制批判をして、中国側からは「日中友好人士」として厚遇されてきた連中だ。こういう人たちは、真摯に学問を究めるというタイプではなく、ある政治的な意図で特定の発言をすることが「業績」だと思っていたようだ。今から思えば、噴飯ものの話だが、左翼全盛時代の当時は普通のことだった。

さすがに東大だと思うのは、東大には左翼政治屋のような教授はいなかった。そこでは政治的プロパガンダに近い「南京大虐殺」の話は、実証的な研究対象とはならなかったのだ。
歴史共同研究の近・現代史部門には、北岡教授や川島真準教授など東大を中心に京大、慶應、筑波大出身の政治学者を揃えている。

中国側は、近現代史部分の公表を拒否し、「文化大革命」などの暴政について触れることを避けたが、中共(=中国共産党)が自ら引き起こした大虐殺を平然と頬被りするのはいかがなものか。また、日中戦争時に中共の軍隊が主体で抗日戦争を戦ったような主張をしているが、それも真っ赤なウソであることは明らかだ。
抗日戦争の主体となった中国国民党側の資料も調べなければ、歴史の全体像は分からない。中国国民党の資料は、今や民主化され、学問の自由も担保された台湾にあるのだから、それを調べないのはおかしいのではないか。

また中国側報告書は、沖縄について「琉球は独立国で、中国の冊封体制下にあったが、日本が横取りした」と主張している。台湾が中国に併呑され、日本で外国人参政権が認められるとしたら、中国による沖縄併呑さえもありえないことではないことをこの報告書は示している。


日中歴史研究報告書のポイント

 日中歴史共同研究報告書の近現代史に関する記述のポイントは次の通り。
 【日清戦争(1894~95年)以降】
 日本=近代の日中関係史において日清戦争は一つの転換点。日本が有利な不平等条約体制が形成され、日本国内でも中国を蔑視(べっし)する傾向が生まれたことなど、それ以前とは異なる傾向が顕著に見られた。
 中国=日本の拡張行為はやむことなく持続して中国人の抗日意識を激化させ、日本軍政決定者に、したい放題の横暴な心理を作り出した。
 【田中上奏文(1927年)】
 日本=対中政策を協議した東方会議に関連して「田中上奏文」と呼ばれる怪文書がある。これは田中義一首相が昭和天皇に上奏したとされるもので、中国への侵略計画だった。だが「田中上奏文」は、実際の東方会議と大きく離反していた。
 中国=真偽に関して学界で多くの議論があったが、いかに作られたかについて不明な部分がある。だが、その後の日本の拡張路線はまさしくこの文書に書かれたようになった。
 【柳条湖事件(31年)】
 日本=関東軍の作戦参謀・石原莞爾らを首謀者とする謀略によるものであった。武力発動は政府や陸軍指導部の基本方針に反する行動として開始された。急進的な軍人たちは、謀略によって日中間の衝突事件を引き起こし、満州の「危機」を一挙に打開しようとした。
 中国=関東軍が中国東北地区を侵略するため発動した九一八事変(満州事変)は、日本が実施した「満蒙(満州・蒙古)政策」の必然の産物。30年からの世界経済危機と国内の政治・社会危機の影響の下、日本は「満蒙危機」を騒ぎ立て、関東軍と軍部はそれぞれ東北地区を武力で侵攻・占領する計画を制定した。
 【日中全面戦争(37~45年)】
 日本=戦闘は8年を越え、宣戦布告による戦争以上にし烈なものとなり、両国国民に大きな負担と犠牲を強いた。特に戦場となった中国に深い傷を残したが、その原因の大半は日本側が作り出したものと言わなければならない。
 盧溝橋における最初の発砲事件は「偶発的」であり、現地では局地的解決の努力がなされた。しかし、衝突事件を好機とみなした支那駐屯軍(後の北支那方面軍)や関東軍は、蒋介石政権の打倒と華北占領という構想を実行していく。
 中国=盧溝橋事件の発生は、かなり大きな程度、日本の中国侵略政策と関係している。事件は非常に速い展開で日本による全面的な対中国侵略戦争につながったが、歴史的変化のプロセスを見ると、盧溝橋事件は必然的に起きたものと言える。
 【南京虐殺事件(37年)】
 日本=日本軍による捕虜、敗残兵、便衣兵および一部の市民に対する集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦(ごうかん)、略奪や放火も頻発した。日本軍による虐殺者数は、極東国際軍事裁判(東京裁判)における判決では20万人以上(松井石根司令官に対する判決文では10万人以上)、47年の南京戦犯裁判軍事法廷では30万人以上とされ、中国の見解は後者に依拠している。
 一方、日本側の研究では20万人を上限として、4万人、2万人などさまざまな推計がなされている。犠牲者数に諸説がある背景には、「虐殺」の定義、対象となる地域・期間、埋葬記録、人口統計などの資料に対する検証の相違が存在する。
 中国=日本軍の南京での放火、殺人、強姦、略奪は国際法の重大な違反であり、第2次大戦後、連合国は東京と南京でそれぞれ軍事法廷を開き、南京大虐殺に対する審判を行った。
 東京裁判の判決書は、「占領後の最初の1カ月で南京市内では2万件近い強姦事件が発生した」「日本軍隊占領後最初の6週間以内に、市内と付近で虐殺された市民と捕虜は計20万人を超えた」と認定した。南京戦犯裁判軍事法廷は「被害者は総数30万人余りに上る」と認定した。
 【中国人犠牲者数】
 日本=国民政府軍の死者は約132万人、負傷者180万人に上っている。中国共産党軍の死傷者(失跡者を含む)は58万人を超えると推定される。非戦闘員の犠牲の多さや日本軍によるさまざまな「非違行為」は、戦後の日中両国民の中に、新しい関係構築を妨げる深い傷跡を残した。
 中国=不完全な統計によると、中国軍人・民衆の死傷者は3500万人以上、直接的な経済損失は1000億ドル以上、間接的な経済損失は5000億ドル以上に上った。関東軍731部隊や100部隊は、中国人を使った人体実験、生体解剖も実施した。(2010/01/31-17:18 時事通信)



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