澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

タシケントの日本人墓地~「親日国」という”神話”

2018年07月04日 23時32分14秒 | 散歩

 ウズベキスタン旅行ツアーには、ほぼ例外なく組み込まれているのが、タシケントの日本人墓地とナヴォイ劇場の参観。このエピソードについては、下記に貼付した映像(「世界ナゼそこに?日本人」(ナヴォイ劇場))などを通して、かなり広く知られるようになった。1945年夏、第二次大戦で日本が敗北した後、ソ連のスターリンは、日本人兵士を抑留し、ソ連各地に移送し、過酷な強制労働に駆り立てた。言うまでもなく、これは国際法に違反する行為で、日本人の対ソ感情も著しく悪化した。
 タシケントに送られた日本人捕虜は、オペラ・ハウスであるナヴォイ劇場の建設に従事させられた。異国での二年間にわたる強制労働の結果、命を落とすものも多かった。
   ナヴォイ劇場側面の記念碑には、日本語で次のように書かれている。

1945年から1946年にかけて、極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイー名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。」

 極東というのは「満洲国」であり、「強制移送」はいわゆる「シベリア抑留」を意味する。ソ連時代には決して語られることのなかった歴史的事実が、ウズベキスタンの独立を契機に明らかにされた。これは、リトアニア独立に伴う、日本のシンドラー・杉原千畝と似た現象かも知れない。


  ウズベキスタン共和国独立後(1991年~)整備されたタシケント日本人墓地


      ナヴォイ劇場(夏の野外コンサートの準備中だった)

       ナヴォイ劇場に刻まれた日本語の碑文

 ソ連時代のウズベキスタンでは、捕虜や政治犯の強制労働は珍しいことではなかったので、日本人捕虜がいたという事実は、すぐに忘れ去られた。ところが、1966年、タシケント地震で市内の多くの建築物が崩壊するなか、ナヴォイ劇場は無傷のまま残ったことから、「日本人が建てたからだ」という噂が広まった。
 実際には、日本人捕虜がナヴォイ劇場建設に従事した時点では、設計はもとより、施工も大部分なされていたという。だから、「日本人が建てたナヴォイ劇場」というエピソードは、厳密にいえば事実ではない。上記の碑文にあるように、「…劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」というのが真実である。

 1991年、ソ連邦の崩壊に伴い、ウズベキスタン共和国が独立するに及んで、このナヴォイ劇場の物語は、イスラム・カリモフ大統領によって、ウズベキスタンと日本の友好のシンボルとして流布された。日本側でこれにシンクロしたのは中山成彬・恭子夫妻だそうだ。

 以上の話は、通訳・ガイドのフェルツ氏から聴いたもの。「親日国 ウズベキスタン」と安易に思い込む前に、それぞれの事情を知る必要がありそうだ。現在のウズベキスタン人一般にとっては、日本は遠い存在であり、特に意識する対象ではないという。確かに、街を走る車は韓国製が大半で、日本車に出会ったのは、有名なウズベキスタンホテル(タシケント)に停めてあった三台だけだった。

 とは言っても、初めて訪れたウズベキスタンは、予想以上に親しみやすい、「いい国」だと思った。遠く離れた両国が、歴史上のエピソードで共鳴するのは、悪いことではないはずだ。

世界ナゼそこに?日本人 2017年8月21日 (ナヴォイ劇場)