澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

「天皇フィリピン訪問」の違和感

2016年01月27日 07時47分35秒 | マスメディア

 天皇陛下ご夫妻がフィリピンをご訪問中。

 NHKニュースは、「天皇陛下は、「フィリピンでは、先の戦争において、フィリピン人、米国人、日本人の多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては、膨大な数に及ぶ無辜(むこ)のフィリピン市民が犠牲になりました」としたうえで、「私どもは、このことを常に心に置き、この度の訪問を果たしていきたいと思っています」と伝えている。
 一方、「週刊朝日」で
保坂正康(評論家)は、フィリピン戦線の歴史を説明したうえで「天皇と皇后が、今なおそのことを考え続けて追悼と慰霊を続けていることに、私たちは改めて思いを深める必要がある」と結んでいる。(いずれも下記参照)

 天皇による追悼と慰霊について「私たちは改めて思いを深める必要がある」とお説教されても、私などは困惑してしまうだけだが、この保阪氏の言葉は、立場によって解釈も多様だろうと思う。天皇陛下の平和に対する思いに感動する人から、昭和天皇の戦争責任を追及する立場からは、大いなる違和感を感じる人もいるはずだ。

 今上天皇は、父親である昭和天皇が歴史上果たした役割・責任をどれほど自覚しているのだろうか。そこがわからなければ、慰霊のお言葉もそのとおりには伝わらない。要は、昭和天皇の戦争責任が不問にされたことによって、日本人全体が「触れてはいけないタブー」を抱え込んでしまった。戦後ある時期から、日本人は、思いもかけない経済的繁栄と引き換えに、この菊のタブーに触れることを避けるようになった。少なくとも、木戸幸一や中曽根康弘という二人の首相経験者が言ったように、「東京裁判後、天皇が退位」していたならば、それなりの戦争責任をとったことになり、今回のような違和感は感じなかったのだろう。

 天皇訪問を伝えるフィリピンのニュースは、「天皇(Emperor)との会談では、慰安婦(comfort women)問題は採り上げられなかった。これは政府間の問題だから」とわざわざ付け加えていた。さすがにフィリピンは「Sex Slaves」とは言わなかったが…。このように今回の天皇訪問は、手放しで天皇の「お心」を賞賛するだけの日本の報道だけでは分からない、多くの問題を抱えているように思われる。

 もうひとつ、これはたまたまの偶然だと思いたいが、「安保法制」の騒ぎの直後に、天皇が過去の戦争、特にマニラ市街戦を採りあげて、慰霊し、謝罪するかのような発言は、たとえそれが「政治的発言」ではないにしても、日本のマスメディアによって「安保法制」反対の材料として使われかねない危惧を覚える。もしそうなれば、これはまさに「政治的な」発言となってしまうのだ。

 「軍部の独走」が無謀な戦争を引き起こし、「敗戦国」となったとされる日本。だが、その「軍部」の最高責任者である大元帥は、昭和天皇だった。その息子が同じ天皇(Emperor)として「マニラ市街戦」を語るのは、見方によっては、フィリピン人に対してあまりに無神経であり、「高め目線」ではないか。戦争責任という根源的な問題を避けて、見て見ぬふりをしてきたこの70年間…。なんでまた、いま、こんなことを…と思うのは、私だけか。

 


天皇、皇后両陛下、54年ぶりのフィリピン訪問 戦没者を悼む現地の日程は

天皇陛下は、「フィリピンでは、先の戦争において、フィリピン人、米国人、日本人の多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては、膨大な数に及ぶ無辜(むこ)のフィリピン市民が犠牲になりました」としたうえで、「私どもは、このことを常に心に置き、この度の訪問を果たしていきたいと思っています」と話されました。

天皇陛下 フィリピン訪問出発前におことば NHKニュースより 2016/10/50)
 
 

■両陛下、フィリピン訪問の日程

訪問は、皇太子ご夫妻時代の1962年以来、54年ぶりとなる。国交正常化60年を迎えて友好親善を目的に、国賓として招待されたが、太平洋戦争の激戦地への慰霊の旅となる。

japan
皇太子夫妻時代のフィリピン訪問で、マニラに到着された天皇、皇后両陛下。右はマカパガル大統領(当時)夫妻=1962年11月05日(c)時事通信社

両陛下は27日にフィリピン人の戦没者を悼む「無名戦士の墓」を訪れ、夜にアキノ大統領主催の晩餐会に出席する。29日は日本人戦没者を悼む「比島戦没者の碑」に供花し、30日に帰国する予定だ。主な日程は以下の通り。

26日午前 政府専用機で羽田空港発
   午後 マニラ着。青年海外協力隊員と懇談
27日午前 マラカニアン宮殿で歓迎式典。アキノ大統領と会見。リサール記念碑に供花
   午後 英雄墓地で供花。フィリピン側戦没者を慰霊
    夜 大統領主催の晩さん会
28日午前 フィリピン人元留学生、日系人、在留邦人らと懇談
   午後 フィリピン人看護師候補者らが学ぶ語学研修センター訪問
    夜 日本大使夫妻主催レセプション
29日午前 カリラヤへ。日本政府建立の「比島戦没者の碑」で供花
   午後 ロスバニョス着。国際稲研究所を視察後、マニラへ
30日午前 政府専用機でマニラ発
   午後 羽田空港着
(2016/01/26-05:41)

時事ドットコム:両陛下の主な日程(現地時間)より 2016/01/24 19:01 )
 
 

filippin
天皇、皇后両陛下を歓迎するために掲げられた横断幕=2016年1月25日、フィリピン・マニラ (c)時事通信社

■太平洋戦争の激戦地となったフィリピン

フィリピンには、ルソン島やレイテ島など太平洋戦争で日米が激しい戦闘を行った場所が多くある。毎日新聞によれば、同国での日本人戦没者は51万8000人。戦闘に巻き込まれて亡くなったフィリピン人は100万人を超えるとされる。

1941年12月8日、日本軍は真珠湾攻撃の直後にアメリカの植民地だったフィリピンを攻撃し、翌年1月に首都マニラを占領。フィリピンを軍政下に置いた。米軍は44年10月に上陸作戦を開始。フィリピン人抗日ゲリラの抵抗もあり、日本軍は壊滅状態となった。51万8000人の日本人が亡くなり、フィリピン人の死者は100万人を超えるとされる。52年から戦後賠償の交渉が始まり、56年に賠償協定が発効。国交を回復した。

皇室:両陛下、きょうフィリピン訪問 友好、未来へつなげ 戦死の父、足跡追い 現地で進学支援 - 毎日新聞より 2016/01/26)

 

 

フィリピン決戦の悲劇 天皇、皇后両陛下が戦没者慰霊へ

 天皇、皇后両陛下が1月26~30日にフィリピンを訪問し、先の大戦で犠牲になった日比両国の戦没者を慰霊する。50万人の日本兵、100万人のフィリピン人が亡くなったとされる「比島決戦」とは何だったのか。ノンフィクション作家の保阪正康氏がその真相に迫った。

*  *  *
 太平洋戦争はおよそ3年8カ月続いたが、その間日本軍将兵の戦死者はどれほどになるのか。明確な数字はだされていない。なにしろ終戦直後に、日本の軍事・政治指導者たちは史料や文書を焼いてしまったからだ。

 自らの責任を回避するために、一切の記録を無にしてしまうという行為は、歴史に対する背信行為といっていいであろう。太平洋戦争の解明に手間どるのは、こうした暴挙のためといっていい。

 それでも厚生省(現・厚生労働省)が各種の調査を行って「地域別戦没日本人数」をまとめ、昭和51(1976)年にひとまずの数字を公表している。フィリピン(比島)戦では実に51万8千人が戦死している。個別の地域ではもっとも多い(中国本土、旧満州などを加えて「中国戦線」とみれば70万人となり、フィリピンより多い)。

 これだけの日本軍将兵が戦死したわけだから、中国・東南アジア各国で犠牲になった民間人は1千万単位になるというのも容易にうなずける。とくに比島戦では10カ月の戦いで100万人近くの犠牲者が出たといわれている。戦後のある時期はフィリピンの対日感情が極端なまでに悪化していたことはよく知られている。

 一口に比島戦といっても、この戦いは二つの局面から成り立っている。一つは昭和16(1941)年12月8日の開戦と同時に、日本は比島の攻略作戦を進めた。この中心にいたのは第14軍(司令官は本間雅晴)で、ルソン島やミンダナオ島などを空襲する一方で、主力部隊はマニラを目ざし、17年1月2日にはこの地を制圧している。

 米極東軍司令官のD・マッカーサーとその幕僚たちは、マニラからオーストラリアに脱出し、そこで指揮をとっている。

 開戦当初、日本軍は破竹の勢いで進み、バターン半島で抵抗を続ける米国を中心とする連合軍を破り、4月にはコレヒドール島で連合国との間で無条件降伏の文書を交わしている。この折、司令官の本間は捕虜の数を2万5千人と想定していたが、実際には7万6千人(J・トーランドの『大日本帝国の興亡』)で、捕虜収容所までの100キロを歩くいわゆる「死の行進」によって2万人近くが餓死・病死したとされている。

 もうひとつの比島戦は、この最初の戦いから2年半後の昭和19年10月20日に、米軍の地上部隊10万人余がレイテ島のタクロバンに上陸した。日本の政府が天王山と位置づけた戦闘でもあった。

 レイテ島に米海軍の輸送艦や支援の艦船など700隻が姿を見せて日本軍に物量の差を見せつけた。この際、マッカーサーは、「フィリピンの人たちよ、私は今帰ってきた」と放送している。

 当時の日本は実際には戦争を続ける国力を失っていた。米軍はこの年7月から8月にはマリアナ諸島を次々と制圧して、日本本土への爆撃も容易になっていた。日本軍は辛うじて態勢を立て直し、「捷号作戦」で対抗しようと考えていた。捷1号作戦とはまさに比島方面の防御にあった。しかしそうした作戦には物量が伴っておらず、計画だけが空回りしていた。そこで考えられたのが、神風特別攻撃隊に代表される特攻作戦だったのである。

 米軍のレイテ上陸直前に、大本営はこの捷1号作戦を発動した。これを受けて日本海軍は10月22日からレイテ沖海戦を企図して動き始めた。劣勢だった日本海軍は、囮(おとり)役の艦隊が米機動部隊の攻撃を受けている間に主要艦船がレイテ湾に突入し、米軍の残存艦艇や地上部隊を叩くという案を採用した。こうした判断は、10月10日からの台湾沖航空戦で、日本軍の800機が米海軍の空母11隻を撃沈、8隻を大破し、多数の艦艇を沈めたとの「戦果」に基づいていた。しかしこれはまったくの誤報で、米艦艇は無傷だったのである。

 比島防衛戦は、こうした錯誤のもとで戦われたがゆえに悲劇的であった。レイテ沖海戦は台湾沖航空戦での米軍の残存部隊がレイテ湾に逃げ込んできたとの想定のもとで行われ、無残な形で敗れている。

 当初、大本営はルソン島での決戦を考えていて、レイテ島には1個師(約2万人)しか置いていなかった。レイテ島に上陸した米軍地上部隊は敗残部隊だからと、レイテに急きょ増派してその部隊を壊滅することを考えたのである。ところが海からの増派部隊は米軍機に叩かれ、やっと7万5千人の将兵が辿りついた。しかし武器弾薬もなく、食糧も不足してすぐに苦戦する状態になっている。

 レイテ島の戦いは大岡昇平の『レイテ戦記』に詳しい。兵士たちは戦闘よりも次々と餓死・病死している。輸送船が沈められたこともあり、レイテ戦での日本軍の戦死者は10万人近くに及んでいる。

 米軍の精鋭部隊は、次いでミンドロ島に上陸、そしてルソン島を目ざしている。第14軍の司令官に就任した山下奉文と参謀長の武藤章は、ルソン決戦を目ざし、自活自戦・永久抗戦の態勢を確立して決戦という案を考えた。昭和20年1月9日、米軍は20万人ほどの大軍でルソン島に上陸している。このとき日本軍には「尚武」「振武」「建武」の三つの集団があり、その兵力は29万人に達していた。兵員は米軍を上回っていたにせよ、その装備は比較にならないほど劣悪な状態であった。武藤の回想録『比島から巣鴨へ』は、この上陸時にも「我が勇敢なる漁撈隊(爆弾を載せた小舟艇で肉薄攻撃する特別部隊)は九日夜襲撃したらしい。敵船団は一斉に点燈して右往左往しているとの報告もあった」と書かれている。

 このころ米軍機は、ナパーム弾を用いるようになり、日本軍兵士は陣地にあって逃げまどうのみで、戦闘の体をなさない状態になっていった。

 戦闘はしだいにマニラに及んだ。山下は市街戦を避けるために、マニラをオープン・シティ(非武装都市)にしようと司令部をマニラからルソン島北部のバギオに移している。

 だが一部のマニラ防衛部隊は、この命令とは別に米軍との間で市街戦を行っている。市内のビルを奪いあうような戦いで、マニラはまたたくまに瓦礫の山と化している。20日間に及ぶ市街戦で、10万人以上の市民が犠牲になったとされている。2月下旬には、マニラにとどまっていた2万人近くの日本兵が全滅した。

 日本軍兵士は、自活自戦・永久抗戦の命令のもとに、ジャングルに逃げ込んで戦闘の意思を示した。最終的にはルソン島のもっとも高い山であるプログ山一帯の山岳地帯に入っている。食糧自活のために兵士たちは農作業を行っている。その食糧をめぐって日本軍兵士たちの争いも起こった。

 昭和20年8月15日、第14軍司令部のもとにも日本敗戦の報が届いている。山から降りた山下は9月3日に降伏文書に署名した。

 比島戦は戦死者が多かっただけでなく、日本軍の戦争の戦い方がもっとも象徴的にあらわれていた。50万人を超す兵士一人一人の死は、戦闘死・特攻死・病死・餓死・溺死などさまざまであり、その死の意味は重い。

 天皇と皇后が、今なおそのことを考え続けて追悼と慰霊を続けていることに、私たちは改めて思いを深める必要がある。(敬称略)

※週刊朝日  2016年2月5日号