創作 真田と純子 1)

2024年10月10日 23時02分57秒 | 創作欄

真田は君嶋純子とお茶水駅に近い音楽喫茶で待ち合わせをしていた。
店内にセレナーデが流れていた。
「誰が歌っているのか?」と耳を傾けた。 
店の人に聞くと、歌手はベニャミーノ・ジーリであった。
真田はソーダー水を飲んでいた。 
サクランボが添えてあり、コップに手を差し入れて、それを摘んで食べた。
真田の妻は山形県南陽市の出身であり、故郷の母親からサクランボが送られてきた。
真田は妻の冬子の故郷へ何時か行こうと思っていた時があったが、戦争が始まり行き損ねた。 
「大切な話があります」と電話で純子が言っていた。
「大切な話? それは何?」真田は聞き返したが、純子は「会ってからお話します」と言った切りである。 
純子は水道橋の駅から歩いて5分ほどの不動産会社に勤めていた。
闇ブローカーの真田は不動産関係も手掛けていた。 
その関係で純子との交情に発展した。 
日曜日に純子を連れて後楽園競輪へ行く。 
純子にとっては初めての競輪だった。 
「こんなにも、競輪をする人、多いんですね」 競輪場へ足を踏み入れて純子はその喧騒と人の多さに圧倒された。
レースが始まると金網にしがみつくようにしてファンたちは絶叫した。
そして口汚い言葉が場内に飛び交った。 
真田は冷静そのもので、鋭い視線を送っていた。 
その目は獲物を獲る野獣のようであった。 
純子は競輪場そのものに異様なものを感じた。 
「この人たちは尋常ではない」純子はその場を立ち去りたい気持ちになった。
「競輪、どうだい。おもしろいだろ? 競輪は人間的なんだ」
「人間的?」純子にはその意味が分からない。 
真田も詳しくは説明しなかった。
純子の心は揺れ動いていた。 
親子ほど年が違う真田とこれ以上、深い交情を重ねていくことに疲れてきたのだ。 
純子は中野駅から歩いて10分ほどのアパートで暮らしていた。 
アパートの隣に住む沢口園子に度々銭湯であっていた。 
銭湯の帰りには喫茶店で一緒にコーヒーを飲んだり、甘味を専門とする店に立ち寄ったりして、かき氷やあんみつを食べていた。 


それもささやかな楽しみとなっていた。
「私、日曜日は新大久保の教会へ行っているのよ。純子さんもどう?」と誘われた。
「教会?」 
「そうよキリスト教の教会」 
「一度だけならならいいかな」と純子は心で思い園子に着いて行く。
「神は人間を創造された」 
「神は過去にも人間を復活された」 
「神は将来、人間を復活させたいと思っておられる」 
「亡くなった大切な人たちにまた会えます」 
教会で初めて聞く言葉は純子は違和感を覚えたが、「亡くなった大切な人」にの言葉を聞き純子の心が動いた。 
1941年生まれの純子は4歳の時に、母菊子の実家の甲府へ疎開していた。 
母親は両国の自宅へ整理のために戻り、1945年3月10日の東京大空襲に遭遇し、命を落としたのは実に皮肉であった。 
地方の甲府も空襲に遭っていたので、東京へ戻ることを菊子の母親鈴が反対した。
「家の整理なんて、いつでも出来じゃないか。東京へ戻るは反対だよ。よしな」 だが、それを振り切るようにして菊子は上京したのだ。
 
後楽園競輪が廃止され、それを機に真田は競輪から遠ざかったのだが、それまではずっと競輪三昧であった。
10分ほどして、純子が喫茶店にやってきた。 
黒いロングスカートに赤いトックリのセーター姿であり、小さい革のバックを左手に下げていた。
真田が首筋に付けたキスマークを隠すための純子はトックリのセーターにした。 
三面鏡を覗いて純子はキスマークに気づいのだが、普段のように胸もとを開けた衣服では恥をかくところであった。 

○ 東京大空襲 
東京大空襲は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍により行われた、東京に対する焼夷弾を用いた大規模爆撃の総称。
 
東京は、1944年(昭和19年)11月14日以降に106回の空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。
その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上と著しく多い1945年3月10日の空襲を指すことが多い[1]。都市部が標的となったため、民間人に大きな被害を与えた。
 
○ 後楽園競輪
1967年に東京都知事に当選した美濃部亮吉が、「東京都営のギャンブルは全面的に廃止する」方針を固めることを明らかにし、それに則って1972年10月26日に開催されたレースを最後に競輪の開催が廃止された(法的には休止扱いとなっている。
○ サクランボ
学名はPrunus aviumで、バラ科サクラ属。
西アジアの原産で、明治初期にヨーロッパから移入された。桜桃とも呼ばれる。  
○ 山形県南陽市
 
山形県南陽市の西部、漆山地区を流れる織機(おりはた)川のそばに、古くから民話「鶴の恩返し」を開山縁起として伝承している鶴布山珍蔵寺がある。
この地区には、鶴巻田や羽付といった鶴の恩返しを思い起こさせる地名が残り、明治時代には製糸の町として栄えた。
地域に口伝えで残されてきた鶴の恩返しをはじめとする多くの民話を、これからも伝えていくために夕鶴の里資料館、語り部の館がつくられた。
1967年(昭和42年) 4月1日 - 宮内町、赤湯町、和郷村が合併し、南陽市誕生。
 
○ ベニャミーノ・ジーリ
Beniamino Gigli : ベニャミーノ・ジーリ(1890年3月20日 - 1957年11月30日)は、イタリアのテノール歌手。20世紀前半の最も偉大なオペラ歌手の一人である。
http://www.youtube.com/watch?v=qmGSV1ttzqM&list=RD02i_mNHsiaKNg 
http://www.youtube.com/watch?v=ru8Lf_SAPIo&list=RD02YkvjWlqrcU8
 http://www.youtube.com/watch?v=qmGSV1ttzqM&list=RD02i_mNHsiaKNg


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