創作 真田と純子 1)

2024年10月10日 23時02分57秒 | 創作欄

真田は君嶋純子とお茶水駅に近い音楽喫茶で待ち合わせをしていた。
店内にセレナーデが流れていた。
「誰が歌っているのか?」と耳を傾けた。 
店の人に聞くと、歌手はベニャミーノ・ジーリであった。
真田はソーダー水を飲んでいた。 
サクランボが添えてあり、コップに手を差し入れて、それを摘んで食べた。
真田の妻は山形県南陽市の出身であり、故郷の母親からサクランボが送られてきた。
真田は妻の冬子の故郷へ何時か行こうと思っていた時があったが、戦争が始まり行き損ねた。 
「大切な話があります」と電話で純子が言っていた。
「大切な話? それは何?」真田は聞き返したが、純子は「会ってからお話します」と言った切りである。 
純子は水道橋の駅から歩いて5分ほどの不動産会社に勤めていた。
闇ブローカーの真田は不動産関係も手掛けていた。 
その関係で純子との交情に発展した。 
日曜日に純子を連れて後楽園競輪へ行く。 
純子にとっては初めての競輪だった。 
「こんなにも、競輪をする人、多いんですね」 競輪場へ足を踏み入れて純子はその喧騒と人の多さに圧倒された。
レースが始まると金網にしがみつくようにしてファンたちは絶叫した。
そして口汚い言葉が場内に飛び交った。 
真田は冷静そのもので、鋭い視線を送っていた。 
その目は獲物を獲る野獣のようであった。 
純子は競輪場そのものに異様なものを感じた。 
「この人たちは尋常ではない」純子はその場を立ち去りたい気持ちになった。
「競輪、どうだい。おもしろいだろ? 競輪は人間的なんだ」
「人間的?」純子にはその意味が分からない。 
真田も詳しくは説明しなかった。
純子の心は揺れ動いていた。 
親子ほど年が違う真田とこれ以上、深い交情を重ねていくことに疲れてきたのだ。 
純子は中野駅から歩いて10分ほどのアパートで暮らしていた。 
アパートの隣に住む沢口園子に度々銭湯であっていた。 
銭湯の帰りには喫茶店で一緒にコーヒーを飲んだり、甘味を専門とする店に立ち寄ったりして、かき氷やあんみつを食べていた。 


それもささやかな楽しみとなっていた。
「私、日曜日は新大久保の教会へ行っているのよ。純子さんもどう?」と誘われた。
「教会?」 
「そうよキリスト教の教会」 
「一度だけならならいいかな」と純子は心で思い園子に着いて行く。
「神は人間を創造された」 
「神は過去にも人間を復活された」 
「神は将来、人間を復活させたいと思っておられる」 
「亡くなった大切な人たちにまた会えます」 
教会で初めて聞く言葉は純子は違和感を覚えたが、「亡くなった大切な人」にの言葉を聞き純子の心が動いた。 
1941年生まれの純子は4歳の時に、母菊子の実家の甲府へ疎開していた。 
母親は両国の自宅へ整理のために戻り、1945年3月10日の東京大空襲に遭遇し、命を落としたのは実に皮肉であった。 
地方の甲府も空襲に遭っていたので、東京へ戻ることを菊子の母親鈴が反対した。
「家の整理なんて、いつでも出来じゃないか。東京へ戻るは反対だよ。よしな」 だが、それを振り切るようにして菊子は上京したのだ。
 
後楽園競輪が廃止され、それを機に真田は競輪から遠ざかったのだが、それまではずっと競輪三昧であった。
10分ほどして、純子が喫茶店にやってきた。 
黒いロングスカートに赤いトックリのセーター姿であり、小さい革のバックを左手に下げていた。
真田が首筋に付けたキスマークを隠すための純子はトックリのセーターにした。 
三面鏡を覗いて純子はキスマークに気づいのだが、普段のように胸もとを開けた衣服では恥をかくところであった。 

○ 東京大空襲 
東京大空襲は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍により行われた、東京に対する焼夷弾を用いた大規模爆撃の総称。
 
東京は、1944年(昭和19年)11月14日以降に106回の空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。
その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上と著しく多い1945年3月10日の空襲を指すことが多い[1]。都市部が標的となったため、民間人に大きな被害を与えた。
 
○ 後楽園競輪
1967年に東京都知事に当選した美濃部亮吉が、「東京都営のギャンブルは全面的に廃止する」方針を固めることを明らかにし、それに則って1972年10月26日に開催されたレースを最後に競輪の開催が廃止された(法的には休止扱いとなっている。
○ サクランボ
学名はPrunus aviumで、バラ科サクラ属。
西アジアの原産で、明治初期にヨーロッパから移入された。桜桃とも呼ばれる。  
○ 山形県南陽市
 
山形県南陽市の西部、漆山地区を流れる織機(おりはた)川のそばに、古くから民話「鶴の恩返し」を開山縁起として伝承している鶴布山珍蔵寺がある。
この地区には、鶴巻田や羽付といった鶴の恩返しを思い起こさせる地名が残り、明治時代には製糸の町として栄えた。
地域に口伝えで残されてきた鶴の恩返しをはじめとする多くの民話を、これからも伝えていくために夕鶴の里資料館、語り部の館がつくられた。
1967年(昭和42年) 4月1日 - 宮内町、赤湯町、和郷村が合併し、南陽市誕生。
 
○ ベニャミーノ・ジーリ
Beniamino Gigli : ベニャミーノ・ジーリ(1890年3月20日 - 1957年11月30日)は、イタリアのテノール歌手。20世紀前半の最も偉大なオペラ歌手の一人である。
http://www.youtube.com/watch?v=qmGSV1ttzqM&list=RD02i_mNHsiaKNg 
http://www.youtube.com/watch?v=ru8Lf_SAPIo&list=RD02YkvjWlqrcU8
 http://www.youtube.com/watch?v=qmGSV1ttzqM&list=RD02i_mNHsiaKNg


創作 冤罪の構図 

2024年10月10日 22時38分25秒 | 創作欄

何故、冤罪が起こるのか?

夏目徹は考え続けた。

眠れない夜であった。

書棚から判例集を出して読んでいた。

時計を見ると、午前2時を回っていた。

終電車は既に終わっていた。

結局、待ち人は外泊をしたのだった。

徹は居たたまれない想いに駆られ、絨毯の上に仰向けになる。

そして、昼間、澤田奈那子と新宿駅で別れたことを思い浮かべる。

奈那子は、新宿駅の西口に何時ものように30分余送れてやってきた。

遅れて来たのに、小走りになるでもなくユッタリした足取りで改札口を通過する。

イライラして、不機嫌な顔をしている徹の姿を雑踏の中で目ざとく見つけると、こぼれるような笑顔になった。

徹はその笑顔に魅せられて、何時も怒る気になれない。

徹の前に立つと奈那子は、西洋の劇の中に出てくる少女が演技をするように足を一歩前に出して、腰を屈めて挨拶をした。

奈那子が両手でミススカートを持ち上げたので、太股が露となった。

徹は周囲の視線を感じた。

奈那子がそのような仕草をする時は、何かがある兆候でもあった。

「徹ちゃん、悪いわね。私、用事が出来ました。なるべく早く帰るので、私のマンションで待っていてね」

黒皮の真四角な小さなハンドバックからマンションの鍵を出した。

キーホルダーは、徹が東京タワーで買ったものだ。

徹は言いたいことが喉に詰まった。

奈那子は右手をひらひらさせ身を翻すようにして、足早に去って行く。

奈那子から何度か約束を裏切られてきた。

「もう、いい、お別れだ」徹は投げやりな気分となった。

だが、1日、1回は奈那子から電話がかかってきた。

「今、何をしているの?」

「これから、学校へいくところ」

「今日、会えるでしょ?」

「ハイ」

居間で母親が聞き耳を立てていた。

電話は玄関の靴箱の上に乗っていた。

脇には花瓶があって、母親は活けた百合の花が香っていた。

「徹ちゃん、誰かが側に居るのね?」

「まあ・・・」

「渋谷に来て、午後6時に、来られるわね。ハチ公の前にいるわ」電話をそれで切れた。

結局、その日も30分余、遅れて奈那子はハチ公の銅像の前に現れた。

奈那子は渋谷の道玄坂にある法律事務所でバイトをしていた。

司法試験に2度落ちて、3度目挑戦するところであった。

徹の父は大学病院の心臓外科医であった。

父の医療訴訟を請け負ったのが、渋谷・道玄坂の法律事務所であった。

父の東京地裁での裁判を傍聴した時に、徹は奈那子と出会った。

徹は裁判所へ足を踏み入れたのは初めてでる。

建物に威圧され、胸をドギマギさせ途方に暮れた少年のように戸惑っていた。

徹の脇を通り過ぎた若い女性が振り向いた。

その場の雰囲気を和ませるような女性の爽やかな笑顔であった。

「学生さんね? 傍聴なのね?」

「ハイ」徹は助け船を得たような気持ちとなった。

「今日は、医療訴訟の裁判があるの、傍聴するなら一緒に行きましょ」

「医療裁判?!」徹は腰が引けた。

身内の裁判を赤の他人に傍聴されたくない、と思ったのだ。


創作欄 2人とも、30代なのにがんで逝く

2024年10月10日 22時34分11秒 | 創作欄

「日本医学協会は存在することに意義がある」

日本医学協会の立場について、吉田富三会長が述べた後、同協会の副会長で武蔵野日赤病院院長の神崎三益さんは、「私が吉田先生の過去の足跡に大きな傷を付けてしまったのです」と謝罪した。

話は徹が医療界に入る以前のことであった。

女医の京子は、徹に身を寄せながら、「吉田先生に何があったの?」と声を落として聞く。

「よく解りません」と徹は、京子の顔を見ないで檀上に目を注いでいた。

徹は後で、日本私立病院協会の近藤六郎会長に経緯を聞いてみた。

医療界のドンであった日本医師会の武見太郎会長に対して、当時の日医常任理事で中央社会保険医療協議会の委員であった神崎さんは、盾を突いたのだ。

昭和39年(1964) 日本医師会会長選挙に 「医師の本来あるべき姿、理想を示す」 として 出馬した。

昭和369月に日本医師会 の一斉スト宣言があった。

そして日赤を中心とした病院ストなどがあり、医療界そのものが大きく 揺れ動いていた。

吉田富三さんを担ぎ出したのは神崎さんであった。

日本医師会会長選挙は、下馬評どおり武見太郎さんが再選されるだろうと誰しも思っていた。

だが、予想をはるかに覆して吉田さんは大差で敗れた。

選挙の結果は武見太郎157票,吉田富21 票という圧倒的大差で武見太郎が日本医師会長に再選されたのだ。

「徹ちゃん、吉田富三さんは、私が思っていた人と違っていたの」

京子はお茶の水の駅に近い音楽喫茶の席に座った時に、唐突な感じで言った。

それは、どのようなことであったのか?

徹は確かめることをしなかった。

徹が崇拝している吉田富三さんが、他人の目にどのように映ろうが関係のないことと思われたからだ。

「これから、どうするの?」

京子は煙草のピースをバックから取り出しながら徹を見詰めた。

徹はその時、モーツアルトのヴァイオリン協奏曲に耳を傾けていた。

聞いていると、ヴァイオリンの音色は眠り誘われような心地よい響きであった。

実は金曜日に中央社会保険医療協議会の徹夜審議が行われた。

「日曜日に夜勤なんて、因果な仕事ね」

京子は眉をひそめた。

結局、その日は銀座で食事をして、虎ノ門病院へ向かう京子と銀座線の中で別れた。

当時、徹は酒を控えていた。

「酒を飲んでいる徹ちゃんには、会いたくないの」

「なぜ?」

「何だか図太い感じがして、普段の徹ちゃんの感じでないから」

徹は言われると苦笑するほかなかった。

結局、新宿で降りて歌声喫茶 「山小屋」へ顔を出した。

大学時代の後輩の大崎みどりが働いていた。

徹はみどりと半年であったが、吉祥寺の神田川に面していたアパートで同棲していた。

後年、「神田川」の曲が流れると徹はみどりのことを思い出した。

そして、モーツアルトのヴァイオリン協奏曲を聞くと女医の京子を思い出した。

2人とも、30代なのにがんで逝く。

京子は肺がん1人娘を遺して、みどりは乳がん男の子を遺して。

 


10月13日は「国際防災デー」

2024年10月10日 13時35分30秒 | 社会・文化・政治・経済

▼試練を乗り越え、暗雲を突き抜け、誰もが予想だにしない、わが人生の<まさか!>の逆転劇を自身の手で痛快に実現するのである。

▼眼前の一人は一人ではない。

その人に背景には家族があり、友人がいる。

後継の若人もいる。

▼10月13日は「国際防災デー」

地震や豪雨などの甚大な自然災害が絶えない。

近年、防災の基本として発生時の被害の最小化(減災)と迅速な回復が掲げられている。

その意味で、劣悪な非難生活などに起因する「災害関連死」うぃどう防ぐかは、まさに喫緊の課題と言える。


ホイットマン 民衆を苦しめる者とは断固戦う

2024年10月10日 13時19分57秒 | その気になる言葉

ホイットマンは、蝶をたいへん愛したことで知られている。

それは、弱い者を守ろうとの彼の「優しい心」「繊細な心」「強い心」の表れであったろう。像は、その心を象徴している。
 
今年はホイットマン没後百周年にあたっている。
 三月には、彼の墓地があるアメリカ(ニュージャージー州)のカムデン市において、ホイットマン協会主催による記念式典が盛大に行われた。
 同協会は、その記念式典の意義をこめ、カムデン市にホイットマン像を設置した。

民主主義の詩人、国民の詩人、人間と宇宙を謳った詩人、ホイットマン。
 わが人生を謳い、人間と生活をほめ讃えて生きる人は幸福である。愚痴は自分も他人をも不幸にする。頭をあげて、人生を「謳い」、希望を「歌う」心豊かな青春であっていただきたい。
 私が、彼の詩集『草の葉』と出会ったのは、約四十年前の二十三歳のころであった。同じくらいの年代の方もいらっしゃると思う。「自由」「平等」「友情」の讃歌、そして「民主主義」「人間主義」の叫びをこめたこの詩集を、私はこよなく愛した。それは、私にとって、まさに青春時代の「宝の一書」となった。多くの詩を暗唱し、折あるごとに人々に聞かせてあげたものである。
 青春に一書を持てる人は幸せである。悪い書物は「悪友」と同じように、自分を堕落させていく。良き”一書”は、すばらしき「親友」と同じく、生涯にわたって自分を高めてくれる。
 なお、創立二十五周年の記念事業の一環として「中央図書館」の増築、蔵書のいっそうの充実を計画していることをお伝えしておきたい。これからも創価の学舎を、さらにさらに充実させていきたい。私は、この生涯を、「教育」にかける決心でいる。

 ホイットマンの青春。それは決して順調な、きらびやかなものではなかった。貧しい農家兼大工の家に生まれた彼は、家の事情から十歳のころに学校教育をあきらめざるを得なくなった。小学校中退、これが彼の「学歴」であった。
 どんなに勉強したくても、お金がない。家が貧しい。働かざるをえない。こうした逆境のなかで懸命に生きぬいたのである。
 この意味では、皆さんはまことに恵まれている。どうか、その分、真剣に勉学に励んでいただきたい。書物も、読める時に存分に読んでほしい。青春時代に数千冊を読破するくらいの気概でよいのではないだろうか。
 私は、小学四年生のころから本を集めはじめた。戦争中は、防空壕に移して大切に守った。その後も夜店や神田の古本屋街などで本を求め、やがて蔵書はゆうに数万冊を超えていた。これらの本の一部は創価大学や聖教新聞社などに寄贈している。それほど、私は読書を愛し、書物と「格闘」した。

 その後、彼は、弁護士や医者の使い走りなど、さまざまな仕事を転々とした。やがて、印刷所の植字工見習となり、活字の知識を身につける。これをきっかけに彼は文学の扉をたたいた。
 作家・吉川英治氏も、印刷所で働いた。私も一時、印刷会社に勤めていた。
 ”決意の人”は、どこからでも未来の扉を開いていくことができる。
 ホイットマンは、スコットシェークスピアダンテ等を読みこんでいった。また古代インドの詩なども学んだという説がある。
 偉大な仕事をなしゆく人は、多くの場合、コンプレックスをもバネにしている。すべてに恵まれて、順調にきた人は、むしろ、ある程度のところで満足してしまう場合が多い。

 彼は十四歳で家を出て自立。十七歳から二年間、小学校の教師を務めたのちに、新聞等の編集にたずさわった。当時のアメリカは、独立して半生記を経たばかりの「青年の国」であった。若々しく、いたるところに進歩と希望があふれていた。
 産業革命も本格的に開始され、日々、新しいアメリカが生まれた。若きホイットマンも、時代の空気を胸いっぱいに呼吸していた。つねに明日を見つめる希望の眼差しと、いかなる逆境にもへこたれない「楽観の心」をもっていた。
 感傷におちいることなく、みずからの課題に体ごとぶつかっていった。
 体ごとぶつかる。困難に直面すればするほど、前へ前へと明るく生きぬいていける人は強い。「楽観の心」は「生命の宝」である。そして、この財産は自分で築く以外にない。
 また彼は、みずからも庶民の一人として、人間のなかに入っていくこと、民衆と語りあうことを何よりも愛した。
 「人間以上」の人間はいない。皆、「人間」である。ゆえに「人間として」光る以外にない。
 生まれたときも、死ぬときも、皆、裸である。地位や名声、財産などでわが身を飾っても、それだけでは一時の幻影にすぎない。一個の人間として偉大かどうか。ここに焦点を定めて生きる人生が「一流」なのである。

 彼は語っている。「私は教授や資本家たちの間には降りて行かない。私はズボンの端を長靴の周りに折りこみ、袖口を捲って、馭者や船頭や魚を取り畑で働く者たちと一緒に行く。私は知っている、彼らは崇高なのだ」(夢想の天才の光と影―ホイットマン『草の葉』の世界 (1)と。
 また彼は、当時、根強く存在していた奴隷制にも、決然と反対の声をあげた。そのため意見の対立から新聞社を辞めることになっても、みずからの信念を曲げることはなかった。
 「弱きもの」を心から愛し、「民衆を苦しめるもの」とは恐れなく断固として戦う。それが青年ホイットマンであった。私も、このホイットマンと同じ心で、青年時代から「民衆のために」戦いぬいてきた。将来、社会のあらゆる分野で活躍されるであろう諸君もまた、どこまでも「民衆を尊敬する指導者」であっていただきたい。

 1855年、彼の魂の集大成である詩集『草の葉』が誕生する。三十六歳のことであった。初版本は、十二篇の詩が収められた95ページの薄い本である。わずか795冊が製本されたという。貴重な”人類の宝”である。しかし、その詩集の誕生もまた、苦難の連続であった。
 まず、引き受けてくれる出版社がなかった。そのため、みずから一部を植字し自費出版せざるを得なかった。そのように苦労して出版したにもかかわらず、評判はきわめて悪かった。
 伝統的な韻律や音調をまったく無視し、俗語をふんだんに取り入れた彼の詩に対し、多くの人が嘲笑し、非難した。
 イギリスの著名な詩人テニソンは、彼を「モンスター(怪物)」と呼んだ(ホイットマン詩集 (世界の詩 27))。また、ある新聞は、「ホイットマンが芸術を知らないのは、豚が数学を知らないのと同じだ」とあざ笑った(ワルト・ホイツトマン訪問記)。翌年、第二販を出版したが、それまでに、わずか十一冊しか売れなかったという。
 彼は深く自尊心を傷つけられた。しかし決して腐らなかった。何があっても「腐らない」ことが大事である。「腐って」しまえば、万事、何の役にも立たない。
 彼は語っている。「私の決心は少しも揺るがない。私は自分の詩の仕事を自分自身の方法で、最後まで力の限り続けていこう」と。(草の葉―ホヰットマン詩集 (1955年) (岩波文庫)
 また彼は、自身の役割が「出撃である」とし、それが勝利するかどうかは、百年の後に決まる、と書き残している(ホイットマンの心象研究 (1957年))。
 戸田先生も、「われわれの行動が、全人類から讃嘆されるのは二百年後であろう」とつねに言われていた。

 ホイットマンが『草の葉』で、”謳いあげたもの”は何であったか。それは、精神の「自由なる飛翔」であり、いわば、「魂の独立宣言」であった。
 今回の創大祭は「大いなる自由へ 魂の独立宣言」とのテーマを掲げているが、このホイットマンの精神闘争にふさわしい、すばらしいテーマと思う。
 彼はうたう。
  さらに勇気を、わたしの兄弟、わたしの姉妹よ、
  歩みをとめるな 何があろうと『自由』は我らが仕えるべき不変の主君だ、
  一度や二度の失敗で、あるいは何度失敗を重ねても、
  あるいは民衆の無関心や忘恩ゆえに、あるおはどんな不実にめぐり逢おうと、
  権力、兵隊、大砲、刑法、たとい何が牙をむき出して見せようと、
  『自由』は抑えこめるものではない(草の葉〈上〉―ホイットマン詩集 (1969年) (岩波文庫)
 ホイットマンは「アメリカ」をこよなく愛した。自分のいる場所を愛せる人は幸せである。わが家、わが母校を愛し、わが友、わが地域を愛することである。他人をうらやんでばかりいるような”自分のない”人間であってはならない。
 やがてアメリカは南北戦争の狂気におちいっていった。その悲惨を目のあたりにして、彼は、やむにやまれず警世のペンを振るう。
 その叫びは『民主主義の展望』と題する著作に集約されている。その中で彼は、知識人の「軽蔑をこめた傲慢さ」、そして政治家の「腐敗、賄賂、虚偽」といった堕落ぶりを、徹底的に攻撃した。
 謙虚に後輩を育ててこそ、真の知識人である。民衆に尽くしてこそ、真の政治家である。学生を見くだしながら、自分の”手段”にするような学者や、腐敗した政治家とは、断じて戦わねばならない。ホイットマンの叫びは、そうした「民衆の声」そのものであった。

 さらに、彼の眼差しは、形骸化した教会の欺瞞をも鋭く射ぬいていった。
 彼は訴える。「多くの教会や宗派など、また私の知っている気味の悪い亡霊たちが、宗教の名を侵害している」(民主主義の展望 (講談社学術文庫))と。
 彼にとって宗教とは、「魂を隷属」させるためのものではなかった。「魂の自立」を勝ちとるためのものだったのである。
 その意味をこめて彼は、「民主主義の真髄には、結局のところ宗教的要素がある」と語っている。だからこそ、本来の使命を忘れ、みずからの保身に汲々とする聖職者たちを最大に侮蔑した。
 彼は未来を、こう展望した。「自覚した魂が、さまざまな教会から完全に離脱した時こそ、真に『宗教』と立ち向かうことができる」と。
 今、まさに、この言葉が大きな光を放っている。
 それでは、新しき理想の世界をつくるにはどうすればよいのか。
 彼は、それは民衆が賢くなることである、と言う。
 「民衆の中に完全な人間をたくさん作り出すことであり、さらに健全で、全面的に普及するような信仰心が現れること」である、と。
 賢明な民衆をつくる。そのためには「教育」が不可欠である。私が教育を重視している理由もここにある。

 さて、よく指摘されるように、ホイットマンは東洋への深い憧れをいだいていた。『草の葉』に収められた詩「インドへの航海」には、その思いが高らかに謳いあげられている。
 先ほどもご紹介があったように、きょうは、ホイットマンが憧れてやまなかった「精神の大国」インドの地より、デリー大学セント・スティーブンズ・カレッジのウィルソン学長ご夫妻が、お見えになっている。学長も、ホイットマンを愛読されているとうかがった。
 同カレッジはデリー大学のなかでももっとも優秀な学生が集まるとされ、本年で創立百十一周年を迎える。
 諸君も、将来、ぜひインドや中国を訪れていただきたい。ウィルソン学長は、私への手紙に、こう書かれていた。
 「インド独立の父、マハトマ・ガンジーは平和の使途でありました。(とくに)私たちセント・スティーブンズ・カレッジでは、心の中でガンジーを特別な人としております。ガンジーが私たちのカレッジと、とても親しい関係だったからです。ガンジーとセント・スティーブンズ・カレッジの結びつきについて、一つの歴史的事実があります。
 ガンジーがまだ南アフリカにいたころ、当時のセント・スティーブンズ・カレッジの学長が副学長を南アフリカに派遣し、ガンジーにインドへ戻って自由のための非暴力運動を開始するよう説得したのです。マハトマ・ガンジーは、学長の住まいを、しばしば訪れ、彼の平和と非暴力の哲学は、そこでの意見交換を通じて系統立てられたのです」

 その意味から、最後に、インド独立の父ガンジーの言葉を紹介したい。
 「あなたがたは、他人にたよることをやめた瞬間から、自由です。この自由(それこそが唯一の真の自由です)だけは、なんぴともあなたがたの手から奪うことはできません」(ガンディーの生涯 (上) (レグルス文庫 (153))
 頼るな、自立した精神にのみ真の自由は宿る、と。
 また「どんなに小さな集団でも、皆が断固たる決意をもち、何があっても消えない信念の炎を燃やして、自分たちの使命を担うとき、歴史の流れさえも変えることができる」と。
 私も何があろうと”断固たる決意”で生きぬいてきた。何も恐れなかった。ゆえに歴史を開いた。

私は自己を披露し、自己を歌う
而して、私の衣はまたあなたの衣であるだろう、
何故といって、私に属する凡ての原子は、等しくあなたにも属するのだから。

さまよいがてらに私は私の魂を誘ひ出す、
夏草の穂を眺めながら、欲するがままに私はよりかかり、又はさまよい歩く。
                   有島武郎訳(残り1340行は略)

政治は嫌い?!

2024年10月10日 12時48分49秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

「政治はきらい」と言って、選挙にも見向きしない知人、友人もいる。

しかし、「政治はわたしたちの生活に密接に関係している」ということだ。

例えば、イギリスでは政治学者のバーナード・クリックによって「市民教育」(政治教育)が提唱され、中等教育の必須科目になっている。

ヨーロッパでは、選挙権を与える年齢を16歳に引き下げようとする運動が広がっている。

一方では日本には政治教育や運動はほぼ見当たらない。

現実政治の知識を学ぶ機会は、ほとんどない。

また、家庭でも、食卓を囲んで政治を議論するような場面は、あまりない。

社会全体として、多く人が現実の政治について知識が乏しい状況だ。

現実の政治や政策について理解するための授業が作られていけば、それが日本の民主主義の底上げになるはずだ。

政治教育を行うための共通認識と環境づくりが必要だ。


国の政策に民意が反映されていない

2024年10月10日 12時17分04秒 | 社会・文化・政治・経済

日本における政治不信は、ある種の社会的な「諦念」「諦め」になっています。

今では、世論調査で支持政党を尋ねても、最も多いのは「特に支持している政党はない」という回答で<本当の第一党は無党派層>と言われることがあります。

しかし、こうした状況は、今に初まったことではありません。

内閣府が継続的に行っている「社会意識に関する世論調査」では、国の政策に民意が反映されているかを問う項目があります。

昭和の時代から最近まで一貫して、「反映されていない」という回答が多数を占めています。

一般の多くの国民は、政治について施策の詳細なで知ることは少なく、メディアなどの情報を通して、政策の良し悪しを判断していると考えられます。

近年は、政治的な決定や選択において、「イメージ(印象)」が強く影響を及ぼすようにんっており、政治家もイメージ重視です。

「イメージ」が偏重され、政治が動きかねない状況です。

効果や合理性よりも、可視化された「わかりやすい民意」に安直に身を委ねる政治の在り方です。

誤った認識に基づく民意に対しては、政治は安直に身を委ねることなく、責任をもって対話を重ねることが求められます。

合意に至らない場合は説明を試みたり、決断したりすることも必要です。

真正面から「政治教育をどうするか」ということも、もっと議論すべきだと思います。

日本大学 西田 亮介 教授


10月17日は「スーパームーン」

2024年10月10日 11時44分16秒 | 【お知らせ】

日に日に夜が長くなってゆく。

星空と月を仰ぎ観た冬の午前5時からの早朝散歩。

だが、今年3月7日、散歩仲間で、絵手紙と俳句の達人であった鈴木さんが大動脈解離で亡くなってしまった。

前日のゴルフが禍したのだろうか?

大動脈解離とは、心臓から全身に血液を送り出す大動脈の血管内壁が裂けて、血液がその壁の中に入ってしまう状態を指します。

満月が1年のうちで最も地球に近づき、いつもより明るく輝く―10月17日は「スーパームーン」である。
鈴木さんとも過去に見上げた夜空の天体ショーであった。

忘れられない網膜の情景

2024年10月10日 11時16分48秒 | 創作欄

人間の弱さ、ためらい、勇気のなさ。

例えば、幼い子が迷子になっている。

当然、その子に声をかけるべきだ。

だが、小学4年生の晃には、声をかける勇気がなかった。

その幼い子が誰かに連れ去られる。

「おとうさん」が自分の子どもを迎えに来たのだと晃はただ見送る。

誘拐された幼子のことが、テレビで放映されていた。

晃は自分が罪を犯したような言い知れない感情に支配されていく。

 


ブログの無断広告なぜ放置されているのか?!

2024年10月10日 11時13分43秒 |  原達衛門(はらたちえもん)

ブログの無断広告なぜ放置されているのか?!

そこで、放置している組織が、裏で利益で得ているのであろうか、と疑心暗鬼となるのだ。

無断広告は、あくまでも姑息であり、卑劣であるので、弁護士諸氏の見解を是非伺いものだ。

見解や、ご指導を是非、よろしく、お願いします。


政治家の役割

2024年10月10日 11時04分04秒 | 沼田利根の言いたい放題

そもそも、何のための政治であるのか?

政治家の役割は、国民の命と生活を守ることに他ならない。

そのためには、基本的には正義の人であることだ。

自民党議員による裏が金問題などは、著しく正義に反するこのなのだ。

そんな自覚もない議員たちには、国会の場から退場してもらいたい。


今朝の取手市内は早朝気温は14度

2024年10月10日 09時26分48秒 | 日記・断片

午前5時過ぎに散歩に家を出たが、真っ暗で寒い。

昨日同様に北風だった。

出会った西田さんに聞く、気温は14度、昨日は15でった。

家側の道路には、柿の木の葉が夥しく散っていた。

我が家のモチの木の葉も少し散っていた。

実がなり鳥が飛来している。

一時、雨が降ったが直に止む。

これで3日連続の雨になる。

今日は午前10時からポスター貼りである。