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日大闘争と「悪質タックル」の因縁

2018年06月06日 10時17分32秒 | 沼田利根の言いたい放題
日大紛争は、1968年(昭和43年)から1969年(昭和44年)にかけて続いた日本大学における大学紛争である。
ただし「紛争」との呼称は批判的ニュアンスのものであり、学生運動の立場からは日大闘争と呼ぶ。
紛争(闘争)は、理工学部教授が裏口入学斡旋で受領した謝礼を脱税していたことに加え、国税局の調査で日大当局の莫大な使途不明金が明るみに出たことで、学生の怒りが爆発したことに端を発する。

学生らの抗議運動は、経済学部生の秋田明大を議長とする日本大学全学共闘会議(日大全共闘)を中心に、一般学生や教職員組合、父兄会をも巻き込み、全学的な広がりをみせた。
同年9月には学生側が大衆団交を通して、古田重二良会頭を筆頭とする当局に経理の全面公開や全理事の退陣を約束させた。
しかし、まもなく当局はこれを反故にして、全共闘が封鎖している校舎の解放を警察に要請。
学内に警視庁機動隊が投入される。
背景:大衆団交を佐藤栄作首相が問題視したことから、ホゴになった。
大学側は<天の声>に随ったのだ。
1968年9月4日未明、経済学部本館のバリケード封鎖解除に出動していた機動隊員1人が、学生が校舎4階から落とした約16kgのコンクリート片を頭部に受けて殉職した。
これを受けて警視庁公安部村上健警視正は記者会見で「警視庁はこれまで学生側にも言い分があると思っていたが、もうこれからは手加減しない」と憤りをあらわにした。
あの時、<大学民主化>を成し遂げていたら、日本大学アメリカンフットボール部の「悪質タックル」問題もなかったかもしれない。
歴史にもしもはないのだ。
右派学生(体育会系の学生:大学の犬)と対立した経験を踏まえ、先輩として後輩たちを励ましに行った。
「先輩でも、入れませんよ」と顔見知りの後輩の一人が、バリケードの中で言う。
会報で大学の民主化を訴えてきた経緯から、後輩たちには頑張ってほしかった。
だが、闘争が過激化することは想定外であった。
「先輩、過激なこと書くんですね」と後輩は当時、言っていたが、それはあくまで文章内での過激さであったのだ。
日大紛争以前にも日本大学では学生の自治的な学生運動が起きていた。1966年(昭和41年)に学生連合会は、以下の要求を行った。
1.専任教員の質と量の充実。
2.教授の質と量の充実。
3.ゼミナール数の増加。
4.新入生オリエンテーションの実施。
5.学生の休講対策・実習対策・実験対策。
6.専門図書の増加と専門図書の購買拡大。
7.校舎の建設。
8.学生寮の建設。
9.厚生寮の建設。
10.学生会館の建設。
11.自由なグランドの建設。
12.集会や出版について、許可制から届出制への移行。

実は、数年前のことであるが、当方は大塚吉兵衛さんと仕事のことで、衝突してしまった。
テレビで大塚さんの顔を見て、思い出したくないことを思い出してしまった。
沼田利根
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天の声 神託。
天のお告げ。 転じて、絶対的権力者による指示。
特に、 官製談合における首長など幹部職員による特定受注業者指示。
1955年1月24日に鳩山一郎首相が衆議院を解散したが、突然の解散は天の声解散と呼ばれた。
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大塚 𠮷兵衛(おおつか きちべえ)1944年(昭和19年)6月19日 - )は、日本の歯科医師、 歯学者、歯学博士。
第13代日本大学総長・学長、元日本大学歯学部生化学講座教授。
硬組織再生生物学会理事長。
関東大学ラグビーフットボール連盟会長
社団法人日本私立歯科大学協会副会長

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