12/10(木) 17:12配信
文春オンライン
1980年代半ばに沸き起こり、平成に入って崩壊、その後の失われた30年の元凶となった日本経済のバブル。その象徴が、札束と腕力で土地を買い上げ、テナントを立ち退かせる「地上げ屋」だった。
【画像】社長の遺体が捨てられた鳴沢村の樹海
87年1月、地上げ屋として名が知られ始めた本間邦治(46歳)が失踪した。
夕方、麻布十番の料亭で会食し、その後行方が分からなくなった。店を出る時、「これから銀座のクラブに行く。気が向いたら後から来てくれ」と会食相手に言い残していた。
80年代半ばから急成長した本間の会社
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本間は中央大を中退して父親の不動産業を手伝うが、立ち行かなくなり、一時はタンクローリーの運転手をした。その後、不動産会社数社を経て30歳の時に本間企画を立ち上げたが、10年以上鳴かず飛ばずだった。
80年代半ばから急成長するのは、生命保険会社系の不動産会社と組み、潤沢な地上げ資金が融資されるようになったからだ。その金を原資に、神楽坂、六本木、根津…と地上げに成功し、本間企画に融資された額は100億円を超えた。
160センチの小柄、せっかちで神経質。社用車に自動車電話を設置し、1時間ごとに会社に電話を入れて報告を受け、指示を出した。縁起を担ぐ人でもあり、姓名判断で名を変え、「土地の神様」を祀っていると聞いて以来、大きな取引の前になると、朝一番の新幹線で猿田彦神社(三重県伊勢市)へ行って参拝するようになった。
大事にしていた生命保険会社系の不動産会社とのパイプ
生保・銀行などが新宿の雑居ビルを事務所にしたしがない不動産業者に100億円以上融資した状況が、地価高騰を生んだバブルを物語る。85年、大蔵省(現・財務省)はこれを問題視して金融機関に不動産向け融資の自粛を求めたが、通じなかった。翌86年、不動産向けの新規融資が3カ月間で2兆円を超えたと騒がれた。
本間は社員の誰が見ても尊大になったという。86年末、赤坂のキャバレーを借り切って200人を招いた忘年会を開催し、時代劇俳優らも出席した。銀座のクラブのスポンサーになったと囁かれたが、酒に溺れた父親を見て育ち、本人はブランデーを2、3杯飲む程度だった。生命保険会社系の不動産会社とのパイプは命綱であり、社長に専用車を差し出し、海外旅行に誘った。
銀行と生保の間で起きていた地上げを巡るトラブル
失踪した時、本間は西巣鴨で4000坪の敷地に大型複合ビルを建設する計画を描き、デベロッパー(開発会社)への転身を夢見ていた。一方で失踪後、代表がいないにも関わらず本間企画の役員が変更され、会社口座は空っぽになり、抱えていた物件ごと身売りされた。そこに様々な裏事情があるようにも見えた。
本間の失踪当時から取材したジャーナリストの中西昭彦はこう話す。
「新宿で飲んでいた時に『地上げ屋が失踪した』と聞いて、取材を始めると、銀行と生保が巨額の金を注ぎ込み、様々な場所で地上げを行って、トラブルが起きていたことが分かりました。
とくに、老朽化した品川区の大規模マンションの地上げは争奪戦がすさまじかった。この地上げで本間と組んでいた生保系不動産会社の社長は、本間が失踪した後、ゲッソリと痩せて人が変わったようになった。警視庁はこの社長を疑いましたが、決め手が無く、失踪から8カ月、9カ月過ぎても真相は分かりませんでした」
本間と料亭で会食していた人物の正体
失踪から1年2カ月後――警視庁は、居酒屋チェーンを経営する山岡伸介(42歳、仮名)、運転手(28歳)、部下(30歳)の3人を殺人と死体遺棄容疑で逮捕した。
山岡は熊本県の高校を卒業後、飲食店のボーイになり、そこから年商30億円の居酒屋チェーンを築いた人物だった。山岡もまた銀座などで地上げを始めたが、うまく行かず、資金繰りに窮していたという。
本間と料亭で会食していたのが山岡だった。
2人は地上げを巡ってトラブルになっていた。銀行系ノンバンクが本社を建てるために、東京駅八重洲口から近くの一角で地上げが開始された。本間も参戦し、1件は地上げを完了したが、もう1件、約20坪の土地に建つ雑居ビルの買収が進まなかった。売却を了承した所有者が一転し、「名前も聞いたことのない会社には売らない」と言い出したのだ。
雑居ビル買い取りを巡る2人のトラブル
ここで出てきたのが山岡だった。居酒屋チェーン代表として知られ、この雑居ビルにも出店していた関係で、所有者と話ができる。山岡が融資を受けて雑居ビルを買い取り、本間に転売する話が成立した。
山岡の買い取り完了後、本間は契約に基づいて山岡に8億円の手付け金を支払った。しかし山岡はそれを流用したため融資金融機関へ返済できず、抵当権を外せなくなった。これでは本間は雑居ビルを依頼主に売ることができず、2人は本間行きつけの銀座のクラブで怒鳴り合っているところを目撃されていた。
後に明らかになった殺害は計画的で残忍なものだった。
生きたまま業務用の冷蔵車に放り込み……
抵当権抹消が不可能になった山岡は、本間の殺害を計画。自身が経営する料亭に呼び出し、本来、本間が上座だが、敢えて廊下が背になる下座に座らせた。山岡は何回か席を立ち、隙を見て後ろから本間の首を絞めて気絶させた。
すぐに運転手らを呼んでロールスロイスに本間を乗せて江東区の会社の寮へ運び、拉致。2日後の夜、弱っていた本間の手足を縛り、生きたまま業務用の冷蔵車に放り込んで、山岡が所有する山梨県鳴沢村の別荘に運んだ。
2日後の夜、死体から衣服をはぎ取り、別荘から500メートル離れた山林に埋めた。捜査員たちがその場所を掘り返すと、供述通りに遺体が見つかった(読売新聞88年4月7日)。
山岡は本間を拉致した翌朝、一旦熊本県へ飛んでいた。アリバイを作るためだったと見られる。そして本間失踪後、山岡は本間企画に対して裏金3億円の約束があったと要求して受け取り、それを充当して抵当権を抹消、取引を成立させて完全犯罪を目論んでいた。
バブルがまだ続いていた89年3月、東京地裁は山岡に無期懲役の判決を下している。
(敬称略)
坂田 拓也
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