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宮ちゃんの人生を聞く

2025年01月28日 14時56分52秒 | 日記・断片

先日、宮ちゃんのおごりでスナック「エスカルゴ」(取手・台宿)でご馳走になったので、お礼のあいさつに行く。

お礼といっても、家にあるものを3種類持って行っただけだ。

「いいのに」と彼は恐縮していた。

「高い支払いだったのでは?」

「大した額じゃないよ。今日も行いこう」笑顔になるが、さあすがに遠慮した。

「刺身を買って待っていたんだ」解凍した刺し身が卓に並ぶ。

そして、大吟醸の酒が出されるのだ。

川崎時代の話から、彼の人生の話となる。

自動車メーカーの勤務から、新聞配達時代の話は、新潟、群馬(前橋、渋川)、栃木(宇都宮)まで及ぶ、1日1万円で食事代は1000円。

アパート代は新聞販売店が負担する。

多い月は40万円の稼ぎとなったそうだ。

競馬の話と、競馬仲間に誘われた、松戸競輪のことまで及ぶ。

結婚はしなかったが、女性と同棲した時期は3年ほど。

台湾の女性と遊んだ宇都宮のことも。

さらに、横浜の夜の街や千葉の元トルコ街のことも。

「実に良い女で、毎回、指名していたんだ」

「韓国人は?」

「経験ないな。フィリピンの女がダメだ」と否定する。

「金をやって、仲間の男たちにも女と遊ばせたな」

「人がいいんだね」

「たいしたことない。金は遣うものだ」

なお、取手に亀有から移住したのは、父親が日立に勤務していて、社の斡旋であったそうだ。

井野団地ができる前の北相馬郡取手町時代のことだったのだ。

 

 


誓願とは、いわば「変革の原理」

2025年01月28日 11時17分10秒 | その気になる言葉

▼受け身になったら、自由な環境で不自由な自分になる。

「攻め」の一念になれば、不自由な環境でも、自由な身分になれる。

▼信念に生きる人の行動の軌跡を「縦糸」であるなら、その人が紡いだ「横糸」であり、その人がどれほど彩ろある人生を生きたかは「両者の糸」の織りなす結果である。

▼宿業という鉄鎖もあるかもしれない。

そのような過去に縛られた自分を解放して、新しい未来に向かう自分をつくるのである。

確立した心によって、未来の自分を方向付け、それを実現していくために努力を持続させていけうのが「誓願の力」である。

誓願とは、いわば「変革の原理」だ。

誓願とは、神や仏に誓いを立て、物事が成就するように願うこと。

▼良識は、即、聡明であり、人間として人間らしく生きる、もっとも基本の姿勢である。

▼どういうことがあったとしても、かならず希望をいだいて前に進んでいく、自分自身に挑戦していくことが大切だ・

 


災害時の学びを支援

2025年01月28日 11時12分18秒 | 社会・文化・政治・経済

災害時の「学び」を守る 大規模災害にいかに備え対応するか

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文部科学省
 

地震や津波、豪雨・台風や洪水。いつでもどこにでも起こり得る大規模災害に際し、どのように行動し、誰が何をすれば、また、組織を超えてどのように連携すれば、被災した児童生徒たちの学習を継続させることができるのでしょうか。これまで通りの日常、学校活動を取り戻すために、何が必要なのでしょうか。

災害時に文部科学省は、学校施設の復旧に向けた技術職員の派遣や、被災した児童生徒の学習指導や心のケアのため教職員やスクールカウンセラー等の被災地支援人材に係る派遣調整等を行います。2024年1月1日に発生した能登半島地震で対応を行った文教施設企画・防災部と初等中等教育局の担当者に話を聞きました。

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元日の災害発生

―― 能登半島地震の発生から1年が経ちました。災害発生時の状況と、文部科学省がどのように初動対応に当たったのか教えてください。

西村:2024年1月1日16時10分、石川県能登地方を震源とするマグニチュード7.6の能登半島地震が発生しました。最大震度7の石川県をはじめ、甚大な被害が及んだ新潟、富山、福井の4県では、地震発生直後から警察や消防、海上保安庁、自衛隊などによる人命救助を最優先とした大規模な救援活動が始まりました。

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西村 参事官(施設防災担当)(文教施設企画・防災部)

同時に、文部科学省でも被災した児童生徒の学習継続支援を目的に、地震発生翌日の1月2日には職員が被災地入りし、6月末までに延べ600人以上が被災した学校の復旧・復興に力を尽くしました。

まず、私たち防災担当が行わなければならなかったことは、被災した学校施設が当面使用できる状態かどうか、二次災害防止の観点で安全性を確認する応急危険度判定を迅速に実施することでした。1月11日から22日にかけて延べ54人の調査団を文部科学省が派遣し、石川県内の公立学校58校の応急危険度判定を行いました。

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石川県立金沢北陵高校での土砂崩れ

永友:学校の被災状況を迅速に把握するため、私たちは応急危険度判定団として、被災地のなかでも被害が甚大な奥能登4市町(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)に行きました。

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永友 企画係長(文教施設企画・防災部 参事官(施設防災担当)付)

文教施設応急危険度判定士の資格をもつ技術職員がチームを組み、能登半島の中ほどの中能登町にある石川県立鹿島少年自然の家を拠点とし、数日ごとに班を分けて対応しました。
私たちの班は、拠点から離れた輪島市や能登町に向け車で向かいましたが、当時はまだ、道路も土砂崩れ等で通行が困難な場所も多々ありました。
倒壊は免れたものの大きく損傷した校舎もあった一方で、印象的だったのは、周辺の木造家屋が倒壊するなか、そこに鉄筋コンクリートの校舎が建っていて、地域住民の避難所となり、避難者を受け入れて、給水車やトイレカーなど様々な支援の拠点として機能している様子でした。
当時の状況では、1日3校、4日で10校程度を判定することが限界でしたが、複数の班を組織して入れ替わりで現地に派遣し、建物の構造体の被害だけでなく、ライフライン、避難所の状況なども聞き取りながら調査を進めました。

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(左)天井内壁の落下、(右)応急危険度判定の状況

西村:被災地4県では住宅家屋の全壊6,437棟、半壊や床上・床下浸水などを含めると計139,668棟に上り、学校施設は国公私立合わせて約1,000校が被害を受けていますが、幸いにして校舎の倒壊はなく、多くの学校で起こっていたのは校舎の外壁や天井の落下、割れた窓ガラスの散乱、地面の亀裂などでした。
阪神・淡路大震災の被害なども踏まえ、文部科学省では、柱や梁など、建物を支える構造体の耐震化を進めており、公立学校施設では、昨年度末までに99.8%完了していました。そのような地道な取り組みも、校舎の倒壊を回避できた背景にありました。

「学び」の継続に向けた、初めての大規模集団避難

―― 学校が避難所として使用される中、児童生徒の学習継続にあたってはどのような対応を行いましたか。

大坪:私たち初等中等教育企画課で、全国の教職員の派遣要請を行いました

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大坪 教育公務員係長(初等中等教育局 初等中等教育企画課)

今回の地震では、高校受験を目前にした3年生を含め、中学生の皆さんの学習の場の確保のために集団避難が実施されました。先生方は被災地と避難先で二分されて人手が足りず、またご自身も被災者でいらっしゃるので、大変な状況であったと思います。避難先では、日中の学習指導・生活指導に加えて、夜間の見回り等の対応も含め多くの教職員が必要となりましたので、文部科学省から全国の都道府県・指定都市の教育委員会に応援派遣の依頼を打診しました。

北原:派遣に応じてくださった先生方の生活と安全を保障することも必要でした。希望される方々の宿泊先などを用意できるよう調整しましたが、民宿や大学施設など近隣の皆様からも多大な御協力をいただきました。結果として、55都道府県市と1独立行政法人から290人の教職員が交代で石川県に駆けつけてくれました。そのうちの10人は、教員免許があり実際に教壇に立ったことがある文部科学省の職員です。

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北原 教育公務員係専門職(初等中等教育局 初等中等教育企画課)

なかでも、隣接する福井県は同じ被災地でありながら積極的に関わってくれました。また、とくに印象的だったのは、東日本大震災で被害を受けた福島県や、西日本豪雨で被害を受けた広島県が多くの教職員を派遣してくださったことです。助け合いの温かい気持ちが全国に広がる枠組みの必要性を痛感しました。

大坪:各地の教育委員会からベテランの指導主事の方や現場の先生方、教育委員会職員の方々が多く参加してくれたことにも感謝しています。昼夜をともにする集団避難にあって、生徒の学習指導の面だけでなく、生活指導の面でも経験が豊富なため、被災地の教職員のみならず全国から応援に入ってくれた教職員にとっても頼りになる心強い存在でした。

被災地の教育環境の再開に不可欠な学校支援チームによる支援

―― 被災地における学習指導や教職員も含めた心のケアに当たり、各地の学校支援チームがどのように対応されたか伺います。

西村:学校で避難所が開設された場合、本来的には自治体の防災部局がその運営を担うものですが、災害発生直後は学校の教職員の協力が必要になる場合があります。しかし、避難所運営や学校再開に向けたノウハウのある教職員が必ずしも多くいるわけではありません。

松田:能登半島地震において、応援に駆けつけてくれた学校支援チームは、救援物資の保管や配布、飲料水や食事の確保から仮設トイレの設置方法、避難所生活のルールづくりや役割分担など、災害時の避難所設営・運営に必要な体系的な訓練を受けている方々です。教職員だけでなくスクールカウンセラー資格を持つ養護教員など多様な人材で構成されているため、学校避難所での暫定的な学習指導や心理面のケアにも対応可能です。

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松田 参事官補佐(文教施設企画・防災部 参事官(施設防災担当)付)

地震発生から4日後の1月5日には兵庫県の学校支援チームが到着、続いて三重県、岡山県、熊本県、宮城県、合わせて5県の学校支援チームが1月13日までに被災地入りしました。京都府は学校支援チームではありませんでしたが、個別に教職員やスクールカウンセラーを派遣してくれました。

能登を支えた経験が、これからの災害に備える力に

―― 9月20日には能登地方で豪雨災害もありました。現在の支援状況などはいかがでしょうか。

松田:文教施設企画・防災部の私と、初等中等教育局の職員の2名で、豪雨の後すぐに現地に入り、被害状況を調査したほか、技術面や財政面、特に心のケアの面での支援の必要性を聞き取って現在対応しています。現地の教育長からは「何とか子供たちに避難元の校舎で卒業式を迎えさせてあげたい」というお話も伺いました。
地震発生以来、何度も奥能登を回ってきました。能登で出会う子供たちの笑顔がやりがいでもあります。しかし、子供たちは気丈に振舞っている部分があるとも感じますので、日常に戻るまでしっかり寄り添って支援していこうと強く思います。

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仮設校舎外観

―― 今回の震災を機に、文部科学省として取り組んでいることを教えてください。

西村:能登半島地震の対応では、被災地の教職員や教育委員会、また全国の教職員等の方々の尽力に心から敬意を表したいと思います。悲惨な現場をみるたびに私が感じたことは、何より平時からの準備が大切なこと、特に学校という存在を守ることは、児童生徒のみならず、地域で暮らす人々を支える礎になっていることです。

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仮設校舎内での学びの再開

一方で、今回の震災対応では被災地の状況やニーズの把握に時間を要するなど、課題も明らかとなったところです。特に、自治体が派遣する学校支援チームの迅速・機動的な取組等と連携して文部科学省による支援等を行うなど、より機動的で、効果的に被災地の学校を支援できる広域的な枠組みを構築することの重要性を感じました。

そこで、文部科学省では、今後の大規模災害への備えとして、地方公共団体間の支援として行われた学校支援チームの取組との連携・協力や、教職員・スクールカウンセラーの追加派遣の調整など、被災地の子供たちの学びの継続や学校の再開に資する人材派遣の新しい枠組みとして、「被災地学び支援派遣等枠組み」(略称D-EST:Disaster Education Support Team)の構築に向けた検討を進めています。

9月の大雨での対応はその実践の一例でもありますが、これからも様々な知見を加えることで、さらに実践的な取組へと成長させ、全国の被災地を支える力になっていくことを目指しています。

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【コラム】文部科学省職員も教師として派遣 中学生の集団避難

文部科学省は、中学校教員免許状を有し学校現場での指導経験がある職員10名を、石川県の集団避難施設へ派遣しました。現地で学習指導にあたった小久保行政改革推進室長(※当時)が報告します。

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小久保 智史 行政改革推進室長(※)

私は、被災地の中学生が集団避難を行った施設で、全国からの先生とともに子供たちの学びの支援を行いました。入試直前の3年生に、社会科の指導、各教科の個別学習の支援、テストの採点等の学習指導とともに、清掃活動や食事、休み時間の見守りなど生活指導面の支援に携わりました。

避難校の先生方は、自らも被災者である中、複数の避難先及び能登に残る生徒も含めたケアに当たるため、分散・制約された体制での対応に当たるとともに、終わりが見えない避難生活の不安とも闘っていました。

こうした中、可能な限り避難校の先生の負担増にならないように支援を行うべく、派遣メンバーで常に議論、意見集約して先生方に提案するとともに、自ら動けるところを見つけて対応しました。

同じ施設内で、学校/放課後(夜も含めて)の時間的・空間的な区別がしにくい、被災により制服や学習用品も当然に揃うわけではない、一人で過ごすことのできる場がないなど、異なる環境下において、子供や先生方のストレスも増大していました。生活面のリズム(ルール)づくり、子供たちの心や身体のケア等の課題に対して、随時変わる子供の状況を見極め、試行錯誤しながら取り組みました。「地震がなかったら…」と生徒が自分の進路先についてふとこぼした言葉、休み時間に体育館で遊ぶ生徒の生き生きとした表情など、一つ一つが印象に残っています。

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派遣期間中は、避難元からの距離の問題や地方公共団体が多岐にわたる課題に直面する中、学校への効果的な支援が難しい状況も感じられました。

各都道府県において、被災時の広域的な支援体制構築のためにも、日頃から、教員配置や研修、各種事業等を通じた人的交流に加え、市町村同士や校長会等も含めた様々なレベルでの連携をより一層深める必要性を感じました。

また、文部科学省としても、過去の震災時の対応や今般の教員派遣の取組も踏まえ、地方公共団体の枠を超えた子供の学びの支援を充実していく必要性を感じました。


ハワイへの日本人の移民政策

2025年01月28日 11時01分42秒 | その気になる言葉

ハワイにおける日本人移民(ハワイにおけるにほんじんいみん、英語:Japanese settlement in Hawaii)とは、1868年以降、労働者として日本からハワイ王国(1893年-1897年ハワイ共和国、1898年のハワイ併合後はアメリカ合衆国ハワイ準州)へ移住していった人びとを指す。1900年までの国や民間企業の斡旋によりやって来た移民を契約移民、以降1908年までの移民を自由移民と呼称する[1]。

ハワイにおける移民は、急増するサトウキビ農園(英語版)や製糖工場で働く労働者を確保するため[2]、1830年頃より始められ、関税が撤廃された1876年以降にその数が増え始めた[3]。中国、ポルトガル、ドイツ、ノルウェー、スコットランド、プエルトリコなど様々な国から移民が来島したが、日本からやってきた移民が最も多かった。日本からの移民は1868年から開始され、1902年にはサトウキビ労働者の70%が日本人移民で占められるほどとなり、1924年の排日移民法成立まで約22万人がハワイへ渡っている[1]。

移民の多くは契約期間満了後もハワイに定着し、日系アメリカ人としてハワイ社会の基礎を作り上げていった[4]。

背景

中国人排斥法
(1882年アメリカ)
19世紀初頭、ハワイ王国において摂政カアフマヌが政治的実権を握ると、キリスト教を中心とした欧米文化を取り入れようとする動きが活発化し、彼女に取り入った白人たちが発言力を増すようになる。貿易負債削減のため、それまではネイティブハワイアンの食料としてのみ栽培されていたサトウキビを輸出用資源として大規模生産を行おうとする動きが1835年より開始された[2]。

1850年、外国人による土地私有が認められるようになると、白人の投資家たちの手によってハワイ各地にサトウキビ農場が設立され、一大産業へと急成長した。その後、アメリカ合衆国内において南北戦争が勃発するとこの動きはさらに加速、1876年の関税撤廃に至り、ハワイ王国は世界有数のサトウキビ輸出国となった[2][† 1]。

増加する農場に対し、ハワイ王国内のハワイ人のみでは労働力を確保することが困難となり、1830年代より国外の労働力を輸入する方策が模索されはじめ、1852年、3年間という契約で、中国より最初の契約労働者がハワイへ来島した。以降も中国より多数の労働移民がやってきたが[† 2]、中国人らは定着率が悪く、契約終了後、独自に別の商売を始めたりするなどしたことにより彼らに対する風当たりが強くなったことから、ハワイ政府は中国人移民の数を制限し、他の国から労働力を輸入するようになる。

日本もその対象の一国として交渉が持たれた。1898年、ハワイがアメリカに併合されると、アメリカの中国人排斥法が適用され、中国人の移住が事実上不可能となった。

来島の流れ
元年者
1860年(万延元年)、日本の遣米使節団がハワイに寄港した際、カメハメハ4世は労働者供給を請願する親書を信託したが、日本は明治維新へと向かう混迷期にあり、積極的な対応がなされずにいた。

カメハメハ5世は、在日ハワイ領事として横浜に滞在していたユージン・ヴァン・リードに日本人労働者の招致について、日本政府と交渉するよう指示した。ヴァン・リードは徳川幕府と交渉し、出稼ぎ300人分の渡航印章の下附を受ける。その後日本側政府が明治政府へと入れ替わり、明治政府はハワイ王国が条約未済国であることを理由に、徳川幕府との交渉内容を全て無効化した[5]。

しかし、すでに渡航準備を終えていたヴァン・リードは、1868年(慶応4年/明治元年)5月17日(旧暦4月25日)[6]、サイオト号で153名[† 3]の日本人を、無許可でホノルルへ送り出した。こうして送られた初の日本人労働者は、明治初年の元年者(がんねんもの)と呼ばれた。

153人のうち、少なくとも男性50人、女性6人は、「契約と実際の状況が違う」と年季明けを待たずに1870年(明治2年)に帰国した[7]。一方で、元年者の中にはリーダーの牧野富三郎(宮城県石巻市出身)、最年少の石村市五郎(13歳)、マウイ島で102歳の生涯を終えた石井千太郎(岡山県の侍)、ハワイ人女性と結婚してワイピオ渓谷に住んで子孫を残した佐藤徳次郎(東京・京橋)など、後の日系移民の語り草になった人たちがいた[8]。

日本側は自国民を奪われたとして、1869年(明治2年)に上野景範と三輪甫一をハワイに派遣し、抗議を行った。折衝の結果、契約内容が異なるとして40名が即時帰国し、残留を希望した者に対しての待遇改善を取り付けた[5]。この事件を契機として日本とハワイの通商条約が議論され、1871年(明治4年)8月、日布修好通商条約が締結された。

契約移民

『明治拾八年に於ける布哇砂糖耕地の情景』
Joseph Dwight Strong、1885年
1886年(明治19年)1月28日、日布移民条約が結ばれ[9]、ハワイへの移民が公式に許可されるようになり、政府の斡旋した移民は官約移民と呼ばれた。1894年に民間に委託されるまで、約29,000人がハワイへ渡った[1]。

1884年、最初の移民600人の公募に対し、28,000人の応募があり[10]、946名(異説あり)[† 4]が「シティ・オブ・トウキョウ」に乗り込み、ハワイへと渡った。この時期の移民者には、江戸時代に幕府通訳官として活躍しハワイの移民監督官を8年務めた後、商会を設立して菊正宗を輸出して財産を築き、社会事業に尽力した木村斉次、ワイアケア耕作地の監督もした星名謙一郎、牧師の岡部次郎、勉学ののちにロサンゼルスに渡った実業家の甲斐政次郎[11]、同地において日本人として初めて商店主となり、成功を納めるも、白人達からの嫉妬を買い、リンチにより殺害された後藤濶などがいる。

官約移民は「3年間で400万円稼げる」といったことを謳い文句に盛大に募集が行われたが、その実態は人身売買に類似し、半ば奴隷に近かった。労働は過酷で、現場監督(ルナ)の鞭で殴る等の酷使や虐待が行われ、1日10時間の労働で、休みは週1日、給与は月額10ドルから諸経費を差し引かれた金額であった[12]。これは労働者が契約を満了することを義務付けられたハワイの法律(通称、主人と召使法)に起因するところが大きい[13]。仕事を中途で辞めることが法的に認められていなかったのである。

官約移民制度における具体的な交渉は、後に「移民帝王」とも揶揄される[13]在日ハワイ総領事ロバート・W・アーウィンに一任されていた。井上馨と親交を持ち、その関係から三井物産会社を用いて日本各地から労働者を集め、その仲介料を日本・ハワイの双方から徴収するなど、莫大な稼ぎを得ていた[13]。アーウィンとの仲介料の折り合いが合わず、1894年の26回目の移民をもって官約移民制度は廃止された。

民間移民会社
1894年の官約移民の廃止と同時期に、弁護士の星亨が日本政府に働きかけ、民間移民会社が認可されることとなり、以後は日本の民間会社を通した斡旋(私約移民)が行われるようになった[14][15]。1896年(明治29年)には移民者送り出しの多かった熊本に、井上敬次郎が熊本移民会社を設立した。

日本との移民事業を行う会社が30社以上設立され、特に広島海外渡航会社、森岡商会、熊本移民会社、東京移民会社、日本移民会社は五大移民会社と呼ばれ、勢力を誇った[16]。当時の国際取引銀行は英国HSBCの協力で設立された横浜正金銀行であったが、移民会社らは共同で私設の京浜銀行も設立し、移民労働者の郷里送金の代行業務などを行っていた。

日本人移民の急増で、労働者支配の弱体化を怖れたアメリカ人農園経営者たちは、自らの支配力強化のため異民族の移民同士の対立を利用することを企図し、日中移民のほかに、1903年から韓国人の移民を推進した(当時、中国人移民は5万人、日本人移民は18万人いた)[17]。また、ハワイより賃金の高いカリフォルニア(ロサンゼルスのリトル・トーキョー、サンフランシスコのジャパンタウンなどの日本人街)に移る日系移民も増えていった[17]。

1898年のハワイ併合、1908年の日米紳士協約などにより日系の移民会社は全て消滅した。これ以降、移民の家族はいったん日本へ帰国し、再度移住を希望する帰米者のみ移住が許可されるようになり、そうした者も1924年の移民法成立により、日本人のハワイへの移住は事実上不可能となった[1]。

その後
その後定住した日本人移民の子孫が増加したことから、ハワイの全人口における日本人移民と日系人の割合は増加を続け、日本人移民と日系人はハワイ最大の民族集団となった[18]。第二次世界大戦の期間、アメリカ本土の日本人移民と日系アメリカ人がアメリカ政府により強制収容が実施された。ハワイにおいては日系人人口が多く、その全てを収容することが事実上不可能である上、もし日系人を強制収用するとハワイの経済が立ち行かなくなると推測されたことから、アメリカへの帰属心が弱く、しかも影響力が強いと目された、一部の日系人しか強制収容の対象とならなかった。最近ではハワイへの日本人移民が急増している。2022年、日本はEビザ発給数で再び首位となった。[19]

ストライキ
農奴の如き過酷な労働条件下において、日本人移民は激しく抵抗し、度々ストライキを行った。1900年までのストライキ件数は数百件にのぼり、不当な扱いに対する改善が訴えられたが、こうした行いは当地法において違法とされ、牢獄送りとなっていたため、待遇改善には至らなかった。

1900年(明治33年)のアメリカのハワイ併合後は、1900年基本法により既存の労働契約が全て無効となって過酷な労働条件が緩和されるに至り、ストライキの件数も減少していった。この時期の移民者には、ハワイ大学社会学科に勤めたのち帰国して政府の翻訳家となった甲斐兼蔵がいる。

このような状況の中で1908年、法学者の根来源之が『日布時事』にハワイとアメリカ本土の労働条件の乖離を指摘し、労働者の待遇改善を主張した論文を掲載し、経済界に大論争が始まった。増給論を支持する石井勇吉らにより「増給期成会」が結成され、待遇改善運動が展開された。1909年5月9日、これに呼応した日本人労働者ら7,000人により、アイエア、ワイパフ、カフク、ワイアナエ、エヴァなどのオアフ島各農園で一斉にストライキが実施された。これに対し農園経営者協会(HSPA)は参加者らとその家族に対し受け入れを拒否し、立ち退き命令を出した。この結果5,000人以上のストライキ難民がホノルルなどに溢れ返った。煽動した日本人活動家らは耕地営業妨害罪などで逮捕され、ストライキは失敗に終わったが、200万ドル以上の損失を計上した経営者側も労働環境の見直しを図らざるを得ず、若干の増給が実施された[20]。

しかし、第一次世界大戦などの影響によりインフレ化が進行すると応急処置的な賃上げでは生活が立ち行かなくなり、1920年1月19日には他国出身者もあわせたハワイ史上最大のストライキがオアフ島にて実施され、全農園労働者の約77%がこれに参加した[21]。このストライキでは1万人を超える日本人労働者が農園を退去させられ、その結果、野営していた労働者ら2,500人がインフルエンザに感染し150名が死亡するなど、深刻な被害をもたらした。結果的に5割の賃上げ、労働環境の改善を勝ち取ることができたが、多くは農場を去り、製糖産業における日本人労働者の割合は1902年の70%から19%へ急落した[21]。また、こうした行動は後の排日運動を加速させ、日系人社会への圧力がより強められることとなった。

日系社会で使われる「ハワイの日本語」
維新後、新天地を求めて続々とハワイやアメリカに渡っていった移民の中に、広島県出身者が非常に多かった[22][23][24][25][26][27][28]。1886年の日本・ハワイ間の条約に基づく官民移民では、1894年6月まで26回に亘り、日本政府主導で全国から約3万人がハワイに送り出されたが[22]、県別では広島県が約1万人で最も多く、全体の38.2%を占めた[22]。1910年から1932年までに渡った海外移民者の中でも広島出身者は約17%と全国1位[23]、1924年のハワイ在住日本人の出身都道府県別人口統計でも、戦前移民1世116,615人のうち、広島県出身者は最多の30,534人で全体の26.2%を占めた[24]。戦前戦後を通じても109,893人と全国1位だった[22]。ハワイの日系人の多くは、広島出身者の子孫である[28]。ハワイの日系社会は、当初から広島・山口両県の出身者を中心に築き上げられてきた[25][26]。日本各地から移住した人々の間で激しい方言接触があったとされ[25]、移住先の言語との接触・混交により、継承されながらも変容していったが[25]、広島山口両県出身者がもっとも多数であり、しかも先着者であったため、当然のように広島山口両県の方言がハワイ日系社会の「共通語」的地位を占めるに至ったとされる[24][26]。あとからハワイへやってきた他の地方の出身者たちは、好むと好まざるとに関わらず、ハワイに到着後は広島・山口方言をハワイ日系社会の共通語として学ぶようになった[24]。なお沖縄県出身者は本土出身者とは別個のコミュニティを形成していたとされる[25]。

日本人移民と宗教

マキキ聖城教会
ハワイでは元来北アメリカ東海岸から来た者たちによって会衆派教会が大きな位置を占めていたが[29]、日本や中国からの移民からも儒教、道教、仏教、神道などが持ち込まれ、特に仏教が栄えた[29]。ハワイにおける仏教は、1889年に浄土真宗の僧侶であった曜日蒼竜が本願寺派の布教を開始したことを嚆矢とする[29]。これは、西日本(広島県、山口県)出身の移民や、沖縄系アメリカ人が多かったことが要因とされている[29]。

こうした宗教は年中行事や冠婚葬祭だけでなく日本語学校、寺子屋、合唱隊、ボーイスカウト、講演会、バザーなど様々な催しの場を提供し、日系社会のコミュニケーションの基礎固めという役割を果たすようになった[30]。

脚注


日本の移民政策

2025年01月28日 10時19分38秒 | その気になる言葉

▼希望は世界で最も価値ある宝だ。

ハワイへ10年で2万9000人の移民―140年に始まった本格的な移民政策。

かつて日本は移民送り出し国であった

移民の経験から何を学ぶか

神奈川大学名誉教授・前本誌編集委員長 橘川 俊忠

サンパウロで聞いた日系人の声

2011年9月にブラジルを訪れた時のことであった。その訪問は、神奈川大学日本常民文化研究所・非文字資料研究センターとサンパウロ大学日本文化研究所との交流協定締結のためで、1週間という短い訪問であったが、ブラジル側から東日本大震災の様子について報告して欲しいという要望があり、サンパウロの日伯文化協会で報告会を開くことになった。神奈川大学では、東日本大震災の救援に大学として学生ボランティアの派遣体制を整え、常民文化研究所も組織的に歴史資料の救出に取り組んでいた。筆者もその活動に参加し、個人的にも現地に数回訪れていたので、実際に目で見た実情を報告することにした。

報告会の当日は、日系人を中心に多数の人が集まり、関心の高さを実感した。その報告会の後だったと思うが、かつて日本人街と呼ばれていたリベルタージ近辺を歩いていた時に岩手県県人会の看板を見つけ、話を伺おうと思ってその部屋を訪ねた。アポなしの突然の訪問だったにもかかわらず、その部屋にいた方達は親切に応対してくれた。その時、テレビでNHKの国際放送だったか、震災支援の御礼として行われた日本と台湾の遠泳大会の模様が映しだされた。それを見ながら、県人会の方の一人が、我々も義援金を集めて送ったのに、日本のマスコミはまったく取り上げてくれないとつぶやいた。

その言葉を聞いて、筆者はハッとした。そういえば、日本では海外のミュージシャンや俳優からの支援の呼びかけや被災者への励ましの声などについては大きく報じられているのに、海外在住の日系人たちからの支援についてはまったく報道が無かったことに思い当たったからである。

そういえば、戦後の復興支援についても、ガリオア・エロア資金とかララ物資というアメリカ合州国からの援助についてはよく知られているが、それ以外の地域の在外日系人からの公的・私的支援についてはほとんど知られていないのが実情ではないであろうか。筆者も、ブラジル移民について調べ始めるまではまったく知らなかった。今から15年ほど前、国際交流基金の客員教授としてサンパウロ大学に招請されブラジルの日系人からいろいろ教えてもらう中で、日系人たちが自分たちも敵国人待遇から解放されたばかりで苦しい生活を余儀なくされているにもかかわらず、砂糖や衣類、義援金を集めて日本に送っていたことを始めて知った。

また、招請された客員教授の義務として、サンパウロの国際交流基金で講演をすることになっていたので、その義務を果たした時のことで、今では何を話したかよく覚えていないが、とにかく講演が終わって一人の老齢の紳士から質問があった。それは、「私たちは、第二次大戦中敵国人としてひどい目にあわされ、戦後も肩身の狭い思いをさせられてきた。今でも日系人としてなにを誇りにして生きていけばよいのかと考えることがある」ということであった。その時も、ハッと胸を突かれる思いがしたが、「戦後日本は、六十年も戦争をしないできた。戦争の反省が不十分だとしても、これは、これほどの経済力のある国家としては現代史上稀有なことで、これこそ誇っていいことではないか」と答えたのを記憶している。その老紳士は、そういう考え方もあるのかと納得してくれたようで、後日食事に招待していただいた。

小さく個人的ではあるがブラジルでの体験は、筆者にとって日本とは何か、日本人とは何かを再考するきっかけをあたえてくれた。考えてみれば、筆者も「移民の子」であった。筆者の父は、戦前に軍属として中国に渡り、後に河北墾業という日中合弁会社に勤めた移民であり、戦後日本に引き揚げた。筆者は、その次男として敗戦直後に北京で生まれた。そんなこともあって、「移民」の問題はどこか自分と繋がるような感覚があった。それがブラジルでの体験によって増幅されたのかもしれない。

踏みにじられた移民達の思い

それはともかく、ブラジルの移民については、もう一つ忘れられないことがある。今では忘れられたニュース映画の一コマである。といっても、筆者が実際に映画館で見たわけではない。講談社が戦後五十周年記念として出した『昭和ニッポン 一億二千万人の映像』というDVD集の第4巻1951~1952「日本独立と血のメーデー事件」に収録されている映像のことである。

その映像は、「勝ち組16家族114人引き揚げ」というタイトルが付けられたニュース映画で、1956年5月30日に横浜港に上陸したブラジルから引き揚げてきた移民の一行を撮影したものである。その映像には「日本の敗戦を信じない」というキャプションと、「この人達は、終戦後5年も経っているのにまだ日本の勝利を信じている」という当時の音声そのままの解説が付けられていた。その音声は、いかにも無知蒙昧な引き揚げ者をさげすんでいるように聞こえた。

たしかに、ブラジルには日本の敗戦を信じず、戦後になっても敗戦を受け入れた日系人を「負け組」と呼び、抗争を繰り返した歴史があった。戦前の皇国主義教育を受け、必勝の信念を持ち続け、敗戦の事実を受け入れようとしなかった人達がいたのは事実である。しかし、そういう人達が、どうして生み出されたのかを考えてみると、そこには無理からぬ事情もあったことを否定することはできない。

ブラジルは、第二次世界大戦においては連合国側に立って参戦していた。したがって、日本は敵国であり、日系の移民は敵国人という扱いになり、日本の公使館も閉鎖され、外交官も退去を迫られた。公使をはじめ、日本政府の職員は真珠湾攻撃後まもなく全員が引き揚げてしまった。国策で送り込まれた移民に対しては何らの措置もとられることもなく、放置された。日本語を話すことも禁じられ、集まることもできず、日系移民は日本との間の情報手段も一切奪われてしまったのである。孤立し、抑圧される状況の中で日本の必勝を信じて祖国からの救援を待つ以外にどんな手立てもなかったといっても過言ではなかったであろう。そういう状況から「勝ち組」は生まれた。

しかし、ニュース映画のナレーションにはそういう事情の説明は一切なかった。この時帰国したブラジル移民16家族114人のその後については全く不明だが、もし、その映像を見ていたとしたら、自分達の思いが無残に踏みにじられたと感じたであろうことは想像に難くない。

また、国家が移民の思いを踏みにじる行為は、ブラジルにとどまるものではなかった。敗戦間際の満州移民の場合は、さらに残酷な事態が発生した。ソ連軍の侵攻によって、満州(現在の中国東北地方)は大混乱に陥り、満州国も関東軍もあっという間に崩壊し、軍人、官僚・満鉄幹部らは我先に逃げ出し、国策で送り込まれた移民は無防備のままに苦しい逃避行を余儀なくされた。それが、どれほど悲惨なものであったかはよく知られている通りである。その悲惨な事態も、日米開戦と同時に三十万近くにのぼる日系移民を置き去りにして、日本の在外公館の役人たちがサッサと引き揚げてしまった事実を考えれば十分予測できたことかもしれない。少なくとも問題の根は繋がっているのである。

利用された移民問題

そもそも日本は明治維新以後、1970年代初頭まで、何故移民を海外に送り出し続けてきたのか、その問題を解明することがなければ「繋がっている問題の根」は見えてこない。日本が明治維新以後、南北アメリカ、中国大陸、フィリピン、南洋諸島など海外に送り出した移民の総数は百数十万(これには日本が植民地支配した朝鮮や台湾からの移民は含まれない)にのぼるという。そして、その移民の多くは国策として送り出された移民であった。

そうした国策を採用した根拠は、幕末から明治期に一部の知識人が唱えた「海外雄飛論」という誇大妄想的議論は置くとして、人口過剰という認識が下敷きにあったといってよいであろう。実際、日本の人口は、江戸時代には約三千万人で推移していたが、明治維新以後急激に増大し、1920年代末には六千万を越えた。この急激な人口増加が、マルサス主義的な人口過剰論となり、海外移民を政策的に推進させる背景となった。

財閥支配と地主制に起因する国内市場の狭隘さが、人口過剰という現象を生み出す根本原因であることを隠蔽し、帝国主義政策を推進しようとする勢力が、国策による海外移民政策を推進したのである。

移民の募集にあたっては、甘い夢のような未来が待っているというような虚偽宣伝が行われ、現実の厳しさは覆い隠され、移住以後はほとんど面倒を見ないという実態も少なからずあった。満州移民に至っては、敗戦間近の1945年8月まで移民が送り込まれ、言語を絶する惨状が現出したということは覚えておかなければならない事実であろう。

戦争末期にあれだけ悲惨な現実を突き付けられたにもかかわらず、移民政策は戦後も継続された。その背景には、またしても人口過剰論があった。1950年の『文藝春秋』誌上で行われた金森徳次郎・嘉治真三・長与善郎・鈴木文史朗の座談会で、こんな発言があった。「こんなに人口がどんどん殖えていったら、生活水準が下がらざるを得ない。十年経つと人口一億になるんですよ」とか「自然にこのまま人口を増していって日本人が仕合せになるかどうか。十年後に一億になってしまえば、二進も三進もできなくなってしまう」というのである。ここで直接移民の問題を論じているわけではないが、戦後在外日本人の帰還が進み、荒廃した国土で職も確保できない状況が続いて、政府も「過剰人口問題」の解決策として海外移民の再開に向けて動き出していたのは、紛れもない事実である。

実際、帰還した移民に「祖国」は決して優しくはなかった。国内の寒冷地や高地に開拓移民として送り込まれ、再び過酷な開拓事業に取り組まなければならなかった者も少なくなかった。また、戦後、海外移民事業が再開されると、それに再び応募して再度海外渡航した「元移民」もいた。

こうした人口過剰論が誤っていたことは、戦後の事実(国内市場の拡大と雇用の増大による過剰人口の解消)によって証明されたといってよいだろうが、移民に関するイメージの問題は残った。移民は、貧困・窮乏というような否定的な観念と結び付けられ、一種の賭けのようにみなされることが少なくなかったのである。送り出す方は、「口減らし」に似た感覚で、いくばくの罪悪感を持ち、他方成功者が出れば僻みを伴う羨望の眼差しを向けるという不幸な関係が生じたのではないか。だから、戦争の結果であれ、無一物で帰還した移民に対する目にも、「勝ち組」に対するような侮蔑の色がにじむことを抑えられなかったのではないか。そういう移民に対するイメージはおそらく一朝一夕には変えられないであろう。

また、「人口過剰論」に基づく移民政策は、国家や民族の生存というようなナショナリスティックな観念と結び付けられると、受け入れを拒否したり、制限したりしている外国への攻撃的態度を強めることにもなる。1924年に制定された、アメリカ合州国の「排日移民法」をめぐる日米関係の悪化の際に見られた事態がその典型である。

実は、「排日移民法」といわれるものは、日本側の俗称であり、「アメリカ連邦移民・帰化法の一部改正」(1924年移民法)というのが合州国での正式の呼称であり、日本人だけを対象にした法律ではなかった。排除されたのは、白人以外の全人種であり、中国人に対してはそれ以前から「中国人排斥法」が制定されており、非白人で例外扱いされていた日本人も排除の対象に含まれることになったというのが実状であった。

詳しい説明は省くが、その改正は、合州国の白人中心主義、第一次世界大戦後のモンロー主義がその背景にあり、人種差別的対応であることは間違いないが、それをことさら「排日移民法」と呼び、反米世論を盛り上げようとしたのは日本政府及び当時のマスコミであったことも認めなければならない。そして、この時醸成された日本国民の反米感情が、後の日米開戦への下地となった、あるいは日米開戦やむなしという世論形成に繋がったといっても過言ではない。

移民問題は、このように送り出し国でも受け入れ国でも、排外主義的ナショナリズムの宣伝に利用される危険性を常にはらんでいる。そうした宣伝合戦の中で、常に危険を背負わされ、情勢の変化に翻弄され続けてきたのは移民として他国に渡った人々である。そして、歴史の示すところによれば、その危険は、戦争という事態の中で、言語を絶する過酷な体験となって現実化した。

移民の歴史から学ぶべきこと

ところで、日本は、昨年末、「出入国管理及び難民認定法の一部を改正する法律」を国会での十分な議論を経ず、強行採決によって成立させた。これによって、日本はこれまで以上の多数の外国人労働者を受け入れることが可能となった。政府は、この改正によって受け入れることになった外国人労働者は「移民」ではないと強弁しているが、実質的に移民の受け入れに大きく舵を切ったと見られている。トランプ大統領の合州国や少なからぬヨーロッパ諸国が移民・難民排斥に動いている時に、それに逆行するかのような動きである。これは、日本が他国人に対して開放的になったということかというと、決してそうではない。

今度の改正は、人口減に伴う労働力不足を補うためであって、受け入れは出稼ぎ型労働者に限定しようという意図が見え見えである。難民については依然として厳しい制限を維持したままであり、外国人労働者についても家族の帯同を許可せず、定住許可や帰化の条件もほとんど緩められてはいない。外国人労働者に対する非人道的扱いを改めるための措置は、なんら具体的に示されないまま、受け入れの拡大だけが先行的に決定された。

かつて人口過剰を理由に、海外移民を推進し、海外に行ってしまえば自己責任とばかりに移民の保護を放棄してきた国が、今度は人口減少による労働力不足のために他国人を呼び込もうという国になった。その国の政治家・官僚・企業経営者達には、人間は口減らしの対象か、単なる労働力としか見えないのであろう。自国からの移民に対して政治的に利用することはしても、なんら保護の手段を講じようとしなかった国が、他国からの移民にたいして人間として正当な扱いをするようには到底思えない

移民の歴史から学ぶべきことがあるとすれば、それは自国であれ、他国であれ移民の一人一人に対して人間として正当な扱いを保障すること以外にはありえない。そういう方向への第一歩は、まず移民の歴史を知ること、そして貧困や窮乏に結びつけられた移民についてのマイナスイメージを払拭することから始まるのではなかろうか。

きつかわ・としただ

1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任。現在名誉教授。本誌前編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)、『丸山真男「日本政治思想史研究」を読む』(日本評論社)など。

 

 

  

 


人間革命とは

2025年01月28日 10時04分22秒 | その気になる言葉

▼使命を「自覚」した人は強い。

▼「人間革命」を目指すことが真の幸福の道である。

▼にせものの幸福は、人を図に乗らせ、醜く、傲慢にする。

こんものの幸福は、人を歓喜させ、知恵と慈悲でみたす」タイ王国のことわざである。

非常に単純なようで、非常に深いことわざである。

「にせの幸福」とは外面を飾る幸福である。

「ほんものの幸福」とは、自分の中から、内面から湧いてくる幸福である。

「ほんものの幸福」とは、より豊かな自分に「変わっていこう」とする幸福である。

つまり、人間革命である。

これからの社会・世界は、絶対的幸福、いなわち人間革命を追及していかなくては、真の安定も、平和も、幸福もありえない。

人間が真から変わらなけれ、犯罪や紛争や戦争は絶対になくならない。

それこそが自明の真実なのだ。


分かりやすさ

2025年01月28日 09時42分35秒 | その気になる言葉

いくら言葉を発しても、受け手が理解できなければ、すれ違いが生じる。

他者と関わって生きる社会において、分かりやすさを心がける発信側の努力が大切だ。

仏教が階級や地理的壁を越えて広まった要因の一つとして、親しみやすい表現を用いたことだ。

釈尊は、当時の趣味の言葉で法を説いた。

日蓮も巧みな比喩を駆使して難解な仏法哲理を伝えた。

「冬は必ず春となる」

わかりやすい言葉で、多くの民の心を奮い立たせた。

「いかなる試練も必ず勝と越えられる」と励ましたのである。

その本質は、単なる伝える力の向上だけではなく、釈尊や日蓮が平易な表現に努めたのも、<目の前の一人を何としても苦悩から救いたい>との慈悲の発露にほかんらない。

相手の幸福を願い、真心で思いをはせる言葉・説法に、その人の心に響く言葉が紡ぎ出される。

そして、心を結ぶ語らいによって、自らが気付いていなかった仏法の魅力を感じることができる。

他者を思う対話の実践こそ、自他共の成長築く直道である。

―自らの言葉で、縁する友に生き生きとわかりやすい言葉で伝えるのである。

「わかりやすい」を漢字で表すと「分かり易い」となり、「分かる」は「物事を理解すること・さとり」、「易い」は「簡単だ・やさしい」という意味を持ちます。

「わかりやすい」は形容詞です。 そのほかの活用形には連用形の「わかりやすく」や、接尾語「さ」によって体言化した終止形の「わかりやすさ」があります。 「わかりやすい」を用いる場面は、その対象によって様々です。


フィンランの国防

2025年01月28日 09時33分54秒 | 社会・文化・政治・経済

ロシアと約1300㌔もの長い国境

人口約560万人の人口。

シェルターは5万か所もある。

フィンランド国防軍フィンランド語Puolustusvoimatスウェーデン語Försvarsmakten英語Finnish Defence Forces, FDF)は、フィンランド軍隊の三軍種からなる[1]

『ミリタリーバランス』によると兵員数は陸軍1万6000人、海軍3500人、空軍2700人[1]徴兵制が18歳以上の男性に適用され、総人口約560万人のうち有事には約28万人を動員できる[1]

第二次世界大戦期、ソビエト連邦との冬戦争継続戦争ナチス・ドイツとのラップランド戦争[1]のほか、ロシア革命に伴う建国直後にはフィンランド内戦を経験した。

組織

フィンランド国防軍は陸海空三軍と参謀本部からなっている。全ての軍は武官である国防軍司令官の指揮下にあり、国防軍司令官は大統領直隷となっている。フィンランドの政府で軍事を担当する省庁は国防省である[2]バルト海での沿岸警備隊機能を併せ持つ国境警備隊フィンランド語版英語版[2]内務省の下にあり、有事には国防軍の一部として組み込むことができる。

陸軍は2008年1月の初め、東部方面、西部方面、北部方面の3つの防衛管区から4つの防衛管区に再編成された。新しいシステムでは、各防衛管区司令部は防衛地区組織を指揮し、各防衛管区で編成された旅団をも指揮する。各防衛地区は徴兵、予備役召集・訓練、有事の際の郷土防衛を行う。各防衛地区は行政単位と対応しており、軍民の協力を容易にし、「総力での防衛(トータル・ディフェンス)」を実施する。

海軍は海軍本部のほか、多島海管区、フィンランド湾管区からなっている。ミサイル艇掃海艇機雷敷設艦が主力である。警備用艦船のほか、海岸防備地上部隊を有し、海兵隊組織としてウーシマー旅団が編成されている。

空軍は空軍本部、支援部隊とサタクンタ管区、ラップランド管区、カレリア管区の3つの管区からなっている。平時はフィンランドの領空を警備し、戦時には航空戦を実施する責任を負っている。

国防政策

フィンランド人は、諦めない心を意味する「シス」という国民性で知られ、冬戦争と継続戦争では結果として国土の1割をソ連に割譲することになったものの、講和後は東欧諸国のようにソ連の衛星国にならず、独立を維持した[3]

東西冷戦ソビエト連邦の崩壊後の約30年は中立政策をとってきた[1]

ただしソ連崩壊直後から徐々に西側諸国へ接近し、1994年に北大西洋条約機構(NATO)の平和のためのパートナーシップ協定に参加して平和維持活動に参加[4]し、1995年には西隣のスウェーデンとともに欧州連合(EU)に加盟した[3]2022年ロシアによるウクライナ侵攻を受けて同年5月、西隣のスウェーデンとともに北大西洋条約機構(NATO)加盟を申請した[5]

フィンランドは侵略された場合に抵抗する軍事力を保有するとともに、首都のヘルシンキ地下鉄の駅や公共施設などを防空シェルターとして整備してきた[6]。2022年6月9日には、難民の送り込みなどロシアのハイブリッド戦争に備えて、フェンス設置など国境警備の強化策を公表した[7]。高さ3メートルで有刺鉄線付きのフェンスの設置作業はフィンランド国境警備隊により2023年2月28日に開始され、約1300キロメートルあるロシアとの国境のうち、南東部を中心に約200キロメートルにわたり3-4年間で展開する予定である[8]

兵役

18歳以上の男性は徴兵され、兵役期間は165日、255日、347日である(2013年の法改正による 短縮後の日数)[1]。兵役後も、国防省関連団体の国防訓練協会で射撃の技能を維持する人もいる[5]

年間約27000人の新たに徴兵された兵士が訓練されており、80%が兵役を完了させる。1995年から女性が志願して兵役につくことや将校となることも認められるようになった。女性の志願者には入営後に6週間の猶予期間が与えられ、この間には自発的に志願を取り下げることができる。女性はすべての戦闘兵科で勤務することができ、ここには特殊部隊や第一線の歩兵部隊も含まれる。

学業や仕事、その他の個人的な理由で現役を28歳まで遅らせることもできる。徴集兵は宿泊所、食料、衣服、健康のケアを提供されるほか、勤務期間に応じて一日5から11.70ユーロを報酬として受け取っており、国は家賃と電気代も支払っている。また兵役者に家族がいれば、給付金の権利も与えている。女性の志願兵には下着その他の必需品を自弁調達するために追加の給付金がある。労働者の権利をまもるために、従業員を現役への応召や、予備役再訓練のための休暇などで解雇することは違法としている。

兵士は最初に基礎訓練を受け、その後各々の特別訓練のため種々の部隊に割り当てられる。特別な訓練や技能を必要としない軍務に割り当てられた兵卒は6か月で現役を終える。技術の為に訓練の必要な軍務の場合は9か月から12か月を要する。また、NCO(下士官)や士官訓練を選択すると現役は12か月に延びる。これらの現役の満了時に、受けた訓練や功績によって兵長伍長軍曹少尉などの予備役階級を取得する。

現役の勤務は、学科、実地訓練、種々の清掃、保守点検作業、野外演習などで成り立っている。起床は6時であり、食事と休憩を含み軍務は12時間、午後には少しの自由時間もある。午後9時には点呼があり、10時に消灯、この後は騒いではならない。週末、金曜日から日曜の深夜にかけて大多数の徴集兵には兵舎を出る許可が下り、自由な時間を与えられる。徴集兵の一部は週末も、切迫した状況での民間機関に対する支援や、施設内の警衛、有事の際の兵力維持のため引き留められる。野外演習は時間や日を問わずに続けることができる。

現役のあとは予備役となり、階級によって50歳か60歳に予備役を終える。また、予備役兵は階級によって総計40、75、100日の軍の再訓練に加わる義務がある。さらに、全ての予備役兵はフィンランドに対して軍事的恫喝があったときや大規模な悪性流行病が蔓延した際には、戦時体制をとり緊急に動員される。特定の議会決議があった場合、50歳を超えた予備役に属さない男性も含め完全に徴集される。

兵員の訓練はjoukkotuotanto-principle((兵力の)大量生産の原理)に基づく。この計画に基づいて、徴集兵のうち80パーセントは、戦時編成下において特定の役割を果たせるよう訓練を受ける。旅団規模の部隊は現役時から任務を割り当て、任務を果たせる予備役兵を供給する責任を負っている。有事の際、予備役兵は現役時の訓練によって部隊への配置をうけ、現役中であれば部隊に新しく供給され様々な軍務や設備へ配置される。一般的に、有事の際、予備役兵になってからの5年までであれば前線部隊に配置され、それよりあとはだんだんと被害の少なくなる軍務へ配置されることが多い。部隊での勤務が不可能な者は配置外で勤務させる。再訓練時、これらの義務によって新しい訓練を与えられ、防衛力はこれによって成り立っている。

フィンランドは徴兵制を施行する国であるが、兵役を免除される場合もある。非武装地域であるオーランド諸島の居住者は兵役を免除されている。1950年代の徴兵法では、沿岸警備の為に地元で兵役につくことになった。しかしながら、この制度は現在廃止され、兵役の義務からは解放されている。しかしオーランド諸島でも非軍事のボランティアの義務は変わっておらず、変更の計画もない。オーランド諸島の住民はいつでも志願して本土での兵役につくことができる。その他の理由で兵役から免除された人の多くは宗教団体エホバの証人の信者である。また、良心的兵役拒否が可能であり、徴兵を受ける代わりに270日から362日の非武装での軍役や12か月のボランティアで代替役務が制度化されている。しかし、いかなる形でも国防に協力しない男性(代替役務も完全に拒否)には法律で197日の懲役刑が与えられる。

階級

フィンランドの士官の階級は西側諸国で使われているものと同等であるが、フィンランドの特徴として、英語のLieutenantにあたる階級(Luutnantti)が1段階多く、尉官が4ランクある(少尉、中尉、上級中尉、大尉。海軍の場合は少尉、中尉、大尉、上級大尉となる。)ことが挙げられる。少尉は予備役士官の階級であり、現役の場合中尉に任官になる。

下士官階級はドイツ式であるが、いくらかの違いもある。

  • 准士官待遇のままであっても大尉相当まで昇進できる。
  • 職業下士官は准士官まで昇進できる。
  • 在郷予備役は下士官および少尉待遇で扱われる。
  • 徴兵されたものは兵、軍曹、士官学校生徒の扱いである。

戦時は予備役下士官も下士官義務を負う。

 

「パリ協定」からの離脱 トランプ大統領

2025年01月28日 09時20分39秒 | 社会・文化・政治・経済

トランプ大統領「パリ協定」から離脱する大統領令に署名

アメリカのトランプ新大統領は「私はただちに不公平で、一方的なパリ協定から離脱する」と述べて、地球温暖化対策の国際的な枠組み「パリ協定」から離脱する大統領令に署名しました。

「パリ協定」をめぐっては、トランプ大統領が1期目の政権時に「アメリカの製造業を制約する不公平な協定だ」などと主張して離脱し、その後、バイデン前政権で復帰していました。

大規模風力発電所のリースを終了

アメリカのホワイトハウスは、トランプ大統領のエネルギー政策として、自然の景観を損ないアメリカの消費者に奉仕しない大規模な風力発電所に対するリースを終わらせると発表しました。

トランプ氏はこれまでバイデン前政権が進めてきた気候変動対策を転換させると訴えてきました。

国連事務総長 州・企業レベルでの温暖化対策に期待

アメリカが地球温暖化対策の国際的な枠組み、「パリ協定」から離脱すると発表したことについて、国連のグテーレス事務総長は20日、コメントを発表しました。

このなかでグテーレス氏は「アメリカ国内の都市や州、企業が他の国々とともに、低炭素で強じんな経済成長に取り組み、引き続きビジョンとリーダーシップを発揮することを確信している。アメリカが環境問題のリーダーであり続けることは極めて重要だ」として、トランプ新政権がパリ協定から離脱しても、アメリカの州政府や企業のレベルで温暖化対策が続くことに期待を示しました。

浅尾環境相 “残念に感じるが脱炭素の方向性は揺るぎない”

 

トランプ氏がアメリカの大統領に就任し地球温暖化対策の国際的な枠組み「パリ協定」から離脱する大統領令に署名したことなどについて、浅尾環境大臣は閣議後の記者会見で「アメリカのパリ協定からの脱退のいかんにかかわらずパリ協定を着実に実施することの重要性は損なわれていない。脱退表明について気候変動問題を担当する私自身としては残念に感じているが、わが国は2050年ネットゼロに向けた脱炭素と経済成長との同時実現を目指した取り組みを国を挙げて進めていて、この方向性は揺るぎがないものだ」と述べました。

その上で、「世界の気候変動対策への米国の関与は引き続き重要であり、環境省としてはさまざまな機会を通じて米国との協力について探求していく」と話しました。

また、アメリカのパリ協定からの離脱が国際社会に与える影響については「余談をもって答えることはできない」とした上で、「脱炭素の取り組みに関してはアメリカの地方政府や経済界にも広く浸透していて現在、世界的な潮流となっている。アメリカとしてもこれまで温室効果ガスを減らしてきたということをパリ協定からの離脱の大統領令の中でも触れているので、引き続きそういったことについて取り組んでもらえるというふうに思っている」と話しました。

日本で環境教育の若者団体“横の連携強化を”

 
「SWiTCH」代表 佐座槙苗さん

トランプ氏がアメリカの大統領に就任し地球温暖化対策の国際的な枠組み「パリ協定」から離脱する大統領令に署名したことなどについて、子どもたちへの環境教育などに取り組む日本の若者団体からは「アメリカはパリ協定を離脱するが、諦めるのは早く、環境への取り組みで今まで以上に横の連携を強化していくことだ大事だ」といった声が聞かれました。

子どもたちへの環境教育などに取り組む日本の若者団体「SWiTCH」代表の佐座槙苗さんは2024年のCOP29で日本政府団の民間のメンバーとして現地に入り世界の気候変動の問題などをめぐって各国の若者と交流しました。

トランプ氏は就任式で気候変動対策を優先課題としていたバイデン政権から方針転換して化石燃料を増産する考えを強調しその後、地球温暖化対策の国際的な枠組み「パリ協定」から離脱する大統領令に署名しました。

これについて佐座さんは、「パリ協定の離脱は国際関係に大きなインパクトを与え、本来であればアメリカが途上国を支援する資金がなくなると思います。ヨーロッパや日本がどれだけカバーすることができるかなど、私たちが国際社会においても重大な責任を担うことになるのではないか」と述べました。

その上で、「世界の若者たちには『地球が本当に危機的な状況だ』という認識がすでにあります。去年のCOP29でアゼルバイジャンの会場に行ったときも、予想されたアメリカのパリ協定離脱に対し『今まで以上に横の連携を強化しないといけない』という意識が本当に強かったです。実際にアメリカ国内でも『パリ協定は守らないといけない』と信じて頑張っている自治体や団体はたくさんあるので、そうした団体などとのパートナーシップをもっと促進していこうという話がわたしたちの間で上がっています」と話しました。

そして、「トランプ大統領の4年の任期が終わったあとに、アメリカがまたパリ協定の中に入り直す可能性は高いと思います。その準備のためにも、今までパリ協定を支持してきた人たちをサポートし、強化していくよいタイミングだと思っています。気候危機でいちばんインパクトを受けるのは途上国や南半球の人たち、そして私たち若い世代です。アメリカはパリ協定を離脱しますが、諦めるのは早いと思っています」と話していました。

専門家 “市民や国際社会が連携して対策 一層重要に”

 

トランプ氏がアメリカの大統領に就任し、地球温暖化対策の国際的な枠組み「パリ協定」から離脱する大統領令に署名したことなどについて、気候変動問題の国際交渉に詳しい東京大学未来ビジョン研究センターの高村ゆかり教授は「世界全体で温室効果ガスの排出量を減らす必要がある気候変動問題では国際的な協調が非常に重要になる。このため世界第2位の排出国であり外交上も非常に重要な位置を占めているアメリカが、気候変動対策の国際的な要であるパリ協定から脱退することは、残念ながら、少なからず世界の気候変動対策に影響を与えることになる」と指摘しました。

具体的には、アメリカを含めた先進国が資金を提供しなければ、途上国が温室効果ガスの排出削減のために十分な取り組みができなくなるとした上で、「アメリカの資金支援の撤回は世界の排出削減対策を停滞させるのではないかと懸念する」と述べました。

その一方で、「気候変動の影響やリスクが深刻化していることを受け、多くの国が温室効果ガスの排出をゼロにする長期目標を持って対策を進めている。さらに、企業や金融機関も気候変動のリスクを自らの事業や資産へのリスクとして捉え、取り組みを進めてきているのは第1期のトランプ政権との大きな違いだ」と指摘し、「アメリカ国内でも企業や金融機関などによる『気候変動対策を自分たちで先導していこう』という取り組みは続いている。アメリカのパリ協定からの脱退で世界の排出削減対策が止まってしまうわけではない」と話しました。

そして、「アメリカの不在によって起こりうる問題に対し、市民社会や国際社会が連携して気候変動対策に取り組んでいくということが一層重要になってくる」と述べました。


微力だが無力ではない

2025年01月28日 09時13分51秒 | その気になる言葉

渋沢栄一が子孫に残した「言葉」とは

「微力だけど、無力じゃない」

この言葉を講演でよく使っています。

さらに、「微力も集めれば勢力になる」 と、渋沢栄一翁の考えから、その新たな意味を教えてくださったのが渋澤健さんです。

これは、渋沢栄一の合本主義である「一滴一滴が大河になる」という考えに共振しています。

一滴は微力であり、何もできない。けれども共感による足し算、共創による掛け算により勢力になれる。
1)「シビれたフレーズ」


・信用は実に資本であって、商売繁盛の根底である

・大切なのは、世の中のために正しいことは何かを見極めること

・目的には、理想が伴わなければならない。その理想を実現するのが、人の務めである(無欲は怠惰の基)

・一時の成敗は長い人生、価値の多い生涯における泡沫のごときものである。(成功や失敗は、心を込めて努力した人の身体に残ったカスと同じ)

1回1回の小さな成功、失敗などにこだわる必要はどこにもなく、大事なのは「心を込めて努力をしているかどうか」という点に尽きる

・すべての世の中の事は、もうこれで満足だという時は、すなわち衰える時である

・真似はその形を真似ずして、その心を真似よ

・「お金がないからできない」を禁句にしろ!(お金は「志」に集まってくる)

・習慣というものは、善くもなり、悪くもなるから、別して注意せねばならない

・洋の東西を問わず、また時代を問わず、知情意(知:自分の会社の経営状況を把握する、情:情熱、意:世界一になる)が経営者をはじめとする組織のリーダーにとって必要な要素、そしてこれは、努力次第で何とかなる。

・1人で考えるだけでは突破口は開けない

・禍いの方ばかりを見ては消極的になりすぎる

・本当に伝えたいこと、成し遂げたいことがあるなら、言葉なんて片言でも相手に伝わるもの

・できるだけ多くの人に、できるだけ多くの幸福を与えるように行動する

・お金は「ありがとう」をつなげる接着剤のようなもの

・「我々は微力であるかもしれない、けれども決して無力ではありません」

【渋澤 健さんからみた渋沢栄一】会社を上場させて創業者利益を得ようと言った気持ちは微塵もなく、立ち上げた500社の会社はみな、日本の将来にとって必要な産業ばかりだった。一切の私利はなかった。

商売で儲けようと思ったら、「少々、道徳に反することでも、まあ致し方ない。慈善活動じゃないから」などど考えてしまいがち。

逆に、道徳ばかりを重視していると、「儲かる案件も儲からなくなる」かもしれない。

「論語と算盤」は相反するが、そのどちらも商売繁盛には欠かせない。


2)「あなたの気づき」


未来を信じる力、世の中をよくするためという強い信念が、変化を起こす原動力になる。先が見えない今だからこそ、渋沢栄一の考え方が、私たちの指針になる。

”新しく事業を生み出す時、何の困難に直面することもなく成功する事はない。途中で躓くこともあるし、悩ましいこともたくさんある。こうした様々な苦難を経て、辛酸をなめて、ようやく成功をつかみ取れるもの。


3)「あなたが今月に実行すること」


「世の中にどう貢献できるのか?」明確に描いて言語化する

 


介護事業者の倒産が最多に

2025年01月28日 09時08分50秒 | 医科・歯科・介護

2024年「介護事業者」倒産が過去最多の172件 「訪問介護」が急増、小規模事業者の淘汰加速

 

2024年「老人福祉・介護事業」の倒産調査


 2024年の介護事業者(老人福祉・介護事業)の倒産が、過去最多の172件(前年比40.9%増)に達したことがわかった。これまで最多だった2022年の143件を29件上回った。ヘルパー不足や集合住宅型との競合、基本報酬のマイナス改定などが影響した「訪問介護」が過去最多の81件、多様化したニーズに対応できなかった「デイサービス」も過去2番目の56件、有料老人ホームも過去最多の18件と、いずれも増加した。

 高齢化が進むなか、人手不足の解消は容易ではなく、介護事業者の経営効率化は一刻を争う問題になっている。コロナ禍で悪化した経営を立て直せず、物価高の中で多様化するニーズや人材確保が難しい事業者の倒産は2025年も増加する可能性が高い。

 介護保険法が施行された2000年以降の介護事業者の倒産を集計した。2024年の介護事業者の倒産(負債1,000万円以上)は、過去最多の172件だった。介護事業者の倒産は、2016年に年間100件を超えた。コロナ禍も利用控えなどで増加をたどり、コロナ関連支援で2021年は一時的に減少したが、支援縮小とともに再び増加に転じ、2022年はデイサービスグループの連鎖倒産も重なり143件に達した。2024年はさらに上回る172件発生し、事態の深刻さが深まっている。

 原因別では、最多が販売不振(売上不振)の125件(構成比72.6%)で、破産が162件(同94.1%)と利用者減少から破産を選択せざるを得ない苦境がうかがえる。
 また、個人企業他を含む資本金1,000万円未満が149件(同86.6%)、従業員10人未満が143件(同83.1%)、負債1億円未満が134件(同77.9%)と、小・零細事業者の淘汰が目立つ。
 業種別では、「訪問介護」が過去最多の2023年の67件を上回る81件(前年比20.8%増)発生。デイサービスなど「通所・短期入所介護」は、約30社の連鎖倒産が押し上げた2022年(69件)に次ぐ56件(同36.5%増)。「有料老人ホーム」は最多だった2018年の14件を上回る18件(同350.0%増)と、主な3業種でいずれも高水準だった。

 超高齢者社会が本格的に到来するが、介護事業者の倒産は介護難民が生じる可能性もあり、社会問題化している。地域に根ざした小・零細事業者と大手事業者の共存を見出す一方で、効率化や協働化などの支援が急務になっている。

※ 本調査は、「老人福祉・介護事業」を対象に集計した。内訳は、訪問介護事業、通所・短期入所介護事業、有料老人ホーム、その他に分類。本調査は、介護保険制度が始まった2000年から、負債1,000万円以上の倒産を集計している。

「老人福祉・介護事業」の倒産件数 年次推移


原因別、売上不振が35.8%増の125件

 原因別では、利用者の獲得遅れなどが響いた「販売不振(売上不振)」の125件(前年比35.8%増、前年92件)が最多。次いで、赤字累積の「既往のシワ寄せ」15件(同200.0%増、同5件)、無計画や無謀な経営など「事業上の失敗」14件(同366.6%増、同3件)だった。
 うち「訪問介護」では、最多は「販売不振(売上不振)」の66件(同22.2%増、同54件)。

形態別、破産が9割超

 形態別では、破産が162件(前年比38.4%増、前年117件)と構成比94.1%を占めた。その他は、民事再生法(同66.6%増、同3件)と特別清算(同150.0%増、同2件)が各5件だった。
 うち「訪問介護」は、破産が80件(同19.4%増、同67件)。

負債額別、負債1億円未満が約8割

 負債額別では、1千万円以上5千万円未満の110件(前年比32.5%増、前年83件)。次いで、1億円以上5億円未満が29件(同70.5%増、同17件)、5千万円以上1億円未満が24件(同26.3%増、同19件)と続く。負債1億円未満の小・零細事業者が134件と全体の約8割(構成比77.9%)を占めた。
 うち「訪問介護」は、負債1億円未満が74件(前年比19.3%増、前年62件)。

従業員数別、10人未満が8割超

 従業員数別では、5人未満の103件(前年比37.3%増、前年75件)が最多だった。次いで、5人以上10人未満が40件(同48.1%増、同27件)で続く。10人未満が143件と8割超(構成比83.1%)と高水準で、介護事業者の倒産は小規模事業者が大半だった。
 うち「訪問介護」は、10人未満が77件(前年比35.0%増、前年57件)。

資本金別、資本金1千万円未満(個人企業他含む)が8割超

 資本金別では、1百万円以上5百万円未満の84件(前年比15.0%増、前年73件)。次いで、1百万円未満が29件(同222.2%増、同9件)、1千万円以上が20件(同185.7%増、同7件)だった。資本金1千万円未満(個人企業他含む)の小・零細事業者が149件と全体の8割超(構成比86.6%)を占めた。
 うち「訪問介護」は、1千万円未満が70件(前年比9.3%増、前年64件)。

 

2024(令和6)年 老人福祉・介護事業 都道府県別倒産状況

 

 


朝鮮併合の近現代史

2025年01月28日 08時56分44秒 | 社会・文化・政治・経済
韓国併合(かんこくへいごう、朝: 경술국치(庚戌國恥)/한일병합(韓日倂合)/국권피탈(國權被奪)、英: Japanese annexation of Korea)とは、ポーツマス条約の調印後、1910年(明治43年)8月29日に「韓国併合ニ関スル条約」へ基づき、大日本帝国が大韓帝国[注釈 1]を併合して統治下に置いた出来事を指す。朝鮮併合、日韓併合、日韓合邦とも表記される[1]。
 
日本による朝鮮半島の統治は大日本帝国がポツダム宣言による無条件降伏後も行われ、実質的には1945年(昭和20年)9月9日に朝鮮総督府が連合国軍への降伏文書に調印するまでの約35年間、韓国併合は続いた。1965年(昭和40年)、日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約にて韓国併合ニ関スル条約が失効した[2]。
 
概要
1910年(明治43年)8月22日に、韓国併合条約が漢城(現在のソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、同月29日に裁可公布により発効された。大日本帝国は大韓帝国を併合し、大韓帝国側の全借財を肩代わりしつつ、その領土であった朝鮮半島を領有した。
 
朝鮮歷史
朝鮮の歴史
考古学 朝鮮の旧石器時代
櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC
無文土器時代 1500 BC-300 BC
伝説 檀君朝鮮
古朝鮮 箕子朝鮮
辰国 衛氏朝鮮
原三国 辰韓 弁韓 漢四郡
馬韓 帯方郡 楽浪郡 濊
貊 沃
三国 伽耶
42-
562 百済
高句麗
新羅
南北国 唐熊津都督府・安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892 安東都護府
668-756 渤海
698-926
後三国 新羅
-935 後
百済
892
-936 後高句麗
901-918 遼 女真
統一
王朝 高麗 918- 金
元遼陽行省
(東寧・双城・耽羅)
元朝
高麗 1356-1392
李氏朝鮮 1392-1897
大韓帝国 1897-1910
近代 日本統治時代の朝鮮 1910-1945
現代 朝鮮人民共和国 1945
連合軍軍政期 1945-1948
アメリカ占領区 ソビエト占領区
北朝鮮人民委員会
大韓民国
1948- 朝鮮民主主義
人民共和国
1948-
朝鮮の君主一覧
大韓民国指定国宝
中国朝鮮関係史
Portal:朝鮮
1945年(昭和20年)8月15日、日本は第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)における連合国に対する敗戦に伴って実効支配を喪失し、同年9月2日にポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書調印によって、日本による朝鮮半島の領有は終了したが、大日本帝国がポツダム宣言による無条件降伏後も続いており、正式には9月9日に朝鮮総督府が連合国軍への降伏文書に調印するまで続いていた。[要説明]
 
条約上の領有権の放棄は、1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ平和条約発効によるが、1945年9月9日に朝鮮総督府が連合国軍の一部として朝鮮半島南部の占領にあたったアメリカ軍への降伏文書に署名し、領土の占有を解除した。代わりとして在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁(アメリカ軍政庁)が、朝鮮半島の統治を開始した。
 
その後、朝鮮半島は北緯38度線を境に南部はアメリカ軍、北部はソビエト連邦軍という2つの連合国軍を中心にした分離統治が続き、1948年(昭和23年)8月15日には、李承晩がアメリカ軍政庁からの独立を宣言して南部に大韓民国第一共和国が建国された。同年9月9日には、北部にソビエト連邦の後押しを受けた金日成を指導者とする朝鮮民主主義人民共和国が建国された。
 
なお「韓国併合」や「日韓併合」という言葉は、条約締結という出来事だけではなく、日本が朝鮮半島を統治し続けた継続的事実そのものを指すこともある。
 
冊封体制下の秩序と開国
当時の朝鮮半島を治めていた李氏朝鮮は、清朝中国を中心とした冊封体制を堅持していており、1869年に日本の明治政府が王政復古を朝鮮に通告したときも、中国の皇帝が朝鮮に下す「皇上」や「奉勅」などの言葉が用いられていることを理由に受け取りを拒否した。1876年の江華島事件を経て日朝修好条規が日朝間で締結されて国交は結ばれたが、日本は条約締結の際に朝鮮を清朝の冊封体制から離脱させるために「朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり」と記載させ、朝鮮を「属邦」とする清国と対立する下地が生まれた[3]。その後、李氏朝鮮は米国との条約提携を清朝に依頼し、天津で交渉にあたった李鴻章は「朝鮮は中国の属邦であるが、内政外交は自主である」という条文を盛り込むことを試みたが、アメリカ側が属国(属邦)と条約は結べないとして反対したため断念した。しかしながら、李氏朝鮮の高宗は「朝鮮は中国の属邦であるが、内政外交は自主である」とする照会を米国だけではなく、ドイツ・イギリスとの条約締結の交渉の際にも行った[4]。1882年10月4日に朝鮮は清国と中朝商民水陸貿易章程を締結し、清国の藩部であることを明言した。
 
開国後から日清戦争まで
開国後の李氏朝鮮では、衛正斥邪(欧米諸国を夷狄視して排斥し、鎖国を維持する)を是とする高宗の実父興宣大院君、朝鮮修信使として日本を訪問し、明治維新に感化された青年官僚(金玉均、洪英植、朴泳孝ら)たちの開化派、清国への臣属を主張する高宗の妃閔妃を擁する閔氏一族(閔泳翊ら)の事大党による政争が続いていた。
 
 
ジョルジュ・ビゴーの風刺画「魚釣り遊び」(Une partie de pêche) [注釈 2]『トバエ』1号 (1887.2.15) 魚(朝鮮)を釣り上げようとする日本と中国(清)、横どりをたくらむロシア。
1881年、衛正斥邪派は興宣大院君の庶長子李載先を擁して高宗を廃して閔氏一族の追放を企むが失敗し、李載先を含む30名が処刑された。翌年、興宣大院君は政権奪取を目論みクーデターを起こすが、金允植、魚允中の要請を受けて清国から派遣された丁汝昌と馬建忠によって鎮圧された。大院君は中国の天津に幽閉され、大院君派の官吏・儒学者は凌遅刑に処されて壊滅した(壬午軍乱)。10月、清国は朝鮮と中朝商民水陸貿易章程を結び朝鮮の属国化を進めると、馬建常とメレンドルフを政治顧問として朝鮮政府に送り込んだ。1884年に開化派によるクーデターが起こったが、清国の軍事介入により鎮圧されて開化派も失脚した(甲申政変)。これらの政変により、清国は朝鮮への影響力を強め、閔氏一族の後見となって政権を掌握させた。清国は日本と天津条約を結び、朝鮮に出兵をする際は双国とも事前通告することを約定して、朝鮮半島から撤兵した。
 
1885年、高宗が秘密裏にロシア帝国に支援を要請していることが露見する(露朝密約事件)と、清国は影響力を維持するため大院君を朝鮮に帰国させる。帰国した大院君は高宗を廃して嫡孫の永宣君を王位に擁立して自らは摂政に収まることを画策し、全琫準を通じて東学党との関係を深めていった。1894年6月、東学党が蜂起して全羅道を占領して閔妃政権の退陣を求める(甲午農民戦争)と、閔氏政権は自力での反乱鎮圧を諦めて清国に救援を依頼する。李鴻章は2,000名規模の陸軍を派兵したが、日本も天津条約の取り決めに従って邦人保護のために8,000名規模の混成旅団を派兵した。
 
反乱の鎮圧後、朝鮮は両国に対して撤兵を要求するが双方から拒否された。日本は朝鮮に独立国かの再確認を行い、朝鮮側から「自主国である」との回答が受けたことから、自主国である朝鮮に清国軍が駐留することは清国が朝鮮を属国として扱おうとする不当な動きとして批判し、日清間の緊張は高まった。また、日本は朝鮮政府に内政改革案を提示したが、閔妃一族は改革案よりも撤兵を求め、朝鮮王朝による自主的な改革を実施すると返答しため、閔氏一族との対立も深まり[5]、日本政府は興宣大院君を擁した新政府の樹立を目論むようになる[6]。
 
1894年7月23日、大鳥圭介駐朝鮮公使は大島義昌陸軍少将に師団を率いて漢城に入ることを指示[7]。大鳥も護衛兵を率いて朝鮮王宮の景福宮へ向かった。景福宮に到着すると朝鮮軍からの発砲を受けたが、日本軍の反撃を受けると朝鮮兵は相次いで逃走し、朝鮮軍は1時間ほどで霧散した[8]。
 
大鳥公使が本国に送った報告は次の通りである。
 
電信訳文 廿七年七月廿三日午前八時十分発午後三時七分着
 
東京 陸奥大臣 京城 大鳥公使
 
朝鮮政府は本使の電信に述べたる第二の要求に対し甚だ不満足なる回答を為せしを以て不得已(やむをえず)王宮を囲むの断然たる處置を執るに至り本使は七月廿三日早朝に此手段を施し朝鮮兵は日本兵に向て発砲し双方互に砲撃せり[9]
 
また、歩兵第32連隊第1大隊長名で1903年作成された「韓国京城駐剳隊歴史」には、この戦闘の様子が詳しく書かれている。
 
我兵は王城内に入らんとす。分ちて二隊と為し橋本少佐一隊を率ひて正門なる光化門に当り森少佐は後門なる彰化門に向ひたり。而して正門の一隊は先づ門前に構へたる親軍壮衛営に駐屯せし韓兵を吶喊の声の下に逐ひ散らし勢に乗じて門壁を摩し銃床を乱敲しつゝ連りに吶喊すれば後門の一隊も之に応じて鯨波を作り或は空砲を発して犇き渡れり。[10]
 
戦闘終了後、朝鮮王朝の臣下は多くが逃走し、国王の高宗は身を潜めていたところを日本軍に保護された[11][12]。高宗は大島に「(国王である自分は)日本の改革案に賛同していたが、袁世凱の意向を受けた閔氏一族によって阻まれていた」と釈明し、改革を実現するために興宣大院君に国政と改革の全権を委任すること提案に同意した[13]。同日のうちに大院君は景福宮に入って復権を果たしたが、老齢の興宣大院君は時勢に疎く政務の渋滞が見られたため、杉村濬京城公使館書記官が新政権の首相たる領議政の役職に金弘集を推挙すると、大院君はこれに従った[14]。朝鮮政府は日本政府に対して牙山に駐屯する清軍を撤退させることを要請を行った[6]が、朝鮮王朝は清国の報復に怯えて清国との絶縁などの日本の要請を拒み続けており、大鳥圭介の強硬な態度に屈して日本の要請に応じたが、その内容は大鳥を落胆させるものであった[15]。しかしながら、清軍を朝鮮から退去させるために日本軍が攻撃する名分を得ることができたため、日本は戦争の開戦準備を始める。
 
1894年7月25日、朝鮮の豊島沖で日清間の武力衝突(豊島沖海戦)を契機に日清戦争が勃発し、勝利した日本は清国と下関条約を締結し、朝鮮が自主独立国であることを認めさせ、朝鮮半島における清国の影響を排することに成功した。
 
高宗の親露政策と大韓帝国の成立
日清戦争直後の朝鮮半島は、清国と結んでいた閔氏一族が失脚し、復権した開化派は金弘集を総理大臣として朝鮮史上最初の憲法である「洪範14条」を制定して甲午改革が推進したが、フランス、ドイツ帝国、ロシア帝国による下関条約に関する干渉に日本が屈すると、ロシア帝国と結んだ高宗の妃閔妃の影響力が強まり、金弘集内閣の兪吉濬や金嘉鎭などが相次いで追放された。失脚していた大院君は開化派の禹範善を介して日本と結んでクーデター(乙未事変)を起こして閔妃を殺害して復権を果たすが、残された事大党(李範晋ら)は妻を殺害された高宗を味方につけて、1895年にクーデターに失敗(春生門事件)するも、1896年にロシア軍の支援を受けて高宗をロシア公使館に移して実権を握り、高宗により金弘集らの開化派の閣僚は処刑され、親露派内閣による執政が行われた(露館播遷)[16]。ロシアの威光を背景に皇帝の専制を推進する高宗に対抗して、開化派は独立協会を設立して、朝鮮が清の冊封国として設けた慕華館、迎恩門を独立館、独立門と改め、開化思想と自主独立の啓蒙に努めた。
 
朝鮮半島を巡って悪化した日露関係を改善するため、小村寿太郎駐朝鮮国公使とウェーバー駐朝鮮国ロシア公使との間に協定が結ばれ、高宗は1897年(明治30年)2月にロシア公使館から慶雲宮に帰還した[17]。1897年(明治 30年)10月12日、高宗は自ら皇帝に即位して国号を「大韓」と改めた。高宗はロシアの力を借りて専制君主国家の成立に取り組み、ロシア公使アレクセイ・ニコラビッチ・シュペイエル(en:Alexey Shpeyer)の要請を受け、度支部(財務省)の顧問を英国人ジョン・マクレヴィ・ブラウンからロシア人キリル・アレキセーフ(Kiril A. Alexeev)へと交代させ (度支顧問事件)、1898年2月には露韓銀行を設立させた[18]。また、1898年1月には対馬と近い釜山の絶影島にロシアが太平洋艦隊の石炭庫基地を租借を要求する事件が起きた (絶影島貯炭庫設置問題)[19][20]。開化派は、中心人物の徐載弼が中枢院顧問から解任・国外追放され、1898年2月に、ロシア、日本などからの自立を求めた上疏が黙殺されるなど冷遇を受けた[21]。また、大院君も高宗に諫言を行ったが、「倭奴(日本)の何か事場を醸すの処あっての事なるや」「露国は朕に親切にして、且つ後楯を為せり。」と一蹴された[22]。独立協会を引き継いだ尹致昊は市民の街頭集会(万民共同会)を通じて議会設立を求める運動を推進したが、高宗も褓負商 (行商人) を動員して皇国協会を設立して対抗した。1899年1月、高宗が独立協会に解散命令を下すと会長の尹致昊は米国公使館に逃げ込み、開化派は壊滅した。1898年4月に日露間で西・ローゼン協定が結ばれ、両国は韓国の国内政治への干渉を差し控えることが定められた。高宗は皇帝の専制政治を目論んで光武改革と称する政治運動を進めようとするも、しかし、1898年7月には皇帝譲位計画が、9月には金鴻陸による高宗・皇太子暗殺未遂事件(毒茶事件)が起こるなど臣下の離反が相次ぎ、王室の財源を確保するための経済政策も国民の支持を得ることができないまま、早々に破綻してしまった。
 
光武改革
 
李朝時代の西大門(1903年)
1899年(明治 32)8 月、高宗は「大韓国国制」を発布し、皇帝は統帥権、法律の制定権、恩赦権、外交権など強大な権力を有することが定められ、皇帝専制による近代化政策(光武改革)が進められたが、韓国独自の貨幣発行は失敗して財政は悪化した(後述の「財政問題及び偽白銅貨の流通」を参照)。韓国政府により京城~木浦間に鉄道を敷設する計画も発表されたが、資金不足により実現に取り掛かることはできなかった。また、光武量田事業と呼ばれる土地調査を実施し、封建制度の基礎となる土地私有制を国家所有制に切り替え、近代的地税賦課による税収の増加を目論んだが、土地所有者たちへの説明が不明瞭なまま強引に推し進められたことや経費の不足から徹底することができないまま、日露戦争の勃発により事業は終了した[23]。
 
イギリスの旅行作家イザベラ・バードは、光武改革について著書『朝鮮紀行』で以下のように述べている。
 
朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。官吏階級は改革で「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、首都と同質の不正がはぴこっており、勤勉実直な階層をしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈していた。このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。「搾取」 と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。
—イザベラ・バード、『朝鮮紀行』講談社〈講談社学術文庫〉、1998年、pp.343 f
財政問題及び偽白銅貨の流通
→詳細は「兪吉濬陰謀事件」を参照
当時の白銅貨には、典圜局製造の「官鋳」、正式な特別許可による外製の「特鋳」、韓国皇室の内々の勅許 (啓字公蹟) による外製の「黙鋳」、密造による「私鋳」があると見られていた[24]。韓国の帝室が納付金を徴して白銅貨の私鋳を黙許したため、大韓帝国において通用する白銅貨の偽物が日に増して流通し、その悪貨によって商取引に問題が発生していた[25]。また、大韓帝国においては偽造勅許証 (偽造啓字公蹟) が多く出回っており、それによる偽啓默鋳も行われていた。しかし、内密の勅許を暴露することは重罪であったため、民間人が白銅貨鑄造の勅命許可証の真偽を判断することは難しかった[26]。しかし、日本公使館は内密な手段によってこの真偽を確かめることができた[26]。
 
兪吉濬によれば、仁川監理の河相驥が白銅貨偽造に手を染めていたとされる[27]。金亨燮によれば、革命一心会に所属する兪吉濬が徐相潗や河相驥に白銅貨偽造を行わせたとされる[28][29]。その他にも啓字偽造により尹孝寬、丁徳天、李聖烈、洪淳学や、洪秉晋などが逮捕されている[30][31]。
 
また、当時は白銅貨や韓銭だけでなく、清の商人の発行する銭票や日本の商人の発行する韓銭預かり手形も韓国の市場に流通していた[32][33]。白銅貨低落の影響を受けた日本の在韓商人には、韓国の安定した貨幣制度の確立を望む者と、むしろ韓国通貨の低落を助長して日本貨幣の流通を拡張すべきだと主張する者が存在した[34]。1902年5月、日本の第一銀行は韓国において日本円との兌換が保証された第一銀行券を発行し[32]、韓国の親露派からの妨害があったにも関わらず、その信用は増していった[32][35]。
 
1904年10月、目賀田種太郎が財政顧問となり、同年11月、貨幣の原盤の流出元とみられる典圜局は廃止され、1905年7月、韓国は日本と同一の貨幣制度を採用し[36]、硬貨は大阪造幣局で鋳造されることとなった。
 
ロシアの南下と日露戦争
 
日露戦争の風刺画
ロシア帝国は南下政策の一環として、東アジアの領土拡張を推進していた。日本が日清戦争で勝利し、下関条約で遼東半島を割譲されると、ロシアはフランス、ドイツと共同で干渉を行って、遼東半島を返還させた(三国干渉)。同時にロシアは清と露清密約を結び、東清鉄道の敷設など満州への権益を確保、1898年には遼東半島の旅順港と大連湾、威海衛を租借して植民地化を進めていった。また、露館播遷以降は朝鮮半島にも進出を始めていた。1900年には義和団の乱に乗じてロシアが満州を軍事占領し(満洲還付条約)、ロシアの南下政策に対して、日本は満州でのロシア帝国の優越権朝鮮半島での日本の優越権を相互に認めあう満韓交換論を主張する元老の伊藤博文と、ロシアを信用せずに欧米列強と協力して対抗するべきと主張する元老の山縣有朋が対立していた。1901年、第4次伊藤内閣を退けて、山縣の側近である桂太郎が第1次桂内閣を組閣すると、桂は内閣の目標の中に「日英同盟の締結」と「韓国の保護国化」を掲げ[37]、1902年に日英同盟が成立すると朝鮮半島を巡るロシアとの軍事的な緊張が高まった。
 
1904年(明治37年)1月21日、韓国政府は局外中立を宣言して、日露間の軍事衝突に関わることを避けようとしたが、日本は大韓帝国の独立と領土保全および皇室の安全を保障するかわりに、韓国領土内における日本軍の行動の自由と、軍略上必要な土地の収用を韓国に承認させた(日韓議定書)[注釈 3]。8月22日には第一次日韓協約を締結して、財政顧問に目賀田種太郎、外交顧問に日本の外務省に勤務していたアメリカ人のダーハム・W・スティーブンスを推薦して、韓国政府内への影響力を強めた。1904年(明治37年)2月6日、日露戦争が開戦すると、高宗はロシア皇帝に密使を送ってロシアへの協力を約束したが、韓国国民はロシアの排除と日本の勝利を支持しており、政府と国民に大きな乖離が生まれた[38]。
 
日露戦争後の朝鮮半島を巡る国際情勢
英国のランズダウン外相はロシアの南下を阻止するため、韓国が自主独立の国家として存在することを望んでおり、ジョーダン(John N. Jordan)駐韓公使に対して韓国の支援を行うように指示を行った。ジョーダンは韓国の立場になって日露の干渉を排除するために尽力していたが、日露戦争の終結時になると、ジョーダンはマクドナルド(Claude M. MacDonald)駐日公使に対して「日清戦争後に独立した韓国の状況を見ていると、韓国の政治家に統治能力がないため、此処10年の韓国は名目上の独立国に過ぎず、このまま独立国として維持されるのは困難である」と見解を示すようになる。マクドナルドもジョーダンに同意し、韓国は日本に支配されることが韓国人自身のためにもなるという結論をイギリス本国に報告した。ランズダウン、バルフォア首相は2人の見解を了承し、第二次日英同盟では日本が韓国を保護国にすることが承認された[39][40]。
 
米国は高宗の厚遇を得ていた駐韓公使ホレイス・ニュートン・アレンが日本の干渉に抵抗を続けていたが、セオドア・ルーズベルトによる日露戦争の仲介が始まると、1905年6月に駐韓公使を更迭された。1905年7月29日、アメリカ合衆国のウィリアム・タフト陸軍長官が来日し、内閣総理大臣兼臨時外務大臣であった桂太郎と、アメリカは韓国における日本の支配権を承認し、日本はアメリカのフィリピン支配権を承認する内容の桂・タフト協定を交わす[41]。桂・タフト協定は、1902年の日英同盟をふまえたもので、以下の三点が確認された。
 
大日本帝国は、アメリカ合衆国の植民地となっていたフィリピンに対して野心のないことを表明する。
極東の平和は、大日本帝国、アメリカ合衆国、イギリス連合王国の3国による事実上の同盟によって守られるべきである。
アメリカ合衆国は、大日本帝国の韓国における指導的地位を認める。
会談の中で、桂は、韓国政府が日露戦争の直接の原因であると指摘し、朝鮮半島における問題の広範囲な解決が日露戦争の論理的な結果であり、もし韓国政府が単独で放置されるような事態になれば、再び同じように他国と条約を結んで日本を戦争に巻き込むだろう、従って日本は韓国政府が再度別の外国との戦争を日本に強制する条約を締結することを防がなければならない、と主張した。桂の主張を聞いたタフト特使は、韓国政府が日本の保護国となることが東アジアの安定性に直接貢献することに同意し、また彼の意見として、ルーズベルト大統領もこの点に同意するだろうと述べた。この協定は7月31日に電文で確認したセオドア・ルーズベルト大統領によって承認され、8月7日にタフトはマニラから大統領承認との電文を桂に送付した。桂は翌8月8日に日露講和会議の日本側全権として米国ポーツマスにいた外相小村寿太郎に知らせている。
 
ロシアは日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)で韓国に対する日本の優越権を認め、1906年に駐日公使(1899年-1903年)を務めたアレクサンドル・イズヴォリスキーがロシア帝国の外務大臣に就任すると日露関係の緊張は解けていき、朝鮮半島への干渉から撤退していく、その後も、フランスが1907年の日仏協約で日本の韓国における優越的地位を認める[42]など、日本の朝鮮半島に関する支配権は欧米列強の協調外交に組み込まれていった。
 
第二次日韓協約とハーグ密使事件
 
統監府に向かう伊藤博文
1905年4月8日、第一次桂太郎内閣は「韓国保護権確立の件」を閣議決定した[43]。その内容は「韓国の対外関係は全然帝国に於て之を担任し」「韓国は直接に外国と条約を締結するを得ざること」などであり、つまり韓国の外交権を奪うという内容であった。また、ロシアの後ろ盾をなくした高宗も韓国皇室の利益を保全するため日韓協約の締結を推進しており[注釈 4]、1905年(明治38年)11月、第二次日韓協約(大韓帝国では乙巳保護条約)が締結される。この協約によって、韓国の皇室は保持されたが、韓国の外交権は日本に接収されることとなり、事実上、韓国は日本の保護国となった。12月には、韓国軍の指揮権を有する行政府である統監府が設置され、伊藤博文が初代統監に就任した。
 
実権を失った高宗は、三国干渉で日本が遼東半島の主権を断念したように、欧米列強の干渉で第二次日韓協約を撤回させて、日本から外交権の回復することを画策し、1907年(明治40年)6月15日からオランダのハーグで開催された第2回万国平和会議に、日本による韓国支配を糾弾するため密使を派遣した。しかし、この会議は1889年に定められた国際紛争平和的処理条約の批准国による国際協調を調整する会議であり、締約国ではない大韓帝国は参加することはできず、また、第二次日韓協約によりに韓国の外交権が失われていることを理由にいずれの国からも接触を拒否され、実質的な成果を挙げることなく失敗に終わった。(ハーグ密使事件)
 
 
条約無効を訴える高宗の親書
密使たちは日本の大阪毎日新聞を含む各国の新聞で韓国の主張を訴える戦略に切り替えたため、高宗の秘密外交は国際的に露見することになり、日本でも知れ渡るようになった。日本の世論は高宗を優遇してきた韓国統監の伊藤を厳しく批判し[注釈 5][40]、伊藤も高宗を「かくの如き陰険な手段を以て日本保護権を拒否せんとするよりは、むしろ日本に対し堂々と宣戦を布告せらるるには捷径なるにしかず」と叱責し、李完用らの閣僚も高宗の独断専行が大韓帝国の維持に有害であると退位を企てるようになる。孤立した高宗は日本に抗う術はなく、7月19日に高宗は退位して、純宗が即位した。7月24日、韓国は第三次日韓協約を結んで内政権を日本に譲り、8月1日には大韓帝国の軍隊を解散させた。
 
第二次日韓協約のころまでは韓国に同情的な意見もあった日本の世論も、政治能力のない大韓帝国の存在は韓国民衆にとって不幸であり、世界の平和と安寧のためにも朝鮮を日本に併合することが「世界に対する帝国の任務」であると併合の推進を進める論調が主流となり[注釈 5]、1909年3月30日、小村寿太郎外務大臣は韓国併合の「断行」を明記した意見書を倉知鉄吉外務省政務局長に起草させ、桂太郎首相に提出した[47]。桂は小村意見書に賛意を示し、小村・桂の二人は次に当時韓国統監の地位にあった伊藤博文を訪ねて併合に関する意見を求めたところ、伊藤も小村・桂に同意した[48]。
 
1909年(明治42年)7月6日、桂内閣は「適当の時期に韓国併合を断行する方針および対韓施設大綱」を閣議決定し、日韓併合の体制が整った。
 
伊藤博文の暗殺
1909年 (明治42年)10月26日、日本の枢密院議長伊藤博文はロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと日露関係の調整をするために渡航し、ロシア帝国が清から租借地としていたハルビン駅で朝鮮民族主義者の安重根に暗殺された。この事件の影響により、欧米列強の中で韓国への支援を継続していた最後の国であるロシアは、ロシア領内で発生した暗殺事件に関与したとの疑念を払拭するため、韓国の関係を断絶して日本との協調路線に転じた[16][49]。日本国内においても、伊藤は征韓論政変以来の国際協調派の元老として、山県有朋らの軍閥による軍事拡張を抑えていた重鎮であり[50]、伊藤の死亡により軍閥の発言力は増した。朝鮮半島の統治では韓国統監が初代伊藤博文・2代曾禰荒助といずれも文官であったものが、伊藤博文暗殺後の明治43年(1910年)5月からは武官(当時陸軍大臣)の寺内正毅が務めた。
 
併合
 
「韓国併合ニ関スル条約」に関する李完用への全権委任状。純宗の署名が入っている。
 
併合当日に発行された『朝鮮総督府官報』第1号の第1面。明治天皇が併合に際して発した詔書が掲載された。曰く「朕ハ韓国皇帝陛下ト与(とも)ニ〔中略〕茲(ここ)ニ永久ニ韓国ヲ帝国ニ併合スルコトトナセリ」。
1910年(明治43年)6月3日には「併合後の韓国に対する施政方針」が閣議決定され、7月8日には第3代統監寺内正毅が設置した併合準備委員会の処理方案が閣議決定された。8月6日に至り韓国首相である李完用に併合受諾が求められ、8月22日の御前会議で李完用首相が条約締結の全権委員に任命された。統監府による新聞報道規制、集会・演説禁止、注意人物の事前検束が行われた上に、一個連隊相当の兵力が警備するという厳戒態勢の中、1910年(明治43年)8月22日に韓国併合条約は漢城(現:ソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、29日に裁可公布により発効し、日本は大韓帝国を併合した。
 
これにより大韓帝国は消滅し、朝鮮半島は第二次世界大戦(大東亜戦争、太平洋戦争)終結まで日本の統治下に置かれた。大韓帝国政府と韓国統監府は廃止され、新たに朝鮮全土を統治する朝鮮総督府が設置された。明治天皇は「前韓国皇帝ヲ冊シテ王ト為スノ詔書」を発して、韓国の皇族は日本の皇族に準じる王公族に封じ、大韓帝国最後の皇太子李垠には梨本宮方子が降嫁された。また、韓国併合に貢献した朝鮮人は朝鮮貴族とされた。
 
大韓帝国の統治時代
→詳細は「日本統治時代の朝鮮」を参照
朝鮮総督府による政策
身分解放
統監府は1909年、新たに戸籍制度を朝鮮に導入し、李氏朝鮮時代を通じて人間とは見なされず、姓を持つことを許されていなかった奴婢、白丁などの賤民にも姓を名乗らせて戸籍には身分を記載することなく登録させた[51]。李氏朝鮮時代は戸籍に身分を記載していたが、統監府がこれを削除したことにより、身分開放された賤民の子弟も学校に通えるようになった[51]。身分解放に反発する両班は激しい抗議デモを繰り広げたが、身分にかかわらず教育機会を与えるべきと考える日本政府によって即座に鎮圧された[52]。
 
土地政策
 
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朝鮮総督府は1910年(明治43年)から1919年(大正8年)の間に土地調査事業に基づき測量を行ない、土地の所有権を確定した。この際に申告された土地は、境界問題が発生しないかぎり地主の申告通りに所有権が認められた。申告がなされなかった土地や、国有地と認定された土地(所有権が判明しない山林は国有化され入会権を認める方法が採られた[注釈 6]。その他に隠田などの所有者不明の土地、旧朝鮮王朝の土地なども)は最終的に朝鮮総督府に接収され、朝鮮の農民に安値で払い下げられ、一部は東洋拓殖や日本人農業者にも払い下げられた。ソウル大学教授李栄薫によると朝鮮総督府に接収された土地は全体の10%ほどとしている[53]。山本有造によれば総督府が最終的に接収した農地は全耕作地の3.26%であるとする[54]。この大規模な土地調査事業は戦後おこなわれた精密測量による地籍調査のようなものではなく、あくまで権利関係を確定させるためのものであったが多くの境界問題や入会権問題を生み、現代に続く「日帝による土地収奪」論を招いている。
 
総督府による測量および登記制度の導入を機に、朝鮮では不動産の売買が法的に安定し[注釈 7]、前近代的でゆるやかな土地所有を否定された旧来の零細自作農民が小作農に零落し、小作料高騰から大量に離村した者もいた。一方で、李王朝時代の朝鮮は農地が荒廃しており、民衆は官吏や両班、高利貸によって収奪されていたため、日本が朝鮮の農地で水防工事や水利工事、金融組合や水利組合もつくったことで、朝鮮農民は安い金利で融資を受けることができるようになり、多大な利益を得るようになった朝鮮人も現れ[55]、これらの新興資本家の多くは総督府と良好な関係を保ち発展した。これらのインフラ整備により、朝鮮人の平均寿命は2倍以上に増加した。
 
教育文化政策
日本統治下においては、日本内地に準じた学校教育制度が整備された。初代統監に就任した伊藤博文は、学校建設を改革の最優先課題とした。小学校も統合直前には100校程度だったのが、1943年(昭和18年)には4271校にまで増加した[56]。
 
1911年、朝鮮総督府は第一次教育令を公布し、朝鮮語を必修科目としてハングルを学ぶことになり、朝鮮人の識字率は1910年の6%から1943年には22%に上昇した[57]。
 
両国の評価と争点
日本では併合が朝鮮半島の近代化に寄与したとして肯定的な評価が大半であるが、一方で併合が日本にとっての負担になったという理由で否定的な見解も少なからず存在している。一方で韓国では併合を否定的に評価する見方が多数であり、肯定的な意見は一切容認されずに国民から批判や糾弾を受けるケースが多い。
 
韓国国内における併合への肯定的な見方、及び争点と評価(歴史認識)の相違については下記節を参照。
 
大韓民国などにおける日本統治時代の評価
→「朝鮮の歴史観」および「朝鮮民族主義歴史学」も参照
独立後の韓国の歴史学者は日本による統治を正当化する日本側の歴史研究を「植民地史観」と呼び、これを強く批判することから出発した。「植民地史観」に対抗して登場したのは民族史観であり、その後の歴史研究の柱となった(下記節「歴史認識の比較表」を参照)。また、韓国国内で韓国併合を肯定的に評価するなど「民族史観」と矛盾する内容を発言すると、親日派として糾弾され、社会的制裁を受ける事例もある[注釈 8]。そうした韓国の言論の状況について、国際新聞編集者協会は韓国を「言論弾圧国」[58]として批判しており、2002年にはロシア、ベネズエラ、スリランカ、ジンバブエとともに「言論監視対象国」に指定した[59]。ただし、その発表は国境なき記者団が発表した世界報道自由度ランキング(Press Freedom Index)とは完全に相反し、公信力にかなりの疑問を買っている。この発表では、2002年の韓国の言論自由指数は世界39位(10.50点)であり、世界40位(11.0点)を占めたイタリアと似ている。また、2002年Freedom Houseが発表した言論自由指数で、韓国は30点でギリシャ、イスラエルのような「自由(Free)」国家に分類された。
 
一方で1990年代から2000年代にかけて、「民族史観」を誇張が多いとして批判するなど、「民族史観」とは異なる見解が韓国内からも提示されるようになっている。本節では、下記節「歴史認識の比較表」に入らない、韓国における肯定的見解(ないしは「植民地史観」「民族史観」への批判的見解)を記述する。
 
金完燮は、当時の朝鮮は腐敗した李朝により混乱の極みにあった非常に貧しい国であり、日本が野望を持って進出するような富も文化もなかった、とする。彼によれば近代日本の歩みは列強、特に当時極東へ進出しつつあったロシアとの長きにわたる戦いであり、日清戦争から日露戦争そして韓国併合に至る一連の出来事は全て日本の独立を守るための行為であった。当初日本は、福沢諭吉の門下生の金玉均を始めとする日本で文明に触れた朝鮮人を通して、朝鮮が清から独立し近代国家となって日本にとっての同盟国となることを望んだ。しかしながら朝鮮人自身の手で朝鮮を改革しようとする試みは頓挫し、福沢諭吉が脱亜論を著したように方針を転換。日本自らの元で清、そしてロシアから朝鮮半島を守り、朝鮮を近代化する道を選んだ。その後日本は朝鮮を「日本化」することによって教養ある日本人を増大させることによる国力の増加を目指し、積極的にインフラへ投資した。朝鮮が自分たちで独立を保ち、近代化を成し遂げることが出来れば併合されることもなかったであろうし、日本によるこれらの植民地政策がなければ近代化することもなかったであろう、として韓国における歴史教育を批判している[60]。これらの言動・著作から彼は親日派として弾圧を受けている[注釈 9]。
ソウル大学名誉教授の安秉直や成均館大学教授の李大根は、日本植民地統治下の朝鮮において、日本資本の主導下で資本主義化が展開し、朝鮮人も比較的積極的に適応していき、一定の成長が見られたとしている。
ソウル大学教授の李栄薫は、日本の統治が近代化を促進したと主張する植民地近代化論を提示する[61]が、韓国国内では少数派である。彼もまた親日派として糾弾されている。
崔基鎬も、李氏朝鮮の末期には、親露派と親清派が内部抗争を続ける膠着状態にあり、清とロシアに勝利した日本の支配は歴史の必然であり、さらに日韓併合による半島の近代化は韓民族にとって大いなる善であったとしている[62]。
元韓国空軍大佐の崔三然も、「アフリカなどは植民地時代が終わっても貧困からなかなか抜け出せない状態です。では植民地から近代的な経済発展を遂げたのはどこですか。韓国と台湾ですよ。ともに日本の植民地だった所です。他に香港とシンガポールがありますが、ここは英国のいわば天領でした」「戦前、鉄道、水道、電気などの設備は日本国内と大差なかった。これは諸外国の植民地経営と非常に違うところです。諸外国は植民地からは一方的に搾取するだけでした。日本は国内の税金を植民地のインフラ整備に投入したのです。だから住民の生活水準にも本土とそれほどの差がありませんでした」と証言し、肯定的に併合時代を評価した上で日本政府の行動を批判している[63]。
当時の併合時代に育ち、のちカナダに移住した朴贊雄(パク・チャンウン)は2010年に発表した著書で「前途に希望が持てる時代だった」「韓国史のなかで、これほど落ち着いた時代がかつてあっただろうか」として、統治時代の肯定的側面を公正に見ることが真の日韓親善に繋がると主張している[64]。
2004年に、東亜日報社長の権五琦(クォン・オギ)は新しい歴史教科書をつくる会による教科書について特に反発を感じないとしながら、「韓国でも併合に一部のものが賛成していた」という同教科書の記述については「『韓国人はみんな日本に抵抗した』と自慢したいのが韓国人の心情かもしれないが、本当はそうでないんだから、韓国人こそがこの教科書から学ぶべきだ」「どの程度の『一部』だったか知ることは、何もなかったと信じているより韓国人のためになる」と発言している[65]。
漢陽大学名誉教授で日露戦争や韓国併合についての著書もある歴史学者崔文衡(チェ・ムンヒョン)は、左派寄り教科書とされる金星出版社『高等学校韓国近現代史教科書』における「日帝が韓国を完全に併合するまで5年もかかったのは義兵抗争のため」といった記述に関して、事実とは異なるとしたうえで、ロシアが米国と協力し満州から日本の勢力を追い出そうとする露米による対日牽制などの折衝を日本が克服するために併合に時間がかかったのだとした[66][67]。また、「代案教科書[注釈 10]」における安重根による伊藤博文狙撃が併合論を早めたとする記述についても、併合は1909年7月6日の閣議で確定しており、安の狙撃で併合論が左右されたのではないと指摘したうえで、双方の教科書に代表されるような、当時の世界情勢や国際関係を看過する史観について「自分たちの歴史の主体的力量を強調する余り、国際情勢を無視し、歴史的事実のつじつまを合わせようとしている」と批判し[66]、世界史において韓国史を理解しようとしない教育は「鎖国化教育」であるとした[注釈 11]。
高麗大学名誉教授(当時)の政治学者韓昇助は2005年に日本の雑誌『正論』に、日本による韓国併合はロシアによる支配に比べて「不幸中の幸い」であったとし、また日本による諸政策で朝鮮半島の近代化が進展したと肯定的に評価する論文を発表した[68]。この論文は韓国国内で問題視され、その結果、韓昇助は謝罪したうえで名誉教授職を辞任した[69]。
元韓国国土開発研究院長金儀遠は、戦前日本の国土計画では朝鮮人を満洲に追放して京城を日本の首都としようとしたと主張する一方で、日本が朝鮮で鉄道・道路・港湾・学校を建設したことについて「 日本人が私たちから搾取して建設したという主張があるが、事実と違う。朝鮮総督府の予算を分析すると、朝鮮で集めた税金は農地税程度であり、これでは当時の公務員の月給の10分の1にもならなかった。総督府の役人が本国に行ってロビー活動をし、予算を確保した。もちろん鉄道などは大陸進出のため」であった と語っている[70]。
第4代台湾総統の李登輝は2012年3月、日本の保守系団体のインタビューに答えた。これはBS11『INsideOUT』で4月に放送された。日本統治時代は韓国人より台湾人のほうが差別されていたのに不満はないのか、という問いに対し、韓国は併合と言われていたのに、そしてほとんど原野だった台湾と違って元々ちゃんとした国だったのに、植民地の様にあつかわわれ、国名も「日本」のままだったのだから、インフラをあの程度、整えたぐらいでは彼らは不満だ、と答えた[71]。
黄文雄は、「佐藤栄作元首相が述べていたように、日韓併合条約は『対等の立場で、また自由意思で締結された』とみるのが、当時の国際条約の歴史からして妥当だろう。戦後の韓国人は、日韓合邦によって国と主権が奪われ、受難の時代が始まったと思い込んでいる。だが十九世紀から二十世紀初頭までの李朝朝鮮が『主権国家』だったと考えるのは大きな間違いだ。

硫黄島の戦い

2025年01月28日 08時43分03秒 | 社会・文化・政治・経済

Battle of Iwo Jima, 1945年2月19日 - 1945年3月26日)は、第二次世界大戦末期に小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間で行われた戦いである。アメリカ軍側の作戦名はデタッチメント作戦 (Operation Detachment)。

概要

硫黄島遠景(2007年)

『硫黄島の星条旗』をかたどった海兵隊戦争記念碑
1944年8月時点での連合軍の戦略では、日本本土侵攻の準備段階として台湾に進攻する計画であった[10]。台湾を拠点とした後に、中国大陸あるいは沖縄のいずれかへ進撃することが予定された。台湾の攻略作戦については「コーズウェイ作戦」(土手道作戦)としてに具体的な検討が進められたが、その後に陸海軍内で議論があり、1944年10月にはアメリカ統合参謀本部が台湾攻略の計画を放棄して、小笠原諸島を攻略後に沖縄に侵攻することが決定された[11]。作戦名は「デタッチメント作戦(分断作戦)」と名付けられたが、のちに「海兵隊史上最も野蛮で高価な戦い」と呼ばれることにもなった[12]。

作戦は、ダグラス・マッカーサーによるレイテ島の戦いやルソン島の戦いが計画より遅延したことで2回の延期を経て[13]、1945年2月19日にアメリカ海兵隊の硫黄島強襲が艦載機と艦艇の砲撃支援を受けて開始された。上陸から約1か月後の3月17日、栗林忠道陸軍中将(戦死認定後陸軍大将)を最高指揮官とする日本軍硫黄島守備隊(小笠原兵団)の激しい抵抗を受けながらも、アメリカ軍は同島をほぼ制圧。3月21日、日本の大本営は17日に硫黄島守備隊が玉砕したと発表する。しかしながらその後も残存日本兵からの散発的な遊撃戦は続いた。最初アメリカ軍は5日間の戦闘期間を想定していたが、40日間にわたる死闘の末、3月26日、栗林大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し壊滅、これにより日米の組織的戦闘は終結した。アメリカ軍の当初の計画では硫黄島を5日で攻略する予定であったが、最終的に1ヶ月以上を要することとなり、アメリカ軍の作戦計画を大きく狂わせることとなった[14]。

いったん戦闘が始まれば、日本軍には小規模な航空攻撃を除いて、増援や救援の具体的な計画・能力は当初よりなく、守備兵力20,933名のうち95%の19,900名が戦死あるいは戦闘中の行方不明となった[1]。一方、アメリカ軍は戦死6,821名・戦傷21,865名の計28,686名[4]の損害を受けた。太平洋戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死・戦傷者数等[注 2]の合計)実数が日本軍を上回った稀有な戦いであり[注 3]、フィリピンの戦い (1944年-1945年)や沖縄戦とともに第二次世界大戦の太平洋戦線屈指の最激戦地の一つとして知られる。

背景
日本軍

硫黄島と日本本土の位置関係
硫黄島は、日本の首都東京の南約1,080km、グアムの北約1,130kmに位置し、小笠原諸島の小笠原村(旧:硫黄島村)に属する火山島である。島の表面の大部分が硫黄の蓄積物で覆われているところからこの島名がつけられた。長径は北東から南西方向に8km未満、幅は北部ではおよそ4km、南部ではわずか800mである。面積は21km2程度である。土壌は火山灰のため保水性はなく、飲料水等は塩辛い井戸水か雨水に頼るしかなかった。戦前は硫黄の採掘やサトウキビ栽培などを営む住民が約1,000人居住していた。最高点は島の南部にある標高169mの摺鉢山である。しかし本島は摺鉢山のほかは平地であって、小笠原諸島で唯一飛行場が建設可能な島であった。この点から日米両軍より、本島は戦略的にきわめて重要な地点とみなされることになった。

日本軍は1941年12月の太平洋戦争開戦時、父島に横須賀海軍航空隊(のち第27航空戦隊)司令部指揮下の海軍根拠地隊約1,200名、父島要塞司令部指揮下の陸軍兵力3,700ないし3,800名を配備し、硫黄島をこれらの部隊の管轄下に置いていた[20]。開戦後、南方方面(東南アジア)と日本本土とを結ぶ航空経路の中継地点として、硫黄島の飛行場の戦略的重要性が認識され、海軍が摺鉢山の北東約2kmの位置に千鳥飛行場を建設し、航空兵力1,500名および航空機20機を配備した。硫黄島の防衛は海軍の担当であったが、戦力は航空隊や施設隊中心に1,000人程度の戦力であった[21]。

その後、戦況が不利となった日本は、1943年9月30日の閣議および御前会議で「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」を決め、その中で硫黄島を含む小笠原諸島が絶対国防圏として定められ戦力が増強されることとなり[22]、11月15日には独立混成第1連隊が父島要塞に増派される予定であったが、南方の戦況悪化のためニューアイルランド島に転用されることとなった[23]。その後、1943年11月にアメリカ軍はマーシャル諸島を侵攻し(ギルバート・マーシャル諸島の戦い)、マキンの戦い、タラワの戦い、クェゼリンの戦いなど日本軍守備隊の玉砕が相次ぐと、1944年2月5日に大本営は既定路線ながら進んでいなかった小笠原諸島の戦力強化を促進することとし、大隊編成の要塞歩兵隊を3個、中隊編成の要塞歩兵隊を2個に砲兵隊や工兵隊を送り込むこととし、これらの部隊は3月4日に父島に到着した[24]。さらにトラック島空襲で日本軍が大損害を被ると、2月21日に大隊編成の要塞歩兵隊5個の追加派遣を決定した[25]。

さらに大本営は、3月にサイパンにマリアナ諸島、トラック諸島、パラオ諸島、小笠原諸島の中部太平洋の防衛を統括する第31軍を編成し、父島要塞も第31軍司令官小畑英良陸軍中将の指揮下となった[26]。父島要塞を司令部とする小笠原地区集団に対して、第31軍は各島の陣地構築強化を命じたが、特に硫黄島については「小笠原地区ニ於ケル最重要航空基地トシテ之ヲ絶対ニ確保スル如ク要塞化ス」とされ、最優先で強度“特甲”の要塞を構築するよう命じられた[27]。父島要塞・小笠原地区集団司令官大須賀応少将は第31軍の命令に基づき、硫黄島に、3月23日に要塞歩兵隊8個と砲兵・工兵からなる「伊支隊」(支隊長厚地兼彦大佐以下4,883人)を派遣した。第31軍司令官小畑も硫黄島には気をかけており、3月中に司令部のあったサイパン島から硫黄島を訪れている。小畑は硫黄島の防衛態勢を確認し、厚地が火砲を高地に配置しているのを見て「海岸の全域にトーチカを構築しその中に火砲を据え付けろ」と命じている。これは、日本軍島嶼防衛作戦の原則であった「水際配置・水際撃滅主義」に基づく命令であり、厚地はやむなく小畑の命令通りに高地に設置してあった火砲を海岸に配置し直している[28]。一方で、「伊支隊」の進出前まで硫黄島の防衛を担当していた海軍も順次戦力増強を続けており、3月時点で和智恒蔵大佐を司令官として、海軍陸戦隊の硫黄島警備隊600人など、2,000人の戦力を有しており、硫黄島には陸海軍で7,000人の兵力が防衛につくこととなった[28]。

アメリカ軍

摺鉢山(2007年)。総括電報に見られるように、同島の帝国陸軍は「パイプ山」とも呼称していた。
1944年9月の段階でアメリカ軍のフィリピンに次ぐ攻略目標は台湾とされており、「コーズウェイ作戦」の作戦名で検討が進められ、すでに上陸部隊の司令官には、アメリカ陸軍のサイモン・B・バックナー・ジュニア中将が決まっていた[29]。海軍側でもアーネスト・キング海軍作戦部長は台湾を攻略することで、南方資源地帯から日本本土へ資源を輸送するシーレーンを遮断すること、また台湾を拠点として中国本土への進攻が可能と考えて台湾攻略を主張しており、これにはアメリカ海軍の太平洋戦域最高司令官チェスター・ニミッツ元帥も賛同していた[30]。しかし、第5艦隊司令官レイモンド・スプルーアンス提督は、硫黄島が東京、九州、琉球列島を結ぶ円弧の中心となる重要地点で、アメリカ軍が攻略したマリアナ諸島と日本本土の中間地点にあり航空基地として利用価値が大きいものと考えて、台湾ではなく硫黄島の攻略を主張していた[31]。

やがて、9月中旬になってレイテ島上陸の予定繰り上げが決まり、フィリピンの確保がより早く行える可能性が出てくると、アメリカ陸軍は、ルソン島さえ占領すれば台湾は無力化できるとの結論に達し、またアメリカ陸軍航空軍は、台湾より日本本土に近い小笠原諸島や沖縄本島を、マリアナ諸島に次ぐ日本本土空襲の拠点として確保したいと考えたので、南太平洋地域陸軍副司令官且つ第20空軍の副司令官ミラード・F・ハーモン(英語版)中将らが、「コーズウェイ作戦」を中止、小笠原諸島や沖縄本島を攻略目標とすることを提案し、「コーズウェイ作戦」の指揮官に内定していたバックナーも、補給の問題からハーモンに同調した[32]。それでも海軍のキングは台湾攻略を主張していたが、太平洋艦隊司令部の参謀らによる研究結果で、マッカーサーの西太平洋方面連合軍がフィリピンに大戦力を投入している現状において、太平洋方面連合軍の兵力は少なく、現有兵力での台湾の攻略は困難であるという勧告を聞いたニミッツは、硫黄島攻略を優先すべきと考えを改めており、1944年9月29日にニミッツとスプルーアンスはキングを説得して、海軍で台湾攻略作戦の放棄と硫黄島の攻略が決定した[33]。そして陸軍も含めたアメリカ統合参謀本部が1944年10月3日にニミッツに対して硫黄島の攻略を正式に命じた[34]。

硫黄島攻略が、マリアナ諸島から日本本土空襲を行う戦略爆撃機B-29の支援のために決定されたと言われることがあるが、硫黄島攻略が決定された1944年10月の時点ではマリアナ諸島からのB-29による日本本土空襲はまだ始まっておらず(東京初空襲は1944年11月24日[35])、作戦決定時においてはB-29の支援が主目的ではなかった。海軍内で硫黄島攻略を主張し続けていたスプルーアンスも、当初は硫黄島がB-29の作戦にとって非常に価値があることは頭になかった[31]。しかし、作戦計画を進めていくにつれて、マリアナよりのB-29による空襲が、片道約2,000kmの飛行距離のため燃費を考慮して爆弾の搭載量を制限せざるを得なかったり、戦闘機の護衛がつけられないので8,500mの高高度よりの爆撃を余儀なくされたりで、作戦効率が悪く成果があまり上がっていないことや、小笠原諸島は日本本土へ向かうB-29を見張って無線電信で報告する、早期警戒システムにおける防空監視拠点として機能しており、特に硫黄島からの報告は最も重要な情報源となっていたこともあって、硫黄島はB-29の日本本土空襲にとって大きな障害となって、その排除が求められた。また、燃料補給基地や損傷した機の不時着飛行場としての価値も非常に高いものと考えられた[34]。

日本軍は硫黄島を出撃基地や中間基地として、マリアナ諸島のアメリカ軍基地に空襲を行っていた。第1回はB-29の偵察機型F-13が東京上空に初めて飛来した翌日の1944年11月2日で、陸軍航空隊九七式重爆撃機が硫黄島から9機出撃、3機が未帰還となったがアメリカ軍に被害はなかった[36]。その後、東京がB-29の初空襲を受けた3日後の11月27日に報復攻撃として、陸海軍共同でサイパンの飛行場を攻撃している。陸軍航空隊新海希典少佐率いる第二独立飛行隊の四式重爆撃機2機が硫黄島を出撃し、サイパン島を爆撃し、B-29を1機を完全撃破、11機を損傷させ2機とも生還した[37]。続いて海軍航空隊の大村謙次中尉率いる第一御楯特別攻撃隊が硫黄島から出撃し、サイパン島イズリー飛行場を機銃掃射しB-29を2機撃破し、7機を大破させたが、迎撃してきたP-47と対空砲火により全機未帰還となった[38]。また、新海の第二独立飛行隊は12月7日の夜間攻撃でもB-29を3機を撃破、23機を損傷させている[39]。最後の大規模攻撃となったのは同年のクリスマスで、まず錫箔を貼った模造紙(電探紙、今で言うチャフ)を散布し、レーダーを欺瞞させた後に高低の同時進入という巧妙な攻撃でサイパン島とテニアン島を攻撃し、B-29を4機撃破、11機に損傷を与えている。1945年(昭和20年)2月2日まで続いた日本軍のマリアナ諸島の航空基地攻撃により、B-29を19機完全撃破もしくは大破、35機が損傷し、アメリカ軍の死傷者は245名となった[40]。アメリカ軍はやむなく、B-29を混雑気味のサイパン島の飛行場から、他飛行場へ避難させたり、基地レーダーを強化したり、駆逐艦をレーダーピケット艦として配置するなどの対策に追われるなど、B-29にとって硫黄島の存在は脅威ともなっていた[41]。

そのため、硫黄島攻略の目的は日本本土空襲の支援という面が強調されるようになり

被弾による損傷、故障、燃料不足によりマリアナまで帰着できない爆撃機の中間着陸場の確保
爆撃機を護衛する戦闘機の基地の確保
日本軍航空機の攻撃基地の撃滅
日本軍の早期警報システムの破壊
硫黄島を避けることによる爆撃機の航法上のロスの解消
などが作戦目的として掲げられるようになった[42]。

日本軍の防衛計画

栗林忠道陸軍大将。写真は陸軍中将時代のもの。

西竹一陸軍大佐。写真は1930年代初期、愛馬「ウラヌス」と共に写った陸軍騎兵中尉時代のもの。
小笠原兵団の編成と編制
大本営は、アメリカ軍のパラオ諸島空襲など、パラオやマリアナの戦況が風雲急を告げるようになると、第31軍による小笠原諸島の作戦指導は困難になる可能性が高く、小笠原にも作戦の権限を与えるために、マリアナへの戦力増強が一段落した1944年5月22日をもって、他の在小笠原方面部隊と併せて第109師団を編成した(大陸命1014号)[43]。隷下部隊としては、父島に配備されている父島要塞守備隊等、硫黄島に配備されている「伊支隊」等、母島の混成第1連隊を指揮下においた[44]。そして第109師団の師団長には太平洋戦争緒戦の南方作戦・香港攻略戦で第23軍参謀長として従軍、攻略戦後は留守近衛第2師団長として内地に留まっていた栗林忠道陸軍中将が任命され就任した。栗林は5月27日に親補式に臨んだが、その席で東條英機陸軍大臣兼参謀総長から「帝国と陸軍は、この重要な島の防衛に関して、貴官に全面的な信頼をかけている」と声をかけている[45]。

栗林は第109師団長として、小笠原諸島全体の最高司令官であり、司令部機能が充実している父島要塞で指揮を執るものと思われていたが、6月8日に日本本土から直路硫黄島に向かい、そのまま戦死するまで一度も硫黄島を出ることはなかった。栗林が硫黄島を司令部に選んだのは、大本営の分析通り、飛行場のある硫黄島にアメリカ軍が侵攻してくる可能性が高いという戦略的判断と、指揮官は常に戦場の焦点にあるべきという信念に基づくものであったとされている[46]。

6月15日にアメリカ軍がサイパン島に上陸してサイパンの戦いが始まったが、日本軍守備隊は水際撃滅に失敗、アメリカ軍が内陸に向けて進撃していた。マリアナでの決戦を策し、「あ号作戦」を発動させていた海軍は、アメリカ軍の空襲で壊滅していたマリアナの航空戦力に代えて、アメリカ軍機動部隊との決戦に向かう第一機動艦隊(空母9隻、搭載機数約440機)を支援させるため、第27航空戦隊及び横須賀海軍航空隊の一部で「八幡空襲部隊」(指揮官:松永貞市中将)を編制し硫黄島に進出させることとした。「八幡空襲部隊」の戦力は約300機の予定であったが、硫黄島付近の天候不良で進出が遅れて、6月19日時点で進出できたのはわずか29機に過ぎなかった。その6月19日に日本第一機動艦隊とアメリカ第58任務部隊が激突しマリアナ沖海戦が始まったが、第一機動艦隊は空母3隻と艦載機の大半を失う惨敗を喫してマリアナ海域より退避した[47]。

マリアナ沖海戦で連合艦隊が惨敗を喫すると、大本営はサイパン島の確保は困難という判断を下し、このままマリアナ諸島を失って小笠原諸島が最前線陣地となる危険性が高まった。そこで大本営は、6月26日に大本営直轄部隊たる小笠原兵団を編成し、第31軍の指揮下から外して、第109師団以下の陸軍部隊を「隷下」に、第27航空戦隊以下の海軍部隊を「指揮下」とし、その兵団長を栗林に兼任させて小笠原諸島の防衛を委ねることとした(大陸命1038号)[48]。

さらに大本営は、サイパン島奪回作戦の逆上陸部隊として準備していた、歩兵第145連隊(連隊長・池田増雄大佐)[注 4]、同じく九七式中戦車(新砲塔)と九五式軽戦車を主力とする戦車第26連隊(連隊長・西竹一中佐)を硫黄島に送り込むことを決めた。その他の有力部隊として、秘密兵器である四式二〇糎噴進砲・四式四〇糎噴進砲(ロケット砲)を装備する噴進砲中隊(中隊長・横山義雄陸軍大尉)、九八式臼砲を装備する各独立臼砲大隊、九七式中迫撃砲を装備する各中迫撃大隊、一式機動四十七粍砲(対戦車砲)を装備する各独立速射砲大隊も増派された。また、硫黄島の従来より硫黄島に配置されていた「伊支隊」等の各要塞歩兵隊の混成旅団への改編に着手し、7月までには混成第2旅団として編成し、旅団長には父島要塞の司令官であった大須賀が任じられた。同様に父島要塞の部隊も混成第1旅団に改編され旅団長は立花芳夫少将が任じられている[49]。

「あ号作戦」には間に合わなかった「八幡空襲部隊」であったが、6月24日にようやく戦闘機59機、艦爆29機、陸攻21機の戦力を硫黄島に進出させた。しかし、同日早朝に機先を制して第58任務部隊第1群の空母「ホーネット」、「ヨークタウン」、「バターン」から発艦したアメリカ軍艦載機約70機が硫黄島を襲撃、「八幡空襲部隊」はエースパイロット坂井三郎も含めて全戦闘機を出撃させて迎撃したが24機が未帰還となったのに対して、アメリカ軍の損害は6機であった(日本側は41機の撃墜を報告)。さらに「八幡空襲部隊」はアメリカ軍艦隊に対して反撃を行ったが、艦爆7機と戦闘機10機が未帰還となって、たった1日で半分の戦力を失ってしまった[50]。その後も「八幡空襲部隊」の硫黄島への進出は進み、アメリカ軍艦隊やサイパンの飛行場やアメリカ軍地上部隊に対する攻撃が続けられた[51]。アメリカ軍はそれに対抗して硫黄島への再三にわたる空襲を行ってきたので、「八幡空襲部隊」は次第に戦力を失い、最後は7月4日に巡洋艦8隻と駆逐艦8隻による艦砲射撃によって作戦機を全機撃破されてしまった。このため、アメリカ軍侵攻前に硫黄島の航空戦力はほとんどなくなってしまった[52]。

硫黄島には1940年時点で住民が1,051人居住していたが、否が応でも戦争に巻き込まれてしまい、全島192戸の住宅は3月16日までの空襲で120戸が焼失、6月末には20戸にまでなっていた。栗林は住民の疎開を命じ、生存していた住民は7月12日まで数回に分けて父島を経由して日本本土に疎開した[53]。

地下陣地の構築と反対論

地形を巧みに利用して構築された日本軍トーチカ、このような陣地が島中に無数に構築された
日本軍は対上陸部隊への戦術としてタラワの戦いなど、上陸部隊の弱点である海上もしくは水際付近にいるときに戦力を集中して叩くという「水際配置・水際撃滅主義」を採用していた。タラワ島ではこの方針によってアメリカ軍の上陸部隊の30%を死傷させる大打撃を与えたが[54]、サイパンの戦いにおいては、想定以上の激しい艦砲射撃に加え、日本軍の陣地構築が不十分であったことから、水際陣地の大部分が撃破されてしまい、上陸部隊の損害は10%と相応の打撃を与えたものの、日本軍の損害も大きく、短期間のうちに戦力が消耗してしまうこととなった[55]。このサイパン島の敗戦は日本軍に大きな衝撃を与えて、のちの島嶼防衛の方針を大きく変更させた。その後に作成されたのが1944年8月19日に参謀総長名で示達された「島嶼守備要領」であり、この要領によって日本軍の対上陸防衛は、従来の「水際配置・水際撃滅主義」から、海岸線から後退した要地に堅固な陣地を構築し、上陸軍を引き込んでから叩くという「後退配備・沿岸撃滅主義」へと大きく変更されることとなった[56][57]。

硫黄島においても、栗林が着任前には、前軍司令官の小畑の指示もあって、従来の「水際配置・水際撃滅主義」による陣地構築が行われていたが[58]、栗林は6月8日に硫黄島に着任するとくまなく島内を見て回り、硫黄島の地形的特質を緻密に検討して、サイパン島の陥落前の6月17日には、従来の「水際配置・水際撃滅主義」を捨て、主陣地を水際から後退させて「縦深陣地」を構築し、上陸部隊を一旦上陸させたのちに、摺鉢山と北部元山地区に構築する複廓陣地で挟撃して大打撃を与えるといった攻撃持久両用作戦をとることとし[59]、「師団長注意事項」として全軍に示達された[60]。この栗林の方針転換は、サイパン島の陥落によって方針を転換した大本営に先んじるものであった[58]。なお、ペリリューの戦いにおいて、アメリカ軍を持久戦術で苦しめた中川州男陸軍大佐も、1944年7月20日に大本営が戦訓特報第28号によって通知したサイパン島の戦訓を活かして、栗林とほぼ同時期に「縦深陣地」を構築し、圧倒的優勢なアメリカ軍を2か月以上も足止めし多大な出血を強いている[61]。

栗林は、アメリカ軍を内陸部に誘い込んでの持久戦や遊撃戦(ゲリラ)を新戦闘方針とし、6月20日にはそのための陣地構築を、「伊支隊」に命じた[60]。しかし、この栗林の方針転換に対しては、飛行場の確保を主目的とする南方諸島海軍航空隊司令の井上左馬二海軍大佐らと、従来の「水際配置・水際撃滅主義」に拘る一部の陸軍幕僚から反対意見が出た。特に第109師団の参謀長堀静一大佐は陸軍士官学校の教官をしていたこともあり、80年にも渡って日本軍が研究してきた「水際配置・水際撃滅主義」に固執し、混成第2旅団長の大須賀も海軍や堀の意見に賛同した。栗林は頑迷な海軍と一部の陸軍士官に対して失望し「士官はバカ者か、こりごりの奴ばかりだ、これではアメリカといくさはできない」と副官にぼやいていたが[62]、8月中旬の陸海軍による協議において栗林が妥協し、一部の水際・飛行場陣地構築が決定された[63]。この妥協によって栗林の作戦計画が不徹底となったという指摘に対して、第109師団参謀の堀江芳孝少佐は「栗林中将自身は持久戦(後方・地下陣地構築)方針は一切変更しておらず、海軍が資材を提供してくれるなら、一部陸軍兵力でこれを有効活用できる」「水際陣地は敵の艦砲射撃を吸引する偽陣地的に使用できる」などと栗林が計算した上での妥協であったと証言している。海軍側は12,000トンものセメントの提供を提案したが、結局送られてきたセメントは3,000トンに止まった[60]。

海軍には妥協した栗林であったが、軍司令官に公然と反論した堀や大須賀に対しては、軍内の統制を保つためにも看過することなく、12月には大須賀を更迭し、代わりに陸軍士官学校同期で“歩兵戦の神”の異名をもつ千田貞季少将を呼び、また堀も更迭して高石正大佐を参謀長に昇格させた[64]。他にも栗林は自分の方針に従わない参謀や部隊指揮官らを更迭し、その人数は18人にもなった[注 5]。この強引な人事もあって硫黄島の陸軍内の統制は保たれることとなった[66]。

栗林中将は後方陣地および、全島の施設を地下で結ぶ全長18kmの坑道構築を計画(設計のために本土から鉱山技師が派遣された)、兵員に対して時間の7割を訓練、3割を工事に充てるよう指示した。硫黄島の火山岩は非常に軟らかかったため十字鍬や円匙などの手工具で掘ることができた。また、司令部・本部附のいわゆる事務職などを含む全将兵に対して陣地構築を命令、工事の遅れを無くすため上官巡視時でも作業中は一切の敬礼を止めるようにするなど指示は合理性を徹底していた。そのほか、最高指揮官(栗林中将)自ら島内各地を巡視し21,000名の全将兵と顔を合わせ、また歩兵第145連隊の軍旗(旭日旗を意匠とする連隊旗)を兵団司令部や連隊本部内ではなく、工事作業場に安置させるなどし将兵のモチベーション維持や軍紀の厳正化にも邁進した。しかしながら主に手作業による地下工事は困難の連続であった。激しい肉体労働に加えて、火山である硫黄島の地下では、防毒マスクを着用せざるを得ない硫黄ガスや、30℃から50℃の地熱にさらされることから、連続した作業は5分間しか続けられなかった。またアメリカ軍の空襲や艦砲射撃による死傷者が出ても、補充や治療は困難であった。「汗の一滴は血の一滴」を合言葉に作業が続けられたが、病死者、脱走者、自殺者が続出した[67]。

坑道は深い所では地下12mから20m以上(硫黄島で遺骨収用の際、実際に確認されている。)、長さは摺鉢山の北斜面だけでも数kmに上った。地下室の大きさは、少人数用の小洞穴から、300人から400人を収容可能な複数の部屋を備えたものまで多種多様であった。出入口は近くで爆発する砲弾や爆弾の影響を最小限にするための精巧な構造を持ち、兵力がどこか1つの穴に閉じ込められるのを防ぐために複数の出入口と相互の連絡通路を備えていた。また、地下室の大部分に硫黄ガスが発生したため、換気には細心の注意が払われた。

栗林中将は島北部の北集落から約500m北東の地点に兵団司令部を設置した。司令部は地下20mにあり、坑道によって接続された各種の施設からなっていた。島で2番目に高い屏風山には無線所と気象観測所が設置された。そこからすぐ南東の高台上に、高射機関砲など一部を除く硫黄島の全火砲を指揮する混成第2旅団砲兵団(団長・街道長作陸軍大佐)の本部が置かれた。その他の各拠点にも地下陣地が構築された。地下陣地の中で最も完成度が高かったのが北集落の南に作られた主通信所であった。長さ50m、幅20mの部屋を軸にした施設で、壁と天井の構造は栗林中将の司令部のものとほぼ同じであり、地下20mの坑道がここにつながっていた。摺鉢山の海岸近くのトーチカは鉄筋コンクリートで造られ、壁の厚さは1.2mもあった。

硫黄島の第一防衛線は、相互に支援可能な何重にも配備された陣地で構成され、北西の海岸から元山飛行場を通り南東方向の南村へ延びていた。至る所にトーチカが設置され、さらに西竹一中佐の戦車第26連隊がこの地区を強化していた。第二防衛線は、硫黄島の最北端である北ノ鼻の南数百mから元山集落を通り東海岸へ至る線とされた。第二線の防御施設は第一線より少なかったが、日本軍は自然の洞穴や地形の特徴を最大限に利用した。摺鉢山は海岸砲およびトーチカからなる半ば独立した防衛区へと組織された。戦車が接近しうる経路には全て対戦車壕が掘削された。摺鉢山北側の地峡部は、南半分は摺鉢山の、北半分は島北部の火砲群が照準に収めていた。

1944年末には、島に豊富にあった黒い火山灰をセメントと混ぜることでより高品質のコンクリートができることが分かり、硫黄島の陣地構築はさらに加速した。飛行場の付近の海軍陸戦隊陣地では、予備学生出身少尉の発案で、放棄された一式陸攻を地中に埋めて地下待避所とした[68]。アメリカ軍の潜水艦と航空機による妨害によって建設資材が思うように届かず、また上述の通り海軍側の強要により到着した資材および構築兵力を水際・飛行場陣地構築に割かざるを得なかったために、結局坑道はその後に追加された全長28kmの計画のうち17km程度しか完成せず、司令部と摺鉢山を結ぶ坑道も、残りわずかなところで未完成のままアメリカ軍を迎え撃つことになったが、戦闘が始まると地下陣地は所期の役割を十二分に果たすことになる。

のちに栗林が築き上げたこの防御陣地に多大な出血を強いられることとなった、硫黄島上陸部隊の指揮官である第56任務部隊の司令官ホーランド・スミス海兵中将は、防御陣地と栗林による部隊の配置を以下のように評した[69]。


戦国時代の武将 三好 長慶(みよし ながよし)

2025年01月28日 08時23分30秒 | 社会・文化・政治・経済
三好 長慶(みよし ながよし)は、戦国時代の武将で、畿内・阿波国の戦国大名。室町幕府の摂津国守護代、相伴衆。
 
元は細川晴元の有力家臣であったが、細川政権を事実上崩壊させ、室町幕府将軍足利義晴・義輝共々晴元を京都より放逐し、三好政権を樹立する[6]。
その後は細川氏が支配していた領地を継承・拡充して三好氏の勢力を畿内の大部分にまで広げ、足利義輝、六角義賢、畠山高政らと時に争い、時に和議を結び、畿内の支配者として君臨した。織田信長以前の天下人とされる。
 
出自
山城国下五郡守護代であった三好元長の嫡男で、永正3年(1506年)に細川澄元に属して阿波国より上洛した三好之長の曾孫。三好実休、安宅冬康、十河一存、野口冬長の兄。正室は波多野秀忠の娘(波多野氏)、継室は遊佐長教の娘(遊佐氏)。
 
通称は孫次郎、官位は従四位下伊賀守、筑前守、後に修理大夫。史料では「三筑(=三好筑前守)」の略称で彼の名が多く残っている。諱の長慶は「ちょうけい」と呼ばれることもある。
 
生涯
出生・家督相続
大永2年(1522年)2月13日、細川晴元の重臣である三好元長の嫡男として現在の徳島県三好市にある芝生城で生まれる。三好氏歴代の居館地と伝わる阿波国三好郡芝生(三野町芝生)では、生母・慶春院が長慶を孕んだ時に館の南の吉野川の瀬に立って天下の英雄の出生の大願をかけたという伝承がある。
 
父は細川晴元配下の重臣三好元長で、主君・晴元の敵であった細川高国を滅ぼした功労者であった。
本国阿波だけでなく山城国にも勢力を誇っていたが、その勢威を恐れた晴元達及び一族の三好政長・木沢長政らの策謀で蜂起した一向一揆によって、享禄5年(1532年)6月に殺害された。当時10歳の長慶は両親と共に堺にいたが、一向一揆襲来前に父と別れ、母と共に阿波へ逼塞した[7]。
 
若年期の活動
→「享禄・天文の乱」も参照
細川晴元が元長を殺害するために借りた一向一揆の勢力はやがて晴元でも抑えられなくなり享禄・天文の乱となる。
 
そのため天文2年(1533年)6月20日に長慶は一向一揆と晴元の和睦を斡旋した。「三好仙熊に扱(=和睦)をまかせて」(『本福寺明宗跡書』)とあり、当時12歳に過ぎない長慶こと千熊丸が和睦を周旋したというのである。交渉自体は仙熊の名を借りて、叔父の三好康長など代理の者がした可能性もある。
 
この直後に元服したとされる。理由は長慶の嫡男・三好義興や13代将軍・足利義輝、晴元の子の細川昭元などが11歳で元服しているためである。
 
千熊丸は元服して孫次郎利長と名乗り、伊賀守を称した。ただし天文5年(1536年)11月の『鹿苑日録』では仙熊と記されているため、15歳までは世間ではまだ幼名で呼ばれていたようである[8]。
 
8月に本願寺と分離していた一揆衆が講和に応じずなおも蜂起したため、長慶は一揆と戦って摂津越水城を奪回した。翌天文3年(1534年)になると本願寺に味方して8月11日に細川晴元軍と戦い、10月には潮江庄(尼崎市)で晴元方の三好政長と戦ったが、河内守護代でもあった木沢長政の仲介や、年少であるという理由から許されて晴元の下に帰参した。この後の10月22日、晴元の命令で長慶の家臣が京都平野神社の年貢等を横領しているのを止めて還付するようにされている。
 
その後は晴元の武将となり、天文5年(1536年)3月に細川晴国や本願寺武断派の下間頼盛らが拠る摂津中島の一揆を攻撃するも敗北。この時は木沢長政の下に逃れ、長政や三好政長の支援を得て中島を攻撃し、徒立勢ばかりだった一揆軍を7月29日までに全滅させた(『続応仁後記』)[9]。
 
勢力拡大
→「越水城」、「太平寺の戦い」、および「舎利寺の戦い」も参照
 
足利義晴像(古画類聚)
三好政長は、高畠長信が京都を去った天文7年(1538年)以降京都支配に乗り出した。しかし、これに対し、三好元長の嫡男・長慶が、父の旧跡である京都に手を出されたことを不服とした。翌年1月14日、摂津国越水城にいた長慶は上洛し、翌日には細川晴元の幕府出仕の御供をしている。馬部隆弘は、この際に政長による京都支配に関する談合があり、幕府も政長の段銭賦課を快く思っていなかったとしている。結果として政長は天文8年(1539年)4月には丹波国に蟄居していることが確認されている[10]。
 
従来、天文8年(1539年)には政長と長慶とは河内十七箇所の代官職を巡って対立したと考えられていた。しかし、馬部隆弘の研究によってこれは否定された。長慶は前述の上洛の際、幕府から赤松晴政支援のための出兵を依頼されており、長慶配下の三好連盛が出兵した。その対価として、同年6月に長慶は河内十七箇所代官を望み、幕府はこれに応じている。つまり、長慶が河内十七箇所の代官職に就任できたのは、幕府と長慶が接近したためであって、政長は無関係であった[10]。
 
なお、長慶は将軍に代官職を要請する以前から、河内十七箇所に代官を派遣していた。『天文日記天文7年5月3日条に「吉田源介 十七カ所三好代官」とあり、従来これは三好政長の代官であると推測されてきたが、源介が翌年には長慶の代官として登場することから、『天文日記』の三好とは長慶のことであると明らかになった[10]。
 
長慶と政長が対立したのは、政長による京都支配や、可竹軒周聡や木沢長政亡き後(長政は拠点を南山城、河内国、大和国の国境沿いに移していた)、晴元に対する政長の影響力の大きさであるとされる。実際に、政長が京都支配をしている際には、長慶だけでなく、その同僚で、天文初年から7年ごろまで京都を支配していた高畠長信・柳本元俊が政長に反発している[10]。
 
天文8年(1539年)1月15日、長慶は細川晴元の供をした時、尾張国の織田信秀から前年に献上されていた鷹を与えられた。10日後の25日に長慶は晴元を酒宴に招き、その席で室町幕府の料所である河内十七箇所(守口市)の代官職を自らに与えるように迫ったが、晴元は聞き入れず、長慶は直接幕府に訴えた。この料所の代官は元々は父が任命されていたのだが、その死後には長慶の同族ながら政敵であった三好政長が任命されていたのである。
 
幕府の内談衆である大舘尚氏は長慶の要求を正当としたが、12代将軍・足利義晴は近江守護の六角定頼を通じて晴元・長慶間の和睦交渉を斡旋するも不首尾に終わる。長慶は1月の上洛時に2,500の人数を率いていたため、この数と石山本願寺法主・証如の後ろ盾を得て入京し、細川晴元は閏6月17日に退京して高雄に移り、細川元常や細川晴賢ら一族を呼び集めた。義晴は畠山義総や武田元光などの諸大名に出兵を命じる一方で六角定頼と共に長慶と三好政長の和睦に向けた工作を続け、夫人の慶寿院と嫡子の義輝を八瀬に避難させた。この混乱で京都の治安が悪化したため、長慶は義晴から京都の治安維持を命じられている。
 
長慶に名指しされた三好政長は4月に丹波国に蟄居していたが、細川晴元の意を受けて京都へ進出。7月14日には和談は不首尾に終わり長慶と政長は妙心寺付近で小規模の戦闘を起こしている。7月28日、長慶は六角・武田などの諸大名を敵に回すことを恐れて和睦を承諾し、摂津と山城の国境の山崎から撤退した。結局十七箇所の代官職は与えられず、8月に摂津越水城に入城した。これまで三好氏の当主はあくまでも阿波を本拠とし、畿内において政治的あるいは軍事的に苦境に立つと四国に退いて再起を期す事例があったが、長慶はこの入城以降は生涯阿波に帰国することなく、摂津を新たな本拠として位置づけることになる[11]。この後の長慶は摂津守護代となり幕府に出仕するようになるが、陪臣の身で将軍までも周章させて摂津・河内・北陸・近江の軍勢を上洛させ、主君の晴元に脅威を与えるほど長慶の実力は強大なものとなっていた[12]。
 
 
越水城の石碑
天文9年(1540年)12月15日、八上城城主・波多野秀忠の娘(波多野氏)を妻に迎えた(「天文日記」)[13]。天文11年(1542年)9月には、嫡子・義興が誕生している[13]。
 
天文10年(1541年)9月頃に名を利長から範長と改名、この年の6月に長慶は独自に菟原郡都賀荘から段銭徴収を行い、晴元から停止を命じられている。晴元は自らの側近である垪和道祐を段銭徴収の責任者としていたためである。だが、長慶はこれを無視したために彼の影響下にあった摂津国下郡(豊島郡・川辺郡南部・武庫郡・菟原郡・八部郡)では長慶と道祐から二重の段銭徴収を命じられる事態が相次ぎ、長慶は晴元との対立を深める要因となった。だが、下郡の中心都市であった西宮を管轄下に置く越水城を支配する長慶の影響力は次第に下郡の国人や百姓に及びつつあった[14]。また、7月19日には三好政長と共同して摂津国人の上田某を攻めて自害させ城を奪った。8月12日には細川晴元の命令で細川高国の妹を妻とする一庫城の塩川政年(国満)を三好政長や池田信正らと共に攻めた。しかし政年の縁戚である摂津国人・三宅国村や伊丹親興、そして木沢長政らが反細川として後詰したため、長慶は背後に敵を受ける事となって10月2日に越水城に帰還した。この時、伊丹軍が越水城に攻め寄せるが長慶は撃退し、その与党の城である富松城(尼崎市)を逆に落とした。
 
細川晴元に反逆した木沢長政は上洛して将軍・義晴と晴元を追うなどしたため、河内守護代の遊佐長教は長政が擁立した河内守護の畠山政国を追放してその兄である畠山稙長を迎え、長慶に味方することを表明した。このため翌天文11年(1542年)3月17日、長政は稙長のいる河内高屋城を攻撃しようとして太平寺で戦ったが、政長・長慶の援軍が加わった長教に敗れ討死した(太平寺の戦い)[15]。
 
太平寺の戦いから9ヵ月後の12月、細川高国の従甥に当たる細川氏綱が畠山稙長の支援で高国の旧臣を集めて蜂起、翌天文12年(1543年)7月25日に堺を攻撃したが、細川元常の家臣・松浦肥前守、日根野景盛らに敗れて和泉国に逃れた。長慶は8月16日に細川晴元の命令で堺に出陣、氏綱と戦っている。この頃になると長慶の実力は石山本願寺にも一目置かれており、天文13年(1544年)6月18日に父の13回忌法要の費用が証如から長慶に送られている。
 
天文14年(1545年)4月、細川高国派の上野元全らが氏綱に呼応、丹波から進軍して山城井手城を落とし、元全の父・上野元治も槇島まで進出したため、細川晴元は大軍を率いて出兵し、長慶も従軍して山城宇治田原で戦った。その直後、岳父の波多野秀忠の支援要請に応じて丹波に出兵し、氏綱派の内藤国貞が籠もる丹波世木城を7月25日に包囲して27日に落とした。氏綱の後援者だった畠山稙長も死去したため当面政権は安泰となった。
 
しかし、翌天文15年(1546年)8月、稙長の後を継いだ畠山政国と遊佐長教が細川氏綱を援助し、氏綱と政国、そして足利義晴らが連携して細川晴元排除の動きを見せると、長慶は8月16日に晴元の命令を受けて越水城から堺に入った。しかし堺は20日に河内高屋城から出撃した細川氏綱・遊佐長教・筒井氏などの軍に包囲され、準備不足であり戦況不利を悟った長慶は会合衆に依頼して軍を解体し、氏綱らも包囲を解いて撤兵した。この後も氏綱らの攻勢が続いて晴元・長慶は敗北を重ねたが、長慶の実弟である三好実休と安宅冬康(鴨冬)、十河一存ら四国の軍勢が到着すると一気に逆転し、義晴は12月に近江に逃れて嫡子の義輝に将軍職を譲り、長慶は実休や阿波守護の細川持隆らと共に摂津原田城や三宅城の三宅国村などの将軍方の城を落とし、摂津を奪い返した。
 
 
舎利尊勝寺
そして天文16年(1547年)7月21日の舎利寺の戦いで細川氏綱・遊佐長教軍に勝利、敗報を聞いた足利義晴が閏7月1日に帰京して細川晴元・六角定頼と和睦、長慶・実休は8月に河内で氏綱・長教軍と対陣したが、義晴が離脱していたため氏綱らは戦意を喪失、長滞陣の末に翌天文17年(1548年)4月に両者は定頼の斡旋で和睦、長慶は5月に越水城へ帰城した。
 
なお、将軍家が近江に逃れたことで幕府の政所執事である伊勢貞孝は天文16年(1547年)3月に幕臣の所領保護を求めている。この事から陪臣ながら、さらには将軍と戦おうとしている管領家の家臣である長慶の実力が認められていたことがわかる。また、長慶は4月に足利義晴を援助していた六角定頼を味方につけたため、義晴の敗北及び細川晴元の和睦・帰京に繋がり、長慶も定頼の斡旋を受けて遊佐長教らと和睦している。
 
この直後、長慶は長教の娘を継室に迎えた。先の和談における政略結婚であったという[16]。
 
晴元・政長との対立
→「江口の戦い」および「三好政権」も参照
 
細川晴元像
天文17年(1548年)8月12日以前、あるいは12月以前に孫次郎範長から筑前守長慶と改名、同年7月に三好政長を討とうとした。理由は「宗三父子の曲事」、つまり政長と息子・三好政勝の不祥事であるとする説と[注釈 3]、父の殺害の裏で暗躍した政長の存在を遊佐長教から聞いたためとも、政長の婿である摂津国人・池田信正が5月6日に晴元に切腹させられ、遺児で政長の外孫に当たる池田長正が後継に置かれたことが他の摂津国人達の反感を買い、長慶が反政長派に推されたことも一因とされている。政長は晴元からの信任が厚く、越水城で長慶が開いた軍議では晴元が政長を庇うのであれば、晴元も敵とする事を決議したという(『細川両家記』)。
 
8月12日、長慶は細川晴元に三好政長父子の追討を願い出たが、訴えは受け入れられなかったため、10月28日にかつての敵である細川氏綱・遊佐長教と結び晴元に反旗を翻し、因縁の河内十七箇所へ兵を差し向け三好政勝が籠城する榎並城を包囲した。長慶の行為は晴元方の六角定頼から「三好筑前守(長慶)謀反」とされ(『足利季世記』)、『長享年後畿内兵乱記』でも「三好長慶謀反」と記されている。翌天文18年(1549年)2月に長慶の本隊が出陣、4月から晴元・政長が政勝救援のため摂津に向かい、長慶軍と政長軍が摂津で対陣すると、晴元は三宅城へ、政長は江口城に布陣して近江の六角軍の到着を待とうとしたが、長慶は江口城の糧道を絶ち、弟の安宅冬康・十河一存らに別府川に布陣させた。六角軍は6月24日に山城の山崎に到着したが、その当日に江口城で戦いがあり長慶は政長ら主だった者を800名も討ち取った(江口の戦い)。
 
戦後、細川晴元と三好政勝らは摂津から逃亡し六角軍も撤退、晴元は足利義晴・義輝父子らを連れて近江国坂本に逃れた。長慶は晴元に代わる主君として細川氏綱を擁立し、7月9日に入京。6日後の15日に氏綱を残して摂津へ戻り、晴元派の伊丹親興が籠城する伊丹城を包囲。天文19年(1550年)3月に遊佐長教の仲介で開城させ摂津国を平定した。これにより細川政権は事実上崩壊し、三好政権が誕生することになった[17]。
 
主君さらに将軍との対立
→「中尾城の戦い」、「相国寺の戦い (1551年)」、「東山霊山城の戦い」、「芥川山城」、「永禄」、および「北白川の戦い」も参照
 
足利義輝像(国立歴史民俗博物館蔵)
近江国に亡命していた足利義晴は京都奪回を図り、天文19年(1550年)2月に京都東側の慈照寺の裏山に中尾城を築いたが、5月に義晴が亡くなった後は6月に足利義輝が細川晴元と共に中尾城へ入り、徹底抗戦の構えを見せた。両軍は小規模な戦闘に終始したが、長慶は近江にも遠征軍を派遣して義輝らを揺さぶり、退路を絶たれることを恐れた義輝は11月に中尾城を自ら放火して、坂本から北の堅田へ逃亡した(中尾城の戦い)。この間の10月に長慶は義輝に和談を申し込んだが、晴元・義輝らの面目からかこの時は不首尾に終わる。将軍も管領も不在になった京都では長慶が治安を維持し、公家の所領や寺社本所領を保護しながら義輝・晴元らと戦った。
 
天文20年(1551年)3月、義輝の計画により、長慶は二度の暗殺未遂に遭遇している[18]。3月7日夜、長慶が吉祥院の陣に伊勢貞孝を招き酒宴中、放火未遂があった[18]。同月14日には、伊勢邸に招かれた長慶が、幕臣・進士賢光に斬りつけられ、負傷した(『言継卿記』ほか)[18]。その翌朝には、晴元方の三好政勝と香西元成が東山一帯に放火した[18]。5月5日には、長慶の同盟者であり、妻の養父でもある遊佐長教が、自らが帰依していた時宗の僧侶・珠阿弥に暗殺された[19]。このような事態を見てか、7月には三好政勝・香西元成を主力とした足利・細川軍が京都奪回を図って侵入するも、長慶は松永久秀とその弟の松永長頼(内藤宗勝、丹波守護代)に命じてこれを破った(相国寺の戦い)。
 
天文21年(1552年)1月、義輝を支援してきた六角定頼が死去した[20]。後継者の六角義賢は、義輝と長慶の間に入り、和睦を成立させた[20]。天野忠幸は、この和睦の意義として、(1)長慶が、三好氏と関係が深かった足利義維ではなく、義輝を選んだこと、(2)細川氏綱が正式に細川京兆家の家督と認められたこと、(3)長慶が、陪臣は任じられない御供衆となったことで、細川家被官から将軍直臣になったこと、(4)政長流の畠山高政との同盟を堅持したこと、を挙げる[21]。これらの内容により、将軍家と両管領家(細川・畠山)の分裂は収束した[22]。幕府は将軍の義輝、管領は細川家当主の氏綱に、実権を握る実力者である長慶という構図になった[23]。
 
同年(天文21年)4月、細川晴元に与する波多野元秀の八上城を包囲したところ、三好方として従軍していた池田長正や芥川孫十郎らが離反した[24]。5月23日に包囲を解いて越水城に撤退する。またこれで聡明丸を京都に置いておくことに不安を感じ、6月5日に越水城へ移している。10月に長慶は再度丹波を攻め、晴元に味方する諸将と戦った。11月にも晴元党の動きはあったが、小規模な戦闘か放火程度で終わっている。
 
 
芥川山城の石碑
天文22年(1553年)閏1月1日、長慶・義興父子は義輝と面会した[25]。このとき長慶暗殺の噂があり、長慶は淀城に逃れた[26]。丹波で細川晴元との衝突もあったことから、同年2月26日、長慶と義輝が会談し、義輝側近で和睦反対派の上野信孝らから人質をとった[27]。同年3月、義輝は霊山城に籠城し、晴元と結んだ[27]。帰参していた芥川孫十郎が再度反乱を起こして摂津芥川山城へ籠城、丹波・摂津・山城から三方向に脅威を抱えた長慶は松永久秀に命じて晴元方の軍を破った。7月に長慶が芥川山城を包囲している最中に義輝が晴元と連合して入京を計画するが、長慶が芥川山城に抑えの兵を残し上洛すると晴元軍は一戦もすること無く敗走、義輝は近江朽木に逃走した(東山霊山城の戦い)。長慶は将軍に随伴する者は知行を没収すると通達したため、随伴者の多くが義輝を見捨てて帰京したという。
 
以後5年にわたって義輝は朽木で滞在をすることになり、京都は事実上長慶の支配下に入った。長慶は芥川山城を兵糧攻めにして落とし包囲網を破ると、芥川孫十郎が没落した後の芥川山城へ入り居城とした。越水城が摂津下郡の政治的拠点であったのに対して、芥川山城は高国・晴元の時代を通じて摂津上郡の政治的拠点から細川政権の畿内支配の拠点に上昇しつつあり、長慶もその拠点を引き継いだのである[28]。また、禁裏と交渉を行ない、土塀の修理なども行なっている。以後、三好軍は天文22年(1553年)に松永兄弟が丹波に、天文23年(1554年)に三好長逸が播磨に出兵するなど軍事活動も積極的だった[29]。
 
永禄元年(1558年)6月、義輝は細川晴元や三好政勝・香西元成らを従えて京都奪還に動き、将軍山城で三好軍と交戦した(北白川の戦い)。しかし戦況は叔父の三好康長を始め三好実休、安宅冬康、十河一存ら3人の弟が率いる四国の軍勢が摂津に渡海するに及んで三好方の優位となったため、六角義賢は義輝を援助しきれないと見て和睦を図った。この時の和談は11月6日に成立し、義輝は5年ぶりに帰京した。この時長慶は細川氏綱・伊勢貞孝と共に義輝を出迎えている。以後の長慶は幕府の主導者として、幕政の実権を掌握したのである。
 
全盛期
→「相伴衆 § 戦国時代の名誉格式へ」、および「飯盛山城」も参照
永禄年間初期までにおける長慶の勢力圏は摂津を中心にして山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨などに及んでいた(他に近江・伊賀・河内・若狭などにも影響力を持っていた)。当時、長慶の勢力に匹敵する大名は相模国の北条氏康くらいだったといわれるが、関東と畿内では経済力・文化・政治的要素などで当時は大きな差があったため、長慶の勢力圏の方が優位だったといえる。
 
この全盛期の永禄2年(1559年)2月に織田信長がわずかな供を連れて上洛しているが、長慶とは面会せずに3月に帰国した。4月には上杉謙信(当時は長尾景虎)が上洛しているが、長慶は謙信と面識があり、6年前の上洛では石山本願寺に物品を贈りあったりしたというが、この時の上洛では面会は無かったようである。
 
 
松永久秀像(落合芳幾画)
この頃、河内国では遊佐長教が暗殺された後、新たに守護代に任命された安見宗房(直政)が永禄元年(1558年)11月30日に畠山高政を紀伊国に追放するという事件があった。これを見て長慶は松永久秀を永禄2年(1559年)5月29日に和泉国に出兵させたが安見方の根来衆に敗北、久秀は摂津国に撤退し、長慶も久秀と合流して6月26日に2万の大軍で河内に進出した。そして8月1日に高屋城、8月4日に飯盛山城などを落とし、高政を河内守護として復帰させ、宗房を大和国に追放して自らと通じた湯川直光を守護代とした。また、宗房追討を口実に久秀は大和へ進軍、河内と大和の国境付近にそびえる信貴山城を拠点として大和の制圧を開始した[30]。
 
 
三好義興像(京都大学総合博物館蔵)
細川家家中においても三好氏の権力は頂点を極めた。この永禄2年(1559年)は長慶の権勢が絶大となり、長慶の嫡男・慶興が将軍の足利義輝から「義」の字を賜り義長と改めた(後に義興と改名)。この頃にはかつての管領家である細川・畠山の両家も長慶の実力の前に屈し、永禄3年(1560年)1月には相伴衆に任命され、1月21日に長慶は修理大夫に、義興は筑前守に任官した。1月27日には正親町天皇の即位式の警護を勤め、財政難の朝廷に対して献金も行なっている。このためもあってか、2月1日に義興が御供衆に任命されている。
 
永禄3年(1560年)、長慶は居城を芥川山城から飯盛山城へ移した[31]。芥川山城は息子の義長(義興)に譲渡した。居城を飯盛山城へ移した理由については、「京都に近く、大坂平野を抑えることが出来る、加えて、大和国への進軍も円滑に行える」という根拠が指摘されている[31]。また、三好氏の本領は阿波国だが、飯盛山であれば堺を経由して本領阿波への帰還もより迅速に、楽に出来るという理由もあった[31]。ただし、芥川山城よりも、京都との距離は離れていたとする永原慶二の指摘もある[31]。永原は京都との距離こそ離れるようになったが、大和・和泉・河内方面への強い進撃・進出の意欲を見せた拠点変更であり、そこには長慶の自信が満ち溢れていたとも指摘している[32]。この他天野忠幸によれば、拠点候補として高屋城と飯盛山の二つがあったが、高屋城は河内国一国の政治的拠点であるのに対し、飯盛山城は河内のみならず、大和と山城を視野に据えて合計三ヶ国に政治的影響を及ぼすことが出来る政治的拠点であり、ゆえにこちらを拠点に選択したと指摘される[32](ただし、後述のように天野は別の論文で、三好氏の家督と芥川山城についての見解を切り離して表明している)。
 
一方で飯盛山への拠点移行について、こうした政治的観点とは別に長慶の精神的な観点からの研究もある。杉山博は「長慶の心はこの頃吟風弄月の文の世界へ向けられていた」と指摘[32]、鶴崎裕雄、須藤茂樹は、「長慶の精神には隠者的な傾向が見られる」とも指摘している[32]。また、天野忠幸は長慶の嫡男である義興が将軍から一字を与えられ、三好氏歴代の官途である筑前守に任ぜられたことを重視して、長慶の拠点移行と三好氏の本拠地の問題は別の問題として捉え、飯盛山への移転によって三好氏の家督は事実上長慶から義興へと譲られ、同時に三好氏の本拠であった芥川山城も新しい当主である義興に継承されたと説いている[33]。なお、天野はこの時期に家督継承が行われた背景として、将軍義輝と三好氏の長年の対立を収拾させるために新当主・義興が義輝との新たな関係を作るのが構築させ、自分は将軍権威と一定の距離を保つのが望ましいと判断したと推測している[34]。
 
ところが、この永禄3年(1560年)に河内国の情勢が激変した。長慶の支援で守護に復帰した畠山高政が守護代の湯川直光を罷免して再び安見宗房を復帰させたためであり、長慶は高政の背信に激怒し高政と義絶、7月に東大阪市一帯で畠山軍と戦って勝利した。7月22日には八尾市一帯で安見軍を破り、高屋城を後詰しようとした香西・波多野軍、根来衆なども丹波から来援した松永長頼が破った。このため10月24日に飯盛山城の宗房が、10月27日に高屋城の高政が降伏開城して長慶は河内を完全に平定し、高屋城は河内平定の功労者であった弟の実休に与え、自らは飯盛山城を居城にした。また畠山家の影響力が強かった大和に対しても松永久秀に命じてこの年に侵略させ、11月までに大和北部を制圧して久秀に統治を任せた。
 
永禄4年(1561年)3月30日には義輝を将軍御成として自らの屋敷に迎え、5月6日に義輝の勧告で細川晴元とも和睦、摂津普門寺へ迎え入れた。また嫡子の義興はこの年に従四位下・御相判衆に昇任するなど、三好家に対する幕府・朝廷の優遇は続いた。この年までに長慶の勢力圏は先に挙げた8カ国の他、河内と大和も領国化して10カ国に増大し、伊予東部2郡の支配、山城南部の支配なども強化している。この長慶の強大な勢力の前に伊予の河野氏など多くの諸大名が長慶に誼を通じていた[35]。
 
晩年
→「久米田の戦い」、「教興寺の戦い」、および「政所 § 室町時代の政所」も参照
 
三好実休戦没地の石標
 
教興寺の山門
長慶の衰退は永禄4年(1561年)4月から始まった。弟の十河一存が急死したのである。このため和泉支配が脆弱となり(和泉岸和田城は一存の持城である)、その間隙をついて畠山高政と六角義賢が通じて、細川晴元の次男・晴之を盟主にすえ7月に挙兵し、南北から三好家に攻撃をしかけた。この戦いは永禄5年(1562年)まで続き、3月5日に三好実休が高政に敗れて戦死した(久米田の戦い)。
 
しかし京都では義興と松永久秀が三好軍を率いて善戦し、一時的に京都を六角軍に奪われながらも、義興・久秀らは安宅冬康ら三好一族の大軍を擁して反抗に転じ、5月20日の教興寺の戦いで畠山軍に大勝して畠山高政を再度追放、河内を再平定し、六角軍は6月に三好家と和睦して退京した。なお、この一連の戦いで長慶は出陣した形跡が無く、三好軍の指揮は義興・久秀と冬康らが担当している事からこの頃の長慶は病にかかっていた(病にかかったのは永禄4年(1561年)頃とも)のではないかといわれている。以後、和泉は十河一存に代わって安宅冬康が、河内高屋城主には三好康長が任命されて支配圏の再構築が行なわれた。
 
永禄5年(1562年)8月には幕府の政所執事である伊勢貞孝が畠山・六角の両家と通じて京都で挙兵したため、9月に松永久秀・三好義興の率いる三好軍によって貞孝は討たれた。永禄6年(1563年)1月には和泉で根来衆と三好軍が激突し、最終的には10月に三好康長との間で和談が成立。大和でも久秀の三好軍と多武峯宗徒の衝突があり、また細川晴元の残党による反乱が2月からかけて起こるなど、反三好の動きが顕著になってきた。
 
さらに永禄6年(1563年)8月には義興が22歳で早世、唯一の嗣子を失った長慶は十河一存の息子、すなわち甥である重存(義継)を養子に迎えた。本来であれば一存の死後に十河氏を継ぐべき重存が後継者に選ばれたのは、彼の生母が関白を務めた九条稙通の娘でありその血筋の良さが決め手であったとみられる[36]。12月には名目上の主君であった細川氏綱も病死、この少し前には細川晴元も病死しており、三好政権は政権維持の上で形式的に必要としていた傀儡の管領まで失う事になった[37]。ただし、氏綱については、有力な支持者であった内藤国貞が健在であった天文22年(1553年)までは長慶よりも上位にあり、その後も義輝・晴元に対抗するために長慶に政治的権力を譲る代わりに摂津の守護としての立場を保持したもので、傀儡ではなくむしろ積極的な協力者であったとする見解も出されている[38]。
 
最期
 
飯盛山城の模型
 
三好義継像(京都市立芸術大学芸術資料館蔵)
永禄7年(1564年)5月9日、長慶は弟の安宅冬康を居城の飯盛山城に呼び出して誅殺した。松永久秀の讒言を信じての行為であったとされているが、この頃の長慶は相次ぐ親族や周囲の人物らの死で心身が異常を来たして病になり、思慮を失っていた。冬康を殺害した後に久秀の讒言を知って後悔し、病がさらに重くなってしまったという(『足利季世記』)。ただし、久秀の讒言とする話の出典はいずれも軍記物であり、冬康が義継への家督継承の障害になるとする判断から長慶自らが手を下した可能性も指摘されている[39][40]。
 
このため6月22日には嗣子となった義継が家督相続のために上洛しているが、23日に義輝らへの挨拶が終わるとすぐに飯盛山城に帰っている事から、長慶の病はこの頃には既に末期的だったようである。そして11日後の7月4日、長慶は飯盛山城で病死した。享年43。義継が若年のため松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が後見役として三好氏を支えたが、やがて久秀は独自の動きを見せはじめ、永禄8年(1565年)から永禄11年(1568年)までの3年間内紛状態に陥った。その後、久秀の側に鞍替えした義継と久秀は、新たに台頭した織田信長と彼が推戴する足利義昭に協力、三好三人衆は信長に敗れ、三好政権は崩壊した[41]。その後、義継と久秀も信長と対立し、滅ぼされた。
 
葬儀・墓所
長慶の死後、嗣子の義継が若年である事から松永久秀・篠原長房・三好三人衆らは喪を秘して重病であるとし、2年後の永禄9年(1566年)6月24日に葬儀を営んだが、その際に参列の諸士が涙を流してその死を惜しんだという(『鹿苑日録』)。なお、その2年間で遺骸はかなり傷んでいた(『足利季世記』)[42]。
 
墓所は八尾市の真観寺、京都市の大徳寺聚光院、堺市の南宗寺など[43]。
 
長慶の肖像は大徳寺の聚光院と南宗寺に存在する。聚光院のものは他の戦国武将のように不敵さ、鋭さ、泥臭さが欠けており、学問があり風流も解すといった教養人の印象が強い[44]。聚光院の肖像は昭和9年(1934年)1月30日に重要文化財に指定されている[43]。聚光院、南宗寺の肖像は共に笑嶺宗訢による賛が付記されている[45]。
 
経歴
※日付=旧暦
 
年月日不詳 - 筑前守に任官。 
年月日不詳 - 従五位下に叙す。
天文22年(1553年)2月28日 - 従四位下に昇叙。筑前守如元。
永禄3年(1560年)1月20日 - 修理大夫に転任。将軍家の相伴衆に列座。
永禄4年(1561年)2月3日- 将軍より御紋の下賜がなされる。
※参考=系図纂要、「雑々聞撿書丁巳歳」(内閣文庫架蔵写本)
 
人物・逸話
軍事力
 
三好長慶画像(英雄百人一首)
長慶は織田信長と同じく堺の経済力に目をつけており、そこでの貿易による富裕な富で莫大な軍費・軍需品を容易に入手した。また曽祖父の三好之長や父の元長ら以来による細川領国圏での国侍との関係、有能な実弟らの統治する四国の軍事力、特に強力な水軍を擁しており、さらに優秀な長慶の個人的才能が加わって全盛期における三好軍の軍事力は大変強大であった。また阿波は小笠原を称していた頃から三好家の血族意識が強固であり、そのため長慶時代には弟の実休がしっかり阿波を守ることで他国進出を可能にした[46]。
性格
巧みな政治・軍略を展開しながらも下克上の雄ではなく旧来の人物であった[47]と言われる。保守的・優柔不断と言った評価も多い[48] が、こうした長慶の人物像への評価に対して、「戦国時代の常識への無理解に基づく全く妥当ではない評価だ」という反論もある[48]。
 
長慶は将軍・足利義輝と長年争ったが、長慶の義輝に対する対応は寛容・微温的であったとされる。義輝と細川晴元を合戦で破り近江国朽木へ放逐した折、追撃が困難ではなかったにもかかわらず、長慶は義輝へ執拗な追撃をしようとしなかった[49]。さらにその後5年間、朽木を攻撃した形跡も見られない。義輝が避難した場所は細川晴元の義兄の六角義賢の勢力圏内であり、さらに義輝の妹婿である若狭国の武田義統の勢力圏からも近かったことも影響していると考えられる[49] が、『続応仁後記』は、敵を執拗に追い詰めない長慶の方針ゆえだと記述しており、長江正一も、敵を徹底的に追い詰めない長慶の性格が反映された措置と推定している[49]。また長江は長慶の性格について、「下剋上の標本のように言われるが、自己の権益を主張する以外は、古い伝統、秩序を尊重する律義者である」と評している[50]。堀孝はこの長江の寸評を引用し、自らも、長慶が義輝を追及、追撃しなかった理由として、「先祖が戦に起因して斬首や自害で世を去った悲しみを知る彼の性格」の結果として、朽木に追いやられた将軍を過剰に追撃しないという結果を出した、という論拠を提示している[51]。
 
今谷明はこうした長慶の義輝とのやり取りを「柔弱・果断に欠ける」と評しており[52]、また後年の織田信長の足利義昭に対する「果断」と比較すれば、柔弱の誹りを受けるのも「さもありなん」と述べている[52]。一方、天野忠幸は、その信長も、義昭に対しては最終的に追放こそしたが、和睦を提案したり極力寛容であったこと、徳川家康が追放した旧主・今川氏真を一時家臣として迎え入れていたこと、北条氏康が敵対した旧主・足利晴氏を軟禁するにとどめたことなどを根拠として提示し、「敵対したかつての主君を殺さない、執拗に追い詰めないことは、柔弱でも保守的でもない、戦国時代の常識である」と述べ、長慶が義輝に寛容な態度を取ったからと言って、それを根拠に長慶を保守的・優柔不断な人物と評価するのは妥当ではないと指摘している[48]。
 
長慶は大変寛大であったが[53]、一方で決断力が欠けていると思われる面もあった。
 
三好政長を討つ際、主君の細川晴元は政長を支持して長慶は謀反人とみなされた。江口の戦いの際、弟の十河一存は晴元が三宅城にいる事を知り城を落とそうと提言したが長慶は受け入れなかった。しかも戦後、晴元が帰京する際は弟の安宅冬康配下の淡路軍に警護させている上、その後に晴元と義輝が近江に逃れると圧倒的に優位でありながら和睦を懇望している[54]。
細川晴元一党はたびたび長慶に反乱を起こしたが、長慶は人質である晴元の長男の昭元を決して殺さずに弘治4年(1558年)2月に自ら加冠役として元服させており[55]、永禄4年(1561年)5月に晴元が義輝の仲介で摂津に戻ってきた時には次男の晴之を六角氏に預けながら(この晴之が六角に擁立されて反三好の兵を挙げることになる)、昭元と再会させ隠居料も支払い庇護するという厚遇をした上に長慶が旧主と和睦できて涙を流したとしている(『足利季世記』)[56]。
宗教
長慶は父の菩提を弔うため、弘治3年(1557年)、臨済宗大徳寺派の寺院、龍興山南宗寺を長慶の尊敬する大徳寺90世大林宗套を開山として創建した。茶人の武野紹鴎、千利休が修行し、沢庵和尚が住職を務めたこともあり、堺の町衆文化の発展に寄与した寺院である。長慶は常に「百万の大軍は怖くないが、大林宗套の一喝ほど恐ろしいものはない」と常々語っていたほどに大林宗套に深く帰依しており、南宗寺の廻りは必ず下馬して歩いたといわれている[57]。
長慶は父の菩提を弔うため、父が最期を迎えた法華宗日隆門流の寺院、顕本寺を庇護した。また、長慶の旧主であった細川晴元は法華一揆を鎮圧して法華宗の寺院やその信徒である商人らを京都から追放したが、彼らは堺や尼崎・兵庫津など現在の大阪湾沿岸の諸都市に逃れた。長慶は顕本寺や同地の商人との関係を重視してこれらの寺院や信徒を庇護したことで、都市に対する影響力を強めることになった[58]。
長慶はキリスト教をよく理解し、畿内での布教活動などを許してキリシタンを庇護している。このため家臣の池田教正(シメアン)など多くの者がキリシタンとなっているが、自らはキリシタンにはなっていない。ただし長慶は旧体制の人物でありながら信長のように半面は新しさも持っていた[59]。
教養
朝廷との関係を重んじてたびたび連歌会を開くなど、豊かな文化人であった。大林宗套は、長慶の三回忌に際し「心に万葉・古今をそらんじ、風月を吟弄すること三千」と讃えた[60]。長慶の正座は日常から正しく、連歌の行跡などは細川藤孝(幽斎)や松永貞徳も敬仰して模範にしたという[61]。
晩年には前半生で成功した理由であった猛々しさを失っていたが、これは長慶が連歌に没頭したためともみなされている[47]。松永貞徳の随筆集『戴恩記』によれば、同時代にも長慶の教養人としての面を文弱としてあげつらう人もいたようであるが、長慶は「歌連歌ぬるきものぞと言うものの梓弓矢も取りたるもなし」という和歌でそれに反論している[60]。
長慶の連歌について、細川藤孝(幽斎)は「修理大夫(長慶)連歌はいかにも案じてしたる連歌なりしなり」との評価を烏丸光広に語っている[62]。
長慶は久米田の戦いで弟の三好実休が戦死した時、連歌会を開いていたという。そして実休の戦死報告が入ると一句を読んで周囲にいた面々をうならせたという。ただし後代に書かれたものであり信憑性に疑問も持たれている[63]。
三井記念美術館には、嘗て長慶が所持したという粉引茶碗、別名「三好粉引」が伝世している。
家族
母は慶春院で、出自はわかっていない[64]。妻は一人目が波多野秀忠の娘である波多野氏、二人目が遊佐長教の娘である遊佐氏[64]。いずれも政略結婚と考えられ[64][65]、一人目の妻とは、長慶が細川氏綱と結託したことが契機で離縁された[64]。『続応仁後記』は、一人目の妻との離縁について、「不縁の子細有りて、妻女別離」と記述している[66]。
 
二人目の妻についても、公家や寺社と長慶が交流する過程で交わされた書状に名前が見えず、早くに病没したか、遊佐長教が暗殺された後実家に帰ったのではないかと推定される[64]。
 
長慶が側室を娶ったことは確認されていない。子供は義興一人のみで、義興は最初の妻との間に生まれた子だと考えられる[67]。
 
その他
『名将言行録』によれば、17歳の時、「これより3年、夏の季節に100日間、虚空蔵求問持法の荒行を行い、それによって記憶力を鍛える」と宣言し、3年かけて実行した。また、修行を達成した19歳の年に、四国を巡礼したという逸話を伝えている[68]。また同書によれば、息子を松永久秀に殺された、足利義輝の妹を妻に娶った、と記述している[69]。
 
和歌
難波がた 入江にわたる 風冴えて 葦の枯葉の 音ぞ寒けき(集外三十六歌仙)
生駒山 まぢかき春の 眺さへ かぐわふほどの 花ざかりかな(眺望集)
歌連歌 ぬるきものぞと 言うものの 梓弓矢も取りたるもなし
末裔
長慶の末裔は三好義興と長慶の死によって断絶したとされているが、江戸時代には長慶の4代孫・三好三省長久の子・三好長宥(長看)が実相院の坊官となっており、長宥の子孫は幕末の長経まで代々坊官を務めている[70]。
 
評価
同時代の評価
『朝倉宗滴話記』『甲陽軍鑑』『北条五代記』『当代記』などの書物に三好長慶への言及がある[71]。これらの書物はいずれも江戸時代初期までに成立したものだが、いずれも長慶に対しては好意的に描いており、『北条五代記』は、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉と並び称している[72]。江戸時代初期までに成立した書物は、長慶を名将として礼賛しているものが決して少なくなかった。
 
江戸時代中期以降の評価
しかし、江戸時代中期以降より、家臣の松永久秀と併せて、根拠の怪しい逸話などを交えて語られるようになった。その代表が、『常山紀談』における、「松永久秀の主殺し」を織田信長が紹介した、という逸話である[73]。そして、所謂「三英傑」と比較していつしか長慶の存在は顧みられることはなくなってゆき、田中義成の『足利時代史』『織田時代史』などでは言及すらされなくなった[72]。 頼山陽は『日本外史』の中で「老いて病み恍惚として人を知らず」と紹介している[72]。また今谷明は、有吉佐和子の『恍惚の人』のモデルの一つが長慶だと言われていると伝聞の形で指摘している[74]。
 
ただし、頼山陽の長慶評については、全く根拠がなく、その無根拠な評価を批判されている[72]。
 
現代の研究と再評価
武田・北条・毛利などと比べると、三好氏、及びその主君であった細川京兆家は史料に乏しく[75]、史料が豊富な分野・大名に研究は偏りがちであった。また、小此木宗国など、長慶被官が発給した文書は京都の寺社を中心にそれなりに現存しているが[76]、その多くは活字に翻刻されておらず、文書の多くも京都市に偏っている。発給文書でさえ全てが解明されていない為、三好政権の政策、長慶の思想などについては未だに不明な所が多い[77]。昭和43年(1968年)には長江正一が吉川弘文館より人物叢書『三好長慶』を刊行、これは先駆的な研究と評され[75]、今谷明も参考にしたという。今谷は、(その当時)「長江氏のこの書籍以外、参考になるべき図書など殆どなかった」と語っている[75]。その後、今谷がいくつか三好政権並びにそれと深い関連を持つ室町幕府末期に関する著作を出すが、長らく、長慶、三好政権の研究は停滞していた。
 
しかし、平成12年(2000年)に山田康弘が論文集『戦国期室町幕府と将軍』(吉川弘文館、2000年)を出し、翌年からは今谷の室町幕府末期・並びに「言継卿記」を研究した書籍が文庫として立て続けに再版される[78]。さらにこの頃から、天野忠幸の論文が公の場に発表されるようになり、三好氏の研究が活気づく[78]。
 
平成16年(2004年)、「戦国期の政治体制と畿内社会」が日本史研究会のテーマとなり、天野忠幸の論文「三好氏の畿内支配とその構造」(『ヒストリア』198号、2006年)が発表される。これによって、三好長慶、三好政権への学会の注目が集まるようになっていった[78]。
 
現在では、松永久秀の壟断、横暴を許し、下剋上されてしまった凡庸な君主としての評価が、「一般的な評価として」定着してしまっている[注釈 4]。 そして、織田信長の「革新的」なイメージと比較され、旧主・保守的・文弱・柔弱というレッテルを張られてしまっている[79]。
 
しかし、こうした通俗的な見解に対して、「織田信長の先駆者」[80][81]「信長に先行する斬新な政策を行った」[82]「長慶が果たせなかった『下剋上』を、信長が成就した」[83] という評価もある。