それを実践したいと思うのですが・・・
お金は価値的に使うべき。
でも、多くの人がそのことに気付かない。
幸せはお金の過多ですか?
お金を溜めるだけ溜めて、人生の楽しみを知らずにあの世へ行く。
残されたお金は、何の努力もしないで、遺産を分配の幸運に浴した人たち。
人生の皮肉と言うほかないのでは?
それを実践したいと思うのですが・・・
お金は価値的に使うべき。
でも、多くの人がそのことに気付かない。
幸せはお金の過多ですか?
お金を溜めるだけ溜めて、人生の楽しみを知らずにあの世へ行く。
残されたお金は、何の努力もしないで、遺産を分配の幸運に浴した人たち。
人生の皮肉と言うほかないのでは?
生命・生活・生存を最大限に尊重する人間主義を追求するところに平和がある。
冷戦のくびきにとらわれない国家関係を築く時代に向かう。
新時代のキーワードは、「教育時代」。
基本的には時代とともに大衆の思考は健全化し、良識へ向かっていく。
次の時代も、より大衆を信頼していくべきだ。
政治家と大衆との相互関係、信頼関係を強化していくことが重要だ。
特に重要なのは、人々の心に響く政策だ。
社会の分断をつくらないことだ。
「子育ての世代が安心して次の世代を育てていけるような教育政策を期待します」
作家 佐藤優さん
くびきとは?
家畜を束縛するものであることから、あるものの支配によって自由や国の独立が奪われることを喩えて「○○のくびき」という。
「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、固い板に力を込めてじわじわっと穴をくりぬいていく作業である」
ドイツの社会学者マックス・ウェーバー
激変する国際環境の中で、日本が世界の平和と繁栄に向けた重責を担う。
国際社会が不安定では、日本の安全や国益が脅かさかねない。
日本が国際社会に貢献する。
国際協調のあり方で問われたのは、国際平和維持活動(PKO)であった。
当時は、PKOに対するマスコミや世論の評価は低かった。
読売新聞が昨年発表した世論調査によると、「国連平和維持活動(PKO)協力法成立」 がトップだった。
内閣府は2018年12月21日
外交に関する世論調査を発表した。
その内容によれば、調査時点において国際連合平和維持活動(United Nations Peacekeeping Operations、国連PKO)への日本の参加に関して、現状規模での参加維持を望む人は過半数に達していることが分かった。
現状より積極的に参加すべきだとの意見は2割を超えているが、現状より消極的な参加に留まるべきの意見は1割強に留まっている。
現時点で世界の100以上の国が国連平和維持活動(国連PKO)に要員を派遣しており、日本も他国同様、国際平和協力法に基づき、東ティモール、ハイチなどの国連PKOや、イラク難民支援などのための人道的な国際救援活動、東ティモールやネパールなどでの国際的な選挙監視活動に参加していた。
現時点では南スーダンに司令部要員や施設部隊を派遣し、同国の国づくりを支えている。
これらの行動について、日本はこれからも国際社会への人的貢献として、こうした活動に参加すべきと考えるか聞いたところ、現状規模の参加継続を望む人が58.4%となり、過半数の値を示すこととなった。
アジアをはじめ、多くの国の方々にも、多大な不幸と苦しみを、日本の軍国主義は与えてきた。
そのような時代に二度と戻ってはならない。
そうした決意を胸に、戦争への反省を忘れず、平和を永続的なものにしていく努力を続けていかなければならない。
世界平和のため、国連を中心に各国が平等の立場で話し合う。
世界を見渡すと、まだまだ暴力や人権侵害が繰り返されている。
日本は平和な国であるがゆえに、ややもすると、そうしたことに無関心になりがちだ。
「自分のみ平穏」に閉じこもり、世界で起こっていることに鈍感になってしまう。
そのことから、平和を脅かす危機が起こる。
元国連事務次長 赤石康さん
人を属性で一つの方向に「くくる」のではなく、一人一人と向き合うことが日本社会に求められる。
いじめなど、攻撃的。
自虐的でもある。
差別意識もあり、寛容ではない。
異なる者を排斥する傾向。
「こうあるべき」という押しつけも窮屈だ。
欧州も民主主義の危機にあえぐ。
平和を守り、世界、社会を今より少しでも良いものにできるだろうか?
いつから、箱根駅伝を沿道で応援するようになったのだろうか?
思い起こせば、学生時代に明治大学の駅伝選手として、3区か4区を走ったという歯科商社の部長の方と出会った。
その部長は当時は50代、太っていて元駅伝選手と聞いてもその姿から想像しかねた。
また、明治大学卒業の友人が毎年、小田原で箱根駅伝を観戦していると言う。
同窓生が集まり、応援後に飲み会となるそうだ。
そして、当方も友人に誘われて取手から小田原まで行ってみた。
その後は毎年、大手町の読売新聞社のスタート前まで観戦に行く。
臼田貞夫さんが日本歯科医師会の会長と歯学部の同窓会の会長になったころである。
その前の記憶をたどると、実家の小田急線の相模大野駅から甥などを連れて、箱根や小田原まで小田急線に乗って箱根駅伝の応援に行っていた。
駅伝の帰りには、丹沢の大山へ初詣もする。
スポーツ法政インタビュー記事
人間というのは、みんな同じです
「スポーツ法政です」と背後で、女子学生と思われる人が声をかけながら新聞を配布していた。
その人と視線が合って、手を伸ばし新聞を受け取る。
「どうぞ」と微笑む。
戸塚で家人と合流した直後だった。
当方は川崎駅で降りて、家人は分かれて鶴見駅へ向かう。
携帯電話で待ち合わせ場所を確認した。
ところで、スポーツ法政には、山の上りの5区で区間賞の走りを見せ、「山の主役」となった青木涼真選手(3年生)が掲載されていた。
その新聞の8面に、第83代内閣官房長官菅義偉さんのインタビュー記事が掲載されていた。
昭和47年度法政大学法学部卒業。
在学中には空手部に所属。
当時、学費が首都圏の私学で1番安かったので法政大学を選んだそうだ。
秋田の農家の長男に生まれ、家出同然のように東京に出た。
農家を継ぐのが嫌で、上京後、町工場で働き始めた。
ほどなく、「東京に出てきても何も良いことがない」と思い始めた。
そこから、人生もう一度やりなおしてみたな気持ちで、大学へ入ろうと思い、2年間遅れて法政大学に入学。
当時は、アルバイトと部活を徹底してやってみようと思い、どこまでそれが可能か試すような気持ちで、一生懸命働いた。
「人生というのは1回ですから、自分の好きなことをやって悔いのない生涯を送りたいと思ったのです」
大学創業後に民間企業に就職。
そこで働いているうちに、なんとなく社会の構造・仕組みのようなものをかんじるようになり、「もしかしたら、この国を動かしてるのは、政治じゃないかな」と思いに至った。政治の世界に入ってみようと決意した。
24歳で卒業して、それから2年以上かかって、政治の世界に飛び込むことになる。
農家を継いだら、今の姿がなかっただろう。
交友会事務局長の紹介が縁となり、神奈川の小此木彦三議員の秘書として働くことになった。
そして、政治の世界に関係のある場所にたどり着いた。
政治家として第一線で活躍できる秘訣は?
「人間というのは、みんな同じです。そういう単純な事実を、学生の時体験を通じて学びました。
同じ人間なのだから、中途半端で終わるよりも、一つのことに一生懸命に取り組んだ方がいいし、迷ったら挑戦した方がいい。
そういう私も、政治家になるまではずっと迷っていて、実家の農業を継がないと決心して吹っ切れるまでに、かなり時間がかかってしまいました。
だからこそ、今は、自分にとって悔いのない仕事をしっかりとやりたいと思っています」
「いろいろなことがあるのが人生です」
ボール工場作業員 |
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現職 | 衆議院議員 |
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1975年、政治家を志して相談した法政大学就職課の伝で、OB会事務局長から法政大学出身の第57代衆議院議長中村梅吉秘書を紹介され、同じ派閥だった衆議院議員小此木彦三郎の秘書となる。
以後11年にわたり秘書を務めた。
1983年、小此木の通商産業大臣就任に伴い大臣秘書官を務める。
1987年、横浜市会議員選挙に西区選挙区から出馬し、初当選。
その後市議を2期務めた。
横浜市政に大きな影響力を持っていた小此木の死後、当選回数わずか2回にも関わらず、小此木の事実上の代役として、秘書時代に培った政財官の人脈を活かして辣腕を振るい、高秀秀信市長から人事案などの相談を頻繁に受けるなど、「影の横浜市長」と呼ばれた。
1996年の第41回衆議院議員総選挙に神奈川2区から自民党公認で出馬し、新進党公認・公明推薦の上田晃弘、旧民主党公認の新人大出彰らを破り、初当選した[12]。
多摩川の鉄橋を電車が渡った時、雪に覆われた富士山が見えた。
その光景は取手の利根川から見る富士山より遥かにくっきりした雄姿であった。
「富士山が見える」と家人に告げた時、その姿は川崎のビル群に消えた。
当方は富士山が見えることを忘れていて、河川敷にいる人たちに視線を送っていた。
視線を上げた時、2秒ほど富士山を視野の中に捉えたのだ。
帰りの電車から富士山を見ようかと思ったのに、右側の座席に座ったので、混雑している車内から見ることができなかった。
戸塚駅から乗った宇都宮行きの電車を降り、横浜から東急電車に乗った時、運良く座れた。
家人が手前の一つの席を見つけ座り、当方は立っていたが次の駅で降りる人が居て座れたのだ。
横浜で多くの乗客が降り、多くの乗客乗り込むので一つでも空席がなければ、そのまま品川駅まで立っていたかも知れない。
品川駅で多くの人が降りて行く。
浅草へ向かったのは、家人が大ファンになった東京大衆歌謡団を観るためだ。
場所が決まっていなので、探すが浅草の混雑は半端ではなかった。
まず、鰻を食べる1500円の一番安い鰻で、家人は「ご飯がベチャベチャしていて美味しくない」とご飯を残す。
1本肝を注文。
当方は小さな270円の日本酒を飲む。
神谷バーへ帰りに行く予定なので、一番小さな酒にした。
今日は箱根駅伝を待ちながら川崎で紙カップの日本酒を1つ。
酒を飲みながら駅伝選手を待つのは当方だけ。
取手から電車に乗った時も紙カップを一つ。
「朝からお酒なの!」と家人は顔をしかめる。
浅草寺へ向かうのに、ロープが張られ、雷門以外からは境内に入れなかった。
それにしても人、人、人で溢れていて、どの飲食店にも長い列ができていた。
道路は歩行者天国に。
電話で確認しようとしたが、東京大衆歌謡団野事務所は留守だった。
隅田公園方面も確認に行く。
結局、諦めて神谷バーで電気ブランを飲む。
午後2時を過ぎていたので、待つ人の列がかなり減っていた。
すでに鰻を食べているので、フレンンチポテトだけを食べる。
浅草駅から日光線に乗って来た千住駅経由で帰るが、取手駅まで立って行く。
水戸行きの電車で混雑していた。
立って帰った経験はまずない。
何時もは上野経由で始発の常磐線に乗るので。
実に良く歩いた半日であった。