「終わり良ければすべてよし」 このフレーズは世界中で広く使われ、ウイリアム・シェイクスピアの戯曲にもなっているが、人の最後においても、みんな本気でそう思っているのだろうか?。 途中経過がどうあろうと、最後にうまくいけば全てが良いという考え方には、かなりの無理があるし、紆余屈折をたどりながら終焉を迎えた長い人生を、一刀のもとに評価していいものだろうか。
もうひとつの疑問は、最後の良し悪しの判断は誰がするのだろうか、客観的に良しと判断しても、主観的にもそうだとは限らないし、その逆もあるだろう。 さらに公的な評価と個人的な幸せを、一緒くたに論ずるのにも疑問を感ずる、例えば事業経営はうまくいったが、家庭的には不幸だったという場合は、どちらに重きをおくのだろうか。
「死に際に多くの人から惜しまれるなら、その人の人生は成功であったといえよう」 などと真顔で言う人もいるが、この場合「人生」という言葉を使わないほうがいい。 社会的な成功者と、人生の成功者とはまったく別物だからだ。 また「多くの人に愛されて亡くなった」 という弔辞の文句より、「一人の人に深く愛されて逝った」 と語ったほうが参列者に与える感銘は大きい。
政治家や指導者の中には、「結果は歴史が証明するであろう」 と評価を後世に託しながら亡くなる人もいるし、芸術家や文学者の中には、不幸にして死んだ後に再評価される人も多い。 しかし、そうした人たちが後の世で結果を知ることはできない。 高い志と信念を持つ人は別として、死んだ後のことまで気に病みながら、生きてる人の心理は理解し難い。
人生の最後に報われなかった人にも、途中経過では充実した時代や、懐かしい思い出、忘れえぬ出会いなどがあったはず。 そう考えると、「終わりよければ総てよし、途中よければそれもよし」 ぐらいに捉え、人生をいくつかに区切って、振り返りながら生きたほうが現実的なのではあるまいか?。 いい思い出をいくつも持った人は、悔いることなく死ねる。 「敗軍の将」として謹慎中だった僕は、時効を終えたいま自分なりに良い時間を求めて、残りの人生を終えたいと思っている。