カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

そういう人になるしかない!

2007年09月07日 | 日記 ・ 雑文
前回の日記は、「カウンセリング場面だと、どういうわけだか“本質的な自分”が動き出してしまう」というのが主旨だった。これは言い換えると“ごまかしが効かない”という意味でもある。そして“ごまかしが効かない”という言い方をすると、じつはこれが“大変な問題である”ということにも気が付くのだが……。

これは私の経験だが、クライエントに対して「恐い!」という感情が起きてしまう場合が稀にある。これは“本質的な自分”のところで起きるので、私にはどうすることもできない。瞬時にバリアーが張られ、防御体制に入ってしまうのだ。
こうなるともう、カウンセリングどころではなくなる。わかりやすい表現をすると、“膝を交えた話し合い”が現実化できなくなってしまうわけだ。
もっと極端な例で言うと、(現在のところ経験はないが)もしも“本質的な自分”が“命の危険”を感じたなら、そのときには私は目の前の人を、ブスリ! とやってしまうに違いない。ただし、この場合は法的には“正当防衛”に当たるので、咎められることはないだろうが。
ま、いずれにせよ“本質的な自分”とは、そういう性質のものである。“純粋”という言葉を使うなら、“これ以上純粋なものはない”と言えるだろう。

無論、私は自分が「どんなクライエントでも100%受容できる」とは思ってないし、「カウンセリングは万能薬である」とも思っていない。
そういう意味では、「私があるクライエントに対して拒絶反応を起こす」という事実は、「その時その場での“あるがまま”の私だ」と言える。しかし、だからといって「それが“あるがまま”の私なんだから、それはそれでいいのだ!」となってしまったら、それは俗に言う“あぐらをかく”ということになるだろう。あるいは“野狐禅”と呼ばれるだろう。

本気で“カウンセラーを目指す人”の場合、いつか必ずこの“根本的な矛盾”にぶつかるだろうと思う。そしてこの“根本的な矛盾”を解消するには、「“本質的な自分”を育てていくしかない!」という結論に達するに違いない。
カウンセリング講座の中に「純粋性(自己一致)の問題に取り組む」というテーマのものがあるが、それはこういう意味だ。カウンセラーを目指す人の場合には、“この問題”はどうしても避けて通れないのだ。

この“根本的な矛盾”にぶつかったところで、友田先生に「どうすればいいのか?」という問いを発する人がいる。そういう場面をこれまで何十回も経験してきたが、先生はその問いに対し、
「そういう人に、なるしかないでしょうなあ……」
と、毎回毎回、何十回も同じ応答をしていた。うんざりするくらい、同じ応答を繰り返していた。

これを書いている今、ふと気付いたのだが、友田先生はそのセリフを“問いかけた人や講座の参加者たちに対して”発していたというより、“自分自身に対して”発していたような気がする。
かつて友田先生に、「私たちから見ると先生は“カウンセリングを極めている”ように見えますが、どうして先生は“カウンセリングから足を洗わない”のですか?」という意味の質問をした人がいた。それに対して先生は一言、
「未熟者だからです」
と応えたのだった。

この「未熟者だからです」は、じつにじつに味わい深い言葉だと思う。私が個人的な感情や思想から“問題解決指向”を嫌悪し、“人間の成長を目指すカウンセリング”を愛するのは、「この一言にすべてが集約されている」と言っても過言ではない。

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