カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

原点

2010年09月15日 | 日記 ・ 雑文
日本カウンセリング・センター主催の土曜講座「東洋思想とカウンセリング PARTⅠ」で使用しているテキスト中に、気になるというか妙に引っかかる部分がある。それはこの記録(座談会の模様が逐語的に記されている)の出席者である先生たちが、「カウンセリングに身を投じていく際の“原点”が何なのか?」を問題にしている箇所である。

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佐治:教育界にしても産業界、あるいは看護婦さんたちでも、もともとの風土のなかにカウンセリングに近い考え方がないとはいえない。――だからナマかじりにカウンセリングを知ると、ひどく安易にカウンセリングの考え方を適用しようという動きになるんですね。実際にカウンセリングにまともに直面する以前に、こうなんだと思い込んでしまう。あるいは、カウンセリングと近いとその人が誤解している考え方でもって、わかった気持ちになってしまう。カウンセリングの出発は、人間性そのもの――人間そのもの、への関心からはじまると思うのだが、人間性そのものに対する関心というものは、どこまでも深められるし、一方でひどく浅いところでとどまりもするんですね。そういう意味じゃ通俗哲学的な受け取り方をされる危険がありますね。(中略)それから、外からの観察者ではなくて、相手の世界に自分が入り込むということの魅力が、浅いところで人をひきつけるんですね。一見、自分は相手の共感者であるかのような態度をとって、相手の世界に入ってるんだっていう錯覚をもちたくなるんじゃないかしら。そう錯覚させている本質的なところでの誤解というのもある。
伊東:それはむしろ、今、カウンセリングをやっている人に多いのではないですか。
友田:このごろ集まる人たちは、カウンセリングがはやりだしたからとか、お前いって勉強しろ、っていわれたからとかで入ってきますね。わたくしなんか“Counseling and Psychotherapy”を読んで、ストレートに自分のなかに入ったところで、ピンと感じて一体になったところではじめていますね。伊東さんなんかそうじゃない、確かめ、確かめ、確かめしながら、きていますねえ。それは、現象的にはわたくしとは正反対のように見えるけれど、基盤というか、基本的な姿勢というか、“原初的な状況”といえるところでは完全に通じていることを、わたくしは感じているんですよ。わたくしは、この原初的な状況というものが、かなり後までプロセスを展開する原動力になっているのではないかと思いますね。
佐治:カウンセリングに飛び込んだ最初のドライヴが問題になりますね。ロジャーズ的な考え方に対して、本質的なところでね、基本的に共感して、最初から飛びつくことが割合できやすい人と、反発・抵抗を感じる人とがいると思うんですよ、誤解とか理解とは別にね。そういう批判とか反発をもういちど考えてみたいですね。
友田:そこのところですけどね、わたくしは日本的とかなんとかいうよりも、人間の基本構造みたいなものとして、ナマ身の人間と概念との関係で、最近はそこを考えてみているんですけどね。(後略)
(ロジャーズ全集第18巻 岩崎学術出版社 1968年 P.416-417)

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引用文が長くなったが、佐治先生にせよ友田先生にせよ、“カウンセリングに飛び込んだ最初のドライヴ”をなにゆえこれほどまでに問題にするのだろうか? ――という疑問が私の脳裏から離れないのである。ひょっとすると、この二人の目に映っていた日本のカウンセリング界(当時)の状況は“惨憺たるもの”であったのかもしれない。が、それは単なる私の想像に過ぎないので、真相となるとまったく不明である。
……という難しい問題は一時棚上げすることにして、この記録を読むと、なにかしら読み手である私自身の“基本的な姿勢や構造”あるいは“原初的な状況”が問題にされているような気もしてくる。そこで自分に向かって「お前がカウンセリングに飛び込んだ最初のドライヴは何だったのか?」と問いかけてみた。

私の場合、それは過去日記で書いたしホームページ内の手記にも書かれてあるが、自分自身のうつ病経験からカウンセリングに関心を持つようになった。詳細な過程はここでは省くが、要するに「私のように精神的な病や障害に悩まされ、苦しみ続けている人々が世の中にはたくさんいるはずだ。だが、そういう人たちに対する“実際のサポート”となると、極めて貧弱なものしか提供されていないのが現実である。ゆえに“実際のサポート”をもっともっと充実させ、十分なものにする必要があるはずだ。いや、そうしなければならないのだ!」というような志を抱いたわけである。
もっとも“このような思い方”は、極めて表層的な意識レベルでの“思い”だったに違いない。なぜなら、私が真の意味で“カウンセリングの世界に身を投じる”ようになったキッカケは、これも過去日記に記したが、日本カウンセリング・センター主催の入門講座(第1回目の終了間際)で、とても重大な経験を得たことに起因している。そこで私は“気づきを得る”という稀な経験をしたわけだが、と同時に「こういう経験がこんな短時間で得られるということは、“カウンセリングというもの”に何か重大な秘密があるに違いない!」と確信したのだった。
それ以降、私の“思い”は「カウンセラーになって、たくさんの人々を援助できるような人物になりたい」というよりもむしろ、「カウンセリングの秘密(と勝手に名付けた)を探求していきたい!その秘密を究明したい!」にシフトしたのだった。

「以上二つの要素がミックスされたものが、私にとっての原点である」と言えるだろう。が、つい最近、これらの“思い”とはまったく次元が異なる別の要素が浮かび上がってきたので、そのときのエピソードも加えておこう。
それは先日開催された“友田研究会”での出来事だった。“友田研究会”とは、私の自宅で毎月1回定期的に行なっているカウンセリング学習会の名称である。メンバーの大半は、日本カウンセリング・センターで知り合ったカウンセリング学習者たちで構成されているが、この日は参加者の中に初対面の人物が一人いた。
このときの様子や話し合われた内容を詳細に記すのは控えるが、初参加だったその人の体験談や現在の気持ちなどを聞いているうちに、私の脳裏には禅のテキスト『十牛図』の絵が浮かんできた。その後どんな展開があって、私にどのような内面的プロセスが生じていたのか記憶が定かではないが、ある場面でその人の発言を受けた私は次のように語った。
「私もうつ病になってからカウンセリングと出会うまでの2年間はそうでした。その頃の気持ちを言葉にするとどうなりますか、“救いを求める”という表現が一番近いでしょうか。いや、たぶん今も“救いを求めている”んだろうと思います。ただ、今はそういう明確な意識が浮上してきていないだけなんでしょう。――(少しの間)――今言っている“救い”というのは、もちろん宗教的な意味での“救い”のことですよ」と。
このようなセリフが自分の口から飛び出したのは、まったく思いがけないことだった。カウンセラーとしてクライエントさんと面談していると、予期も予測もまったくしていない発言が咄嗟に“自分の口から出てくる”ということをしばしば経験しているが、このときもそうだった。なぜなら、“救いを求める”などという言葉(もしくは観念)は、このセリフを述べる瞬間まで、私の頭の中には微塵も存在していなかったからである。つまり、このときの自分の動きを理屈っぽく解説すれば、私は「自分が思ってもいなかったことを述べた」となるわけだ。

こういった類の奇妙なこと(?)が起きるのは、“カウンセリング場面ならでは”のことだと思っている。が、それはそれとして、私がカウンセリングに身を投じるようになっていった“本質的・根源的な何か”は、じつはこのあたりにあるのではいか? という気がしている。
ただし、こういう次元の問題を正確に表現しようとすると、もはや主語として「私は」とか「私が」という言葉は使えなくなってしまうだろう。すなわち、もしも文章化する際に主語が必要ならば、そのときには「魂は」とか「魂が」と表記しなければなるまい、と思うのである。

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