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ユーさんのつぶやき

徒然なるままに日暮らしパソコンに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き綴るブログ

いざというときの準備

2009-03-15 | 金言・名言
備えあれば憂いなし
Providing is preventing.

 普段から準備しておけば
 いざというとき何の心配も要りません

 この反対は「泥棒を捕らえて縄を綯う」と言います
 略して「泥縄」です
 皆さん 経験あるでしょう
 折角つかまえた泥棒が逃げてしまいますよ
 元の木阿弥となります 
 何の成果も結果も残りません

 「備えあれば憂いなし」
 分りきったことですが なかなか実行出来ません

 「備えあれば憂いなし」は個人にも組織にも必要なことです
 会社ではリスクマネジメントと言って組織的にやることが可能です
 しかし、八方美人的にすべてに対処することは困難です
 先ず重点を定めましょう
 公私に関らずビジョンや戦略を構築しましょう
 大事なものから手を付けましょう
 全部やる必要はありません

 派遣社員なら何が心配ですか
 正社員なら何が心配ですか
 職制を上って社長までの管理者の皆さん
 それぞれに心配のタネを一杯抱えています
 どのような備えをして憂いを絶ちますか
 成り行きに任すことを成り行き管理と言います
 そこには管理がなく泥縄の行き先は倒産です

 お父さんもお母さんも
 お兄さんもお姉さんも
 弟や妹や自分も含めてすべて何かありますよ
 学校の勉強にしても
 普段からきちんとやっておけば何の問題もありません
 家族間のトラブルも
 普段から気をつけておれば何の問題もありません
 上手く行かないのはどこかで手を抜いているからですよ
 何が大事って 毎日の気遣いと時々刻々の一寸した努力です
 それ以上 大切なことは何もありません

 健康も然り
 腹八分目と適切な運動
 これを毎日実行することでほとんど解決です
 タバコも酒も適量で抑えましょう

 質素に暮らす
 貯金をする、増やす
 段々と裕福になっていくのです

 自分の人間性を改善し
 人間関係をよくし
 社会に溶け込んでいくのです

 「備えあれば憂いなし」
 地震にしても火事にしても事故にしても
 備えは一番大事なことですが
 それが起こるまでは無視されています
 それが起きてそして慌てふためく
 人生のあらゆる局面で留意するべきことです
 一寸した配慮で事前にかなり解決してしまいます
 忙しい現時点で今少し考えてみる心の余裕が必要です
 身の周りにどのような問題があるか点検してください
 一度トライしてみてください

 起きてからの苦労よりも避けて通ること
 その方の苦労がはるかに小さいことが多いのです

※ことわざの英語は学研教室「ことわざカレンダー」を参考にしています。


第383話「ロータリークラブ」(平成15年~21年)

2009-03-14 | 昔の思い出話
 2004年4月に地域のロータリークラブに入会した。現状打開のきっかけか、はたまた何か商売に良い話がないかという打算がかなり働いての入会であった。
 早速、自己紹介を兼ねて、30分の卓話の時間を割り当てられた。しかし、ほぼ全員が初対面の社会的にも成功されている高いレベルの皆様を相手に、自分のことを、晴れがましく厚かましくしゃべる元気が起こらなかった。
 阪神西宮甲子園駅前にある高級ホテルのホールでの昼食の時間帯に行われる例会であった。この最初の場で、ロータリークラブと言うものは、自分にとって若干高尚過ぎるのではないかと感じた。よく分らない英語らしい専門用語が飛び交っていた。少し様子を見たいと思って、ジョギングの話を基に差し障りのない自己紹介をした。

 走るとは何でしょうか?
 走ることは肉体の訓練でしょうか?
 健康のためでしょうか?
 それもあります
 それもありますが
 もっと精神的なものを感じます
 走っている間は走っているだけで
 何も考えません
 いやいっぱい考えますが
 その間は思考が単純になります
 同じ時間に同じ人が歩いてるぞ
 同じ犬連れ同じ服着て同じ足取りだね
 それだけで何か安心するんです
 雨が降ってきても止めようか続けようか
 それだけです
 他のことは考えません
 そして雨を無視して続けます

 今日は天気がいいね
 気持ちの良い風だね
 甲山(かぶとやま)の上に白い雲が浮かんでる
 その下を鳥が群れて飛んで行く
 ニテコ池の草むらに赤い花が咲いてる
 澄んだ水に鯉が泳いでる
 道端にゴミが落ちてる
 水溜りだ、よけろ
 車が来たぞ、危ない
 踏むな、ワンちゃんの落し物だ
 頭の中を往来するのは
 そのようなことだけです
 しかし
 とても貴重なんです
 このような早朝の1時間が
 このような1時間を過ごした日は
 1日中気分が爽快なんです

 これを、みなの前で朗読している最中も、まるで詩を読んでいる感じがしなかった。聴いて頂いている方々は立派な紳士淑女で、真剣に耳を傾けてくれてはいるものの、自分はこの場とは何の関係もない、つまらぬ散文を読んでいるような気がして仕方がなかった。懸命に「実はこれでも詩のつもりなんですよ」と汗をかきかき、釈明の言葉を挟みながら、最後まで読み終えた。
 いずれ自己紹介の一つの手段としてやっているだけだ。ここでの自分の専門職業は経営コンサルタントである。しかし、自分は理系出身の論理分析だけが得意なコンサルタントに過ぎないと受け取られたくなかった。中身はともかく、自分はこう見えても詩人の端くれであると見栄を切って、出席者をビックリさせたかった。すでに齢65歳の男子だ。恥をかいても、汗をかいても、気にすることは何もないではないかと開き直っていた。
 このようにスタートしたロータリークラブへの入会であったが、毎週の例会の出席が大変な重荷であることが分ってきた。自分のように、これからも現場で現役生活を続けていこうとする者にとっては、毎週の例会に継続的に出席することに無理があった。例会は週日の昼食時であった。週日の昼間の時間帯は、大抵、ISO審査のための遠方への出張か、大阪地域での経営コンサルのための会社訪問があった。その結果、止むを得ない欠席が続き、1年も経たない間に、会長宛てに休会届けを出す羽目になった。
 また、ロータリークラブの使命は「社会への奉仕」にあるとのことであり、その精神は尊いと思ったが、自分の得意は現場の中で仕事を通じて奉仕することにあった。クラブのように、少し高い位置と余裕から、広角的な考えで、集団で組織的に人々に奉仕するような精神には慣れなかった。現場の仕事以外の場での間接的な奉仕を、気恥ずかしく感じたのである。自分は精神的に未熟であった。クラブへの入会時期が少し早すぎたのかもしれない。
 また、メンバーとしての資格には、一業種から1名という原則があった。それなりに地域や社会で、実業における貢献が認められなければならない。なかなか厳しい条件であった。この点については、メンバーのお一人である昔のX社の元上司の紹介と推薦を受けていた。結果的には、この元上司への義理を果たすことが出来なかった。折角の機会を与えてもらったのに、簡単に落ちこぼれてしまうとは! 大変申し訳なく思っている。
 自分は、人生の過程で、常に自分のことを中流の中くらいに思っていた。中流の中より少し上であるとすれば、凡人がただただ必死の努力で頑張っている結果にすぎないと思っていたのである。人様に大きな顔をして奉仕できるためには、自分には今少し何か不足しているものがあると感じた。
 クラブのメンバーの皆さんと比べれば、我が拠って立つ「有限会社K技術経営」があまりにもみすぼらしい。自分にはまだ時間がある。今少し現場で頑張って、這い上がる努力を続けようではないかと思うのであった。


第382話「初めての著作物出版」(平成15年~21年)

2009-03-12 | 昔の思い出話
 現在の生活を変えたい。何とかならんだろうかと思っていると機会は向うから飛び込んできた。コンサル仲間のA経営㈱のN社長から声が掛かった。
 「東京の出版社から研究開発マネジメントの分野で、
  管理項目を網羅したチェックリストのような本が書ける人を
  紹介して欲しいと言われています。
  毛利さん、ひとつどうですか?やってくれませんか?」
 渡りに船であった。何かすることないかと口をあんぐり開けて待っていたら、棚からボタモチが口の中に飛び込んできた。内容がどのようなものであれ、自分の口は脳ミソを経由せずに答えていた。
 「Nさん、OKです。喜んで引き受けます。出版社に
  紹介してください」
 その頃の自分は審査員業務が死ぬほどに多忙であったし、コンサル業務も同時並行しており、既に自分の時間は120%くらいの稼働率であった。さらに追加される著作の仕事は時間的に並立しないことは明白であった。しかし、何故か自分は楽観的であった。自分一人頑張って済むことなら、それは自分だけの問題であり、必ず解決できると思った。
 自分はN社長の紹介を受けて、東京四谷にあるUプロデュースという出版社の社長に面会に行った。社長は大阪で会っても良いとのことであったが、自分は「東京へ出張する機会があるから、その時に立ち寄る」とウソをついて訪問した。自分の方から訪問することによって、売り込みの立場を強化したいと思ったのであった。もちろん、後から東京での出版社以外の立ち寄り先を作った。話の辻褄は合わせた。
 出版社からは「研究開発マネジメントチェックリスト集」を1年掛かりで執筆してほしいということであった。400ページ以上、版権一括買取りで、印税はない。これが条件的に良いのかどうかは分らなかった。自分の頭は回転した。自分の報酬は、コンサルの場合、1日6時間で10万円を原則としている。400ページ以上の著作物を作るのでは、既に構想やアイディアがあるとして、1日で40ページを書き続けなければならないが、出来そうもないことは明白であった。しかし、自分の目的は金銭的報酬ではなかった。現状の忙しいことは忙しいが、変化のない行き詰まりを打開する取掛かりが欲しかった。また著作という初体験を経験してみたい。単独で著作物をものにしたい。これまでのキャリヤーの集大成としたい。人生の成功のモニュメントを構築したいとも思った。
 出版社と直接会ったのはこの1回だけであった。社長からは、3ヶ月くらい後でよいから、書物の構想をメールで送れとのことであった。着手に当たって、特に自分の履歴書を要求されたわけでなく、適性試験を課されたわけでもない。単なる口約束だけであった。もちろん先方の依頼状は書面で貰ったが、社長の押印があるわけでなく、単にワープロで作成したメモであった。もし、着手して数ヵ月後に、こんな詰まらない原稿なら要らないと言われたときにはどうしょうかとの不安もないことはなかったが、自分はとりあえず準備の勉強に取り掛かった。
 すでに、3ヶ月ほどのISO審査の予約やコンサル訪問で、自分の予定表はぎっしりと埋まっていたが、面と向かって約束した手前、約束を果たさざるを得なかった。勉強のための余裕の時間がなかったが、その勉強のほとんどは、審査員として東京やその他遠方の地方へ出張する際の電車の中で行った。また、勉強が最も捗ったのは年末・年始の連続する20日間の休日であった。
 事実、書物の全体構想はこの20日間の猛勉強で仕上げた。人々が正月の連休を海外で過ごすとか、何をして良いのか分らんので仕方なく車や家の掃除でもやるとかなどと思案しているときに、自分は日夜一心不乱の勉強をして過ごした。
 構想というものは、頭の中で仕上がったものを書面に書き写すものではない。パソコンと向き合って、最初にぼんやり浮かんできた擬似構想を叩き台にして、何度も何度も、死にたくなるほどに上塗りを重ねて段々と出来上がっていくものである。正月が開ける頃には、ほぼ構想の80%近くは出来ていた。メールで出版社の社長に送ると、直ぐにそれで進めて欲しいという連絡が入り、自分としてはこの時点でやっと面接試験が終了したような気がした。
 後はその構想に従って文書化していく。しかし、文書化の途中で、新しい事実を発見したり、新たな着想があったりして、出来上がってみると当初考えていたものとはずいぶんと違うものになっていた。自分は、昔から、化学工学でやるトライアンドエラー(試行錯誤)の習性が身についていることがよく分かった。何はともあれ、先ずやってみて、紙の上に具象化して、一度目の書き物を見て修正し、二度目の書き物を見て再度修正し、その修正を何度も繰り返してゴールに接近していくというアプローチしかできなかった。
 この仕事をしている間は、土曜日・日曜日といえども、ずっと何かやり残していることがあるような気がして心が落ち着かなかった。落ち着くためにはパソコンの前に座って黙々と作業を進める以外になかった。さすがに1日に16時間以上連続してパソコンをやっていると猛烈に目がかすみ、肩がこってくる。目薬を2時間おきに注し、寝る前には肩こりのサロンシップを張って床に入る毎日が続いた。
 自分は何かを始めるとそれが終わり切るまで、強烈なストレスに支配される損な性格であった。自分は気楽に遊べない損な人間に生まれ付いていたのだ。しかし、今更、悔やんでも仕方がなかった。この性質は遺伝子のレベルで定着しており、これを変更することは出来ないと諦めた。
 お陰で出版社の社長と約束した納期よりも3ヶ月早く、翌年の3月末にはほぼ予定の95%が終了していた。完成した書物は500ページ以上になった。やればやれるものだと我が意を強くした。その後、出版社の要請に従って、出稿原版の校正作業などをしたものの、実質的には3月末に仕上げた状態のままで完成させた。出版社の都合もあり、発刊日は数ヶ月遅れて11月上旬と決められた。
 ところで、この本はしっかりと売れたのであろうか?その後、こちらから出版社に問い合わせることもないまま、現在に至っている。その後、出版社から改訂の依頼やその他の連絡など特になく、出版社も東京都内のどこか別の場所に移転したそうだ。分野が研究開発マネジメントというごく限られた狭いものであっただけに、また、1冊の値段が約5万円という高額であったことなどから、飛ぶように売れたなんてことは考えにくい。今となっては、あの好意的な笑顔の出版社の社長さんに迷惑をかけていないことだけを祈っている。
 いずれにせよ、自分が生きている間に1冊の書物を書くことができたこと。内容はともかくも、我が人生に大きな意義と誇りを感じさせてくれたことは間違いない。出版社の社長初め、ご紹介頂いたN社長にも厚くお礼を申し上げたい。


ISOことわざ小事典(24)(25)(26)

2009-03-11 | ISOことわざ小事典
ISOことわざ小事典(24)
96.好きこそ物の上手なれ    
 知的好奇心の旺盛な入門審査員が短期間にベテラン審査
 員に進化・変容していくための必須の条件

97.過ぎたるは及ばざるが如し  
 当初の審査計画に対して審査時間が大幅に延長されるこ
 と

98.急いてはことを仕損じる   
 スピードを重視するあまり不適合の本質的な原因分析を
 おろそかにして是正処置を行い、その結果、再発を繰り
 返すこと

99.背に腹は変えられぬ     
 ウイットネス立会いの審査でいつもなら見逃している程
 度の軽微な不適合に対して、ウイットネスからの指摘を
 恐れて、やむを得ず公式の是正処置要求書を発行する審
 査員の複雑な胸のうち

100.先生と言われるほどのバカでなし    
 審査現場で先生と言われて有頂天になっている審査員を
 第三者が見たときの印象




ISOことわざ小事典(25)
101.備えあれば憂いなし     
 審査直前になって徹夜で不備な記録帳票を作成するよう
 なことにならないよう普段から手順どおり仕事しておく
 べきこと

102.立つ鳥後を濁さず      
 審査終了後審査員が審査控え室などに不要なゴミや忘れ
 ものなどを残さぬよう気をつけて退出すべきこと

103.立板に水          
 審査機関のマニュアル事例どおりに初回会議を進めるリ
 ーダー審査員の陥りやすい一方的な話し方

104.旅の恥はかきすて      
 審査中に起きたトラブルは審査が終わればそこまでと思
 って気を鎮める審査員の習性

105.便りのないのがいい便り   
 審査終了後、組織の提出した是正処置回答に対して審査
 機関から長時間にわたってコメントが届かない場合、組
 織が自ら安心するための気休めの言葉




ISOことわざ小事典(26)
106.地獄の沙汰も金次第     
 人材や力量の乏しい組織がコンサルに100%任せて、
 高い費用をかけてマネジメントシステムを構築すること

107.ちりも積もれば山となる   
 一つくらいのルール違反は良いかと目を瞑っているうち
 にシステム全体が穴だらけになって機能不全と陥ること

108.角を矯めて牛を殺す     
 適合性一点張りの審査をして経営上の重要事項を台無し
 にしてしまう経営経験のない審査員の犯しやすい過ち

109.鉄は熱いうちに打て     
 社長の決意後、数年経ってもまだ認証登録に至らないか、
 システムが現場に定着しない組織への警鐘

110.時は金なり         
 不具合に気が付いても原因究明を長期間放置したため、
 不良品が大量に製造されて大きな損失に転化することが
 ないように現場を戒める言葉


みんな幸福になれる

2009-03-10 | 金言・名言
幸福とは心の一つの様相である。
Happiness is a state of mind.

 幸福とは心の一つの状態ってことだ
 ものの満ち溢れた大金持ちだって
 組織で最高の権力を握っている人だって
 病気も何もない完全に健康な人だって
 自分のことを自身で幸福だと思わなければ
 誰もが幸福でないってことになる
 事実そのとおりだ
 だったら 心一つで幸せになることもできる
 大金持ちから 貧乏人だって心一つで幸せになれるとか
 上司から 下っ端の方が苦労少なく幸せだよとか
 修行もしない坊主から 人間は何も持たない方が幸せだとか
 なんて 上から目線で説教されたら腹も立つが
 自から悟って幸福の本質を分ってくれば腹も立つまい
 幸福とは心の一つの様相に過ぎないってこと 本当に真理だよ
 人間の一生なんて本当に短かい
 不幸であり続けるほどの時間はない
 だったら 何とか幸福であると思える自分を構築しろよ
 恋人がなくて自らを不幸と思う者は幸福になる努力をしろよ
 仕事で充実感や達成感のない者は現状を変える努力をしろよ
 自信のない者は自信が持てるようになるまで自己研鑽に励めよ
 不健康や病気に悩む者はそこから脱却する努力が必要だ
 自らは何もせずに結果だけを要求するな
 何ともならぬ場合でも手はある
 不幸や不満足の根拠を見直してみろよ
 ただただ騒いで
 自分の不幸を他人のせいにして何が解決するものか
 だが残念なことに 
 この世には避けられぬ不幸もある
 そんなときは 
 ただひたすらじっと我慢しなければならぬ
 山より大きな獅子は出ないし、永久に続く夜もない
 我慢し耐えている間に状況が変わって来ることを信じろ
 あるがまま、そのままを受容するということも必要だ
 不幸に屈服せよと言っているのではない
 受容した上で解決策を自らの頭で考えよと言っているのだ
 救世主は自分だ
 行動するのは自分だ
 自分を幸福にするのは自身の努力だ
 キミは 出来る、大丈夫、ダメじゃない
 打ち続く不幸に見舞われても
 這い上がる努力のプロセスが貴重なのだ
 振り返るとその時が一番幸せだったと感ずることが多いものだ
 最後に一言
 良いことを思えば良いことが起こる
 悪いことを思えば悪いことが起こる
 ならば いつも将来を楽観的に考えることをせよ
 良いことは善循環し幸福感を加速させる
 また思考の対象を出来る限り自己中から離れよ
 自分以外のことに思考を集中させよ
 自己憐憫は何の役にも立たず 幸福感をただ引き下げる
 幸福とは直接に求めては獲得できぬもの
 何かを行っている間に副産物として現れる心の様相に過ぎない

※英語の部分は、MacK R. Douglas ;"How to Make a Habit of Succeeding (Motivational Series)"からの引用です。


健康ってヤツは

2009-03-09 | 徒然草
生まれて初めて外科手術をした
腹部を縦に30センチ切った
その後2週間が過ぎた
未だ腹筋に力を入れることができない
寝返りができない
水平に寝た位置から身を起こせない
切った部分が傷む
トイレで力むと大変だ
排泄できない
不意にクシャミが出ると
飛び上がる
しゃっくりもダメだ
鼻をかんでもダメだ
あくびをしてもダメだ
背筋を伸ばして歩けない
自然と前屈みとなる
普段できることがすべて普通にできない
諸君!
何もないってことは本当に幸せなことでした
文句ばかり言っておっては罰が当たります
健康ってヤツは幸福の大前提でありました


第381話「結局は夢で終わったが」(平成15年~21年)

2009-03-08 | 昔の思い出話
 第380話で「中締め宣言」をやり、一応自分史のような、このシリーズを終わったものと考えていた。しかし、その後5年が過ぎて、世の中の諸行無常のご他聞に洩れず、我が身の周りにも色々な変化があった。今や多くのことを追記する元気は残っていないが、若干の補足をしておくこととする。

 2004年(平成16年)正月明け。ある日。早朝3時過ぎであったろうか、真っ暗な自宅の電話がけたたましく鳴り響いた。家内の母が大阪市内の病院で逝去されたとの知らせであった。しかし、自分は、事情があってお通夜にも、葬儀にも出席できなかった。
 実は審査機関の仕事で、その日の午後に出発し、翌日から九州は宮崎県都城市のある会社で環境ISOの審査リーダーを務めなければならなかったのである。この審査は、その会社にとっては、登録のための本審査であり、数年間の血の滲むような努力をして準備してこられたものであり、やっとのことで本番を迎えるものであった。自分は一月ほど前の事前審査のリーダーを担当した。この期に及んでは、自分以外に審査を担当できる人間が存在しなかった。
 運悪く、義母の死は自分が九州宮崎へ出発するその日の早朝であった。出発までの時間が切迫していて最早考える余地がなかった。自分は、煩悶の末、義母の病院と家内の実家を早朝に訪問し、お悔やみを述べ、不義理の極みであったが、そのまま宮崎へ出発した。断腸の思いであった。考えてみれば、義母は陰に陽に我が家のこと、家内、孫のことなど、我が家族の生活を強力に支えて下さった大恩人であった。その義母の葬儀に参列しないことはどう考えても許されるはずがなかった。
 自分は、自分の仕事を優先するという決断で、家内の親族の信頼感は地に落ちたことであろう。これまでに受けてきたご恩と、審査機関との恩を天秤にかけた時に、果たして、審査機関を優先させるだけの価値が本当にあったのか? 義母の死がこの数日前のことであれば、審査機関を優先させることは絶対にしなかったであろう。しかし、審査先への出発当日のこととなれば、当方の突然の審査辞退は審査機関の大混乱を招くことが必定であったし、仕事人間を40年間も勤めて来た自分には、仕事を犠牲にする決断が簡単には出来なかった。
 結局、自分は、その日から3日間、葬儀の行われる神戸を遠く離れた遠隔地宮崎で審査リーダーを務めた。身内の死とその間に葬儀があったことは、同行の審査員には話さなかった。また、審査対象の会社にも身内の死のことは一切話さず、黙って3日間の審査を終えて九州から帰還した。そして、この3日が終わった時には、通夜から葬儀までのすべてが平行して終了していたのであった。
 自分は帰ってからも胸が裂けるような思いであった。そのことを思い返せば返すほど腹が立つ自分であった。審査機関に対する義理は、親の葬儀を欠席しなければならぬほど大きなものであったのだろうか? 義母の死のことがなくても、そろそろ、審査員稼業から足を洗う時機に来ているのではないか? 親の死に目にも会えない審査員稼業を呪った。そして、何日か後に次のような夢を見た。

 『数時間後に新幹線で大阪から東京へ行く予定があったのに、何か忘れ物をしたような気がして、乗り込んだ列車(これも新幹線だった)で探し物を探し始めたら、あっと言う間に扉が閉まり列車が京都へ向かって走り始めた。「しまった!」次の京都で降りて引き返して、荷物を取りに自宅へ帰って、本来乗る予定の新幹線に乗ろうとしても、このタイミングでは絶対に間に合わないと思った。何とか京都へ着く前に、少しでも早く飛び降りるより仕方がないと思い、飛び降りる隙を狙っていると、運良く列車が徐行を始めた。何度か飛び降りを試みたが、線路の外側のガードが固くて、外の世界へは飛び出せそうになかった。いらいらしながら、走る列車の中でなおも機会を窺っていると、突然視界が開けた場所に差しかかり、列車は最徐行を始めた。今だ。自分は目を瞑って飛び降りた。大阪と京都の途中の高い土手の上だった。いつかどこかで見た場所だった。しかも、一度ではないように思えた。そうだ、昔も、またその昔も何かのことで、ここで飛び降りたのだった。今回も命だけは助かったし、これから大阪へ戻って初めの予定の新幹線に乗ることも何とかすれば何とかなるのではないかと思った』

 目が覚めてから、一体、今の夢は何だったのかと妙に気に掛かった。1時間近くも布団の中から飛び出せず、じっと考えた。探し物をするために乗った列車と言うのは、多分、審査機関という組織ではないか。列車の徐行は、数年来、何十件と続いたISOの審査がふと途切れて、一息ついたことと符合する。
 昔、飛び降りた一度目は、長年奉職したX会社という列車からであった。二度目に飛び降りたのは,次の勤め先であったX商工会議所を意味しているのか? さらに、自分は審査機関の審査員という列車からも跳び降りて、本来の願望(人生の目標・夢)である経営コンサルタントという列車に乗り換えようとしているのだろうか? 夢は自分に、それとなく告げてくれているのではないか?などと頭はぐるぐると回転するのであった。

 審査員というのは、ISO規格というルールに適合しているかどうかだけを判定する。野球で言えば審判のような存在である。それが企業の経営に役立とうが役立つまいが、書いてあるルールに違反しておればアウトを宣告する。審査員の頭に経営的に役立ちそうな何か良い提案やアイディアがひらめいても、それを言うことは許されない。企業が真面目に受け止めて、審査においては権限をもつ審査員に強制されてはいけないという原則が存在する。
 考えてみれば、このルールは良い着想の実験と実現に生き甲斐を感じる自分のような人間にとっては実に辛いことなのだ。また、ルールに適合しているか否かの判断は、どちらかというとやや低いIQで出来る仕事であった。審判であるよりも実際に野球をやる監督や選手の方が格好良いのは当然であると思った。
 この審判生活を数年やっている間に、自分は審査員であることにすっかり嫌気がさした。また、審査員の報酬は、実感ではコンサル報酬の5割程度に過ぎなかった。自分はもっと高いレベルで経営全体を見るような存在でありたい。審査員になるために、これまで苦労して長い人生を送り、勉強してきたのではない。審査員に甘んじて、審査員生活を主とした一生を終えるならば、これまでもっと楽な生活をして来ても十分だっただろうと思い始めると、これまでの人生が何ともむなしく感じられた。
 しかしながら、結果的には、自分は経営コンサルタントには成りきれなかった。我が「有限会社K技術経営」のコンサルティングのウエイトは50%に届かず、あまり大きく発展させることができなかった。継続事業としてどんどん拡大させたかったが、ほとんど個人的な営業の範囲でしか行うことができなかった。元々、個人経営のコンサル業というものは本質的にコンサルタント本人の個人的力量への信頼感に拠っているものであった。営業的には、他のコンサルタントに自分の取ってきた仕事を委託(下請)したり、営業そのものに大目のリベートを用意して新規受注を獲得するなど、ある程度成功したこともあったが、単発的な受発注に終わり、直ぐに限界に立ち至った。
 自分は総合的な経営コンサルタント業を目標としてきたので、他人に自分を紹介するときには、「私はISO審査員である」などと紹介したことは滅多にない。常に、「私は経営コンサルタントです」とか、せいぜい「私は中小企業診断士です」としてきたのであった。
 手が届きそうなところまで行きながら、実現できないもの。それが夢である。夢は人生に張り合いをもたらせる。夢は人生に意味と価値と目標を与える。自分にとって、経営コンサルタント業を事業として成立させることは、夢としての期待を十分に与えてくれた。夢で終わったにせよ、決して価値のないものではなかった。夢であっても、夢そのものは人生のあらゆる過程で人々に元気を与え、人生のプロセスを有意義なものに変換してくれるのである。


ブログ続投・再開宣言

2009-03-07 | 雑記帳
 先日、入院先から退院しました。手術をした日から3週間も経っていませんので、まだ傷跡がずきずきと痛みます。詳細は私事にかかわりますが、今後のことについて、このブログでもおいおい触れていきます。残念ながら、手術の結果は決して明るいものではありませんでした。
 これを受けて、我が将来の夢実現の、たった一つの手掛かりであった会社(経営コンサル有限会社)についても、関連の役所に休業届けを正式に提出しました。コンサルタントその他一切の業務的な活動を辞めることにしました。
 今後はこれまでの自身の人生の総まとめを急ぎます。あまり無理はできませんが、可能な限り心無罣礙(しんむけいげ)と平常心で臨み、平凡で日常的な生活を楽しみたいと思っています。
 明るい話題が減り、年寄りくさい話が増えそうです。ほんの昨日までは、現場で活躍し、健康を謳歌し、大酒を飲み、自身の病気や死のことなどについて、あまり深く考えたこともありませんでしたが、この半年の急激な変化に自分自身も驚いています。
 いつまで続けられるか分りませんが、また、自分のことばかり書いてしまいそうですが、アクセスしていただける方に少しでも何らかのご参考になればと思い、ブログを再開し、暫く続けてみたいと考えています。