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ユーさんのつぶやき

徒然なるままに日暮らしパソコンに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き綴るブログ

第15話「栄養失調」(昭和20年~23年)

2006-10-16 | 昔の思い出話
 隣に住んでいた里摩吉金君は自分より背が高くハンサムで、運動神経も発達していて、勉強もよくできたから何かに付け比較されることが多かった。彼は女の子にもよくもてた。同じ学年で同じ学校にずっと一緒であったが、不思議と同じクラスにはならなかった。里摩君のようにハンサムであるとか、運動神経が優れているとか言うのは先天的なもので、後からいくら頑張っても如何ともしがたい。結局、自分は後からの努力で何とかなる勉強を頑張ることで対抗せざるを得なかった。多分勉強にそそぎ込んだトータルの時間は彼の2倍くらいにはなるのではないかと思う。そんなわけで、学校のテストの結果だけは、かろうじて自分の方がほんの少しだけよかったようだ。何れにせよ、里摩君という良きライバルのお陰で、当方も張り合いを持って、ほんの子どもの頃から勉強に専念することができていたように思う。
 小学2年生の時であるが、里摩君は選ばれて、学芸会で「浦島太郎」の主役に抜擢されたことがある。乙姫様は美人の誉れの高い二羽礼子ちゃん。亀の役はイタズラ坊主であったが勉強の良くできた滝君であった。その時にうらやましく思っていつまでも忘れられないことが一つだけある。それは浦島太郎が劇の中で本物の饅頭を食べたことであった。勿論、練習の時は食べる真似だけだったが、本番では、乙姫様の前で本物の饅頭を本当に食べたのであった。終戦直後の食べるものが何もない時代に、饅頭などこの世にあること自体が奇跡のように思われていた。その饅頭を、衆目の見ている目の前で大口を上げて里摩君が美味そうに食ったのである。勿論、里摩君のお母さんが無理してわが子の晴れ舞台に、わざわざ空堀の常盤堂で大枚をはたいて買ってきたものであり、何も学校が用意してくれたものではない。
 しかし、みんなは未だ給食では雑草の団子を食べていた頃であるから、本当に許しがたいほどの衝撃を受けた。自分は、里摩君が饅頭をほおばった場面で、同時に自分が主役になったような気分で生唾をごくりと飲み込んだ。役割がよければ、主役になれば、この世には役得というものがある。そんなことを子供心にはっきりと認識させられた。
 自分もいつかは主役に抜擢されて、みんなの目の前で饅頭を食ってみたい。空堀の常盤堂のあの饅頭を絶対に食べてみたい。そう思って、それからしばらくは、里摩君には絶対に負けるもんかと一生懸命に宿題などに精を出したのだ。しかし、なかなか周囲は認めてくれないものであった。次年度の学芸会では、自分はイソップ物語の「蟻とキリギリス」に出してもらうことになったが、その役割は何と端役のキリギリス。キリギリスは夏の間、遊びほうけて、寒い冬が来たときには着るものも食べるものもないよれよれの汚れ役。劇の中では、蟻さんに助けを求めて、
  「もう栄養失調で一歩も歩けません。何か食べるものを恵んでください」
と言わされた。役のセリフがそうなっていたので、先生から強制的に言わされた訳である。
  キリギリスの自分が「栄養失調で...」と言ったところで聴衆からは大爆笑の馬鹿受けだった。大人も子供も食料が無く、全員が飢餓線上にあった時のことなので、聴衆自身も「栄養失調」という言葉を予想していなかったのである。半ば自嘲気味に聴衆はどっと来た。舞台の上の自分は、そのような展開になるとは予想だにしていなかったので、自分個人が笑われたような気持ちになり、涙が出るほど悲しくなった。そして、またもや「ナニクソ」と心ひそかに誓うこととなり、それから暫くは、宿題などは至極真面目にやることによって、何とか現状から脱出したいと無念の日々を続けることになった。
 子は子で学校で栄養失調の演劇をやっていたが、親は親でひもじい生活を支えていた。下記は戦前から巷でよく歌われていた軍歌「月月火水木金金」のメロディーで歌う替え歌であるが、戦後の親の姿も同じであった。

   朝だ夜明けだ
   弁当箱下げて
   家を出て行く
   親父の姿
   上はぼろシャツ
   下はぼろズボン
   うちの親父は
   土方(どかた)の大将
   1日5銭の安月給
   

ポジティブ思考

2006-10-15 | 徒然草
いつも決まった言い方をするな
あの食べ物が嫌いだとか
あの上司は嫌いだとか言うな
そんな発言は自らの可能性を殺す
絶対に変えられない
絶対に我慢できない
絶対に成功しない
そんなバカなことは言うな
世の中に絶対なんてことあるもんか
そんな硬直したものの言い方するから
折角のチャンスが来る前に逃げるのだ
一息ついてゆっくりつぶやこう
自分はあきらめない
自分は毎日精一杯やる
自分はユーモアで自分をコントロールする
憂鬱、敗北感、無力感を吹き飛ばす
人間の自然はポジティブだと思え
エネルギッシュな自身を頭に描け
楽しく考えよ
愉快な結果を想像せよ
何を見ても素晴らしいじゃないかと言ってみろ
最悪の交通渋滞に遭遇したらウソでもいい
何と素晴らしい渋滞だと言ってみろ
渋滞との知恵比べだと身震いして喜んでみろ
すると忽然と渋滞を切り抜ける方法が浮かぶのだ
営業マンよ笑顔を作れ
おどおどするな
正面から突破せよ
得意先を喜ばせるのは自分だと思え
自信を持てば自然に相手の信頼を得ることが出来るのだ
いやな日は避けるのではなく 
いやな日と勝負せよ
いやな日は打ち負かすか 
打ち負かされるかをゲームとして楽しむのだ
こんな状態は永久には続かない
こんな状態は何時かは終わるのだと考えろ
時間が来れば自分はこの状態を征服していると想像せよ
時には意識して間抜けで頓馬なことを考えてみろ
そしてバカになり切って実行してみろ
うまく行ったら喜べ
うまく行かなかったら笑え 
どっちに転んでも人間は幸せなのだ
人生のたった1日が過ぎていくのだから
それでいいのだ
幸せな1日なら
それ以上のことがどこにあるというのだ

      

ちょっとおっかないけど…

2006-10-15 | ネコの気持ち

オヨヨヨ
北朝鮮のキン・ジョンイルさん
核実験したって言ってるけど
それって ホント?
今度だけはネコの我輩もビックリしたよなあ
いつもはゆったりと寝そべっている我輩だけど
今日はおっかなびっくり立ち上がってしまったよ
ウソであってほしいね
もし真っ赤なウソなら天晴れと言ってあげる
天下のアメリカや中国を向こうに回して
世界を引っ掻き回してんだからね
すごい腕力だよ
西洋の遊びでもあるだろ
あのカードを使ってやる遊び
ポーカーとか言うヤツだ
ポーカフェースとか言ってね
戦いの場ではウソ付いてもいいんだよ
それも戦術の一つでね
国際ルールみたいなもんだ
それで核実験やったよなんて
やってないのにやったと言ってるなら
すごいもんだ 脱帽だよ
だけどもしホントにやったんならヤだね
北東アジアの安全に寄与するとか
安全裏に成功したなんて言ってるけど
あんたとこが安全ならよそが不安全になるってことだよ
あんたとこが核武装したら 
もう何処の国が核持ってもよいことになっちゃうじゃない
安全どころか不安全が拡散してしまうじゃないの?
キン・ジョンイルさん
もう一寸ちゃんと考えてほしいね
拉致とか 麻薬とか 偽札とか 
もうしたい放題じゃないか
国じゃ経済も何も行き詰まって次の手がなくなったからって
注意を外に逸らそうとでも思ってるの?
たった一人で世界中と対等に戦おうとでも思ってるの?
それは男らしいとは言えるけどねえ
度胸は認めるよ
しかし 相手が悪いよ
世界の中にあのアメリカが居るんだぞ
日本の太平洋戦争の歴史勉強したことあるの?
あの時日本相手にABCD包囲網なんちゃってさ
血の一滴と言われた石油の禁輸やら
何やらかやらみんなから制裁を受けっちまってさ
引けに引けずつい突撃精神でやっちゃってさ
あの時ゃあみんな竹ヤリ持ってよ
それでも勝つつもりだったんだ
ホント根は正直で真面目だったんだよ
特に国民はね
しかし ダメなときはダメなんだよなあ
最後には ぼこぼこにやられてしまったんだね
これが昔の日本の運命だよ
キン・ジョンイルさん
今のアンタとこ
古臭い60年前の日本の真似してるって感じだよ
あのアメリカ相手に日本の仇取ってくれるならいいけどさ
その手はもう遅いってことだね
日本より60年遅れてるってことかもね
貧乏なクセに気位だけ高くてさ
昔の日本にホントによく似てるよなあ
それともあんたとこ行き詰まってさ
窮鼠ネコをかむって感じなの?
そんなやり方やってたったら
世界中から袋叩きになるだけってことだよ
それを袋のネズミって言うんだけどね
そんなネズミ ネコも食わんからね
まあ我輩の忠告なんぞ耳に入らんだろけど
よーく考えてほしいもんだ

 


会社の目

2006-10-14 | 社長のサプリ
ちょっとボクの話 聞いてくれる?
会社の目のお話だよ
近眼とはね
近くしか見えんことを言うんだけどね
毎年決まったように単年度の予算作ってね
汲々と予算ばっかし守ってよ
長期計画など全くない会社のことを言うんだね
遠視とはね
近くがよく見えんことを言うんだがね
社長や幹部が現場軽視でね
足元が全然見えてない会社のことを言うんだな
そうよ 早晩ジリ貧になる会社だね
右目と左目の視力がすごく違う会社もあるみたいだね
何だね? それは
本社と工場が全然違う考え方しているとか
営業と研究開発が全然違うことやってるとか
世間には一杯あるじゃん
社長や幹部にビジョンがないからだってさ
折角長期の研究開発で新製品が出てもよ
営業の方じゃ全然関心ないって言う話もあるしね
そうそう そう言えば
白内障の会社ってのもあるよ
白内障になると目の水晶体が曇ってね
カスミがかかってぼんやりしか見えないんだってさ
会社で言えばね
何か問題があっても誰も気が付かないってことよ
物事がはっきりと見えないんだからね
会社が倒産寸前だって言うのにさ
みんな のんびりと会社で昼寝しているんだってね
売り上げが減って利益が出てないとか
倉庫じゃ在庫の山っていうのにね
誰も気付かず 誰も語らずだよ
カスミどころか 完全に見えてないんだろうな
会社でも 見えるってことホントに大事だね
会社って どうしてそうなっちゃうの?
そうだね 生まれつきもあるけど
病気もあるみたいだね
経営習慣病ってのかな 
組織の肥大化なんて言うのは正しくそのようだね
メタボリックシンドロームって言うんだ
官僚化ってのもあるしね 
官僚化ってのは動脈硬化のことだろ?
網膜がこちこちに硬くなってさ
剥離までしてしまってはホントに何も見えんからね
困ったもんだ
目だけは大事にしないとね
人間はね 
いや会社のことだよ

     

第14話「運動会」(昭和20年~23年)

2006-10-13 | 昔の思い出話
 終戦直後の1年生の時に実際に運動会が行われたという定かな記憶はない。混乱の極みの中で、運動会をやったとすれば日本の国力の底力もあながち捨てたものではない。ただ、小学1年生が恒例的にやることになっていた「球入れ」競技に出場した記憶だけは鮮明なので、多分、混乱の時勢ではあっても、万難を排して運動会が行われた可能性が強い。
 「球入れ」とは、例の、紅組と白組に分かれて、長い棒の先に吊した篭の中にボールを投げ入れて、篭に入ったボールの数を競う競技である。何故この競技に出場したことを覚えているかというと、その場で色々な初体験をしたからである。
 ヨーイドンと同時に、ボールを篭に投げ入れるわけであるが、はるか背の高い手の届かない青空を背景に無数の白や赤のボールが飛び交い、「あっ、これはきれいや」と思ったからである。外から見ているのではなく中から空を見上げていると、無数のボールが乱雑に好きな方向に飛び回っているように見える。笛の合図とともに空中のボールは嘘のようにぴたっと無くなり、澄み切った青空が復元する。そのコントラストが実に見事で鮮やかであったことだ。
 もう一つの記憶は、その競技の群の中にいて結局は何もしなかった、いや、出来なかった「ばつ」の悪い思いである。空には無数のボールが飛び交っているに関わらず、地面にはボールが殆ど見あたらない。競技の全時間の中で、自分が投げたボールはせいぜい1個か2個ではなかったか。地面に落ちて転んでいるボールに手をのばすと、すばしこい誰かがさっと取ってしまう。次のボールをと思って別のボールに手を伸ばすとまた別の誰かが奪ってしまう。そんなわけで、地面ばかりきょろきょろ見て走り回っているが、ボールは一つも手にすることが出来ず、たまたま拾って投げたボールも見当はずれの所に飛んでいって全く貢献するところがない。そんな風にうろうろしている間にゲームが終わって、「さて、自分は一体何をしたのかな」と思って、結局は何もしていないことを悟るだけ。何とも言えぬばつの悪い思いだけが残る。
 この最若年で早々に、無惨にもわが身の無力を感じたわけだ。群衆の中を走り回っているだけで実質的な貢献は何一つしていない。まるで成人後の我が人生を予告するような体験である。大勢の見物人が見ていても、こちらも団体の中に居るので、別に目立ちはしないが、無力な自分の実体を自分自身にさらけ出してしまい、もしや誰かに悟られてはいないかと言う不安だけが残る。
 生れ落ちたその時から、親や兄弟に、さんざん運動神経が鈍いと指摘されて精神的に萎縮していたためか、元々本当に運動神経が鈍かったためかよく分からないが、1年生の運動会での自分の出来はこの程度であった。
 運動会でもう一つ覚えているのは、「お遊戯」の歌である。これもこの歌詞の通りの演技をやらされたように記憶している。

  きれいなきれいな輪の中に
  子供の王様いらっしゃる
  初めに立ってお辞儀して
  それからクルクル回りましょう


第13話「水兵服」(昭和20年~23年)

2006-10-13 | 昔の思い出話
 小学一年の担任は堀江と言う名の女の先生であった。その後、三年間持ち上がりでずっとこの先生の世話になった。入学後間もない頃、今で言えばクラブ活動のようなもので、「養護部」と「体練部」の課外授業の案内があった。堀江先生から、
  「家に帰って、お父さんかお母さんと相談して、どちらに入るか決めてきなさい」
と言われた。養護部も体練部も小学一年生には全く意味が分からなかったが、習ったばかりの片仮名でノートに写して帰り、母と相談をした。
 母は常から「おまえは体が弱い」と言っていたので、即座に、「養護部にしなさい」と言うことになった。体練部とは運動部のことであり、養護部とは文化部のようなものであった。教室の中にいて先生のお話を聞くというのが養護部の活動内容であった。
 ある休日、この養護部の部活動のある日、いつも着ている小学生服が洗濯中で、代えの服としては、水兵の格好をした特別なときに着る兄の晴れ着しかなかった。母からは、それを着て学校へ行きなさいと言われた。自分は、何でもない普通の日に、そんな晴れがましい服を着て学校へいくことは顔から火が出るほど恥ずかしくて服は着たが、とても学校へ行く勇気が出てこなかった。空堀通りまでは行ったものの、学校の方へは曲がらずに反対の方向へ2、30メートルほど行ったところ、トンダヤという洋服屋の看板の後ろに隠れてしまった。
 一度安全な場所に身を寄せると、そこから出ていくきっかけが見つからず、とうとう何時間もそこでじっと伏せている羽目になった。みんなと違う特別の格好をすると言うことが自分には耐えられなかったのである。そして、そこでじっとしていると、多分2、3時間くらい過ぎたのであろう、学校の方から養護部に属している友達の何人かが帰ってくるのが見えた。と、直ちに彼らに見つかってしまった。
  「おい、お前、何で学校へ来んかったんや」
  「先生、怒っとったぞ」
  「それにしてもおもろい服、着とるな」
などと、さんざん冷やかされたり、笑われたりした。
 この話が、自分が人様から笑われて、幼児なりに恥しい思いをした最初の経験であった。さらに、またもう一度、みんなから訳も分からず笑われた経験もやっていた。それは1年生の音楽の時間のことであった。堀江先生に、
  「前へ出てこのお帽子の歌を歌いなさい」 
と指名されて皆の前に出て歌を歌わされたことがあった。
 当時は、当方もボーイソプラノ宜しき美声でクラスでも1、2を争うほど歌がうまかったらしい。と言うよりも家族一同、特に姉や兄が全員歌好きで家の中でも大きな声で歌って居たものだから、何のためらいもなく先生に言われるまま、前へ出て歌った。
  
  風に帽子が飛ばされて
  ころころころころ追いかけた
  慌てふためき待て待てと
  ころころころころ追いかけた

 この歌を歌い終わってお辞儀をしようとしたが、非常に緊張していたストレスがとれてほっとしたためか、無意識にペンギンのような仕草で両手でぱたぱたと腰の辺りを叩いってしまったらしい。その瞬間、突然クラス一同がどっと笑ったのであった。歌い終わればいくら下手でも、普通は拍手と相場が決まっているのに、いきなりどっと笑われたものだから自分はびっくりした。
 この時の経験は人を怖じ気付かせるに十分の迫力をもっていた。全く心の準備もない時に突然みんなの前で哄笑の対象になったのだ。お陰で、それ以後、人の前で何か他人と違うことをやると、時には笑いものになると言う恐怖が意識の底深くに沈着したのである。
 この時以前からも、自分は本質的に人から特別視されたり、目立ったりすることが極端に苦手であった。先生からうっかり何かでほめられたりすると、いつも恥ずかしくてどこかへ行ってしまいたいと思った。多分、自意識が強くて、必要以上に緊張する性格であったのだろう。
 誉められるうれしさよりも人の視線を浴びる恐怖の方がはるかに強かったのである。しかし、逆に、人の注目を浴びて図に乗って良い格好をする他人には、同じ程度に嫌悪を感ずると言うこともあった。みんな自分と同質で同じであれば一番安心出来た。
 「普通がよい」「平凡がよい」「1番より2番が良い」と言う自分の人生哲学はもうこの頃に芽を出していた。しかし、全体の真ん中の平均点では全く不愉快であった。50人居れば勉強の出来は実質的に殆ど一番を確保していて、しかも目立たない2番と言う位置。それが自分の理想となった。


第12話「焼跡畑」(昭和20年~23年)

2006-10-13 | 昔の思い出話
 大阪大空襲の後の様子は誠に惨憺たるものであった。ここまで完膚無きまでに徹底的にアメリカにやっつけられたのかと思い出すだけでも涙がでてくるほどである。
 幸いにも、我々の家族の住処の周辺だけは奇跡的に空襲を免れた。丁度、陸の孤島のように焼け残ったのである。内安堂寺町にある安堂寺ご本尊「火よけ観音」のお陰であったとよく聞かされた。たまたま焼け残った区域に観音様が居られたので、火除け観音などとおだてられているのだと、不信心にもそのように信じていた。
 焼け残った部分は、上町筋から西、安堂寺橋通りから南、松屋町筋の東、楠の木通り(周防町筋)の北に囲まれた内側であった。その外側、大阪市のほぼ全域が灰じんに帰し、一面見渡す限りの焼け野原となった。コンクリートのビルがポツンポツンと残っているだけで、本当に何もなかった。北桃谷の家は焼け残ったその四角い領域の丁度真ん中くらいにあった。
 我が家は昔、玩具商を営んでいた親戚があったとかで、松屋町筋の通りに面した焼跡の一角、場所は通りの西側で昔の町名では東区住吉町か材木町の辺りを占有して、耕地として整備し畑を耕すことができた。土地の本当の所有者から、数年後に建物を建てるために立ち退きを要求されるまでの間、食卓に必要なたいていのものはそこで作ることができた。最も豊作であったのはさつまいもで、他に、じゃがいも、かぼちゃ、きゅうり、茄子、トマト、葱、カブラ、大根、キャベツ、白菜、水菜、ウリ、ピーマン、豆、ソラマメ、まっか、さらには穀物の小麦まで、殆ど何でも作った。しかし、トマトなどは色つく前に盗まれるので油断が出来ず、まだ青く熟さない内に、食べてしまうことが多かった。青いトマトは固くて、その青臭い味は独特の風味がある。最近は温室栽培になったためか青臭いトマトにお目にかからなくなったが、その味は今となっては大変なつかしい。
 このように、終戦直後の都会では、殆ど手にはいらなくなっていた野菜類を豊富に子供達に食べさせることが出来たのは、父、母のたくましい生活力のお陰である。自分が同様の状況にいたったときに、果たして都会で百姓が出来るかどうかは疑問である。しかし、子供の時にこのように、百姓の実地研修をしているので、万一、今後何らかの理由で田舎で生活することがあっても何とかなりそうな気はする。
 畑のあった松屋町筋と住家のあった北桃谷は徒歩で約10分ほどかかった。畑の肥料は自家製の下肥であった。下肥は樽に入れてリヤカーで人力で運ぶ。大変注意の要る力仕事であった。ある時、ちょっとした弾みでリヤカーに載せた大事な容器を北桃谷の路地の入口付近でぶちまけてしまったことがあった。辺り一面黄金水の大洪水で、大変なことになった。内容物に倍する水を運び、においや残存物がなくなるまで必死で洗い流した。大変な労働であった。その後、より慎重に物を運ぶことになったのは言うまでもない。
 数年後のある時、地主か、はたまた建築屋の親方が我々の畑仕事の最中に突然姿を見せ、家を建てるので立ち退いてくれと言われた。その宣言を最後に当家の兼業農業は終わった。
 内安堂寺の観音様については不信心なことを書いたのでお詫びに一言。戦後数年して盆踊りが復活したが、内安堂寺地区の盆踊りが最も早く開始され、また最も遅くまで行われていた。お寺の前の道路に櫓(やぐら)を組んで提灯で飾りたて、楽しい盆踊りが行われた。当時は他に楽しみとて無かったので非常に盛大活発であった。いち早く町の賑わいを取り戻すことができたのは、他ならぬ、其処に在らせられた観音様のおかげであった。その時の盆踊り歌の一節を残しておく。

   盆の踊りはなあ、
   盆の踊りは安堂寺町踊り
   火よけ観音お礼の心
   テントシャンテン
   テントントン(三味の音)
   火よけ観音お礼の心


第11話「DDT」(昭和20年~23年)

2006-10-12 | 昔の思い出話
 終戦直後は、人々は大昔に帰ってノミ、シラミと共存していた一時期でもあった。学校では、毎日朝礼の時間に全校生徒は校庭に整列させられて、下着の隙間から皮膚に直接、接触するようにDDTをぶっかけられた。上着の袖から、首の背中から、パンツの中まで体中が真っ白になった。今でこそDDTは人体への有害物質と言うことで使用は禁じられているが、当時はその認識がなかった。
 進駐軍も飛行機で空中から大量のDDTを散布した。頭上を低空飛行するアメリカ空軍機のマークを付けたB-29から、連日、白いDDTの粉の散布が続けられた。下から見ているとDDTは飛行機雲のように見えた。飛行機の尻から吐き出されたDDTは帯状に暫くたなびいた後、都会の空に吸い込まれて消えていく。大都会大阪の上空に少々のDDTを散布しても気休めにしかならなかったであろう。DDTの散布は何年も続いたが、効果はあまりなく、われわれ庶民にはかゆい毎日が続いた。
 何十年も経った後、DDTは有害とされているが、こうして、しこたまDDTを吸わされた我々が現在も生きていることを考えると、あまり大した影響はなかったのかも知れない。あるいは、肝機能に少し自信がない自分の現状はこの時のDDTのせいかも知れない。アメリカ人が我々を故意に人体実験の材料に使ったとは考えたくないが、今となっては真実はわからない。
 いずれにせよ、進駐軍は我々日本人を人間の仲間に入れていなかった節がある。だいたい、大都会の上空から人間が呼吸する大気に、大量の神経性の殺虫剤を散布する行為は許されない。虫を殺すための化学物質がより精密な人間に全く無害であるとは常識では考えられない。日本人は、彼らの意識の上では虫と似たようなレベルであったかもしれない。アメリカがベトナムで行った枯葉作戦のプロトタイプが、この時に既に行われていたのである。繊細な日本人の感性と比べて、彼らの感性は何と大胆で無神経なことか。呆れてものが言えないくらいだ。
 この頃子供の間で、下のような歌が流行っていた。
   
   チ、チ、チフス、発疹チフス
   みんな嫌いだ 大嫌い
   お閻魔(えんま)様より なお嫌い
   そこで 撒きましょ
   DDT、DDT

 また、小学唱歌に「我は海の子、白波の......」と言う歌があったが、子供達の間では替え歌にして「我はノミの子、シラミの子.......」と歌ったものである。上記の歌詞の中の「発疹チフス」とは、法定伝染病の一つで、シラミを媒介として伝染するとされていた。シラミは衛生状態がよくなり、また、DDTの効果もあって、われわれの世界では見られなくなった。当時は、この病気で死ぬ人も多かったが、現代で、この病気で亡くなる人が居るとは聞いたことがない。


第10話「白いパン」(昭和20年~23年)

2006-10-12 | 昔の思い出話
 昭和21年4月に大阪市立桃谷小学校に入学。まだ、国民学校を名乗っていた可能性はある。戦後の混乱のまっただ中で、戦前、戦中から続いてきた教育の組織体系変更の検討は進んでいたであろうが、実体は及んでいなかったかも知れない。
 教科書がそうであった。現在、国語の教育は平仮名から始めるが、我々の場合は戦前の教科書がそのまま使われており、最初に習ったのは片仮名である。「ハタ」「ハト」「コマイヌ」などと片仮名の文字が書いてあり、言葉に該当する物の簡単な絵が添えられていた。平仮名の勉強は片仮名の読み書きをマスターした後、二年生以降の授業から始まった。
 習字の教科は一年生の時からあった。硯(すずり)はあったが、墨(すみ)が手に入らなかったので、洋服のボタンで墨を擦った。ボタンで墨がすれるわけはないが、硯の表面に残っている墨の滓がわずかに色を付けた。習字用の半紙は当然手に入らないので、新聞紙を使った。しかし、その習字の教科も一年生の終わり頃に進駐軍の命令により廃止になった。何分にも、日本古来の伝統文化に基づくものは日本の民主化に良くないと言う思想が根底にあったらしい。
 この頃は、児童の内の2、3割、特に男子は裸足であった。裸足でない子供も靴ではなく草履が多かった。自分も普段はゴム草履を履いていた。小学一年入学時の記念写真を見ると前列男子の1/3くらいが裸足である。
 給食はあった。ただし、来る日も来る日も雑草で作った団子である。味は苦くて、砂糖も塩も何も入っていなかった。その雑草は授業中に、焼け跡にかり出されて、我々生徒自身が自分の手で集めた草の葉である。あるいは、先生に命じられて、休日に、宿題やノルマとして採取した草の葉である。草はアメリカから侵入したと言われていた雑草で、焼け跡には殆ど一面にその草が生えていた。多分、セイタカアワダチソウの類であったと思う。毎日、毎日、その団子が続いたある日、学校で先生が
 「明日の給食は、小麦の白いパンが配給されます」
と言った。大変うれしかったので、その日、家へ帰ると早速、家族に
 「明日の給食は、小麦粉で作った白いパンが出ると先生が言うてはった」
と話した。それを聞いた次兄から、
 「白いパンやったら教室で食べてしまわんとそのまま家へ持って帰って来い」
と頼まれてしまった。
 翌日、子供達は楽しみにして、給食の時間が来るのを待った。ところが、配られたのは、残念ながらいつもの草団子であった。何かの手違いがあったらしい。その日が終わって、学校の校門まで出て来ると、ばったりと兄と出会った。兄は既に中学校に進学していたから小学校には何の用事も無いはずであったが、小麦粉の白いパンを期待して、少しでも早くとばかりに校門でずっと待っていたらしい。待っていた兄には驚いたが、残念な顔をしている兄に対して、こちらの方がウソを付いたみたいで大変申し訳なく思った。

※現在は大阪市中央区となっているが、当時の南区にあった桃谷小学校は高度経済成長の末期、都心の過疎化で児童数が減少し廃校となり、跡地の中心部は公園となっている。


第9話「死体」(昭和20年~23年)

2006-10-11 | 昔の思い出話
 戦後の混乱期には、恐ろしい思い出が沢山ある。その中でも特に恐ろしい記憶は街の中で人間の死体を何度も見かけたことである。
 第一回目は、焼け跡での燃え殻拾いに家族で出かけた時のことであった。目撃の場所は多分、松屋町筋農人橋の東側のあたりであったろうか。焼け跡にはすべて、すでに子供の背丈以上の雑草がぼうぼうと生えていた。木くずや燃え殻を拾うと言っても、見通しの良い地面から、見えるものを直接拾うわけではない。雑草をかき分け、かき分け、木切れなどを探すので、大変に疲れる仕事であった。ひとしきりの作業を終えて、少し休憩を入れていると、同じく、燃え殻拾いに来ていたらしい近所の人が、すぐそばに死体が落ちていたという。恐いもの見たさで、家族は急いでその場所まで走った。雑草をかき分け進んでいくとその先に何と言う光景。一瞬、見てはならないものを見たという衝撃が走った。それはチョコレート色と言うより少し赤みがかった黒色の物体。人間の体の一部であった。首も足も手もない黒こげの胴体で、焼け残った衣服の一部が所々に付着している。一見して何であるかを判別できる代物ではないが、よく見ると肋骨の輪郭が見える。肋骨のくぼみにそって蛆が何匹も這い回っている。それは二度とまともに見る元気の起こらないものであった。先に見つけた人の話では、頭や手足など、体の他の部分は医者が検査のために持っていったと言うことであった。その日からしばらくは食欲がなく何も食べることが出来なかった。家族も殆どその話にはふれなかった。
 第二回目は、気持ちの悪さはもう少しましであるがショックは変わらない。戦後間もないときではあったが、子供達がそろって、天王寺動物園へ遊びに行くことになった。家から動物園まで一時間ほどかかる距離を徒歩で行く。多分、次兄、次姉、自分の三人で出かけたのではないか。動物園に着いたのは良いが、期待に反して暗い屋内の水槽に魚が何匹か泳いでいただけ。見せ物の動物は戦時中の食糧事情の悪化で餌が途切れたためか、人間の食用になったためか、とにかく檻の中には殆ど姿がなかった。アメリカ軍の爆撃で、猛獣が万一檻から逃げると街の人に危険なので、前もって殺されたと言う話もあった。
 兄姉と自分達は、折角の動物園で動物らしいものが何も見物できなかったので、少々がっかりして帰り道についた。暫く歩いていると人だかりがあった。動物園前から少し戻った道路脇の公衆便所の前である。何事かと近づいて見ると人だかりの中央に人がうつ伏せになって倒れている。よく見ると口から血を吐いた後があり顔や衣服は泥だらけであった。行き倒れの死体であった。労務者風。周りの人の話では、メチルアルコールを飲んだ酔っぱらいの成れの果てであったそうだ。誰も死体に手を触れようともせずに死体の回りを取り囲んでわいわいと言っているだけであった。
 第3回目は、交通事故である。もう日も暮れていたが家の近くで遊んでいると、上二と谷六の間の北側、木村外科医院の前辺りでひき逃げがあったという話が入った。急いで現場まで行くと、そこは既に黒山の人だかりであった。人の隙間から、路上にはおびただしい血の流れているのが見えた。その流れの源らしい所に菰(こも)が無造作にかけてあり、こんもりとしたその下に死体があるように見えた。死体が直接に見えないので余計に胸がどきどきした。それ以上の詳しいことは分からない。以後もその辺りはよく通りかかったが、その場所で人が死んだと思い起こす度に何か厳粛な緊張感が走ったものだ。


第8話「泥棒」(昭和20年~23年)

2006-10-11 | 昔の思い出話
 戦争が終わって空襲の危険は去ったが、代わりに窮乏の生活がやってきた。大人の話では戦争中の方がまだましであったという。要するに何もないのである。食べるものや着るものはない。エネルギーも例外ではない。ガスも電気もない。電気は少しの時間ついていると直ぐにパット消える。勝手気ままな無予告停電の頻発で、夜中であろうと人のことにはお構いなく、長い長い停電が起こる。電力会社も、元になる石炭や油が無いので何とも致し方がなかった。みんな慣れっこになっていて文句を言わない。「またか」と思って手近かのろうそくに灯をつけるだけである。電気などはついていること自体が不思議なくらいでそのことをむしろ感謝するべきであった。風呂は殆ど近くの銭湯へ行ったが、ほんのたまに、自宅で風呂を沸かすことがあった。その時は近くで拾ってきた木切れを燃やすか、縄の切れ端など燃えるものは何でも燃料とした。
 安堂寺橋通りの谷町筋から西側の道路は、戦前は少し贅沢な珍しい木煉瓦で舗装がされていた。この舗装は、後のアメリカ軍の空襲による焼夷弾で無惨に焼けただれ、黒こげの穴が至るところにあいていて、でこぼこのそれはひどい状態であった。川をまたぐ安堂寺橋の欄干は両側とも焼け落ちて手すりがなく、橋の路床は至る所に爆弾で出来た穴があいており、下を流れる東横堀川の流れがまる見え。注意して渡らないと、特に夜中は転落の恐れがあって恐くて渡れなかった。
 木煉瓦の裏面には、接着と防腐のためにコールタールが塗られていた。木煉瓦もコールタールも元々燃料に適した材料であり、乾燥させると非常に良く燃えた。街の誰かがその木煉瓦をひきはがし始めると、あっと言う間に皆がまねをして家に持ち帰り、路面の至る所が土道に戻ってしまった。みんな風呂や生活の燃料にするためであった。市民の公徳心はどこへ行ったのであろうか。そんなことを言っている余裕は全くなかったのである。当家もごく普通の一般的な家庭であったから、悪いと知りつつも背に腹は代えられずに、この木煉瓦の世話になった。谷町6丁目の、住友銀行と三和銀行上町支店のあった辺りの木煉瓦を、ほんの少し風呂の燃料として頂戴することになった。
 空襲で焼けた街の焼け跡から、燃え残りの木切れやそのほか燃えるものなら何でも拾ってきた。それも尽きたその後のことであるからお許しを願いたい。更にひどいこともあった。遠い昔の混乱時代の出来事で、時効も成立しているであろうから白状する。
 それと言うのは、燃料に事欠いて道路に立っている電力会社の電柱を鋸で切り倒したのである。幸い戦災で電線は切れて無し。場所は松屋町筋近くの内久宝寺通り。人通りの途切れを見計らって、家族一同の共同作業であった。持参して来た鋸と薪割りで、手際よく持ち運びの出来る大きさに切り刻み家へ持ち帰った。電柱は油がしみこんでいて良い燃料になった。いまなら、電力会社の財産を窃盗する泥棒であるが、じっとして居れば飢えて死ぬ、そんな時代であった。 善良な市民でも、平和な時代であれば許されないことを敢えてやった、そんな現実があった。

※暫く終戦直後の思い出話を続けます。大体、7話ずつくらいで一息入れます。何かご意見や追加事項などがあれば、ぜひ教えてください。


しょぼくれて耳なし芳一を思った夢

2006-10-10 | 真夜中の夢
 大阪本町界隈の会社を訪問した。車を駐車させようと辺りを探したが、駐車場は満杯だった。どこかにスペースがないか探したところ、うまい具合に建物と建物の隙間に車一台分駐車できる空間を見つけた。ビルの谷間の古びた木造モルタル張りの商店の隣であった。
 訪問先では、不法駐車のことが気掛かりで気もそぞろであったが、一応、無難に仕事を終わらせた。帰り際に、夕方からの社員集会で少しお酒や料理も出るので、社員の激励のために寄って一言しゃべってほしいと頼まれた。まだ、時間も早かったので、出席の約束だけして、とりあえず会社を辞去した。
 会社を一歩出ると、車を何処へ駐車させたのかまったく記憶のないことに気が付いた。果たして、どの辺りに停めたんだっけ? 皆目、見当が付かなかった。まずは心斎橋寄りから始めて、堺筋、四ツ橋筋までの間を丹念に歩き回った。それらしい商店は見当たらなかった。続いて、淀屋橋までの間を同様に絨毯爆撃よろしく、細かい通りを一本ずつ確かめて歩いた。
 あった。白い愛車のクラウンがあった。驚いたことに、車は本町からはるか西の、なにわ筋を少し越えたところに置いてあった。確かに見覚えのある古びた商店の傍であった。こんな遠くに車を停めた覚えはなかった。自信があった自分の記憶力の喪失に愕然とする思いだった。
 自分は隣の商店を訪ねて、無断で駐車させたことを丁重に詫びた。商店主は気さくに、いいよ、いいよと笑って許してくれた。
 車に乗ろうとして車を見て再び驚いた。車には、あの琵琶法師「耳なし芳一」張りに車体全体に経文のような文字がびっしりと書かれているではないか。文字は車を駐車させたお咎めの文句であった。「あほ」「バカ」に始まり、「不法駐車お断り」だの、「駐車したものは地獄へ行け」だの、油性のマジックインクで隙間なく書かれている。きっとあの商店主が書いたに違いない。いいよ、いいよ、は当然ではないか。それだけの復讐は既に実行した後だった。車の塗装のやり直しに20万円以上はかかるに違いない。愕然とする思いだった。
 場面は変わって、自分は悄然とした思いでボロ自転車に乗っていた。会社で約束した社員集会に出るべきか迷っていた。もうすっかり暗くなって、遅刻であることには違いない。それにしても、あの車の落書きは不思議だった。一目見たときは、それが経文に見えた。即座に「耳なし芳一」を思い浮かべた。芳一なる盲目の琵琶法師が平家武者の人魂に囲まれて、卒塔婆の前でぼろんぼろんと琵琶を弾いている。これは一体何を意味しているのか? 俺はコンサル稼業をやっているが、所詮、「耳なし芳一」と同じ立場ではなかろうか? 時に経営者に説教を垂れたりしているが、何のお役に立っているというのか?
 ぼんやりと色々なことを考えながら自転車を漕いでいると、ポケットから大事なハンコの袋がはみ出て地面に落ちた。ハンコが散らばった。畜生!今日はロクでもない日だ。もう、社員集会へ行くのはやめた。何かしょぼくれた気分に圧倒されて、自転車は自然にスピードを上げて自宅の方に向かっていた。

※「耳なし芳一」とは、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の怪談に出てくるお話です。平家物語の琵琶の語り弾きを聞きたくて、亡霊となった平家の武者が盲目の芳一を墓場に招きます。それを知ったお寺の住職が、芳一の身体全体にお経を書いて芳一を守ります。お経を書いた身体の部分は、亡霊には見えなくなるからです。住職は芳一の耳だけ経文を書き忘れてしまいました。怒った亡霊は見えている芳一の耳を引き千切ってしまいます。


失敗の責任

2006-10-10 | 社長のサプリ
会社には失敗が付き物です
失敗の原因は驚くほど沢山あります
すべてがすべて社員だけの責任ではありません

一つ 無知による失敗
社員にきちんと勉強させていますか?
知らなかったと言い訳を簡単に許していませんか?
二つ 不注意による失敗
社員にいつも緊張感を持たせていますか?
社員が集中力を欠いている状態を黙認していませんか?
三つ 手順の不順守による失敗
社員にルールをきちんと守らせていますか?
手順を決めても上司が率先して守っていないことはありませんか?
四つ 判断の誤りによる失敗
社員に事前の検討を十分させていますか?
失敗してから状況判断が不適切だったと分かることが頻発していませんか?
五つ 計画不備による失敗
社員にきちんとした計画を立てさせていますか?
上司の立てた計画が悪かったに関わらず実行した部下ばかりを責めていませんか?
六つ 状況変化への対応の失敗
社員に事前に十分にリスクの検討をさせていますか?
起こりうる状況変化に機敏に対応できる普段の準備をせていますか?
七つ 組織の価値観不適応による失敗
社員は独りよがりの組織内のルールだけで顧客に対応していませんか?
社長は世間の価値観とのずれに気付くよう努力していますか?
八つ 組織の業務能力不足による失敗
組織自体に物事をきちんと処理する能力がありますか?
社長は現場での失敗を失敗と認識し臨機に対応の変革を決断できますか?
九つ 未知との遭遇による失敗
社員に失敗の原因と対策を徹底的に追求させていますか?
社長は未知との遭遇を自社独自のノウハウ確立の絶好の機会と認識していますか?
人類に未知の問題は仕方ありません チャンスとして前向きに捉えましょう

番号が大きくなるほど社長さんにより大きな責任があります
よく読めばすべて社長さんに責任があります 
社長さん よろしいでしょうか?


笑って終わり

2006-10-10 | 徒然草
誰でも都合が悪いことあるのに
それを隠そうとするから
問題が大きくなる
他人に隠す 
誤魔化す
取り繕う
正直に開示して
あははと笑って
解決すればいいのに
隠して一人悩んで苦労している
バカじゃないかと思う
ホント
自分に対してすら隠すことがある
顕在の意識は忘れても
潜在の意識は忘れない
何となく不安が残り
何となく落ち着かない
挙句の果ては
神経症みたいに
ドキドキイライラしまくっている
あははと笑って
みんな見せれば楽になるのに
バカじゃないかと思う
ホント
難しいこと
しんどいこと
自分の失敗
自分の愚かさ
気にせず
オープンにすればいい
自分が先に笑ってしまえば
ほかに笑う人なんか何処にも居ない
ホント
みんな同じだからだ
笑える人なんか何処に居るもんか!
人のこと笑ったら
自分を笑ってるのと同じだからね


第7話 「帰還」(昭和15年~20年)

2006-10-09 | 昔の思い出話
 亀岡では全く孤立してひとりで居たわけではない。岡田家の家族にはたくさんの子供もいたし、近所の腕白どもともすぐに仲間になった。
 後になって思い起こす田舎の景色はこの頃の経験が原風景となっている。いつも決まって、やたらと水がふんだんに流れている景色である。土道の端道には必ず水路があって、透き通るようにきれいな水が流れている。水路に近づくと、逃げなくても良いのに小さなカエルが水の中に跳び込む。水中にはメダカがうようよ泳いでいる。オタマジャクシも自分の滑稽な姿に悪びれもせず、マイペースで泳いでいる。小川の両側は雑草で覆われていて、川縁に下りようとすれば可愛らしい紫色の小さな花をつけた草を踏みつけていくことになるので気が引ける。焼けるように暑い一本道を一人歩いていくと、得意げな一匹のバッタが自分の2、3歩前を先導するかのように飛び跳ねていく。近づくと又その先を行く。つゆ払いをしてくれる道案内であり、自分を虫の王様の気分にしてくれる。すこぶる気分がよく、目の前には赤トンボが無数に舞っている。トンボは油断をすると、こちらの鼻の先にでも勝手に止まって休憩する。風は熱いがさわやかだ。水路の向こうには青い稲穂の水田が広がっていて、むっとするような草いきれをともなって風が吹く。ざわざわと稲穂の上を波が伝わり、まさしく風が目に見える。目をつむるといつもこのような景色が目に浮かんでくるのである。
 また、何処かで人工の水路に水がとうとうと流れているのを見るとじんと胸が熱くなる。多分この頃の大川の景色とダブルのであろうか。大川は広い川原の真ん中を好きなように蛇行しながらゆったりと流れる大きな川であったが、その直ぐ横を流れる支流は人工の水路で、豊富な水がとどろくような音と白波をたてて流れていた。
 ある時、大川の川面に魚の餌であるメリケン粉の団子を投げ込んで、
 「ほれ、たくさん、じゃこが集まって来よった」
と腕白小僧のひとりが指をさした。その方向を見ても自分には水面以外何も見ることが出来なかった。見えてもいないのに、
 「ふんふん」
と見えたような顔をしてうなずきながら、
 「こんな田舎のやつにバカにされるのは癪や」
と心の中でつぶやいている。人に見えて自分に見えぬものがある。その時は自分が近眼であるとは想像すらしていなかった。うそをつくのは悪いことであるが、見えないものに見える振りすることには何の罪悪感もなかった。
 「ほんまにたくさん来よったな」
と適当に相づちを打ってごまかした。このあたりの柔軟さは、自分の性格の長所でもあり、短所でもあろうが、ずいぶんと小さい子どもの時からそのようなごまかしを本能的にやっていたような気がする。
 そして、大阪に帰る日が突然、やって来た。その日も夏の暑い真っ盛り。岡田家の道路に面した床几に腰掛けて、山陰本線を走る長い長い貨物列車の貨車の数を、一人で声を上げて勘定していたところであった。
 「1つ、2つ、3つ、……15、16、17、……」
突然、はっと気が付くと、目の前に警防団の制服を着た父が立っているではないか。戦闘帽、それに着ている服も殆ど軍服のような制服。信じられない思いで目を疑っている間もなく、いきなり抱きかかえられて頬ずりをされたのであった。
 「痛い」
父の不精髭は金束子であった。その痛かったこと。
 「戦争は終わった。お母さんも心配しているし、一番先にお前を迎えに来たんや。元気にしてるか」
 この時の父の頬ずりは、一生忘れられない思い出である。当時は非常事態で警防団でも制服を着ておれば、汽車の運賃は無料であったらしい。
 自分の子供が5、6歳くらいになったころ、二人の娘、息子のそれぞれに頬ずりをしてやったことがある。三人ともひどく髭を痛がったが、その時初めてこの時の親父の気持ちを味わうことが出来た。逆に子供のほっぺは柔らかくて何にも代え難い味がある。
 この疎開は、まだ小学校にも届かない幼時期のある一時期であったが、両親と離れて寂しいと感じたことは一度もなかった。母の妹の「しまちゃん」に親代わりの面倒を見て貰っていたこともあるが、子供同士のつき合いでも仲間外れにされた記憶は無い。時には「よそ者」ということで意地悪をされたこともあったろうが、仲間には入れて貰って子供どうしのつき合いは出来ていた。
 一番、強く記憶に残っていることは食事の絶対量の不足による「ひもじさ」である。おやつやお菓子の類は戦時中のこと故、また貧乏な子沢山のよその家に世話になっていることから望むべくもないことであった。配給米すら満足になかった時代で如何に大阪から両親が米の仕送りをしてくれたとて、口数の多い所帯で一番年下の幼児に特別料理を作ってくれるはずもない。後でその時のひもじさの話をすると、母はよく
 「ちゃんと米の仕送りをしていたのに」
とこぼしていたが、仕方のないことであろう。 
 帰るその日は多分、戦争が終わった日の翌日、8月16日のことであった。年齢は5歳と6カ月。長くても半年の間の疎開であったが、子どもの自分にとって、ある程度の精神的な自立を強制させるという点で、きわめて大きな影響を与えたように思われる。少し寂しがりやの、しかし、人に頼るをいさぎよしとしない、じっとがまんする、努力家の、そして負けず嫌いの性格を、その精神の中心部に鋳込まれたように思う。
 帰るときは真夏日の暑い道を、今度は父親の腕に掴まりながらよちよちと歩いて帰ったに違いない。北桃谷の家へ帰ると、家は奇跡的に無事で、空襲にも遭わずそのままの姿を保っていた。家族は雨戸を閉めて、真っ暗になった奧の部屋で一固まりになってごろごろと寝ており、虚脱状態の有り様であった。すべてが終わって何もする気も起こらなかったのである。
 一歩外へ出ると、同い年くらいの、自分よりは一回り体格の大きい茶色い目をした見たことがない男の子が、とぐろ巻きにした荒縄の上にちょこんと座っていた。少しはにかんだような顔をしてこちらを見ているので、自分の方から声をかけた。人の留守中に、縄張りに侵入してきた悪い奴を、尋問するように、
  「お前は誰や、何でここに居(お)んねん」
と声をかけた。男の子は、  
  「隣へ引っ越して来たんや」
と答えた。
 その子供は、少年時代から高校時代まで仲良く竹馬の友として一緒に遊び、勉強することになった里摩吉金君であった。当方の疎開中に隣家の住人が入れ替わり、引越してきたのであった。体は大きいがおとなしい感じのする男前の子供ですぐに親しくなった。