亀岡では全く孤立してひとりで居たわけではない。岡田家の家族にはたくさんの子供もいたし、近所の腕白どもともすぐに仲間になった。
後になって思い起こす田舎の景色はこの頃の経験が原風景となっている。いつも決まって、やたらと水がふんだんに流れている景色である。土道の端道には必ず水路があって、透き通るようにきれいな水が流れている。水路に近づくと、逃げなくても良いのに小さなカエルが水の中に跳び込む。水中にはメダカがうようよ泳いでいる。オタマジャクシも自分の滑稽な姿に悪びれもせず、マイペースで泳いでいる。小川の両側は雑草で覆われていて、川縁に下りようとすれば可愛らしい紫色の小さな花をつけた草を踏みつけていくことになるので気が引ける。焼けるように暑い一本道を一人歩いていくと、得意げな一匹のバッタが自分の2、3歩前を先導するかのように飛び跳ねていく。近づくと又その先を行く。つゆ払いをしてくれる道案内であり、自分を虫の王様の気分にしてくれる。すこぶる気分がよく、目の前には赤トンボが無数に舞っている。トンボは油断をすると、こちらの鼻の先にでも勝手に止まって休憩する。風は熱いがさわやかだ。水路の向こうには青い稲穂の水田が広がっていて、むっとするような草いきれをともなって風が吹く。ざわざわと稲穂の上を波が伝わり、まさしく風が目に見える。目をつむるといつもこのような景色が目に浮かんでくるのである。
また、何処かで人工の水路に水がとうとうと流れているのを見るとじんと胸が熱くなる。多分この頃の大川の景色とダブルのであろうか。大川は広い川原の真ん中を好きなように蛇行しながらゆったりと流れる大きな川であったが、その直ぐ横を流れる支流は人工の水路で、豊富な水がとどろくような音と白波をたてて流れていた。
ある時、大川の川面に魚の餌であるメリケン粉の団子を投げ込んで、
「ほれ、たくさん、じゃこが集まって来よった」
と腕白小僧のひとりが指をさした。その方向を見ても自分には水面以外何も見ることが出来なかった。見えてもいないのに、
「ふんふん」
と見えたような顔をしてうなずきながら、
「こんな田舎のやつにバカにされるのは癪や」
と心の中でつぶやいている。人に見えて自分に見えぬものがある。その時は自分が近眼であるとは想像すらしていなかった。うそをつくのは悪いことであるが、見えないものに見える振りすることには何の罪悪感もなかった。
「ほんまにたくさん来よったな」
と適当に相づちを打ってごまかした。このあたりの柔軟さは、自分の性格の長所でもあり、短所でもあろうが、ずいぶんと小さい子どもの時からそのようなごまかしを本能的にやっていたような気がする。
そして、大阪に帰る日が突然、やって来た。その日も夏の暑い真っ盛り。岡田家の道路に面した床几に腰掛けて、山陰本線を走る長い長い貨物列車の貨車の数を、一人で声を上げて勘定していたところであった。
「1つ、2つ、3つ、……15、16、17、……」
突然、はっと気が付くと、目の前に警防団の制服を着た父が立っているではないか。戦闘帽、それに着ている服も殆ど軍服のような制服。信じられない思いで目を疑っている間もなく、いきなり抱きかかえられて頬ずりをされたのであった。
「痛い」
父の不精髭は金束子であった。その痛かったこと。
「戦争は終わった。お母さんも心配しているし、一番先にお前を迎えに来たんや。元気にしてるか」
この時の父の頬ずりは、一生忘れられない思い出である。当時は非常事態で警防団でも制服を着ておれば、汽車の運賃は無料であったらしい。
自分の子供が5、6歳くらいになったころ、二人の娘、息子のそれぞれに頬ずりをしてやったことがある。三人ともひどく髭を痛がったが、その時初めてこの時の親父の気持ちを味わうことが出来た。逆に子供のほっぺは柔らかくて何にも代え難い味がある。
この疎開は、まだ小学校にも届かない幼時期のある一時期であったが、両親と離れて寂しいと感じたことは一度もなかった。母の妹の「しまちゃん」に親代わりの面倒を見て貰っていたこともあるが、子供同士のつき合いでも仲間外れにされた記憶は無い。時には「よそ者」ということで意地悪をされたこともあったろうが、仲間には入れて貰って子供どうしのつき合いは出来ていた。
一番、強く記憶に残っていることは食事の絶対量の不足による「ひもじさ」である。おやつやお菓子の類は戦時中のこと故、また貧乏な子沢山のよその家に世話になっていることから望むべくもないことであった。配給米すら満足になかった時代で如何に大阪から両親が米の仕送りをしてくれたとて、口数の多い所帯で一番年下の幼児に特別料理を作ってくれるはずもない。後でその時のひもじさの話をすると、母はよく
「ちゃんと米の仕送りをしていたのに」
とこぼしていたが、仕方のないことであろう。
帰るその日は多分、戦争が終わった日の翌日、8月16日のことであった。年齢は5歳と6カ月。長くても半年の間の疎開であったが、子どもの自分にとって、ある程度の精神的な自立を強制させるという点で、きわめて大きな影響を与えたように思われる。少し寂しがりやの、しかし、人に頼るをいさぎよしとしない、じっとがまんする、努力家の、そして負けず嫌いの性格を、その精神の中心部に鋳込まれたように思う。
帰るときは真夏日の暑い道を、今度は父親の腕に掴まりながらよちよちと歩いて帰ったに違いない。北桃谷の家へ帰ると、家は奇跡的に無事で、空襲にも遭わずそのままの姿を保っていた。家族は雨戸を閉めて、真っ暗になった奧の部屋で一固まりになってごろごろと寝ており、虚脱状態の有り様であった。すべてが終わって何もする気も起こらなかったのである。
一歩外へ出ると、同い年くらいの、自分よりは一回り体格の大きい茶色い目をした見たことがない男の子が、とぐろ巻きにした荒縄の上にちょこんと座っていた。少しはにかんだような顔をしてこちらを見ているので、自分の方から声をかけた。人の留守中に、縄張りに侵入してきた悪い奴を、尋問するように、
「お前は誰や、何でここに居(お)んねん」
と声をかけた。男の子は、
「隣へ引っ越して来たんや」
と答えた。
その子供は、少年時代から高校時代まで仲良く竹馬の友として一緒に遊び、勉強することになった里摩吉金君であった。当方の疎開中に隣家の住人が入れ替わり、引越してきたのであった。体は大きいがおとなしい感じのする男前の子供ですぐに親しくなった。

