goo blog サービス終了のお知らせ 

ユーさんのつぶやき

徒然なるままに日暮らしパソコンに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き綴るブログ

第6話 「いじめ」(昭和15年~20年)

2006-10-08 | 昔の思い出話
 いちばん記憶が多い遊び場は大川である。疎開が夏の暑い一時期であったから毎日水辺へ水遊びに出かけたからである。また、近所の腕白どもの遊び場が川原やその周辺を主としていたからであろうか。
 大川へ行く途中、踏切を越えてしばらく行くとお寺であろうか、長い塀の続く地道があり、塀の中から張り出した大きな白い木蓮の花びらが落ちていて、都会育ちの自分には珍しく、白い柔らかなしゃもじが落ちているように思ったものだった。この記憶からみれば、亀岡への疎開は真夏から始まったのではなく、もう少し早く5月頃だったのかもしれない。
 線路に沿った街道の途中に石材屋でもあったのであろう。墓地用の墓石としておいてあったのか、切り出したばかりの大きな石がごろごろと積んであった。その石さえも子供達にとっては格好の遊びの舞台であった。石山の上に上って「お山の大将」を気取ったり、陣地の奪い合いをしたりしたものだ。大将は山の上で次ぎのように叫んだものである。

   お山の大将
   ぼく一人
   後から来るもの
   突き落とせ
  
 大川は勿論、主流は大きな川であったが、平行して水がとうとうと流れる人工の側流があった。その流れの一つに丸太を渡しただけの一本橋があった。丸太の下は大変深く、急流が白波をたてて流れていた。田舎の腕白どもは、この一本橋を平気の平座、目をつぶってでも渡れるようであった。自分は恐くてとても立っては歩けなかった。自分が渡ろうとすると、腕白どもは面白がって一本橋を揺すった。背丈の何倍もある下の急流を見るだけでも足がすくむのに、自分ひとりが橋の中央まで進んだ辺りで揺さぶられると四つん這いになって橋にしがみ付かざるを得なかった。きっと大変に不細工な格好であっただろう。人が怖がれば怖がるほど腕白どもは橋を大きく揺さぶり続けて大声で笑うのである。
 これは耐え難い屈辱であった。土地の腕白連中のように立って歩く勇気はないが、かといって、多数の腕白相手に反撃することもできない。都会から迷い込んできたよそ者をいじめるのは、田舎の子どもにとって大いなる快感ではあろうが、弱者にとっては成す術もなくただじっと歯を食い縛って我慢をするだけであった。
 後年、多分、数年後、小学生になってからと思う、まだ泳げなかったときのこと、この大川まで遊びに来て裸になって水遊びを楽しんだことがあった。腕白坊主の漕ぎだした一本櫨の小舟の縁に掴まって川の真ん中まで出た。そこは流れが早いだけでなく足も立たないところであった。この時の腕白も多分、数年前の腕白と同じような心理状態になって、見知らぬ弱そうなよそ者にイタズラをしたい気持ちになった。突然、この自分に船の櫂(かい)に掴まれと言う。自分は何一つ疑わず、きっと、船の縁にいる自分の体が邪魔になって漕ぎにくいのではないかと気を使って言われる通りにした。自分が櫂に掴まるやいなや、その腕白はいきなり、その櫂を川底めがけて突き立てた。掴まっている自分は、深みに押し込まれ、息が出来なくなってこらえきれずに手を離した。泳げなかった自分は、浮きつ沈みつ川の流れに流されはじめた。2、30秒くらいはばちゃばちゃともがいていたであろう。ここで死ぬ、もう完全にだめかと観念したら、突然だれかの体に触れたので、必死になってしがみついた。助けてくれたのは、3歳ほど年上の岡田家の従姉の一人。後年、大学生のころ出会ったときには大変な美人に見えたが、その後の付き合いがないので、今では命の恩人であるに関わらず名前すら思い出せない。
 人間は土佐衛門になる直前、体が流されている間は、案外、記憶が確かなものである。必死にもがきながら流されていると、きれいな白い水の泡と明るい空の色が交互々々に見えたり見えなくなったりする。何かに体が触れたときには、一緒に溺れるかも知れないなどと考える余裕もなく、ただがむしゃらにしがみつくだけであった。
 「溺れるものは藁をも掴む」というが、実際に溺れることを体験すると、本当にその通りだと思う。溺れるものは前後の見境がない。藁どころか何かあれば人であろうと何であろうとしがみつく。下手に近づくと道連れにされるのが落ちだから、泳ぎに自信のない者は溺れる者に近づかぬ方が賢明である。
 もう一つ思い出がある。
 岡田家のトイレの話は前に記したが、当時、トイレットペーパーは大抵、古新聞を四角に切ったものと相場が決まっていた。ある時、トイレで用を足した後、紙箱を覗くと不幸なことに空っぽであった。そのような緊急の時はその場所から大きな声で叫ぶしかない。トイレは母屋から離れた所にあったので、声は届かない。いくら「紙い」「紙い」と大声で叫んでもこだまが帰るばかりであった。
 そこで、持久作戦に出て歌を歌い続けることにした。この時の適当な歌はこれしかない。「もしもし亀よ、亀さんよ」の歌詞の「亀」の部分を、「紙」に変えて、
   
    もしもし紙よ紙さんよ 
    世界のうちでお前ほど
    頼りになるべき物はない
    どうしてここに居ないのか

 歌い続けること十数分。房江ちゃんがやっと持ってきてくれたのは、大きさが1センチ四方くらいの小さな小さな紙片一つ。それでお尻がふけるものか。小さい女の子の可愛いイタズラではあるが、結局、その場はそれで何とかせざるを得なかった。


第5話 「なまず」(昭和15年~20年)

2006-10-07 | 昔の思い出話
 母にもたくさんの姉妹がいた。母は長女で当時では少し名の売れた「葉末」という役者の名前をもらっていた。その上には兄がひとり。それ以外は、女ばかりで名前は上から順に「すみ」「とめ」「しま」といった。何でも子沢山を恐れた母の親が「済み」「止め」「終い」と願ってつけたらしい。自分は、当時、兄の九一に身を寄せていた妹の「しま」、つまり「しまちゃん」に面倒を見てもらうことになり、当方を連れてきた母はその足ですぐに大阪へ引き上げた。
 しまちゃんは少し太ったぽちゃぽちゃとした丸顔の小柄な女性であった。その時はまだ独身であった。自分には叔母さんにあたり、はじめて対面する間柄であったが、直ぐ本当のお母さんのようになついてしまった。
 岡田の家についてもう少し触れておく。建物は多分平屋建てであったと思う。背の低い2階があったような気もするが、あったとしても屋根裏の物置くらいであったろう。よく覚えていない。正面は道に面した玄関の一間とその奧に作業場があった。玄関の部屋は横開きの引き戸を開け放つとそのまま道路に降り立つことが出来た。
 玄関は土間になっていて、正真正銘土のままの床である。その隣奧の狭く薄暗い台所の土間までひとつづきになっている。奧の土間には煙ですすけた勝手場(台所)があり、壁際に薪専用の大きなかまどが座っている。かまどに並んで、丸い樽の形をした木製のお風呂、いわゆる五右衛門風呂がある。風呂場は炊事場と一体で、仕切りも何もない。五右衛門風呂は底板がいつも水面に浮いているお風呂である。うっかりその底板を取って入ると直接足の裏が釜と接触するので大やけどをする。
 台所の部屋で服を脱ぎ、土間に入って背の高いお風呂の壁を必死の思いでまたぎあがって入る。大人にはなんでもない所作であろうが、子どもがこのお風呂に入るのは大変であった。また、その底板が平衡を失って垂直にならぬよう、バランスをとりながらそっと入らなければならなかった。湯船の中に体を沈めるまでは大変な熟練を必要とする、素人には大人であっても少々難しいお風呂である。
 今はあまり目立たないが、自分の右手の甲の付け根のあたりに五ミリくらいのあざがある。しまちゃんには毎日お風呂に入れてもらっていたが、ある日、石鹸でいくら洗っても落ちないので、
  「どこでそんな汚れをつけて来たんや」
とひどく叱られた。
  「あざやから取れへんねん、生まれつきやもん」
  「何言うてんのん、あほやなあ、早よ洗うたろ」
としまちゃん。一生懸命にあざを洗い落とそうとしているしまちゃんを見て、
  「そっちの方がよっぽどアホや」
と思ったが、相手が母ではないことによる、もどかしさのような、怒りのような、寂しさのような、複雑な気持ちを味わった。
 岡田家の所帯主は「九一」こと「九一つぁん」である。ある時、竹の節を抜く作業を見てびっくりしたことがある。10メートルもあろうかという長い竹の節を一気に抜くのである。竹の一端にボルトのような鉄の重りを入れ、右手で重りをいれた端を高くかかげ、2、3回、上下にしごくと重りは一気に中の節を次々と突き破り、他の端から出てくる。子どもの目にはまるで魔法を見ているようであった。この作業で、竹の内部は貫通し、そのままパイプとして使えるようになるのであった。
 また、「九一つぁん」は漁師でもあった。大川へ毎日のように漁に出かけた。大川では、川魚がたくさん居た。ナマズやハスがきわめて豊富であった。まるで魔法のような手さばきで投網を打つ。一度の投網で白い色や黒い色をした小魚が面白いようにつかまった。岡田家の食事は、戦争中のことでもありすでに米櫃はほとんど底をつき、芋や、かぼちゃが主食であった。そして副食は、毎日のように大川でとれたナマズであった。
 ナマズは腹を割くと赤い色や青い色をした気持ちの悪いはらわたがあり、見かけが悪くて生臭く、都会育ちにはとても食べられなかった。自分はこのナマズは殆ど手を付けることが出来なかったので、いったい何を食べて飢えをしのいでいたのであろうか。
 この時以後、魚は食べ物として生理的に受け付けなくなった。焼いた魚だけは何とか口に出来たが、川魚は全くの苦手。焼いてもダメ。勿論、いまは何でも食べる。ただし、ナマズが美味しく食べれるかどうかはわからない。

※こうやって書いたものを読み直すと、この辺りに登場する人物の95%くらいは既に故人となっている。歴史が大河のように流れていく中で、人間も生まれては死んでいくと言う個人個人の流れを作っている。諸行無常と言う言葉もあるが、本当にそのとおりだと思う。自分たちも今は懸命に生きているが、やがては同じ運命だ。残りの人生を大切にしなければとつくづく思う。


第4話 「疎開」(昭和15年~20年)

2006-10-06 | 昔の思い出話
 山陰本線亀岡駅から母の兄、岡田家までは徒歩で15分位かかる。その時の季節はいつのことであったろうか。多分、大阪の空襲が激しくなる直前の春先、3月頃ではなかったろうか。
 母は子供の疎開先を母の生まれ故郷の亀岡を選んだ。きっと、不自由は不自由なりに、より無理を言いやすい自身の故郷を選んだものと思われる。山陰線亀岡駅の周辺は割合密集した町であったが、西に進むとすぐに途切れて田舎道に変わる。それをさらに進むと、突然右手に広い水田とその後方に山陰線の線路が出現する。街道の左手は途切れ途切れに続く古びた民家の列。その内のひとつ、汚い木と土壁の今にもつぶれそうな家が目指す岡田家であった。
 所帯主は母の兄である。その家の表側には、街道を挟んで田圃が広がり、さらにその向こうには山陰本線の土手が視界を横切って東西に走っている。目の前の街道と山陰線の線路との間の水田の幅はどのくらいであったかわからない。子どもの目にはずいぶんと広く見えたようだが、せいぜい50メートルもなかったのではないか。土手の向こうは大川(大堰川)、いわゆる保津川の上流である。しかし大川は土盛りをした線路のさらに遥か向こう側にあり、直接には見えない。その奥には低い山々の峰が連なって遠景を構成している。到着した岡田家はそのようにひなびた山と田圃と川に囲まれた田舎の盆地にあった。
 時折、長い長いトロッコや貨車を連結した蒸気機関車や人で満載の汽車がもうもうと黒煙を吐きながら、「しゅっしゅぽっぽ」と轟音を残して走り抜ける。それ以外は人通りとてほとんどない静かな片田舎である。
 岡田家の玄関の右手の奥は木の床がそのままで作業場になっている。母の兄、九一つぁんの仕事場である。九一つぁんは、そこでチョウチンや竹細工を作る職人業を生業としていた。玄関や勝手口の扉は開け放しで、玄関から通してみれば勝手口のさらに奥の竹やぶまで見える。雄鶏やめんどりが家の中外、関係なしにわがもの顔で歩き回っている。人が居なければ厚かましい鶏達は、平気の平左で畳の上や板の間の仕事場を歩いている。手洗いは、家の外に出て玄関の反対側、独立したバラックで屋根はあるが、扉は破れ放題。外から用足し中がわかるような、匂いの激しい風情のあるトイレであった。
 土間を突き抜けて勝手口から裏に出ると草や竹が生い茂り、ふんだんにきれいな水が流れていた。水の流れは小川であったのか只の溝であったのか、とんと思い出せない。そこには、たくさんの、体長が数センチで胴体から尻尾の色が青色や水色の小さな糸トンボが飛んでいた。初めて見る種類のトンボであったが、田舎のトンボらしくおおらかで、小枝などに着地した直後に捉えると、子どもの自分にも容易に手で捕まえることが出来た。最初の日は、そのとんぼがただ珍しく、追いかけたり捕まえたりしてひとりで遊んだ。
 岡田家には「房江」と言う名の同い年の従妹が居た。女の子であることの意識もなく一緒に仲良く遊んだが、その後は一度も顔を見たことがない。しっかりと記憶にあるのは、この房江ちゃんとその上の姉二人の計三人だけである。聞くところによれば、房江ちゃんは嫁に行ってしばらくして早逝したそうだ。とにかく、ここは貧乏人の子沢山とでも言うべきか、多くの従兄弟や従姉妹が居たようだ。今となっては誰が誰で、何人くらい親戚が居たのかすら正確には思い出せない。しかし、自分は新しい家族の中に入って、いじめられることもなく、他人と自分との区別も殆ど意識することなく、素直にそのまま新しい家族の一員となっていったようである。


第3話 「空襲」(昭和15年~20年)

2006-10-05 | 昔の思い出話
 間もなく、近所に米軍の投下した数発の焼夷弾が落ちた。それに続いて民家が火災となった。「空襲警報発令」のサイレンと「敵機来襲」のラジオ放送は度々あったが、近くに、本当の爆弾が落ちたことはなく、大人達も本心ではあまり警戒はしていなかった。子供に対しても空襲の恐ろしさの教育は十分ではなかった。
 その時は何か大変珍しいことがおきたような気がして、長姉と一緒に爆弾から生じた火事場の見物に行った。上本町二丁目の近くに変電所があり、それが爆撃の目標であったらしい。周辺の民家に火災が起こり、今でも目に焼き付いているが、暗闇の中で一軒の土蔵が蒸し焼きになり、閉まっている厚い土壁の窓の隙間から猛烈な火炎が吹き出しているのが見えた。異常な光景に足がすくみそのくせ大変興奮してしまって、長い時間にわたって遅くまで見物していたのである。帰るのが大変遅くなって、姉と一緒に母から小ぴっどく叱られた。
 我が家のある路地の表通りは確か、「五十軒筋」という名が付いていたように思う。その通りは6メートルほどの幅のいわゆる生活道路で、北は長堀通り、南は空堀通りの間の全長がわずか300メートルほどの長さの通りである。当時は土道で舗装もされていなかった。ここを運送屋の馬車が通り、人が引く荷車が通り、通行の人々も頻繁に通るそれなりに賑やかな通りであった。馬糞もふんだんに落ちていたので踏まずに歩くのに注意が必要であった。
 この通りの、東側に大きなお屋敷が一軒あった。大きな門構えを抜けると庭があり、避雷針のついたドームの緑青の色が鮮やかな塔屋のある立派な洋館であった。その前を通る度に、興味がそそられ、いったいこのお屋敷は何だろうかと思っていた。
 ある日、この邸宅にもんぺ姿の母親について入ることができた。母は兵隊さんへの慰問袋を作る婦人会の仕事をするためであった。仕事の間、子ども達はその辺で遊んでいるように言われたのだろう、そのお屋敷の中を一人で探検して回った。幽霊屋敷のような不気味な感じであったが、こわごわ、いろんな所を歩き回った。塔屋の真下の部屋は明るい広い部屋で、森下仁丹の箱や紙がやたらと散らかっていた。
 この頃は、戦時下で経済情勢が日に日に厳しくなり、あらゆるものが戦場にかり出されていったようだ。金物類はすべて供出させられて大砲や弾薬に加工された。お寺の鐘や校門に立っていた二宮金次郎の銅像までがもって行かれた。ご婦人達ももんぺ姿で、スカートは御法度。パーマネントも次のような歌が流行ってやめさせられた。

    パーマネントに火がついて
    見る見るうちに禿頭
    はげた頭に毛が三本
    ああ恥ずかしやはずかしや
    パーマネントはやめましょう

 そしてついに幼児の自分にとって破局的な事件が起こった。真夜中、大音響とともに、敵機B-29が大阪市内中心部にあるわが家の頭上で、我が軍の高射砲によって撃墜されたのである。家で静かに寝ていると何の前触れもなく、突然「がりがり」という耳をつんざくような音がした。自分は普段、教えられていたとおり、防空頭巾をかぶって直ぐに防空壕に行かなければならないと思った。
 深い眠りから突然目覚めた大人達は何がどうなったのか良くわからなかったに違いない。防空頭巾は暗がりの中で廊下の突き当たりの壁にぶらさがっているのが見える。しかし幼児の自分には手が届かない高さだ。しかたなく、自分は
  「頭巾、頭巾、頭巾を取って欲しい」
と泣きわめいた。しかし、親たちには全く通じず、ただ、「やかましい」と怒鳴られただけに終わった。
 飛行機ははるか南の阿倍野のあたりに落ちたと後から聞いた。しかし、大阪の空襲も日増しに激しくなり、食料事情も悪くなる一方であったらしく、両親はついに自分を手放し、母親の里である丹波亀岡に疎開させる決心をした。
 家族の内、次兄と次姉はその数カ月前から、父の故郷である石川県山中町へと疎開に出されていた。両親は一番年下の末っ子の自分まで、手放すことをためらっていたようであるが、戦争の危険がごく身近に迫ってきたことから、とうとう決意せざるを得なくなったのであった。


第2話 「前夜」(昭和15年~20年)

2006-10-04 | 昔の思い出話
 路地の入り口から最奥まで50メートルくらいはあるが、平行して一軒の大きな家があり、名前を小杉さんと言った。その一番奥に大きな銀杏の木があり、その下は小さな空き地で、子ども達の遊び場になっていた。その空き地にある日、親父が中心になり穴を掘りはじめた。親父は、当時周辺では数少ない男手で、地区自治会の警防団に所属していた。徴兵検査では身長が規定よりわずかに不足。母の言によれば、そのおかげで馬の尻ふきに数日間ご奉公しただけで兵役は免除になったとのことである。
 大人達の掘っている穴は、平面が5メートル×10メートル位の四角い穴で、その深さは子どもの背丈をはるかに越す深さであった。そうこうするうちに穴の上に大きな木の梁が渡され土がかぶせられていった。と、思うや突然の大音響とともに土天井が崩れ落ちた。
 「中に人が…」
と言う叫び声。少し、間をおいて土の中から親父が泥まみれになって自力ではい出してきた。このときは、父親が死んだのではないかと子供心に肝をつぶした。もう少しで生き埋めになる、すんでのところであった。
 ほどなく、防空壕という子どもにとっては大きく期待の膨らむ「夢の家」が、戦争中という忙しいさなかに大人達の手で出来上がったのである。
 その後、防空演習でも、本番でもたびたび防空壕に入った。期待に反して、大変じめじめした真っ暗な洞穴であった。いつも一番奥まったところに、多分、路地の最も奥に住んでいたおばあさんであったと思われるが、80歳くらいの老婆が座っていた。扉を閉めると昼間でも真っ暗で、ろうそくの明かりが不気味であった。子どもには遊びのようで面白かったが、恐くもあった。
 父の属していた警防団の組織がどのようなものであったのかは知らない。しかし、時には警察のような厳めしい黒色の制服を身につけて活動していたようだ。警察と言うよりも消防士の服という方が近いかも知れない。ある時、その制服に身を固めて、近くの街角で消防訓練をしたことがある。古い重い車輪の付いた手押しポンプをどこからか引き出してきて、長くのびたホースの筒先をしっかと構え、目標めがけて、放水する様子は大変りりしく雄々しいものであった。
 これは、やがて来る敵の空襲に備えての、地区警防団の予行演習であり、戦争が身近に迫っていることを意味したのであろうが、子供達にそのようなことが予想できたはずはない。
 夜はサーチライトのすじが幾重にも天空をはい回り、これから始まる映画か演劇の予告をしているようで、それはきれいな夜空であった。子ども心にも不思議な光景で、
 「あの光のすじは何んやのん?」
と何度も聞いたようだ。大人の答えは、
 「あの光の中に敵の飛行機が入って来よったら、目がくらんで落ちよるんや」
子どもにとっては最高にわくわくするような答えであった。その後ずっとサーチライトは殺人光線であると信じていた。
 昼は、まだ特に空襲と言うこともなかったが、ときどき敵機の爆音が聞こえることもあった。その時は空に向かって、
 「チャーチル、ルーズベルトの馬鹿野郎」
と空に向かって大声で叫ぶのが自分の務めであった。大人からそのように言えと教えられ、チャーチルもルーズベルトも人の名前とも知らずに叫んでいた。チャーチルの方がルーズベルトよりも先で、まだアメリカよりもイギリスの方が偉かった時代であった。

※昨日から続きの第2話。戦争が終わるところまでしばらくこの話を続けます。


第1話 「嵐の前」(昭和15年~20年)

2006-10-03 | 昔の思い出話
 北桃谷(現在は大阪市中央区、町名は谷町六丁目)の家に初めて移り住んだのはいつのことか自分の記憶からはたどれない。生まれた京都の家から直接引っ越してきたのか、あるいは一度、大阪松屋町のあたりに住んでいたのか全く記憶はない。
 その後長く住むようになったこの北桃谷のわが家は水谷さんと言うブロック一帯の大家さんが所有する借家であった。当時でも築後何十年も経った木造の古い二軒長屋で、細い路地の奥から二番めにある汚い家であった。
 路地のわが家の一軒表に、絵描きの鳥居さんという家族が住んで居た。ある日、その鳥居のおじさんが、路地にそった隣地との境界線にある、コールタールを塗った50メートルはあろうかと言う黒い長い塀の、大人の目の高さくらいの場所に、ペンキで10センチメートル角位の白い色を幾つも塗っていた。その標識は1メートルほどの間隔を置いて路地の入り口から一番奥まで何十メートルも続いており、子供の目には大変興味をそそるものであった。
 それは、アメリカ軍の空襲が近々あるかもしれないということで、夜中、近隣の人々が避難するときに安心して防空壕まで歩いて行けるようにするためだ、と教えられた。ペンキの白い色は真夜中でも光を反射するので目印になるというのがその理由であった。
 戦争はまだそう激しいものではなく、少なくとも大阪では空襲などによる直接の被害の報道もなかった。嵐の前の静けさというか、一応は平和な日々であった。子供達には何の苦労もなく、ただ遊ぶだけの日々であり呑気に次のような歌を歌って遊んでいた。
 これは、「ここはお国を何百里」という軍歌の替え歌である。

   ここはお国を何センチ
   はなれて近き饅頭屋の
   赤い饅頭に白饅頭
   食べてみて見りゃうまかった
 
   あんまり食べて腹こわし、
   あわててお医者に診てもらい
   お医者の薬はよう効かず
   オイチニの薬がよう効いた

 「オイチニ」というのは当時の薬の名前で、どうやら胃腸薬のことらしい。もう一つ紹介しておく。

   ここは山の薬屋さん
   白墨、削ってこな薬
   お馬の小便、みず薬
   ほれ、鼻くそ丸めて黒仁丹
   それを飲むのはアンポンタン 

 仁丹と言うものはこのような昔からあったものである。この頃でも看板やラジオで良く宣伝をしていたのであろう。さらに、記憶に残っている歌をもう一つ上げる。 
  
   今日の
   佳き日は大君の
   生まれ給いし
   その日なり
   (歌詞は少し怪しい)

 これは天長節、いわゆる天皇誕生日の日に小学校で子供達が合唱をさせられた歌である。自分は戦後の新制小学校を、終戦直後の最初の年、昭和21年に1年生からスタートした、正真正銘の戦後第一期生であるからこの歌を直接に習ったはずはない。しかし歌詞のみならずメロディーまで、この年になってすら歌えるし、ときどき無意識に口ずさんでいるくらいである。きっと兄や姉が家で得意になって歌っていたのを横で聞いていて憶えてしまったのであろう。何れにせよ国内では平和な時代が続いていたものと想像される。


ストレスって何だ

2006-10-02 | 徒然草
ストレスは人生の音楽である
ストレスは人生の友人である
ストレスは人生の栄養である
ストレスを腹いっぱい食って
ああ満腹したワイとつぶやく
もっとストレスがないかね?
ストレスがなければ寂しいよ
ストレスのおかげで成長する
成長なしには生きがいはない
ストレスよ ウエルカムだ
ストレスよ もっと来い 
いくらでも来い なんて言ってると
ストレスの方からどんどん逃げていく
人生とは面白いもんだ
人間とは面白いもんだ
追いかければ逃げる
逃げれば追いかけてくる
まあ言ってみればゲームだね これは!
余裕あるものの特権だよ ほんと!

※経験によれば慢性的なストレスはよくない。ストレスは、そのつど休養や運動で回復させておかねばならない。繰り返しストレスを体験するほどタフネスは強まる。また、ある程度強いストレスでないと意味がない。筋肉の鍛錬と同じことだ。


経営の舵取りにはプロセスの認識が大切な時代となっています(2006.10.1)

2006-10-01 | 社長のサプリ
 「測定できないものは管理できない」と言われています。経営トップは会社の利益に総合的な責任をもっていますし、また、この利益というアウトプットは計測できますので、これを見ながら利益が上がるように、経営者の皆様は必死になって、ヒト、モノ、カネの資源配分(管理)をしているわけです。
 しかし、ここで考えるべき重要な点が一つあります。利益と言うような財務指標は、実は人間の行為(管理)の総合的な結果として、時間的に遅れて出てくるデーターです。従って、このような財務的な数値が出てきたときには、結果が既に確定した後のことであって、この結果についてはもう手の打ちようがない、如何ともしがたいということです。これは経済用語で言えば遅行指標と言うことになります。
 財務的な数字を見ていては遅いのです。済んでから死んだ子の年を数えるようなものです。経営とは毎日天候が変わり時には嵐になったりする大海原を航海する船のようなものですから、難破してから、負債の総額を知らされても意味がありません。難破する前に、危険を予知して、それを回避する行為を継続的にとっていくことが船長の役目です。
 手を打つためには計測できることが必要です。利益に関係する、あらゆるプロセスのアウトプットを利益に直結する先行指標として、個別に、事前に分析できねばなりません。利益と言う最後の結果が出てしまう前に、管理すべき先行指標を計測し、リアルタイムでアクションを取って行くことが必要です。
 このためには、利益に直結する顧客関連のプロセス、これを支援する社内の業務プロセス、さらにこれを支える従業員のコンピテンシーや組織能力革新のプロセスなど、すべてのプロセスを全社の大きなシステムのネットワークに関係つけて、認識することが必要になります。
 順序としては、経営全体を、一つの利益や成長という目標を持つ有機的なシステムとして捉え、このシステムを構成する重要なプロセスを認識して、各プロセスの具体的なアウトプットを先行指標として選定し、このアウトプットを目安にして日常業務を実行し、結果として最終的に利益をゲットすることが経営であるということになります。昔の、運、根性、度胸、山勘の時代は完全に終わっています。