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ユーさんのつぶやき

徒然なるままに日暮らしパソコンに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き綴るブログ

プラス思考

2006-10-22 | 徒然草
逆境なら自分に言って聞かせよう
「強くなるのだ」
「あきらめるな」
「まだ時間がある」
「キミなら絶対にできる」
「キミならこれを乗り越えることができる」
キミにとって逆境には特別の意味があるからね

危機なら自分に話しかけよう
「面白いじゃないか」
「いい勉強になるからね」
「何だと?これで最悪だと?」
「必ず来年はやってくるからね」
「これってキミを鍛えるためのテストだよ」
キミにとって危機には格別の意味があるからね

過去の済んだことは忘れてしまおう
「それは終わったのさ」
「今こそ前進するときだ」
「そのまま忘れてしまおう」
「過去のことは気にしないぜ」
「大丈夫、何とかできる、さあ前進だ」
変えられない事実を蒸し返しても何も意味ないからね

チャンスには鮮やかに成功の結果を思い描こう
「大成功、乾杯だ」
「雲ひとつない快晴だ」
「やったね、さすがキミだよ」
「キミ100点満点じゃないか」
「終わったら一杯飲みに行こう」
「初めからうまくいくと思っていたんだ」
キミにとってチャンスとは文字通りのチャンスだからね

そして「今日だけは」と1日1日を頑張ってほしい
「今日だけは自分を鍛えるぞ」
「今日だけは最善を尽くすぞ」
「今日だけは文句を言わないぞ」
「今日だけはチャレンジしてみるぞ」
「今日だけは朗らかに一日を過ごすぞ」
誰にとっても今日という日はたった1日だけのことだからね

そうよ 
いつもプラス思考でいるキミだってこと
だからキミの将来は明るいってことなんだ


第28話「ヤミ米」(昭和20年~23年)

2006-10-21 | 昔の思い出話
 終戦直後の数年間は一体何を食べていたのであろうか。主食は米であったはずであるが、配給米は底をつき米櫃は空に近い状態で、米の一粒一粒が貴重品であった。配給米は政府の統制下にあって価格は安かったが、数量は確保されず配給米だけで生活して栄養失調で死んだ正義感の強い裁判官の話がニュースになるくらいであった。
 このようなときに、跋扈(ばっこ)していたのがヤミ米屋である。ヤミ米屋は一人で営業と運送を兼ね、戸別訪問主体のセールスを行っていた。わが家にも絶えずヤミ米屋の訪問があった。ヤミ米の流通は警察がかなり厳しく取り締まっていたので、行為者は直ちに罰せられる。そのようなことから全く秘密裏に売買が行われ、売る方も買う方も、若干、後ろめたい気持ちを持っていた。
 ヤミ米屋の国籍は分からないが、ほとんど全員が第三国人(朝鮮・韓国人が主体)であると信じていた。
  「おばちゃん、米買ワヘンか」と言ってヤミ米屋が玄関先に上がり込む。
  「何ぼや?ほんなら買うわ」と母が答えて、商談が成立する。
ヤミ米屋は商品を持っている気配がない。
 不思議に思っていると、やおらヤミ米屋は上着を脱ぐ。上着はずしりと重く厚みがある。袖口の糸を抜くと、上着のその隙間からさらさらと白い米がこぼれ出てくる。上着の裏地全体が米を収納する薄い袋になっているのであった。それを器用に、あちこちの穴から広げた新聞紙の上にこぼすような仕草で取り出していく。
  「全部で一升やね」とヤミ米屋。
一升ますの上にはみ出したお米をすりこぎのような丸い棒できれいに平らにして、きちんと一升にする。
  「もう5合欲しいわ」と母。
すると、ヤミ米屋は待ってましたとばかりに、もう一枚の上着を脱ぐ。これもずしりと重い。今度は服の下のすその紐をほどく。またさらさらとお米が出てくる。
  「5合やね」とヤミ米屋が念を押して米を出すのを途中でやめる。
 ますは一升ますしかない。一升ますを対角線の方向に斜めに傾けると米は四角いますの中で三角体になる。三角体は一升ますを対角線で切った形となっており、素人目にも正確に丁度半分の容積5合となっていることが分かる。買い手も納得。お金を払って取引は完了。一升ますで正確に5合の米を計量するチエにはほとほと感心する。米のような固体の粒体だからできる芸当である。
 ヤミ米屋は出しすぎた米を器用に服の中に戻し、それを着込んで何食わぬ顔をして帰っていく。警察にも見つからず、証拠もないので犯罪は成立せず無事終了。一件落着の光景である。このような取引は日常茶飯事であった。
 米と言えば、当時のお米は大変な米だった。外米も多く輸入されていたと思われるが、米の絶対量の不足を補うために、人造米というものが作られたこともあった。人造米の主原料はサツマイモであったらしい。そのほか、古くなって形の崩れた米なども混ぜられた。形は普通のお米と同じような粒の形に作ってある。原料を一度粉にして、水を加えて練って、米の形に成型したものであろうか。
 生の人造米を手で触った感触は普通のお米と大差がない。違いは炊いたときに分かる。見かけは白いご飯でも、何となくぷーんとイモの匂いが漂ってくる。また、大変腰が柔らかくて、それだけを炊けば糊になってしまうので、普通のお米に混ぜてしか使用出来なかった。多分、混合できる上限は10%以下であったと思われる。
 家では、米はきちんとした蓋のある四角いブリキ製の米櫃に蓄えていたが、ネズミの糞が混ざっていて困った。元々米屋で混ざったものと思われるが、形や大きさが丁度米粒と同じくらいで選り分けることが困難であった。勿論、米粒と違ってネズミの糞は色が真っ黒であるから容易に見分けが付く。注意さえしておれば食べてしまうことはないが、ネズミの糞を口に入れそうになったり、時には歯で噛んでしまってほろ苦く嫌な感触が口いっぱいに広がったりして不愉快になったものである。
 また、米櫃の中にはコクゾウ虫が繁殖することも多かった。コクゾウ虫自体は米粒より少し小さいが、蟻のように動き回るので、これも一匹づつ選り分けることは不可能である。米を洗うときに水で流し去る以外に除去する方法はないが、丹念に米をといでも、そのいくつかは頑強に抵抗して残ってしまう。
 ご飯を食べるときに注意しておれば、コクゾウムシを箸で選り分けられないこともないが、うっかりと食べてしまわないためには、食事の際の厳重なる注意が最後の砦であった。成虫は小さいながらも黒い甲殻類の昆虫であるから容易に見分けが付いたが、幼虫はお手上げであった。幼虫は米粒とほぼ同じ長さで、細長い白い色である。頭の先が少し黒くなっている以外、白い米粒との見分けはほとんど付かない。米とぎの時に選り分けることなども殆ど不可能であったろう。
 米櫃の中を覗くとコクゾウ虫の幼虫や成虫が歩き回っているのが見える。幼虫の姿は毛のない毛虫か、蛆虫と同類だ。また、幼虫は蜘蛛の巣のような綿のような巣を作るのでその存在が分かる。まあ、コヤツラはみんな米を食べて大きくなった仲間だから、また蛋白質が足りない時期でもあったので、コヤツラも貴重な蛋白源であると割り切って、そのまま食べてしまうのが一番賢明であった。何れにせよコクゾウ虫を食べたから死んだと言う話は聞いたことがないし、気にさえしなければ、ほとんど実害はなかった。

※第三国人とは、第二次大戦で日本と直接戦争をしていない国の人たちの総称として使用されていたと理解しています。当時は普通の用語として用いられており、これが蔑称に当たるとは考えておりません。


第27話「自転車」(昭和20年~23年)

2006-10-20 | 昔の思い出話
 この話はひょっとすると、まだ小学校に入学する前のことかも知れない。このために学校を休んだとか、そのような記憶がないので、学校へ上がる少し前の可能性が強い。
 父の自転車の荷台部に乗せて貰って、生野区巽町のあたりと推測されるが、走っていたとき、自分の足が突然自転車の後輪のスポークの中に入り込んで、がりがりと急ブレーキがかかった。痛いとか痛くないとかの話ではない。死ぬほどの激痛を感じて泣き叫んだため、自転車は止まった。父は「しまった」と思ったに違いない。直ぐに近くの接骨院にかけ込んだ。この辺の状況は比較的明瞭な記憶があり、よく覚えている。遠い遠い昔、自動車から落ちたかも知れないと思っているときの記憶との混同はない。
 接骨院の診察室に貼ってあった人体の骨の構造図や筋肉の図面を頭の中に思い浮かべることが出来る。大変気持ちの悪い、子供には最高の恐怖心を与える図面だ。また医者?も当方を診察台の上に載せて、骨折があるかないかを調べるために、足の指を一本づつ引っ張って検査したのを覚えている。幸い足の皮膚の擦り傷だけであったようで軽傷ですんだ。
 その後、きっとまた、母親に内緒だと言って、何か買ってくれて、なだめてくれたのではないかと思うが、不思議とその辺の記憶がない。父と一緒にいるときに、よくこんな事が起こる。しかし大事に至らないのが強運の証拠だ。何だかだと言いながら、結局すべて、するりするりとくぐり抜けてきているのだ。
 他にも自転車に関わる話題は多い。何と言っても終戦直後は自転車が乗り物の王様であった。商売をするにしても、少し遠出をするにしてもすべて自転車であった。自分が自転車に乗れるようになったのは、大分後のことなので、以下の話は家族共通の話題である自転車泥棒の話である。
 北桃谷の家は路地の奥にあったので、家の外回りは人通りもなくひっそりとしていた。玄関は二畳くらいのスペースで、防犯のため夜は自転車を2台土間に引き入れて、土間と外を仕切る表の扉は閉めていた。自転車は従って、完全に家の中に入っているのである。そして、一家7人はその玄関土間から1メートルもはなれていない三畳間の台所で、わいわいと語り合いながら夕食を食べていたのである。
 夕餉の談笑が最高潮に達したと思われる、まさにその時、玄関の方でかすかに「こと」と音が聞こえたような気がしたので、家族は一瞬顔を見合わせた。玄関までは扉が二枚あったが、距離にすれば1メートルしか離れていない。
  「おかしいな、誰もいないのに、ネズミでも走りよったんかな?」
と家族の一人が玄関に出てみると、ないのである自転車が。忽然と自転車一台が姿を消していたのである。何とも信じられない話でないか。家族7人が1メートルも離れていない場所にいるのに、そこへ忍び込んで、鍵のかかった重い自転車を盗んで行く傍若無人なヤツが居たのだ。しかも音がするや否や、家人がすぐ確かめに行ったのに、そのときには姿を消すしているという何とも信じがたいような早業であった。「こと」と言う音は自転車が玄関の入り口から 最後の1センチを動かしたときに発した音に違いない。
 自転車は貴重品であったからよく盗まれた。こんなケースもある。夏は、父や母、それに家族一同、夕食が済むと、家の外で夕涼みをしながら、寝るまでの間、何時間もおしゃべりを楽しむのが日常的な習慣であった。薄暗い夕涼みの場所であった路地の奧と少し明るい路地の入り口との距離は約30メートルくらいあったであろうか。いつものように、父をはじめ家族数人が夕涼みを楽しんでいるとき、丁度、次兄が外から自転車に乗って帰ってきた。
  「ぼんが帰ってきよった」
と家族が話していると、兄は路地の入り口に立ち止まって、誰かと話をしているではないか。この頃の兄はもう中学生になっていたが、家族全員が、遥か年の離れた弟の自分も含めて、次兄のことを「ぼん」と呼んでいた。路地の入り口で誰か友達とでも話しているのだろうと家族も油断をしていたが、しばらくすると、兄が路地の表から自転車を押さず、徒歩ですたすたと帰って来た。曰く、
  「そこで知らん人に出会うたよ」と兄。
  「それで?」と家族。
  「自転車をしばらく貸してくれと言わはったんで、いやや、言うた」
  「それで?」 
  「あの奥にいるあんたのお父さんに、了解をもらってきたばかりや、とその人
   が言うたんや。そのおっちゃんに自転車渡したんやけど、あかんかったん
   か?」
そのおじさんは、家族の誰も知らない人だったし、いわんや、自転車を貸して欲しいと頼まれた覚えもない。
 父をはじめ家族が夕涼みをしているのが見える場所での会話である。兄でなくても普通なら相手を信じて渡すのが当然のような場面である。兄は、家族の見えている場所で、しかも堂々と顔を見ながらの話なので、完全に信じてしまった。そして、何の疑いもせず、その知らないおじさんに自転車をわたしたのであった。
 その話を聞いて皆は一瞬唖然とした。きわめて巧妙な詐欺にまんまと引っかけられたのだ。後の祭りとはこのことを言うのであろうか。終戦直後の大阪は、頭の黒いサギや出入り自由の泥棒ネズミが跋扈する、生き馬の目も抜くような場所であった。


第26話「荷馬車」(昭和20年~23年)

2006-10-20 | 昔の思い出話
 学校から帰る時間はいつも楽しい気分でいっぱいであった。宿題がなければなおのこと。スキップを踏みながら大きな声で歌を歌いながら下校したものである。路地の奥、当家の手前に鳥居さんのお宅があって、時々、田舎の彦根からその家のお婆さんが手伝いに帰っていることがあった。そのお婆さんからよく、
   「歌がうまいね」
と誉められた。いじけたところのない、明朗で朗らかな毎日を送っていたようである。
 ある日、学校から帰ってくると、路地の入り口に運送用の馬が一頭、引き込まれていた。馬が路地にはいると殆ど両側に隙間がなく、馬の肌に触れずには通過できないほどであった。馬主の姿も見あたらず、馬が尻を入り口の方に向けて所在なげに立っていた。
   「これは困った」
   「通れないぞ」
   「通ろうか」
   「それにしても少しこわいなあ」
などと一人決断に迷っていた。
   「えーい通ってしまえ」
と蛮勇を振り絞って、通る決意を固めた。
 そろりそろりと馬に触らないように、横になってカニ歩きで馬の後ろ足の直ぐそばまで近寄ったその時、馬は何か異物の雰囲気を感じたのであろう、「しゃらくさい」とばかりに尻尾を「ぴっし」と振ったのであった。半ズボンでむき出しの素足の上に、尻尾の一撃を見舞われ、足に激痛が走った。「ああ」と呻いて、いちもくさんに現場を離れて「わー」と泣き出した。自分は犠牲者である。この責任は一方的に馬を狭い路地に引き込んだ馬方にあると思ったからである。
 馬の親方がどこからか忽然と現れて、心配そうに当方の足を見てくれたが、少し赤くなっているだけで大したことは無さそうであることを知った。馬方がこちらに対して謝ったかどうかは覚えていないが、気がついたら、馬も親方も忽然と姿を消していて、馬にしばかれた自分だけがぽつんと残されていた。特に、怪我はなかったが、その後しばらくは馬がこわくて、馬がいると出来るだけ遠くに離れて歩くようにしたものである。当時は馬が運送の主力で、トラックによる運送業が繁盛するのはしばらく後のことである。
 鳥居さんの家に高子ちゃんという女の子がいた。年は自分より下で、6つくらいは離れており、その頃はまだ1歳か2歳くらいの小さな子であったろう。その女の子が馬に背中を噛まれたと言う話を聞いた。何でも、馬の前でしゃがんでいると、機嫌の悪い馬が女の子の背中を口でくわえて、空中にぶら下げたという話だった。普段、馬はおとなしい動物であるが、子供には本当にこわい存在であった。
 しかし、馬も生き物である。馬は立ったまま、人が側に居ようと居まいと無関係に、突然、立小便をするし、荷車を引きながらクソもする。「おい、おい、ここは大阪市南区だぞ。大阪のど真ん中なんだぞ。我慢しろ」などと言っても、馬の耳は馬耳東風ときている。いまどき、犬のかわいらしい糞が公園に一つ落ちていても文句だらけで大騒ぎであるが、この頃は道の真ん中に馬のソフトボール大の糞が何十個と落ちていたのだ。うっかりすると履いている靴がすっぽりとその中に吸い込まれてしまうくらいだ。
 ある時、荷車を引いた馬が坂道の途中でいきなり横転して腹這いになったことがあった。馬というものは眠るときも立ったままだそうだが、腹ばいになるということは余程のことでないとそうはならない。この可哀想な馬は餌もろくに与えられず、酷使され、働かされ続けていたのだ。馬はすでに病気もちであったらしく、その後、直ぐに死んだと聞いた。元気にいつも力一杯仕事をしまくって、疲れることを知らない馬のイメージからほど遠い可哀想な馬であった。


第25話「優等賞」(昭和20年~23年)

2006-10-20 | 昔の思い出話
 いつの間にか戦後の最初の一年が終わろうとしていた。自分は小学1年生としては大変まじめにとやっていたと思う。しかし、字が下手であった。字が汚いと先生からも親兄弟からも言われ続けた。ノートは手垢で真っ黒。先生からもらえる評価はせいぜい二重丸。みんな他の子供は四重丸や五重丸をもらっているのに、自分だけは時々二重丸、大半はただの丸であった。消しゴムがないので、字を消すときは指の先にツバを付け、ごしごしとこすった。紙は一皮むけて、またその上から何とか字が書ける。何とか書ければ少々汚くても良いではないかと思っていた。紙の所々に、こすりすぎて穴があいたりしているものだから、見栄えが悪く先生も二重丸以上は付けられなかったのであろう。
 潔癖性、清潔感、そんなものは自分の中にはまるでなかったと思う。何事においてもかなり大胆に適当なところで妥協してしまう。仕上がりが少々雑でも仕方がないと考えてしまう。そんな傾向があった。普通、神経質で気の小さい人は完璧主義に走りやすいと言われているが、自分の場合は、不思議に大胆さと小心さが同居していた。小心さと言うよりも、他人に対する気の弱さと言った方が正しいのかも知れない。案外、小心なところはないかも知れない。訳が分からず、見かけだけの完璧さを求める気持ちは全くなかった。役に立ちさえすればそれで宜しい。経済性のこともある。子供心にそんな風に考えていたかどうかは知らないが、大阪的というか、実用で判断して外観を繕わない、そんな性格がすでに小学1年くらいの時から既にあったように思う。
 年齢を経るとともに、他人が見せる官僚的、形式的、見かけ倒し、ええかっこしいのような、そんな態度がますます嫌いになった。自分はどこにいても、ますます、中央嫌いになり、反権力的な所に居て、その分ゆっくりくつろいでいたい、と言う性格になっていった。子供の頃の案外早い時点で、その後の人生における基本的な核となる性格の部分は出来ているものだと思う。
 一年生の終業式に、堀江先生に教壇の前に名指しで呼ばれ、藁半紙のような紙切れ二枚を渡された。当時はきれいな白い紙がなかった。本当に汚いぺらぺらの藁半紙であった。そこには小学一年の自分には全く理解できない言葉が書かれていた。「学業精励賞」、「精勤賞」と書かれた二枚の賞状であった。この「学業精励賞」をもらったのはクラスに一人か二人しかいなかった。
  「一体これは何やねん? 何するもんやろか?」 
友達に聞いたが誰もわからなかった。
「皆勤賞」とはクラスで身体の強そうな友達数名がもらっていた。学校へは年間を通じて全部出席したときにもらえるものであった。「精勤賞」というのは「皆勤賞」よりもワンランク格下で、一年に一回休んだとか、2、3回の遅刻をしたとかと言うことであった。
 学校から家へ帰る途中、路地の入口の小杉さんの家に立ちよった。何の用事があったのか知らない。当時は遠慮なくよその家に遊びに行ったり、家の中に上がり込んだりしたものだ。小杉さんには多美ちゃんという同級生の女の子がいた。その家の叔母さんが、子供が手にしている藁半紙を見て、
  「ユーちゃん、それは何やのん?」と聞いた。
  「学校で先生が変なもん、くれたんや」と自分。
  「どれ何や見せてみ」とおばさん。
  「これ何やろか?」
と差し出した。おばさんの顔がぱっと笑顔になって、
  「これ、優等賞やんか」
 学業精励賞とは何のことかわからないまま、大事なものを母親ではなく、よそのおばさんに先に見せてしまった。その後、二年生になったときも学業精励賞をもらった。三年生からは優等賞は子供の間で不平等感を植え付けると言うことで、制度そのものが廃止になった。この一件からも、戦後しばらくは戦前の仕組みを踏襲しており、だんだんと戦後のいわゆる民主化教育が浸透してきたことがわかる。
 大事にしていた賞状であったが、高校三年生の時、家が火事に遭い残念なことに過去のすべての記録や記念品とともに焼失してしまった。


第24話「進駐軍」(昭和20年~23年)

2006-10-19 | 昔の思い出話
 戦後しばらく生活も人間も本当に荒廃の極みを呈していたようであるが、盆踊りのように金のあまりかからないことは直ぐに復活した様だ。夏の終わり頃になると大阪の至るところで盆踊りが行われ、暗くなってから、デコレーションの提灯の下で、浴衣姿で、老若男女が盆踊りを楽しんだ。
 現在は、また地域活動の見直しで地域の広場や学校の運動場などで盆踊りが復活しつつあるが、当時の盆踊りはもっともっと狭い地域で大げさに言えば町内会のレベルで競争のように行われた。たとえば、同じ校区で、内安堂寺の地区でやれば、空堀の地区でもやると言った感じであった。盆踊りは今で言えば歩行者天国のように、普段、車の行きかう道路を占有して、道路の中央に背の高い櫓をおっ立てて、多数のチョウチンをぶら下げて踊りの輪の中心とした。櫓の上には太鼓やレコードや拡声器が設置されていて、美人や踊りのお師匠さんが踊ったり、太鼓で全体の拍子をとったりして、全体の進行を管理するセンターとなっていた。参加者は浴衣を着た近所のおばちゃんやおっちゃん、お姉ちゃんやお兄ちゃん、子供を含む付近の住民すべての人たち、全員参加で行われる1年に1回の一大イベントであった。
 自分は、小さい頃から何故か自意識が強くて、人前で踊るなんてことが恥ずかしくて出来なかった。人に言われても、親に言われても、友達が踊っていても、金輪際踊ろうと言う気になることがなかった。踊ることにどのような意味があるのか理解できなかったのである。人間のすることにはすべて意味があるはずだと考えていた。水は喉が渇くから飲む。腹が減るから飯を食うと言った按配で、踊ることは人間の何を充足するのかが理解できなかったのだ。レコードにあわせて、手信号のような意味もなく、身ぶり手振りで踊るとは、いったい何なのか? 人が踊る必然性は何処にあるのか? 自分にとって、踊りとは本当に得体の知れない訳の分からぬものであった。
 しかし、親に連れられて見物にはよく出かけた。夕涼みという目的もあるし、他人が踊るのは他人が自分の意思でしていること。それは自分とは直接に関係がない。踊りを見るよりも、夜店があったり、レコードがなったり、太鼓の音がしたりで、楽しい雰囲気が家の中まで伝わってくる。それが楽しい。その雰囲気に、人をして家の中でじっとしていることをできなくさせる何かがあった。
 ある日、家族そろって、多分、四天王寺あたりまでの遠出であったように思うが、盆踊りの見物に出かけた。その時、自分は寝間着か浴衣かわからぬものを着せられていたようだった。家族一同、暗がりを歩いていると、突然後ろから進駐軍の兵隊さんに声をかけられた。勿論、片言の日本語であった。
   「へい、ベイビーちゃん」
と呼んだのである。
 家族一同、どきっとして振り返った。別に何も悪いことはしていないので、やむを得ず、立ち止まっていると、にこにこしながら、2、3人の進駐軍の兵隊さんが近づいてきた。チューインガムを片手に持って、自分に受け取れと言うジェスチャーをしているようであった。
 一緒に居た長姉がどこで習ったか、英語で、
   「サンキュウベリマッチ」
と答えた。兵隊さんは、日本の若い娘が英語をしゃべったので、びっくりして大変喜んだ。姉の英語が見事に通じたのである。兵隊さんは、姉の真似をして、
   「オオ、サンキュベリマッチ、オオ、サンキュベリマッチ」
と何度も何度も言って喜んでいた。
 ただそれだけのことで終わったが、我が家族にとっては外国人と初めて接触した記念すべき日となった。しかも、英語で直接に外人と会話をしたのである。進駐軍の兵隊さんも盆踊り見物に来ていて、浴衣のベイビこと小学1年の子供、不肖小生に目がとまったらしかった。親父や日本人の男達は、外人のことをよく「あの毛唐が…」という侮蔑語て呼んでいたが、チューインガムをたった1個もらってからというもの、家の中では、あまり侮蔑的な発言が出なくなった。
 小学友達の腕白坊主に、羽根君と言う男の子が居た。よく家にも遊びに来て、はしゃいでは家の縁側のガラス戸を割ったりしたことがあった。ある日その羽根君の家に、自分が遊びに行ったことがあった。羽根君のおじさんは進駐軍の軍属とかで、トラックの運転手をやっていたらしい。その時に、自分は生まれて初めてバナナというものを見た。真っ黒な色をした、くねっとしたものの一部であった。全体の形は全くわからなかった。あちこちに当たって、バナナの黄色い色は何処にもなく全体が真っ黒になっていた。
 とにかく、バナナという果物のこと、耳で聞いたことはあったが、この目で見たのは初めてであった。普通の家庭では絶対にお目にかかれない代物である。進駐軍に関係していると、特別にそんな余得があったのであろうか、その家には現にバナナの一切れが存在していたのである。羽根君のお母さんは、この自分にも小さな小さな一切れをお裾分けしてくれた。口にした時のそのまろやかなおいしさ。こんなうまいものがこの世にあったのかと本当にびっくりしたのであったが、何度も何度も噛んでいたら、飲み込みもせぬうちに口の中ですべてが溶けてなくなってしまった。
 家へ帰ってから、自分は親兄弟すべての者たちに、「今日は生まれてはじめて、バナナというものを食った」と自慢して、みなを羨ましがらせたものである。


第23話「ひよこ」(昭和20年~23年)

2006-10-19 | 昔の思い出話
 戦後わが家で最初に飼った動物はひよこであった。犬も猫もウサギも、家族はみんな動物が大好きであったので、どの種類もすべて飼った記憶はあるが、ひよこが多分最初であったろう。それは食料事情によるのである。ひよこは直ぐに大きくなるし、めんどりは貴重な食料である卵を産むからである。また、ひよこは値段が大変安かった。
 ひよこを飼い始めたのは未だ寒い春先のことであった。寒い日は保温のために、電球をひよこの箱のなかに入れて暖房器とした。ひよこは夜中にはまぶしくて眠れなかったのではないか。しかし、金魚や魚と違い、ひよこ達にはマブタがあるので、まぶしければ目を瞑れば良いじゃないかと直ぐに納得することができた。
 ひよこの餌は蝿であった。当時の衛生状態はハエの生育には好都合であった。何もしなくてもハエは何処にでもわんさかと居た。ハエ叩きさえあれば、ひよこのエサは無尽蔵であった。何十羽といる、ひよこの目の前で蝿を叩きつぶすと、ひよこは我勝ちに走ってきて、それをついばんだ。毎朝、毎昼、毎夜、ひよこに餌をやるのは子供の仕事であったが、はえ叩きがその餌造りの唯一の道具であった。蝿はいやになるほど居たので、餌の心配は全くなかった。
 ひよこは成長するにしたがって、手羽の先の部分が白くなってくる。鶏冠がでてくる頃には動きも生意気になって、自分の意思で好きな方向に走り回るようになる。やがて、鶏冠の形や鳴き声で、はっきりと雄雌の区別が出来るようになる頃には、もう統制ができないわがまま次第に育っている。
 ある日、庭先で鶏たちを見物していると、縁側に上がってきた一匹の雄鳥が、隅にある鏡台に気がついた。鏡の向こうに見知らぬ鶏が居るではないかと言う風情で、きょとんと鏡に映った自分の姿を見ている。雄鶏は、突然闘争心がぶるんと起こって、一回り体を大きくして、鏡の向こうの敵に向かって突っかかる。鏡の向こうの鶏も同時にこちらに向かってくるので、嘴(くちばし)と嘴がごっつんこ、「あ痛た」と思う間もなく二回、三回とムキになって突っかかていく。何度も何度もやってみるが鏡の向こうの相手もへこたれない。鶏の鏡への挑戦、このような光景は大変にほほえましい。頭の悪い猫もときどき鏡に挑戦することがあるが、雄鶏の方が真剣に鏡に立ち向かう。一寸の鶏にも五分の負けじ魂がある。
 鶏をじっと観察していると実に面白い。彼らも生き物である。人間と同じように血が流れている。水を飲むときは、口を上向きにして含んだ水が下に流れ落ちるようにしないと、水が喉を通って胃の方に流れ込まない。目を白黒させて、飲んだ水を真剣に飲み込もうとする様は、本当に可愛らしい。
 ある時、一匹の若鶏が死んだ。その原因は人が無造作に庭に捨てた、裁縫用のマッチ針にあった。腹の中から、肝を貫通した針が出てきたとのことであった。鳥だから何を食っても良いと言う訳ではなかったのだ。
 鶏小屋は、庭に面した縁側の直ぐ横に作ってあった。昼間は小屋から出して、庭の中を自由に遊ばせていた。ある日、突然、鶏が異様な鳴き方をするのを耳にした。驚いて小屋を覗くと、小屋の隅で一羽の雌鳥が連続的に声を出していて大変に騒がしい。その足下を見ると奇跡のように白い卵が一つころりんと落ちて居る。鳴いている雌鳥が生んだ初卵であった。その後、毎日卵が生まれ、毎日メンドリの雌タケビが繰り返され、同じ光景が再現されるようになった。
 父は大変喜んだ。子供のようであった。手塩にかけて育てた鶏が立派に成長したのである。当時の食糧事情から、卵はめったに食すことのできぬ貴重品であり、父としてもとても食べる気にならないようであった。弁当箱に籾(もみ)がらを入れ、卵が割れないように底から少し浮かせて、卵の表面が見えるように、きれいに並べて、卵一つずつの表面に、産まれた日付けを万年筆で書き込んでいくのであった。その数が7つになった。今日は8つになった。と、まるで宝物の数を勘定するようにして喜んでいた。子供の自分もそれを見て本当にうれしかった。父と心を一つに出来る幸せを感じた。 
 そのようにして育てた鶏は、自分にとっても心の通いあった友達となった。家族の食料になるたくさんの卵を生んでくれた。ある日夜中に、いたちが現れ、折角育てた金の鶏をどこかへ持ち去って行ってしまった。鶏小屋には特に異常がないのに、鶏の姿はなく、鶏の羽毛だけが散らかっていた。大人達はイタチにやられたと言っていただけで、その姿を誰も実際に見たわけではない。子供の自分には、愛する生き物の突然の失踪に耐え難い悲しみを覚えたのであった。


第22話「蛮勇」(昭和20年~23年)

2006-10-19 | 昔の思い出話
 「出てくる敵は皆々殺せ」と兵隊ごっこ。勇ましい兵隊になったつもりで、当時子供の間ではやっていた輪回しの棒を鉄砲のように突き出し、路地を先頭になって飛び出たら、何と路地の外側の角っこで敵の待ち伏せ。そこには、相手も輪回しの鉄の棒を持って隠れており、いきなりその棒で当方の頭がごつんと殴られた。一瞬、目の前がくらくらとして何が何だかわからなくなった。頭に手をやると、血がべったりと付いて、どくどくと後から後から血が流れ出てくる様子。傷口にはさほど痛いという感触はなかったが、血を見てびっくり。「わー」と泣き出して家の方向めがけて、一目さんに逃げ帰る。
  「お母ちゃん、痛いぃ」 
 その時は、里摩君と一緒であったのに、前方に人気がないことに気を許して、不覚にも自分の方が先に路地の外へと一番に飛び出したのがいけなかった。血を見た母もびっくりして、直ぐ、母親に付き添われて、路地の裏の非常口を抜けて、谷町筋のススキ外科病院へ走り込んだ。三針ほど縫って、傷は大したことはなく収まったが、今でも頭の中央部少し右に、5ミリくらいの丸い毛のない部分が残っている。幸い頭髪におおわれて小さな丸いハゲのあることは誰にも知られていない。人に知られるよりも、自らの毛が薄くなって、ハゲそのものの境界線が失せる方が先になるだろうと予測している。
 五十軒筋には、多数ある細長い路地ごとに小学生が何人か住んでおり、お互いに対抗意識を燃やしてよく喧嘩したものだ。大体は、口だけの喧嘩で、相手の弱みをついて、どのように腹を立たせるのかが勝負であった。たとえば隣の路地に井上君という名前の小学生が住んでいたとする。喧嘩と言っても、井上君が機嫌良く道を歩いていたりすると、後ろから、突然、
  「井上インド人ラッパ吹いてプップウ」
などとからかって、自分の路地に逃げこむだけの他愛のないものだった。我が路地軍は里摩君も当方も割合、勉強がよくできたので口喧嘩で負けることは少なかった。ただ、実力を伴う本当の喧嘩にはあまり強くなかったので、自分たちの方から喧嘩を仕掛けることはない。その日は多分、隣の路地軍からの挑発に我が軍がつい乗ってしまったのが、そもそものキッカケであったであろう。
 自分は、腕力に自信がなかったので先頭になることは滅多になかった。しかし、後々の思い出話で、母が冗談半分に、
  「一番うしろでうろうろしていて、逃げ遅れたから鉄の棒で叩かれたんや」
などと現場も見ても居ないのに、そのようなことを口にするに付け、その都度、何と煮えくり返るように腹が立ったことか。
 「気が弱い」「気が小さい」「体が弱い」「喧嘩が弱い」「運動が下手」などと我が子のことについて、昔の親は、面と向かって実に無神経に口にしたものだ。その度にその子供は、ますます再起不能の泥沼にはまりこんで行くのであった。
 子供は本能的に自分の能力を確かめたいと思うことがよくある。何でも一度は自分でトライして、自分にも出来ることを確かめたいと思う。それを、励ますつもりの善意ではあろうが、「弱い」「下手」「アカンたれ」などと言われ続けると、自分でもそのように信じてしまってチャレンジが出来なくなってくる。嘘でもよいから、うちの子供は「気が強い」「気が大きい」「喧嘩も強い」とみんなの前でおだててくれていたら、その後の実際の生活の場において、どれだけ自信に満ちた積極的な明るい人生が送れていたであろうか。今更恨んでも仕方がないが、心から悔やまれる。
 母の評価は別にして、とかく、自分には勇気のある場合と勇気のない場合が明確であった。その差には極端なものがあって、「自分とは一体何者か?」と言うことで、その後何十年も長く悩むこととなった。勇気のある場合とは、「絶体絶命」のときとか「何かが吹っ切れた」場合である。たとえば、泳げない水の中へ目をつぶってでも飛び込んでしまうような蛮勇が自分にもあったのである。時には里摩君でも恐がったり避けたりするような状況下で、自分の方が勇気の場面で先行することがあった。
 まだ小学校の1年生か2年生の頃、谷町6丁目の電車通りに面した卸の本屋の店先で、里摩君と一緒に、見本の絵本の1冊か2冊を盗んだことがあった。何故そんなことをしたのか全く分からない。しかし今から想像すると、里摩君と心理的な「勇気の競争」をしていたのではないかという気がする。
 里摩君には出来なかったが、自分は店先で監視している店員のちょっとした油断の目を盗んで、絵本の数冊を厚く着込んだセーターの内側に素早く隠すことが出来た。そして、そのまま家まで走りこんで、盗んだ絵本を我が家の押入れの奥深くに隠した。絵本は、後で見たり、楽しんだり、人に貸したりしたことはない。自分の所有物にするという意識は全くなかった。盗むという目的意識自体がなかった。その目的は、競争相手も認識している、正しくその雰囲気の真只中で、何か大それたことを実行することだけ。その一点にあった。
 現在ではとても信じることが出来ない行為である。その後も、人には他愛もないウソだけはよく付いたが、盗みなどという悪い行為は二度としたことがない。きわめて順調に完全な善人に育っていったので、お付き合いしている方々にはご安心をいただき、従前どおりのお付き合いをお願いしたい。
 その行為のおかげで、里摩君に感じていた普段からの劣等感や、幼児の頃から、特に母親から聞かされ続けてきた「気が弱い」「アカンたれ」と言う劣等感から、相当に癒された思いがする。小学生の時代。それなりに色々と苦境に陥ることもあったが、いざとなれば自分は盗みでも何でもやれるぞと、精神的に何度か救われる契機となる貴重な体験となった。


大分県の旅

2006-10-19 | 徒然草
滑って転んで大分県
3泊4日の出張の旅でした
秋まだ浅き山は何処までも青く
昼間の仕事は順調に進捗し
一人で過ごした夜毎の酒の味もまた格別でした
酩酊の中でたった一人になること
思索すること
この味もまた格別でありました
ホテルの部屋で
ひそやかに一人静かに座りいると
頭の中に去来するものがありました
汝れ(なれ)は椰子の実
遠き故郷(ふるさと)の岸を離れて
漂う椰子の実
汝(なんじ)椰子の身よ 今いずれにありや?
辿り着くべき青き島 それは 何処(いずこ)にありや?
行方定めぬ波を枕に 
見果てぬ夢を朧(おぼろ)に
汝は何処(いずこ)を行くか?
秋 わが身一つの秋にはあらねど
秋の夜長のわが身は 椰子の実になって 
妄想の海を漂うのでありました
ビールを焼酎に変え また一杯 また一杯と
一口飲むごとに人生は深まり
秋が深まり 夜が更けていきました
いつの間にか眠って 朝になっていました
朝は仕事 昼も仕事
夜はホテルで 一人静かに また一杯
酩酊は我が最愛の伴侶
それはそれは 楽しい時間を過ごしました
4日目 最終日
大分県は中津の駅で2時間の余暇を見つけました
タクシーの運転手と相談しました
耶馬溪、青の洞門、羅漢寺、中津城、福沢諭吉の生家
全部見たい
5秒で交渉が成立しました
2時間以内で1万円でした
ぐるりと見て周りました
1時間45分で約束どおり全部見ました
少し走って汗をかき息切れもしました
これも旅であります
現実の旅はいつもこのような旅ばかりです
我が人生の現実もいつもこのような人生を送っています
夢で見る人生と実際に過ごす人生の懸隔!
だから夢を見ます
自分には夢が必要なんです
そして毎晩夢を見て椰子の実になるのです
わずか夕べの数刻に
幾日も幾日も漂っている夢を見ます
これで良いのです
人生全体の行方が定まっていないので夢は既に現実になっています
だから これで良いのです
明日から また毎日働きます
夜になれば また一杯飲んで寝ます
そして 夢を見ます
これで良いのです
これが人生であると 悟っています
3泊4日の旅は滑りも転びもしませんでしたが
夢うつつの旅でありました
大分県へは また行きたいと思っています
今度はゆっくりと行きたいと思っています


第21話「商売女」(昭和20年~23年)

2006-10-18 | 昔の思い出話
 戦後しばらくは、進駐軍による、日本人どうしの私的な書簡の検閲が行われていた。一般民間人の間で交わされる郵便物はことごとく封筒の下部が切りとられ、代わりに進駐軍により検閲されたことを示すセロファンの帯シールが貼られていた。子供の自分には、何故ごくフツーの手紙が進駐軍という外国人に内部を読み取られる必要があるのか、全く理解が出来なかった。
 また当家にあった古い昔のレコード類には、音楽などの終了と同時に「このレコードは大日本帝国陸軍の....」というようなセリフの入ったものがあって、そのセリフがうっかり鳴り始めると父などは大あわてでレコードの音量を下げたものである。いまにもMP(アメリカ軍内の警察に相当する部署)がとんできて、我々を捕まえに来るのではないかとの恐れを普通の人でも感じていたようだ。
 街には進駐軍のジープが我がもの顔に走り回っていた。軍隊専用のあのカーキ色のジープであるが、幌のついたものもあったし、幌のついていないものもあった。季節で使い分けがされていたものと思われる。進駐軍の兵隊さんは格好が良かった。背が高くて頑丈な体で、腕の太さも普通の日本人の2倍も3倍もあるように見えた。その中でもMPは白いヘルメットをかぶっていて、威厳があってひときわ強く勇ましく見えた。この頃のアメリカ軍の兵隊さんは、みな非常に親切で、規律正しい人たちであるとの印象が残っている。
 
   アメリカの兵隊さん
   ジープに乗って
   ハロー
   グッドモーニング

 短い歌だが、メロディーも覚えている。ジープに乗ってさっそうと走り回っていた、体の大きい自信に溢れた進駐軍の兵隊さん達であった。いつ頃から自分がアメリカ嫌いになったのかわからないが、少なくともこの頃はかなり好意的な目で彼らを見ていたように思う。
 東雲町(しののめちょう;上二と玉造の中間点の町名)に正門があった清水谷高校の直ぐ裏には、ひときわハイカラな赤い屋根の、一軒の洋風の家があった。住んでいた住人は派手な服を着たきれいな数人の女性であったが、人々は彼女たちのことを「ぱんぱん」と呼んでいた。当時「ぱんぱん」とは何のことか理解出来なかったが、子供ながらに何らかの想像はしていた。その想像は当たっていた。表向きは、進駐軍相手の商売で、生きていくための、やむを得ぬ哀れな犠牲者であるとされていた。
 また、周辺の焼け跡には沢山の防空壕が残されていた。戦後、用済みとなった防空壕は決してそのまま放置されていたわけではない。それらの殆どは、焼け出されて家を失った人たちの貴重な住居であった。防空壕の入り口には、なべ、釜、フライパンや食器類などの台所用品がぶら下げてあったり、ドアに鍵がかけられたりしていた。空き家だと思って、探検目当てに中へ入っていくと、人が住んでいるのを発見したりして、あわてて逃げ出したこともある。防空壕には戦後相当の期間、人が住みついていたようだ。
 当時存在していて、最近、あまり見かけないものがある。「きざみタバコ」である。タバコは供給量が少なく貴重品であったのか、配給制であったようだ。父などは、きざみタバコをキセルで吸っていたが、きざみを紙巻きタバコにする小型のロール器とタバコ用に裁断された紙が別売で売られていた。父などは、初めの珍しい間はロール器で一本ずつ紙巻きにして吸っていたが、一本吸うたびに作業をしなければならず、その作業が大変面倒のようであった。また、タバコの充填密度が上がらず、ふわふわの頼りのない巻き方しかできないため、タバコが不味く感じられたのか、次第に紙巻器は使われなくなってしまった。
 ある日、父に連れられて上六近辺の公園(多分、生国魂神社)を歩いていた。夕方を少し過ぎていたであろうか、公園の薄明かりの街灯の下で一人の女が佇んでいた。その女性は、突然、親しげに父に声をかけた。
 「遊んでいかない」
父は慌てふためいて、
 「いやいや、子供を連れているので...」
とか何とか、しどろもどろになって、言い訳がましく、ともかく断った。
 自分は、他所の知らないお姉さんが急に声をかけてきたので、びっくりした。また、大変、不思議な思いをした。
 「お父ちゃん、今の女の人、誰?」
自分は、何も知らない強みで、しつこく何度も聞いた。
 「むうっ…」
 父は無言であった。答えることができなかったのだ。子供連れの男に声をかける女もドジであった。自分は、街角で男に気安く声をかける女って一体何者か?と、ずっと不思議に思っていた。小学校に入って間もない頃の話であったが、戦後の一時期、生きていくためのやむを得ぬ可哀想な犠牲者であったのか、巷にはその手の商売女がずいぶん沢山いた。


第20話「停電」(昭和20年~23年)

2006-10-17 | 昔の思い出話
 戦後の電気は気ままであった。ガスは電気と比べると比較的、真面目であった。停電はあっても停ガスなんて聞いたことがなかったが、電気は何の前ぶれもなく突然消えてくれた。家族一同、夕食後の団らんに花を咲かせていると、盛り上がった頃に意地悪くぱっと消える。このような停電は、ごく当たり前の日常茶飯事であったので、いつも誰かが手際よくローソクに火を点けて、誰一人苦情を言わなかった。
 事故などではなく、人為的な停電であることも明らかであった。行政や地域の区割に沿って電気が点いたり消えたりした。停電の真っ暗な地区と電気がついている地区とが明確な一線で区画されていた。当家などは、約10メートル西側に当家の北桃谷地区とお隣の谷町地区との境界線があったので、直ぐ横の谷町地区は電気がついているのに、こちらの地区は停電という腹立たしいことが絶えず起こっていた。戦後の混乱期に石炭やその他のエネルギーの絶対量が足りなかったので、電力会社としては、需要と供給のバランスをとるための、やむを得ぬ処置であった。
 子供達も両親に、「お父ちゃん、オモチャ買うて」などと言う代わりに、「お父ちゃん、ランプ、買うて」とか「お母ちゃん、ぼく、ランプがほしいねん」なんてことを毎日言っていたものだ。粘り強い両親への誓願の甲斐あってか、当家もやっと石油ランプを買ってもらう日が来た。家族一同、ランプが初めて灯もったときの嬉しかったことは筆舌に尽くしがたい。子供心には、ランプを点けたい一心で、停電の早く来るのが待ち遠しかったほどである。
 停電が起きて、石油ランプに灯を灯して、揺らめく炎の下で話す団らんもまたおつなものであった。石油ランプの「ほや」は当然のことガラスで出来ていて、底に赤茶色をした灯油溜めのある、昔ながらのスタイルのランプであった。芯が減ってくると、芯に連動した小さいネジを回すと芯が上昇し、炎が大きくなり、グッと明るさが増す。時々、ほやを内側から拭いて掃除しないと油煙で直ぐに汚れてくる。少し油断をしていると、いつのまにか油が無くなっていて、すーっと消え入るように火が消えていく。何だかだと世話の焼けるランプであったが、その世話の焼けるのが、また、可愛いものであった。
 1、2年たって、家計にも少し余裕ができてきたのか、あるいは世話の焼ける石油ランプに愛想が尽きたのか、さらに高級なガス灯にチャレンジすることになった。ガス灯が初めて台所で灯ったときの、その青白い、またランプと比べると何十倍もありそうな、その明るさに驚いたものである。しかも、石油ランプやロウソクのように炎が揺らめかず、大変安定した明るさであった。しかし、ガス灯にも大きな欠点があった。それは灯芯である。最初に布製の袋のようなものをセットし、その袋を一度燃やす。そうすると、袋が灰になって残る。それが灯芯である。その灯芯の極めて不安定なことが欠点である。うっかり、掃除の最中に「はたき」でガス灯の「かさ?ほや?」をはたこうものなら、はらはらと灯芯が崩れ落ちる。特に、我が家のように粗忽者の多い家庭では、誰かが直ぐに灯心を蹴散らかす。いやはやその不安定さは乙女心の何百倍と思われるほど心許ないものであった。もっとも今どきの乙女心は鉄よりも強いので、ガス灯の灯芯などと比較する方がおかしい。
 最近ではまったく見かけなくなったが、この頃、屋外の盆踊りやお祭りの夜店などではアセチレンランプが大変活躍していた。カーバイドに水をかけて発生させたアセチレンガス。これを燃やすと煌々たる白色光が発生する。暗闇に慣れた目にはまぶし過ぎるほどの明るさで、とても光源を直視することができなかった。何と言っても、その強烈な化学的な匂いに問題があったが、夜店の楽しい思い出が重なるごとに、いつの間にかその匂いも嫌な匂いではなくなっていった。夏の暑い夕べ、この独特な匂いの下で、金魚をすくったり、ラムネを「ぽん」と言わせだり、綿菓子をほおばったりしたことが大変に懐かしい。異臭と感じたこの化学の匂いよ。もう一度、我に嗅がせてくれ。青春のはるか前の一時代の風物詩であったが、そのような風情を味わえる場所や文化がいつの間にか、この地球上から姿を消してしまった。本当に残念なことだ。


第19話「あわて者」(昭和20年~23年)

2006-10-17 | 昔の思い出話
 わが家のあった路地にもたくさんの思い出がある。長さが約50メートル、幅が3メートルほどの路地だった。路地は東西に長く、その南側には住居が、北側にはプラタナスと桐の木が並んで植えられていた。付近は住宅が密集していて、あまり美しくない地域ではあったが、数メートル間隔で植えられている路地の街路樹が、一抹の潤いと少しばかりの文化的な雰囲気をかもし出していた。路地は入り口が少し高く、奥へ行くほど低くなるわずかの傾斜があった。五十軒筋にはこのような路地がたくさんあり、谷町の方に抜けられる路地と抜けられない路地の二種類があった。我々の路地は谷町筋からの別の路地とつながっており谷町の方へ抜けることは出来たが、境界部分には大きな段差があり通行に危険でもあるので板の扉に鍵がかけられていた。扉の向こうは谷町地区となり、校区も異なっており、相互につきあいがなく、通行の必要がなかった。
 路地の街路樹プラタナスは昆虫の宝庫であった。夏は「カナブン」を素手でいくらでも捕まえることが出来た。カナブンは生い茂った葉っぱいっぱいに群がっているので何の苦もなく素手で捕まえることが出来たが、捕まえるといきなり手の中に汚い緑色の排泄物を放出する。その匂いはまた強烈な匂いであったので、子供の間では「へこきブンブン」と呼んでいた。秋は赤トンボが街路樹の後ろの、小杉さんとの境界の塀の鉄条網の突起に、これも数が勘定できぬほど群がっており、いくらでも捕まえることが出来た。路地の方向に沿った下水道のふたを開けると、人々はこおろぎと呼んでいたが、羽がなく色が赤茶で、しま模様の、よく飛び跳ねる、大きさが2、3センチくらいの暗闇を好む虫が居た。これも遊び友達であった。
 路地の入り口付近には一本の柿の木があった。渋柿で小さな実しかならなかったが、登るには手頃で、よくよじ登って柿の実をとった。この頃は父からよく冗談に、「おまえは、表(おもて)の柿の木にぶら下がっていたので、可哀想だから拾ってきて、育ててやったんだ」とよく聞かされた。これは何も自分だけに言っていたのではなく、兄姉の殆どみんなに言っていたようだ。特に子供が小さくて口答えもせぬ時期に子供をからかって喜んでいたのであった。
 ある時、自分は路地の表から、何やらうれしいことがあったのであろうか、元気よく走り込んで帰って来たことがあった。大きな声で「おテテつないで」の節で、歌詞は下のように歌いながら。

    お手てんぷら
    つないでこチャン
    野道を行けバリカン
    みんな
    かきくけこんにゃく
    みつ豆らっきょ
    歌を歌えば
    腹が鳴る
    歌を歌えば
    腹が減る

元気よく声を張り上げて精いっぱいのスピードであった。路地の中でもあり、毎日何事もなく駆け抜ける場所なので、前を見る必要などないと思っていた。
 ところが、何と、その日は路地の真ん中に、子供の三輪車が放置されていたのであった。激しい勢いでその物体にぶち当たった。はっと思う間もなく、体は宙に舞い、地面に落ちたところが、運悪く下水のふたが開いていて、頭から、見事にすっぽりとマンホールにはまりこんでしまったのであった。足が地面に少し残っただけで、宙吊りになった。痛くもなく、しかし身動きもならず、何ともならない窮地に陥いった。小なりといえども日本男子として声を上げて泣くべきではないと言うプライドを意識したが、この際、そんなことはどうでもよいと思われた。周囲に人がいる気配もなかった。わが身は下水のマンホールに宙吊りの緊急事態だ。自らの力で身体を起こすにしても何の取っ掛かりもなかった。ここは、やむを得ず泣くのが一番と判断して、おもむろに大声を上げた。隣家の鳥居のおじさんは自宅の二階が職場であったので、開け放した窓から直ぐに当方の泣き声を聞きつけて、即座に掛けつけて、当方の足を持って引っ張りあげて、難無きを得た。
 自分は小学校の低学年から、何事においても着手は早かったようだ。ある時、工作の時間に紙で灯台の模型を作る作業があった。厚手の紙に灯台の模型の展開図が描かれており、はさみで切り抜いてノリシロに糊を付けて張り合わせれば簡単に円錐形の灯台が出来るはずであった。何分にも初めてのことで、ノリシロなるものの意味を知らなかったらしい。実線に沿ってはさみを入れながらノリシロの部分まで切り進んで「何じゃいなこれは?」と言う気分でノリシロを勢いよく切り落としてしまった。そして、灯台の外観らしいものに満足しながら、次に何をしようかと考えて、次の一手に何の手がかりもないことはっと気が付いた。
  「先生、次はどうするのん?」
と先生に聞いた。先生は当方の、切り進んだ材料を見て唖然として言った。
  「ノリシロを切り落としたらあかんやないの!」
  「ええっ、ノリシロって何に?」
と自分。
 と言うような調子であった。結局少し遅れて友達は次から次へと灯台を完成させていく。自分は切り落としてしまったノリシロをくっつける術もなく、ただ恨めしく人の完成品を見ているだけ。「もう少し遅れてやっておれば、こんな失敗、しなかったのに」と悔やんでも後の祭りであった。 
 自分には、このように前を見ずに走るとか、人より先に確かめもせず何かしてしまうとか、いろいろな不注意があってよく失敗をした。学校の先生からも「あわて者」であるとよく注意された。ずっと後のことになるが、6年生の通知票に、担任の安藤先生から「態度に少し落ちつきを欠くところがあります」と書かれたことがあるくらいの、文字通り検査証明書つきの「あわて者」であった。


第18話「火傷」(昭和20年~23年)

2006-10-17 | 昔の思い出話
 遊び場には不自由はしなかった。大阪市中の焼け跡がすべてが子供の遊び場であった。我が家のごく周辺を除き、広大なすべてが焼け跡になっていて子供にとっては素晴らしい遊び場になった。よく遊びに出かけた場所は、清水谷、生國魂神社、中寺町、東横堀川等で、かなり遠くまでがその勢力範囲にあった。また松屋町筋で耕していた畑は、この上ない格好の遊び場で子供仲間でさつま芋を植えたり、周囲に落ちているトタンや木切れで小屋を作ったり、その中で芋を料理したりして遊んだ。春先の小麦は子供の背丈よりも背が高くなり、かくれんぼなどには最高の場所であった。
 各所の焼け跡にはアメリカ軍の多数の爆弾投下で出来た直径10メートルほどの穴に水がたまって池となっており(以下、爆弾池)、また、消火用の用水池が至るところにあったので、水遊びにも困らなかった。爆弾池に網を差し入れると、トンボのやご、げんごろう、水面には水スマシなど多数の生物が居た。どこからどう忍び込んだのか、爆弾池にも蛙やざりがに、もろこ、鮒などが住みついて居るのが不思議であった。夏は一日中、これらの生物を捕まえたり、時には素裸になって、水たまりで水浴びなどをした。トンボはたくさん居た。特に、銀ヤンマが驚くほどたくさん居た。他にも、しおからトンボ、蛍トンボなどがたくさん生息していた。赤トンボは色々な種類のものが居た。銀ヤンマは産卵のために、水のある所ならどこにでも実にたくさん飛んできたのである。
 ある日、多分、上本町三丁目を少し東に行った清水谷の裏手のあたりであったろうか。自分一人でトンボとりに夢中になってとび歩いていたことがある。その時、爆弾池の丁度手の届く位の水辺に、二匹連なった銀ヤンマが降り立ったのが目に付いた。「カモ来たる。しめしめ」とばかりに捕虫網を片手にそろりそろりと近づいた。
 その瞬間、右足首から先に激痛というか火の玉のような感触が走った。その時はゴム草履を履いていたので、足を引き抜いたときは素足になっていた。見ると、そこは焚き火の燃え残りで、枯れ草や紙わらの類が煙を出して燃えて居るではないか。トンボに夢中になるあまり、足下に気がつかず、焚き火の中に足を踏み入れたのであった。熱いと言うより、もう殆ど感触はなかった。「えらいことをしてしまった」と思ったが後の祭り。何はともあれ、トンボとりはやめて家へ帰る以外仕方がなかった。助けてくれる人もなく、履いていたゴム草履は焚き火の中に残したまま、素足で、家まで歩いて帰ることとなった。
 途中で濡れた地面の上を歩くと、冷たい感触がことのほか気持ちが良く熱い足が一瞬でも救われるような気がした。そんなことを発見してから、しばらくは近くの用水池に足を入れて熱い足を冷やしたりした。10分ほど足を水に漬けていると大分、大分、我慢が出来るようになった。痛む足を引きずりながら、所々濡れた地面に出くわす度に、少しは救われたような気分になって、ほうほうの体で家にたどりついた。
 家へつくや先ずはともあれ、台所へ行って、洗面器にきれいな水を入れて足をつっこんで冷やした。足をつっこみながら、やっと、おふくろを思い出して、「おかあちゃん、大変や、大変や」と大声で助けを求めた。母はとんできて子供の姿を見るなり仰天して、あろうことか、大やけどをして痛がっている子供のお尻を、力任せに何度も何度も叩いたのである。そこで今度は、子供の方がびっくりして、本当に「わーわー」と泣きだした。「泣き面に蜂」とはこのことを言うのであろうか。いや、すでに必死ではあるが、泣かずにこらえている子供の面に、蜂ならぬ母の手打ちが飛んできたと言うのが正しい。「泣き面に蜂」の典型的な事例を目の当たりにしたのであった。
 母の言い分は、やけどを水に浸けると、水膨れが出来て、手当のしようがなくなるということであったらしい。しかし、後刻知ったことであるが、火傷の手当としては、すぐに水で冷やすのが正しいとのことである。子供は本能的に正しい処置を知っていたのだ。いったい、この可哀想な子供は何のために母親から手ひどく打たれたのであろうか。
 火傷の経験は、注意深くあれ、慎重であれとの教訓とともに、いくばくかの傷として心に残ったが、足の方は目立った痕も残さず治った。


第17話「長姉」(昭和20年~23年)

2006-10-16 | 昔の思い出話
 長姉は戦争が終わってしばらくは東高等女学校(現在の東高校)に通っていた。次兄は生野中学校、次姉は桃谷小学校と、みんなてんでばらばらの校区の学校に在籍していた。戦前と戦後では校区の規制が異なっていたのか、あるいは戦前にはかなり自由に学校が選択できたのかもしれない。
 ある日、長姉の学校で文化祭があるから見物に行ってきなさいと母から言われて、次姉と二人で長姉の学校へ遊びに行ったことがある。松屋町のお菓子屋で飴でも買っても良いと二人で10円ほど(風呂代が5円くらいだったかな?)の小遣いをもらって出かけることになった。文化祭での姉の出番はコーラスであった。
 当家の兄姉は皆、歌が好きであった。北桃谷の家では、子どもたちの殆どは二階の6畳一間で一緒に寝ていたので、みな夜遅くまで話し込んでいることが多く、その時によくコーラスで歌を歌っていた。自分は一番年下で何も知らなかったが、皆が歌う歌を自然におぼえていった。そのようなわけで自分はいつの間にか音楽が得意になっていた。夜更けに布団の中で話し込んでいると、突然、停電になることも多かったが、その時は誰からとなく自然に歌声が出てきて大勢の合唱になった。コーリユーブンゲンなどという歌唱教本の存在も小学校へ入学する前からその存在は知っていた。
 今でも時々口をついて出てくる歌がある。この歌は自分としては小学校で習った覚えがない。きっと、どちらかの姉が口ずさんでいたのを知らぬ間に覚えたのであろう。
    
    学校帰りに
    近道を
    通ってくれば
    何処からか
    ほんのり匂う
    梅の花
    
 終戦直後の松屋町は、一面が焼け野原で所々にバラックが建ち、ぱらぱらと問屋が営業を始めていた頃のことである。末吉橋交差点の東北の角には比較的大きなお菓子屋さん(卸売問屋)があり、そこで姉の文化祭観劇用の菓子を、10円分ほど、数にして2個か3個ほどを店員には面倒くさがられながら買った。
 松屋町の菓子屋で5円や10円で買えるものはほとんどなかった。というのは松屋町は問屋街で、建前では小売りをしないことになっていた。しかし、石油缶や大きな木箱の中に入れて陳列してある芋飴やどぎつい色の菓子は、子供にとっては大変魅力的であり、店員に少々嫌な顔をされても買わずにはおれなかった。当時は、砂糖などあろうはずもなく、三角形の毒々しい赤色や緑色のうっかり噛めば歯にからみつく、芋から作った飴をなめながら、最前列に座って姉のコーラスを聴いた。舞台に知っている姉の顔があるのが嬉しかった。
 松屋町には沢山の菓子問屋が軒を並べ始めており、お菓子の品数も徐々に増えていった。おらんだ(甘い練り菓子;二本の棒をねじった形のもの)、甘納豆、松露、羊羹、最中などは、父が甘党で、正月になると普段の質素、倹約をほんの少しだけ解除して、自ら率先して問屋で買い込んできたものだ。
 末吉橋交差点東南角に「エガホ」の文字と三人の子供の笑顔の顔を三角形に並べた図案の看板がなぜか印象に残っている。また、末吉橋交差点から長堀通りを東へ50メートルほど行ったところに高津原橋(たかつがはらばし)という名の陸橋があるが、その北側の橋の下は長らく、戦災で被災した煉瓦造りの天井の焼け落ちた建物跡が生々しく残っており、復興が一番最後になっていた。戦前はパン屋さんの工場であったらしい。
 長姉の高等学校での修学旅行は白浜旅行であった。庶民には旅行と言うものが大変な贅沢品であったので、弟妹一同、物珍しく天王寺駅まで見送りに行った。現在では、大阪から白浜までは、特急で3時間程度の旅程であるが、当時は夜行列車で夜半の9時頃に天王寺駅を出発すると紀勢線白浜駅には朝のいい時刻に到着するという鈍行列車であった。
 このときの列車は、モチロンのこと蒸気機関車であった。蒸気機関車は、駅に停車している間にも、夜空にもくもくと白い蒸気や煙を吐いている。近くで見ると、機関車の動輪は勇に自分の背丈くらいの大きさがある。ピストンの隙間やシリンダから延びた太い駆動用のロッドは間近では、さらに太く、大きく、力強い。これからの出発に備えて、あちこちから水蒸気をふかし準備運動に余念がない。その雄姿はまさしく怪物であった。
 姉が乗り込んだ列車を見ながら、「うらやましいなあ、大きくなったら、学校から、こんなに格好の良い汽車に乗って、遠いとこまで遊びに行けるんだな」と思ったことだろう。それにしても、終戦直後の物資欠乏の時期とは言え、修学旅行などの学校行事も一応は行われていたこと自体が、今から考えても一つの驚きであった。
 長姉は女学校を卒業後、三和銀行上町支店で事務員として働いていた。ある日、自分がまだ小学校の2年生か3年生の頃であるが、母から姉のために銀行まで昼の弁当を持っていくように命ぜられた。家から銀行までは、徒歩でほんの数分である。勿論、銀行の中へは一人で入ったことはない。自分はどうして良いのか分からないので、風呂敷に包んだ弁当箱を片手に正面から堂々と銀行の中へ入った。
 銀行の中は天井が高く昔も今も変わらぬ客用のスペースと窓口がある。きょろきょろしているとカウンターの金物の柵を越した奥の方に、机に座って執務している姉を見つけることが出来た。カウンターの向こう側へは、子供一人で勝手に入って行くこともできず、仕方ないので、カウンター越しにいきなり大声で、
  「おねえちゃーん」
と弁当の入った風呂敷包みを頭の上にかざした。カウンター窓口最前列の男子行員は、
  「はいよ」
と弁当箱を受け取ってくれた。
 弁当箱を行員に手渡すや否や、自分は何か大それたことをしでかしたような気がして、急に恥ずかしくなって、そのまま、家まで逃げて帰った。後で姉から聞いたところによれば、その窓口係の行員は、
  「小さな子供が厚い風呂敷包みを持って入って来よったんで、びっくりした
   ぜ。何や、弁当箱だったのか、てっきり札束かと思ったよ」
などと言って姉をからかったそうである。


第16話「つまみ食い」(昭和20年~23年)

2006-10-16 | 昔の思い出話
 食べるものがないというのは本当に大変なことであった。特に育ち盛りの身であれば空腹は文字どおり骨身に応えた。長幼を問わず、人間というものは腹が減っては戦が出来ない。暇さえあれば、本能的に鍋の蓋を開けたり、おひつの蓋を取ったりして中身を調べた。台所の水屋(お茶碗などの食器類や台所用品を収納するタンスのような家具。最近はほとんどの家庭でその姿を見かけない)を開けると色々なものが収納されている。誰かのおかずの残りとか、食事時の不在者の取り置きがあると、少しだけなら分からないだろうと一口失敬する。初めは一口のつもりであるが、暫くするとまた水屋の戸を開けてしまう。また一口失敬する。合計で二口であるから、少しは目に見える程度に減っているはずだ。自分でも少し取りすぎたのかと心配になるが、「まあええわ」とまた一口やる。
 残りが半分くらいになると、どうせ叱られるなら「全部食ってしまえ」という習慣的な考えにたどり着いて、結局は全部食べてしまう。そんなことが原因で、母からは絶えず小言を食らったし、兄弟喧嘩の原因にもなった。
 自分がそうであったから、他人もそうであろうと思った。食べ残すと誰かに食べられてしまうとの恐れから、食べるものが目の前にある限り、食べ残すことはなかった。その結果一度に食べる量が必然的に多くなった。現代の飽食の時代から考えると、まったく想像すらできない境地である。栄養のないものを大食するので、いくら食っても太らなかった。みんな今よりはるかに痩せていたし、よくお腹をこわした。食卓には丸い缶に入った「胃活」と言う散剤の薬が常備品として置かれていて、家族の殆ど全員が食後に必ず、この「胃活」を一服のむことが習慣になっていた。小さな耳かきのようなスプーンが付いていて、食後にその耳かき一杯の粉薬を口に放りこんで「ごちそうさま」であった。薬の中身は多分重炭酸ソーダであったと思われる。飲んだ後によくゲップが出た。
 父の里が石川県であったので、次兄と次姉は戦争の激しくなる少し前から石川県に疎開をした。そんなわけで、戦争が終わってからもしばらくは、疎開中のことが話題になることが多かった。
   「おっ母ア、もうちょっこしメシくっせえノー」
と石川県の方言を真似ては笑い転げたものである。兄弟姉妹の誰もが、何でもないことに笑いの理由を見つける幸せな年頃であった。
 たいていの場合、水屋を開けても何もなかった。もし、砂糖とコンデンスミルクがあれば。それが一番のねらい目であった。砂糖などは貴重品で配給されない限り手に入ることはなかった。コンデンスミルクも缶に入ったもので、容易に手に入るようになったのは、戦後何年もしてからのことであろうが、ミルクの代わりに特に紅茶に入れて愛用していた。この頃は、普通のミルクは、まだほとんど商品として世の中に流通していなかった。
 コンデンスミルクは、どろっとした濃縮ミルクに砂糖を添加したもので缶に入っている。その缶の上蓋の隅の対角線の二カ所に小さな穴を開けて、一つは空気穴、もう一つは内容物のミルクを出す穴として使う。その穴に直接口を付けて吹けば他の穴からミルクが出る。吸うと甘いコンデンスミルクが口の中に吸い込まれる。一度にあまり多く吸うと罪悪感に触るので、自制心を働かせつつ、つまみ食いをしなければならない。これも一度では目立たないが、回数が増えると結構な量になる。2、3日のうちに、一缶あけてしまっては大変まずいことになる。母に叱られてはいけないので、一応、つまみ食いの理性と良心に相談しながら慎重につまみ食いをしたものである。
 当時は本当に何もない日常であったが、ときどき進駐軍の払い下げの食べ物があった。その中に今で言えば、ブイヨンのようなものと思われるが、固形醤油と称する代物があった。お腹が減って本当にたまらないときは、固形醤油であろうと塩の固まりであろうと何でも口にした。
 砂糖は殆ど完全に存在していなかった。その代わりに、サッカリンとズルチンが使われた。どちらも石炭から合成される人工甘味料と聞かされていた。サッカリンは薬のような錠剤で小さな金属製の四角い赤い容器に入れられていた。錠剤はせいぜい数ミリ程度の大きさで丸い形状をしていた。ズルチンは粉薬のようなもので細かい粉末であった。どちらかと言うと、サッカリンの方が使い勝手が良く入手も容易であった。水屋を覗いて、食べるものがないと固形醤油をかじる。口の中が辛くて我慢できないとサッカリンを舐めて中和する。と言うように本当に何でもかでもつまみ食いの対象になった。 
 普通の庶民は料理や飲食用にこのサッカリンとズルチンを使っていた。人々は何の疑いもなく大量に使っていたが、戦後、何十年もして発ガン性があるとかという理由で今は使用禁止になっているらしい。DDTにしてもサッカリンにしても昔育ちの日本人は大量に体内に吸飲しているが、昔の無神経なアメリカ人によって行われた実質的な人体実験となっている。
 ある時、これも進駐軍の払い下げであるが、少量の砂糖が配給になった。砂糖と言っても精製されていない茶色いザラメの砂糖である。キューバ糖と呼ばれる代物で原産地はキューバであったらしい。それでも砂糖は砂糖であり、本物の砂糖である。この信じられないほど甘いおいしい砂糖を目の前にして誘惑に抗しきれず、つい父の前で一口、指先で失敬した。それを見た父はかんかんに怒って、砂糖の入った容器の中へ当方の頭を押さえつけ、顔が砂糖の中に埋まった。この時は一瞬、「しめた」と思った。顔いっぱいに砂糖が付いて嬉しさも最高であったが、その機会にあらん限りの大きな口を開けて、口に触る限りの砂糖をほおばったことは言うまでもない。