最近の心境の変化の一つに宗教心がある。これまで、自分は、宗教特有の偶像崇拝、儀式、意味の分からぬ拝礼のしきたりなどを嫌って、哲学的に、宗教そのものを否定するか、神様の存在そのものを疑って生きてきたのであった。しかし、やっぱり年というべきか? 自分にも宗教心が芽生えつつあることを実感している。
宇宙、大生命、それに関連する無限の時間や空間のことを考えたり、自然や四季の変化を目にして感動した時に、やはり其処には偉大な力があり、造物主のようなものが存在するのではないかと感ずることがある。仏教やキリスト教など既成の宗教とは関係なく、遠く、宇宙の果てまで一体となって、つながっている何か偉大なものが存在するのではないかと思うことがある。個人の生命も、全体の一部であり、かつ一人ひとりが全体でもある。そんな気がするのである。人が死ぬと言うことは、その全体の中へ帰っていくだけのことであり、そんなに怖いことでも、心配すべきことでもない。
それぞれ個別の天寿と言うものがいつ来るのか知らないが、みんな、自分のことばかり大袈裟に心配せず、大らかに、のんびりと、前向きに、今を生きておれば、それでもう十分幸せではないかと思う。


宇宙、大生命、それに関連する無限の時間や空間のことを考えたり、自然や四季の変化を目にして感動した時に、やはり其処には偉大な力があり、造物主のようなものが存在するのではないかと感ずることがある。仏教やキリスト教など既成の宗教とは関係なく、遠く、宇宙の果てまで一体となって、つながっている何か偉大なものが存在するのではないかと思うことがある。個人の生命も、全体の一部であり、かつ一人ひとりが全体でもある。そんな気がするのである。人が死ぬと言うことは、その全体の中へ帰っていくだけのことであり、そんなに怖いことでも、心配すべきことでもない。
それぞれ個別の天寿と言うものがいつ来るのか知らないが、みんな、自分のことばかり大袈裟に心配せず、大らかに、のんびりと、前向きに、今を生きておれば、それでもう十分幸せではないかと思う。



人間は若くして亡くなる人もいれば長く人生を生きる人もいる。しかし長く生きられるか短い人生で終るか誰にもわからない。
今は元気でピンピンしていても乗っていた飛行機が墜落したり不慮の交通事故に巻き込まれて命を落とす人もいる。まさに一寸先はどうなるか誰にもわからない。
だから、そのときそのときを精一杯生きるようにしています。
最近自分自身段々と年寄りくさくなってきたことが自分でもわかります。しかし、新しいことや古いこと、何でもやってみたいし、続けたいと思う気持ちはあります。
仰るように、その時を精一杯に生きたい。ただそれだけですね。お互いに頑張りましょう。
仰るとおり、大らかに、のんびりと、前向きにと心がけて過ごしたいと思います。
私だけの神さんがいらしてくださってもいいかしらなどと、勝手なことを思ったりしています。
昔、このブログで「ぎゃあてい、ぎゃあてい、はらぎゃあてい、はろそうぎゃあてい、ぼうじそわか」の意味について、黄梅様からコメントを頂いたことがありました。
私は現在不本意ながら病床にありますが、「ぎゃあてい...云々」を「治る、治る、治った、治った、神様有難う」と勝手な解釈を施して、自分だけの神様・仏様を独占しています。また、最近、特に、咲く花美しさ、その移り変わり、遠くの鳥のさえずり声、雲の流れなど、ごく近くの自然の移り変わりに大変感動的になってきました。