goo blog サービス終了のお知らせ 

ユーさんのつぶやき

徒然なるままに日暮らしパソコンに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き綴るブログ

私の死生観

2009-07-21 | 番外編
 子供の頃の星空はきれいであった。大阪の都心からでも、特に冬空ともなれば何十万という星が満天下に見えていた。子供達の関心が自然に空に向かい、宇宙に向かい、宇宙好き少年に育っていった。残念なことに、現代の夜に見える星空は指で簡単に数えられるほどにしか見えない。しかし、最近は、特に自分は、宇宙(すなわち神様)と人間との関係を意識する時間が多くなった。同じ宇宙を見ても、子供の頃と全然内容が違う。
 時間を超越する無限大の宇宙はどう考えても、造物主(神様)の創造物にしか見えない。どう考えてもそのほかには考えようがない。人間もそうである。このような精巧な人間というものを造物主以外に作ることが可能であろうか。本来的に人間は宇宙の一部であり、それ以外の何者でもないように思える。
 自分も人間の端くれをやっている。したがって自分も宇宙である。自分即宇宙、宇宙即自分。般若心経の色即是空、空即是色と同じ構図である。だが般若心経よりもずっと分りやすい。宇宙との一体感は現実に感じることが可能である。その例として、次のようなことを実感することがある。
 自分の吐く息、この一呼吸分の空気は、当然、そのまま宇宙に帰っていく。神様(宇宙)の口と自分の口とが直結していて、吐いた息がそのまま神様に吸取られていく。逆に、自分が吸う息は直結する神様の口から口移しに体内に供給される。宇宙は自分と一体であり、自分は宇宙の一部であることを一息ごとに実感できる。
 そんなことを考えていると、今現在、自分が生きているということ。これは、昔どこか宇宙の一部であった自分が、たまたま、人間の形をして、この地球上の現在の住処に居るだけではないか。
 人間は息絶えて、埋葬されて土となっても、また火葬されて灰となっても、元居た宇宙に帰っていくだけである。その土や灰の上にたまたま桜の木が植えられても、死体は、木となり、枝となり、葉となり、咲くときには花が咲いて、最後には宇宙に帰る。いくら大げさに考えても、実態はただそれだけのことである。死に際して、人間、生きるの、死ぬのと大騒ぎするのは止めよう。淡々と自然の摂理に従えばよい。結果は、どう転んでも、みな同じである。
 辛いのは人間どうしの別れであるが、これも生きている限り、一度は死なねばならない人間の悲しい宿命である。仕方がない。


最新の画像もっと見る