鞍部主郭から山頂部主郭へ(「栃木県の中世城郭」管理人さんの縄張り図に準じています。)
正面の城壁の上に縄張り図では物見台とされていますが、これを右手に進むと
空堀と土塁
土塁の左手から鞍部主郭へ入ります。(私見では二の郭では)
鞍部主郭を北から見ています。
鞍部主郭の北奥には大岩が聳えています。
大岩の左手から登り道があります。枯葉が沢山あり、岩場ですので足元に注意が必要です。
岩場を登ると、堀切がありこれを進めば山頂部主郭、後方は西北尾根になります。
本丸南下曲輪、奥に一段高く本曲輪
本丸南下曲輪を見下ろしています。
本丸前段部
本丸後段部
本丸北側下の堀切
本丸北下曲輪
北腰曲輪
鞍部主郭から山頂部主郭を歩いています。
次回 西北尾根から物見台へ
『皆川正中録』によれば、諏訪山城は、宇都宮勢との決戦に備えて粟野城主であった平野大膳によって築かれた城である。これは佐竹の援助を得ている宇都宮勢に備えたものであり、当時皆川氏(平野氏は皆川氏の家臣)をバックアップしていた北条氏の指示によるものであったと考えられる。となれば、諏訪山城は、野戦築城によるものであり、戦闘行為をその主眼としたものであったと見てよかろう。北条氏の指示によったということからして、北条氏の築城技術などが取り入れられた可能性もある。粟野城主が築いたというのに、粟野城とはまったくイメージの重ならない城であるのには、そうしたことによる影響もあるのだろうか。
こうして備えた諏訪山城であったが、天正16年(1588)、宇都宮・佐竹連合軍に攻撃されて、あっけなく落城してしまう。その後の諏訪山城は、宇都宮氏の城となったのであろうか。防衛ラインとして山の中腹に長大な横堀を巡らせるのは、常陸多気山城や下野多気山城、福島の大平城など、むしろ佐竹に関連した城郭によく見られる構造であり、その点も注目してみたい所である。記事は「余湖くんのお城のページ」より、
諏訪山北城と諏訪山城との関係は深いものがあると思われるが、縄張りが北条の影響をうけたとは思えない感じがあります。
正面の城壁の上に縄張り図では物見台とされていますが、これを右手に進むと
空堀と土塁
土塁の左手から鞍部主郭へ入ります。(私見では二の郭では)
鞍部主郭を北から見ています。
鞍部主郭の北奥には大岩が聳えています。
大岩の左手から登り道があります。枯葉が沢山あり、岩場ですので足元に注意が必要です。
岩場を登ると、堀切がありこれを進めば山頂部主郭、後方は西北尾根になります。
本丸南下曲輪、奥に一段高く本曲輪
本丸南下曲輪を見下ろしています。
本丸前段部
本丸後段部
本丸北側下の堀切
本丸北下曲輪
北腰曲輪
鞍部主郭から山頂部主郭を歩いています。
次回 西北尾根から物見台へ
『皆川正中録』によれば、諏訪山城は、宇都宮勢との決戦に備えて粟野城主であった平野大膳によって築かれた城である。これは佐竹の援助を得ている宇都宮勢に備えたものであり、当時皆川氏(平野氏は皆川氏の家臣)をバックアップしていた北条氏の指示によるものであったと考えられる。となれば、諏訪山城は、野戦築城によるものであり、戦闘行為をその主眼としたものであったと見てよかろう。北条氏の指示によったということからして、北条氏の築城技術などが取り入れられた可能性もある。粟野城主が築いたというのに、粟野城とはまったくイメージの重ならない城であるのには、そうしたことによる影響もあるのだろうか。
こうして備えた諏訪山城であったが、天正16年(1588)、宇都宮・佐竹連合軍に攻撃されて、あっけなく落城してしまう。その後の諏訪山城は、宇都宮氏の城となったのであろうか。防衛ラインとして山の中腹に長大な横堀を巡らせるのは、常陸多気山城や下野多気山城、福島の大平城など、むしろ佐竹に関連した城郭によく見られる構造であり、その点も注目してみたい所である。記事は「余湖くんのお城のページ」より、
諏訪山北城と諏訪山城との関係は深いものがあると思われるが、縄張りが北条の影響をうけたとは思えない感じがあります。