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山本勘助と山本菅助「西上州の中世」②

2016-03-29 20:23:00 | 歴史資料
勘助と菅助とは同一人物である。このことを証する文書が「西条州の中世」の冊子で記述されています。(平山優氏)

年未証正月二十四日付の近藤七郎兵衛忠重書状である。これは、山本三郎右衛門(菅助正幸、菅助の孫、山本十左衛門尉の子)に宛てたもので、近藤忠重は水戸の武士であった。「水府系簒」によると、近藤忠重は近藤図書の三男近藤下野の孫とされている。しかも、近藤図書・下津守父子はともに、武田一族穴山梅雪(生母は武田信玄の姉南松院殿、正室は信玄の息女見性院殿)の家臣であったとされている。つまり近藤忠重は、武田遺臣の系統なのである。彼が認めた書状に、注目すべき記述がある。(書状は省略)詳細を知りたい方は「安中市学習の森ふるさと学習館へ問い合わせてください。
 これによると、水戸藩主徳川頼房(家康の子、光圀の父)が江戸で『甲陽軍鑑』を読んでおり、ここに登場する山本勘助に惹かれ、その子孫が居れば召し抱えたいと家老や側近に漏らしていたとある。ところが頼房の家老や側近たちには思い当たる節がなく、そのままとなってしまっていたものの、頼房の意向を伝聞した近藤忠重とその叔父近藤三九郎は山本勘助の孫山本三郎右衛門と知己であり、その情報を彼に伝えたのである。(中略)
 結論から言えば、山本三郎右衛門が水戸藩に登用されることはなかった。しかしこの書状は、山本三郎右衛門が『甲陽軍鑑』に登場する山本勘助の孫であると武田遺臣の人々から認識されていたことを明示する重要な史料である。しかもこの文書は、近藤忠重が水戸藩士として出仕した寛永三年(1626)から、水戸藩への士官が実現しなかった山本三郎右衛門が淀藩永井信濃守尚政に仕官することが決まった寛永十年(1633)までの間のものと推察されるので、寛永初年の認識であることは重要である。
 さらに山本三郎右衛門が寛永十年に永井尚政に出仕するにあたって、彼の身分保障をしたのが、平岡次郎右衛門尉和由(甲斐代官、武田遺臣)、日向清庵(元甲斐国奉行、日向半兵衛正之のこと、武田重臣日向玄東斎宗立の子、彼の後妻は永井尚政の息女)の二人であった。しかも山本三郎右衛門は、永井氏に出仕する際に、三郎右衛門から菅助と改めているが、そのことを日向清庵は「勘助殿と名を替可被成候由候、目出度存候」と書状に認めている。つまり、武田遺臣の内部で「菅助」と「勘助」は同じであり、それは『甲陽軍鑑』に登場する初代山本勘助に由来し、しかも山本勘助と山本菅助は同一人物であるとの認識で一致していたことを示している。
 このことから「市河文書」や「真下家所蔵文書」に登場する山本菅助は、『甲陽軍鑑』に登場する山本勘助と同一人物であると考えることが可能であると思われる。しかもこれまで述べてきたように、実在した山本菅助は武田家臣の中でも上級家臣クラスであり、信濃経略に於いて極めて重要な立場にあったと推定される。
 先日(氏族の追跡 横尾氏)の中で、山本勘助の娘りよの墓石を紹介しましたが、「山本勘助」と名乗るのは嫡子が引き継ぐ名であったことが、この平山氏の寄稿で分かりました。つまり墓石に刻まれている文政九年(1826)でも、山本勘助の娘とあるのは間違いではなかったことが証明されました。横尾家は氏族の追跡で記述してきましたが、上田原の戦いで横尾家当主横尾信光が討死し、嫡子吉泉は長野県須坂市、臥竜山城の麓にある興国寺で隠遁生活を送り、後に上州富岡市丹生字原に遁れてきて館を築き、当初は小幡氏に仕え、富岡市宮崎城に近侍していたことが分かっています。その後富岡市吉田村に土着して百姓になったと伝えられてきましたが、この墓石の文政九年(1826)に高崎藩士、山本勘助の娘が嫁いできたのであれば、江戸時代徳川家斉の頃には、武士の娘が百姓の家に嫁ぐことはあり得ませんので、その年(1826)まで横尾家は武士の身分であったと思われます。加賀藩の飛び地、富岡市七日市に前田氏の七日市藩があって、ここに横尾鬼角という人物がいたことがわかっていますが、この人物が私の先祖であることは不確かです。もし先祖が前田氏の七日市藩に出仕していたなら、山本勘助の娘が嫁いできたことも頷けることになります。1867年が明治維新ですから、このことからすれば、横尾家は明治維新直前までは武士の身分にあったのではないかt推定しています。

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