冨田敬士の翻訳ノート

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「書き方のコツ」(丸谷才一著)

2015-08-16 22:49:49 | 書評
「思考のレッスン」(丸谷才一著,文春文庫)より

「書き方のコツ」

 著者が小さい頃からその時々の時代背景のなかで文学とどのように関わってきたかを率直に語っている。編集者と思われる人との問答形式によるざっくばらんな語りではあるが,本を読むことの大切さ,思考することの大切さを闊達に説いて,読みごたえがある。ただ,ここで取り上げるのは最後の章の「書き方のコツ」という部分だけ。文章を書くときの要点や注意点が具体的に述べてあり参考になった。
 著者の丸谷先生にはすでに「文章読本」という名著があるが,内容はどちらかというと文章を書くときの姿勢を述べたもので,文章の書き方という点ではやや具体性に乏しかった。これに対し,この「書き方のコツ」はわずか50ページほどのなかに,文章作法のポイントを具体的に示している。書き方の技術は微に入り細に入りの指南書もよいが,情報が多すぎると何がポイントなのかわからない。文章上達のためには丸谷先生が指摘するような一番基本的なことをしっかり頭に入れておき,後はとにかく練習を通じて経験を積む以外によい方法があるとは思えない。

ワンセンテンスを頭の中で作ってから文字にせよ

 文章心得のなかで一番基本的なポイントはワンセンテンスを頭の中で全部作ってから,それを文字にすることであるという。推敲したければ書き終えた後でやればよい。丸谷先生に言わせると,途中で立ち止まって表現の仕方をあれこれ考えることは間違いで,時間の浪費にほかならない。翻訳の場合は原文があるため,作家の創作と同じようなわけにはいかないが,一文ごとに構成をまとめてから書くことは,文体を揃えるためにも非常に大切なポイントではないかと思う。

日本語では長い文が書けない

 文章を書く上で大切なことは,日本語という言語の特徴をよく考えた上で書くことである。具体的にはどういうことか。日本語の特徴は「長い文が書けない」ということだ。西洋語ならいくら長いセンテンスでも明瞭に通じるのに,日本語ではそれができない。これは日本語の弱点である。日本語で長文を書くとなぜわかりにくいのか。理由は主に2つある。

否定詞
 一つは,日本語では否定詞が文の最後に来ること。つまり,肯定文なのか否定文なのか,最後まで読まないと分からない。結論が分からないから,途中に書いてあることがイメージとして記憶に残らず,何度も読み返すことになる。これに対し,英語では否定詞が主語の近くに置かれるので,一番大事なことが最初に分かり,読者は文の展開を予測しながら安心して読み進むことができる。我々は日頃,日本語の特徴を意識することなく使っているが,翻訳文のような改まった文章を書こうとすると途端にこの問題に直面し,表現の仕方ばかりが気になって時間を浪費することになりやすい。
 この日本語の弱点を克服するにはどうすればよいか。一つの方法はすべてを短文で書くことであろう。しかし,短文だけでは論理的な表現に限界がある。文と文の結束性も怪しくなる。丸谷先生が薦める方法は,交通標識のような「方向指示語」を使いながら書くことである。実際,日本人はこれを無意識のうちにやっているのだ。たとえば,センテンスの出だしに「そして」とか「しかし」といった接続詞がやたらに多いのも,その文の最後が否定か肯定かを匂わせておくための「方向指示語」である。これが日本語の書き方のコツであるという。これに対し,英語はいきなり主語があって動詞がある。
 「方向指示語」の使い方の上手な例として谷崎潤一郎の文章を紹介している(ここでは省略)。谷崎の文章はゆったりした長文が特徴だが,それでいて明晰そのもの。込み入った論理でもすらすらと頭に入りやすい。なぜそういうことができるのか。著者はその理由を「方向指示語」の巧みな使い方にあると説明している。谷崎潤一郎という人は英文法を徹底して研究し,両語の違いをうまく生かして書いたという。

関係詞
 日本語で長い文が書けないもう一つの理由は,英語のような関係詞を持たないこと。それは当たり前のことではあるが,現実には多くの人が幾つもの関係詞が混じった文を書いて,長文にしてしまっている。
「混濁した重油の流れに首だけ出して辛うじて空気を吸いながら流されている戦後の我々から目を転じて...過去の日本が示した積極的な文化的事業を眺めてみると...」
この文では,「混濁した重油の流れに首だけ出して辛うじて空気を吸いながら流されている戦後の」が「我々」を修飾する主格の関係詞who,「過去の日本が示した」は目的格which にあたる。関係詞が幾重にも重なり,何を言おうとしているのかよくわからない。これは極端な例としても,関係詞はなるべく少ないに越したことはない。そのためには,順序よく分けて書くとか,カッコを使うなど,ほんのちょっとした工夫で随分と分かりやすくなる。その際,単調にならないよう短文と長文を織りまぜながら書くことも心掛けたい。
 
敬語表現について
 著者は敬語にも言及している。西洋語に比べ,日本語の文章には敬語的表現がむやみに多い。そして,そのことが内容の伝達を妨げている。敬語は,相手と自分との関係や,相手をどう遇しているかを示す待遇の表現であるが,これを多用すると人間関係や人の処遇ばかりが気になってしまい,肝心の伝達内容に対する関心が薄くなる。
 敬語表現は日本語の口語文のなかで最も洗練されていない部分であるとしながらも,丸谷先生は敬語を否定しているわけではない。要は,いかに敬語を少なくして礼を失しないような文章を書くかが大事で,これが日本語の重要な宿題であるという。
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