冨田敬士の翻訳ノート

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「翻訳英文法。訳し方のルール」新装版 (安西徹雄著)

2022-08-21 14:37:13 | 書籍
「翻訳英文法。訳し方のルール」新装版 (安西徹雄,バベルプレス)

 名人上手の教えというものは時代が変わっても色あせない。本書は最初の出版からすでに40年近く経過し,異例のロングセラーとなっているが,内容も構成も初版のときから少しも変わっていない。この種の本としては間違いなく名著の一つと言ってよいだろう。本書は訳し方の基本的ノウハウを英文法の枠組みを利用して体系的にまとめたもの。この種の本にありがちな文学系への偏りが少ないことも,筆者のような実務系翻訳に携わる者にとってはありがたい。著者の安西先生は故人となられたが,よい本を残されたと思う。
 翻訳という作業の特徴について著者は次のように述べている。「翻訳という作業は,とにかく非常にこみ入った,複合的なプロセスである。いろいろなレベルの判断を同時にくだし,総合的,多角的に処理してゆかねばならない。要するに,出たとこ勝負的な要素が非常に多い」。そこで著者は,翻訳の基本的ノウハウを具体化して利用しやすいものにしたいと考え,英文法の枠組みを利用して組織的,体系的に整理することを構想した。翻訳のポイントは「英文直訳式のやり方から,もっと日本語の構造や発想に忠実な翻訳」に切り換えることだ。その具体的なノウハウが本書に体系的にまとめられている。

「原文の思考の流れを乱すな」
 著者が本書のなかで繰り返し強調しているのは「原文の思考の流れを乱すな」ということである。具体的には,原文を頭から順に訳しおろしてゆくよう心がけることが大切であるという。こうしたやり方は今でこそ当たり前のように思われているが,かつては語順を無視した英文解釈的な訳し方が普通に行われていた。後ろから逆に訳し戻すことがなぜ不都合なのだろうか。著者は序章でサイデンステッカー氏のエッセイを引用し,英文解釈的な「直訳」と,思考の流れに沿ったご自分の「試訳」の両方を提示している。確かに「直訳」では原文の背後にある思考の流れやリズムが消え去り,原作者の技巧が影も形もなくなっている。
 実務翻訳の場合,英文解釈的に後の方から先に訳すという訳し方が不都合な理由はほかにもある。例えば,専門性の高い英文は一般に長文が多いが,長文では同じ文中の既出の言葉に定冠詞などを付けて,後半部分で二度,三度と反復使用することがよくある。これは英文では自然なことだが,日訳のときに既出の言葉の混じった文を先に訳すというのは不合理であり,理解困難な訳になりやすい。「原文の思考の流れを乱すな」は実務翻訳の分野でも合理的な助言だと思う。
 本書は名詞,動詞,形容詞・副詞,時制,受動態,仮定法,話法を中心に編纂されている。セクションごとに翻訳上問題となりやすい点が,ときには翻訳講座の受講生の訳例を引用しながら具体的に解説されている。なかでも,かなりのページを割いて解説されているのが関係代名詞の処理の仕方。これについて著者は次のように述べている。「この関係代名詞という代物,いちばんの難物の一つである。英文和訳の原則からすれば,関係代名詞の導く節を,そのまま先行詞の前に持ってくればコトは終わるはずだけれども,しかしこれでは,日本語として,ほとんど理解不可能な文章になってしまうことも少なくない」。そして,次のような英文を提示し,「読者ならいったいどう処理されるだろうか,」と問うている。
Let us not neglect as we grow older the pleasure of rereading books which we remember we liked when we were young, but which we have mostly forgotten and which we should like to read again.
この英文は意味を理解するだけなら問題はないが,訳すのはよほど難しい。逆順の訳し戻しではどうにもならない。因みに,安西先生の試訳は次のようになっている。原作者の思考の流れに沿い,一読してわかるよう訳されている点,さすがだと思う。
「歳をとるにつれて,昔読んだ本をもう一度読み返してみる楽しみを大切にしたいものである。若いころに好きだったことだけは覚えていても,内容はほとんど忘れてしまっていて,もう一度読んでみたいと思っているような,そんな本を読み返すことにはまた格別の楽しみがあるものだ」

本書との出会い
 本との出会いというもの,ときには大きな意味があるように思う。私事で恐縮だが,筆者は30代の終わり近くに翻訳者として独立した。何か当てがあったわけではないが,たまたま縁があって出版翻訳の依頼を受けた。現物は米国の書籍で不動産投資の啓蒙書。内容は現下の経済動向ともマッチしており,これを日本で紹介できるなら光栄だと思った。ただ,筆者はそれまで不特定多数の読者を相手に大がかりな文章を書いた経験がなく,編集部には明らかに信用がなかった。原書を前に,さてどんな点に配慮しながら訳したものかと迷った。
 たまたま,思案しながら東京新宿の大手書店の翻訳コーナーを覗いていたところ,ふと,この「翻訳英文法」が目に留まった。そして,「序章」のほんの数ページを見ただけで,自分が探していたものはこれだと直感した。全体を二度,三度と読み返しながら,なるべくわかりやすく読みやすく,最初から日本語で書かれたもののように訳すのがよいことを教えられた。テクニカルな面では長文の訳し方,関係代名詞の処理の仕方,話法的処理の仕方などが特に参考になった。翻訳する原著は300ページを超える大作で,実際の翻訳作業は簡単なものではなかったが,何人かの知人に手伝ってもらい原稿用紙900枚に訳し上げた。本書のいわゆる基本原則が大きな支えになったことは言うまでもない。

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