HYAKUSHOU日記

毎日の作業と暮らしといろいろの出来事

姥捨て山の話

2010-03-09 20:42:03 | Weblog
 先日、柳田国男氏の遠野物語にある姥捨て山の記事をコピーしていただいたのでござる。
 確か産経新聞であったように思うのでござる。

 これでまず思い出したのが、今は亡き友人の顔と姿と口調でござった。
 彼は、この柳田国男氏の遠野物語をはじめ民俗学に関する書物をたくさん読破し、我々友達連にいろいろと質問をするとともに、その解説や意見を滔々とと述べるのでござった。

 拙者は当然の事ながらそのような事が判るはずもござらぬによって、生返事か頓珍漢な答えしかいえないのでござる。
 他の友人は正鵠を得た応答をしていたのでござり、拙者、実に不勉強が情けなかったのでござる。
 最後には、彼の事を「何で俺にそんなことを言うのだ。聞くのだ。馬鹿やろうー!」と心の中で叫んでいたと思うのでござるが、彼も、「おめー、もう少し勉強しろよな。」で終わるのでござる。

 しかしでござる。
 彼のおかげで、柳田国男氏が民俗学の先生で遠野物語というのがあるのだという程度の事がわかったのでござる。
 拙者、若い頃からアホでござったようだ。

 記事では、「姥捨て山とは60歳を超えた老人が山の中の広い場所へ集まり、共同生活をするところであった」という事でござる。
 そこでは、共同作業で畑を耕し、食事を摂り、村へ出て仕事を手伝って御駄賃をもらい、病人がいればその介護をし、と、老人だけの共同体で、今の老人ホームのようなものでござったとの事でござる。
 拙者の感じるところでは、それは今の老人ホームよりはるかに生産的で、活気に満ちた老人共同体であるというものでござる。

 経済が最優先する老人ホームではなく、生産と生活が最優先の老人共同体でござる。
 今、老人ホームというとイメージは、「きれいな建物、介護する人が走り回っている、車椅子がある、介護保険と介護料・入所料・・・」などでござろうか。
 姥捨て山=老人共同体にイメージするものは、「生産して自らを養う、共に助け合う、できる者ができる事を精一杯する、・・・」となるのでござる。

 拙者は、そのような共同体が本来の姿でござろうと存ずるのでござるが、そのようなことになれば時の権力者(大小に関わらず)がもっとも困るのではなかろうかと存ずるところでござる。
 どんな老人も選挙権があるのでござるからして、そのように共同体で自立生活をされては物の本質も見透かされてしまい、どんな芳しい美味しいきれいな話をしても通じるものではなく、投票していただけないかも知れぬのでござる。
 福祉に関わる事業者は、何を持っていっても話しても、自立しているのでござるからして不要な事ばかりとなるのでござり、儲からないとなるのでござる。

 そうしてみると、困った老人集団となるのでござり、権力者からするとそのようなものは抹消するか隔離された世界にするかということになるのでござるな。
 それが茗荷村の理想とするところかと感じるのでござる。
 
 されど、世は人を喰らい地球を蚕食する資本経済社会でござるからして、その経済機構とすり合わせながら行かねばならぬようでござる。
 これをジレンマというのでござろうか?

 この先の話は、拙者の頭では展開不能となり申したので、今宵もこの辺で「明日の心だ!」となるのでござる。

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