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宿題

2004-09-15 15:29:00 | 徒然なるままに
9月15日(水)

また、小さな命が犠牲になった。
事件の真相はまだわからない。
でも、尊い幼い命はもう帰らない。
この命を守りきれなかったことが本当に悔やまれる。

事件には、そこに至るまでの経緯があり、原因があり、動機があり、状況がある。
そして、事件後の影響と言うのは、計り知れない後悔と悲しみと憎悪と無力感、喪失感そして絶望と言った苦しみの傷跡が残る。

亡くなった命も痛ましいが、残された子供たちの心の傷とこれからの生活を思うと胸が詰まる思いだ。

お互い、2児の父親と言う立場であり、大人として、幼い命が犠牲にならないですむ解決方法はなかったのだろうか・・・。

1日も早くまだ見つからないお兄ちゃんの発見を祈りながら、容疑者の子ども達の保護と心のケアについて慎重に、真剣に考えてほしいと願ってやまない。それはまた、周辺の子ども達についても同様だと思う。

夏のスクーリングの授業で、『歴史の中の子どもたち』と言う講義を受けた。
いつの時代も、どこの国でも、大人社会のひずみのしわ寄せの犠牲は子ども達である。
子どもの人権について見直され叫ばれるようになったのは、ごく最近になってからである。
昔は、『子宝』と言う言葉や『授かり物』と言う言葉で、子どもは家庭だけでなく、地域ぐるみで育まれ、守られていた。
それは単純に、『労働力』や『戦力』、『跡継ぎ』としてだけではなかったはずだ。

大人になりきれない『子ども大人』が起こす数々の事件。これは、学校や家庭だけでなく、地域の教育力の低下を反映していると思う。
今の子ども達も、後何十年かすれば立派な大人だ。
「高齢化社会」とは、発想を変えれば、人生の先輩たちがたくさんいる。と言うことだ。
たとえ、核家族であっても、小さい頃から地域での3世代交流を体験していれば、お互い声を掛け合い、気遣える環境ができていく。災害時などはそういう環境こそが1番の防災であり、地域の復興・再興の原動力となるはずだ。

幼い命の犠牲に歯止めをかけるために、今、自分にできることは何だろう。
これは人類全体に対して課せられた大きな宿題だと思う。


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