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交流

途上にて~『不毛地帯』『官僚達の夏』を見て~

2009-10-31 18:41:00 | 徒然なるままに
『不毛地帯』といい、『官僚達の夏』といい、戦後の日本の高度成長期がどのように発展してきたのかを省みる『ドラマ』が多く制作されている。

私も、来年50歳を迎える。
今までは、自分のことで精一杯だった。
が、長男が就職活動を始め、長女が自立しようとしている今、自分の通ってきた道を振り返る時期に来ているのかもしれないと思った。
自分が通ってきた道とは、すなわち、両親が私達兄弟を生み育ててきてくれた時代を振り返ることであり、また、祖父母が戦後、その両親達を一人前に育て上げてくれた時代に思いを馳せることにもなる。
祖父母の話は、小さい頃は『昔話』だった。両親が現役で頑張っていた時代の話は、『大人の話』だった。子どもだった私は、学校で習うことだけを学び、ニュースはTVで流れ、新聞に書かれてあることで、地方で育った私にとっては、何の現実味もなかったことだった。


中学3年生の時、日本は『戦後30年』を迎えた。
秋の弁論大会で、私はその年の夏休みにNHKのTVで見た『被爆者が描いた原爆の絵を見て』と言う題で発表をした。その原稿を祖父に読んで聞かせたことがある。祖父は、じっと聞いていてくれて、
「お前だぢが大人になっても、あいな戦争なんかねえ世の中にすんだど」
と言ってくれ、静かに涙を流していたのを思い出す。

その祖父は、翌年、私の高校受験の前々日に癌で亡くなった。

祖父は陸軍として出兵し、馬方役として、陸路で物資を前線まで運ぶ役目だったと聞いている。だから、銃を持って人は殺していないと聞いたときは、子ども心にホッとしたものだった。
南方ではマラリアに罹って大変だったそうだ。
出征前は、東京の神田で大きな製本工場を経営していたが、機械は供出させられ、工場は東京大空襲で焼け、私の父は春日部の疎開先から祖父の実家の宮城に疎開し、祖母とまだ乳飲み子だったおばは、線路伝いに故郷の宮城を目指したのだと言う。

祖母は、『アメリカ』と『チョコレート』が大嫌いだった。
小さい頃は、それが何故だか不思議で仕方がなかったが、私が東京の小平市で一人暮らしを始めた年に、初めてアパートに泊まりに来た時、自衛隊の飛行機が飛び去る音を聞いて、おびえている祖母を見たとき、すべてが理解できた。
祖母は、東京大空襲の火をくぐり抜けた人だった。

あの晩、祖母とたくさんの話をした。祖父との出会いや、祖父が出征していた間のこと、祖父が生きて帰ってきた時のことなど。それまでに聞いた事のない内容の話だったが、祖父が生きていた頃は喧嘩ばかりしていたのに、その時の祖母は、まるで少女のようにはにかんで、いろいろなことを話してくれた。


今の私にとっての『30年前』は、今の長女と同い年で、初めて東京で一人暮らしをはじめたとしだ。あらゆることがつい、昨日のことのように鮮明に思い出される。
祖父母にとっても、たとえ、30年、40年経っても、あの戦時中のことはつい昨日のことのように、覚えていたことだろう。
でも、子どもの頃の私はそんな『昔話』に聞く耳を持たず、何かといえば、「戦時中はね・・・」と切り出されると、今の言葉で言う『ウザイ』と思っていた。
本当に申し訳なく、もったいなかったと思って後悔している。


『不毛地帯』や『官僚達の夏』を見ながら、その時代背景に、自分の生い立ちが重なる。
ああ、両親はこういう時代に、私達家族のために働き、家を建て、私達兄弟を独立させてくれたのだなあと、当時の両親の年齢と、自分の年齢とを重ね合わせながら見ている。
いわゆる『高度成長期』と言われ、敗戦国日本が、アメリカに追いつけ追い越せと企業戦士となって頑張っていた時代だ。
『東京オリンピック』はまだ小さくてあまり良く覚えていないが、『アベベ』の名前と『東洋の魔女ブーム』は覚えている。
世界は米ソ2大大国の冷戦状態で、朝鮮戦争、ベトナム戦争、日本国内でも大学紛争など、動乱の時代だったと思う。
そんな中で、米ソの宇宙開発競争は、私達『アトムの子ども』達にとっては明るい未来を想像させる出来事だった。その象徴が、アポロ11号の月面着陸であり、その時に持ち帰ったと言われる『月の石』を展示した大阪万国博覧会だった。

ドラマを見ていると、あの頃の日本がどんな状態だったのか、世界という視野や歴史と言う観点から見た時の、当時の日本を客観的に見ることが出来る。
と同時に、戦後、ここまでの日本にして下さった諸先輩への感謝の気持ちと畏敬の念を抱きながらも、敗戦と復興の代償に、『負の遺産』を残さざるを得なかった、祖父を含めたくさんの方々の無念と反省を私達は学び、解決していかなければならないと思う。

それが、今、『忘れたい、葬り去りたい過去』とあえて向き合い、2度と同じ間違いを犯さないようにとさまざまな形でメッセージを送り続けてくださっている人生の先輩方から、私達がしっかり受け継がなければならないことなのだと思うのだ。

『現在』は良くも悪くも『過去の集大成』から成り立っている。過去に戻ってやり直すことは出来ない。
『未来』は、『現在』の延長線上にある。『明るい未来』にするのも、『暗い未来』にするのも、常に『現在』のあり方にある。
予測はつくはずだ。そのために必要なのは、『過去から学ぶこと』。まさに、『温故知新』だ。と同時に、今、何が世界に、地球に起きているのかを知ることも大切だ。
『まだ、間に合う未来』のために。


ドラマを見ていて、今の日本は、本当に、物質的には恵まれ、いや、恵まれ過ぎている世の中になったと思う。
でも、なんだか、私が小さい頃に思い描いていた未来にはまだ立っていないと思う。何かが決定的に足りない気がする。
かつて、人類で始めて宇宙空間から地球を見たガガーリンは言った。
『地球は青かった』と。
あの、『国境』が描かれていない、宇宙の青い宝石のような地球を初めて見たあの気持ちを、これからもどんな時代になっても忘れずに生きていこうと思う。
祖父が私に託していった言葉を胸に・・・。

永遠の憧れの女性 アン・シャーリー

2009-10-31 11:43:00 | 徒然なるままに
10月31日(土)

朝から今日もいい天気*(晴れ)*。自宅謹慎中のため、お買い物にも出られず、今日も家事を頑張るぞ~!と思っていたら、たまたまつけたTVで、興味深いアニメをやっていた。
『赤毛のアン』だと思っていたら、なんだか再放送でもリメイク版でもないらしい。最後まで見ていたら、『こんにちはアン』というタイトルが出た。

検索したら、
『「赤毛のアン」100周年を記念してモンゴメリ財団から依頼された児童文学作家バッジ・ウィルソンが執筆した作品。
アン・シャーリーが両親を失い、マシュウとマリラの兄妹に引き取られるまでの11年間を物語る。この原作を元にしたアニメ作品が『こんにちは アン 〜Before Green Gables』として日本でテレビアニメ化されている。』
と言うことだった。
末娘とTVを見ながら、『赤毛のアン』の話をしているうちに、自分の中学生時代が蘇ってきた。

私と『赤毛のアン』との出会いは、小学1年生のときに遡る。
父に買ってもらったその本は私のお気に入りだった。特に、りんご畑のシーンや、イチゴ酒には憧れた。特に、髪の毛を親友のダイアナのように黒く染めたかったのに、失敗して緑色の髪の毛になってしまい、長い髪の毛を切らなくてはならなかったシーンには私ももらい泣きしたっけ・・・。
当時の私は、ほっぺが目のふちまで真っ赤で、いつもからかわれてばかりいた。アンは髪の毛が真っ赤でそれを気にしていた。それだけでも親近感があったが、私と同じように空想好きなのがもっと気に入った。
当時の我家はけして裕福な方ではなく、リカちゃん人形も、クリスマスツリーも買ってはもらえなかったが、代わりに自分で着せ替え人形やドールハウスを作り、クリスマスツリーの絵を自分で描いていた。
近所の小さい子を集めては、自分の家の縁側を舞台にいろんな寸劇をやって魅せていたりした。
(父は、それが今の私に物作りの原点になっていると言うが・・・。)


その『赤毛のアン』に続編があることを知ったのは中学生になってからだった。
夢中になって何度も読み返した。自分でイメージイラストを描いた。物語に出てくるお菓子作りを実際にやってみたし、何よりプリンスエドワード島に憧れた。
当時の私の夢は、『自分に娘が出来たら、その娘も『赤毛のアン』のファンになって、娘と一緒にプリンスエドワード島に行くこと』だったっけ・・・。(勝手な夢)

思えば、中2の頃の私の将来の夢は、中学校の国語の先生になることだった。それも、『赤毛のアン』シリーズの『アンの青春』の影響が大きい。(当時は美術が嫌いだった。絵を描くのは好きだったが、授業が嫌いだった)

今、私は『アン・シリーズ』で言えば、『アンの娘リラ』の年代だ。物語では第一次世界大戦という重く暗い時代背景を生きているアンたちに比べ、私は平和な日本に生きている。

読書の秋。晩年のアンと同じ世代になった視点でもう一度『赤毛のアン』シリーズを読んでみようかと思う。
中学生の娘時代には気づけなかったことに、35年の時を超えて、新発見できるかもしれない。

鬼の霍乱

2009-10-30 09:43:00 | 徒然なるままに
ついに、私までがインフルエンザにかかってしまった*(ショック)*
ダンプにぶつかっても、高いところから落ちても、学年閉鎖になっても、この6年間皆勤だったのに~*(泣く)*!一週間の自宅謹慎になってしまった。*(すっぱい)*まさに『鬼の霍乱』だ。

おとといの朝、変な咳が出るなぁとは思いながら、マスクをして出勤。熱もその時点では36度4分だった。
ただ、咳が出るたび、先週打った腰と頭に響いてしんどかった。

午後は、授業はなく、もっぱら美術室で、1年生の読書間感想画の添削をしたり、『職業体験』から帰ってきた2年生が部活動の時間までCDジャケットを描きに来ていたり、放課後も、3年生がBOX ARTを作りに来ていたりと、私もいつものように元気にはしていたのだが・・・。

5時の最終下校指導が終わったときには、熱は36度6分だったのだが、どうも本調子じゃないようで、その日は早めに帰宅した。
その時間の帰宅と言うのは初めてで、朝以上の渋滞に、へとへとになって帰宅した。
その時点での熱は37度。みんなの食事は作ったものの、食欲はなく、置き薬の風邪薬を飲んで早めの就寝。
その夜中から熱が出た。
明け方、37度8分を確認した時点で、覚悟はしていた。
職場に連絡した後、午前中寝ているうちにみるみる熱は上がり、お昼の時点で38度6分まで上がり、寝ていても天井がぐるぐる回っている。
発熱から24時間経たないと診断ができないと言われていたが、午後一番で診察してもらったら、立派なインフルエンザだった。

帰宅後、早速タミフルを飲んだが、なかなか熱は下がらず、虫の息で各方面に診察結果を報告。

明け方になって、ようやく37度台まで下がり、今朝、3度目のタミフルを服用し、ようやく36度6分まで下がった。

寝込んでいる間、一番しんどかったのは背中や腰や足の骨が痛かったこと。筋肉痛なのかもしれないが、とにかく、寝返りを打つのも、起き上がるのも辛いほどだった。
私の場合、食欲はあり、吐き気も下痢もなかったが、咳き込むと止まらなくなり、今飲んだ薬も吐き出すほどで、ちょっと辛かった。
昨夜、タミフルを飲んでも38度からなかなか下がらなかった時、大量の汗をかいた。のどが渇くので水分補給はこまめに取った。結局それが良かったのかもしれない。


昨日は息子の誕生日だった。
手料理を作るどころの状態ではなかったので、携帯で、
「誕生日なのにごめんね。夕飯外で食べてきて」
と言ったら、
「こっちは大丈夫だから気にしないで。とにかくゆっくり休んで早く良くなって」
と言ってくれた。

夕飯は、すっかり元気になった末娘が親子丼を作ってくれた。
氷枕を変えてくれたり、いろいろ世話を焼いてくれる。
あちこちからの電話にも代わりに出て応対してくれてとても助かった。
私の症状が思いのほか重症なので、心配してか私の布団の上で本を読んだりしていた。
末娘のインフルエンザは初日に37度8分出ただけで、翌日からは平熱でずっと元気。学年閉鎖ということもあり、家で一人で留守番状態だったのだが、部屋の掃除やらたんすの整理やら、勉強も良くやっていた。
でも、毎日良い天気なのに、部活動も出来ず、家にこもっていなくてはならなくて退屈していたところに、『ママの看病』と言うお仕事が出来て張り切っているのかもしれない。
私も症状が軽くなっても、一週間の外出禁止なので、二人で久々にお菓子を作ったり、冬の支度や家の片づけをやろうと思う。


それにしても。
今日は、2年生と3年生の作品の提出締め切りの日だった。この連休中には11月の市内文化祭と小中図工美術作品展に出品する作品の準備をすることにしていたのだ。5日に出勤できたとしても、その時点で出来上っている生徒の分しか出品してあげられない。
4日に伸ばした締め切りまで、皆がどれだけ頑張って仕上げてくるか・・・。

もうひとつ。今日は漢字検定の日だった。
夏休みから頑張って勉強してきたのに、棄権することになってしまった。
やってきたことが多少でも自分の身についているのなら、無駄な努力ではないとは思うが、残念だ。
かくなる上は、11月15日の美術検定は、ベストコンディションで絶対合格をねらうぞ!なんてったって、1週間缶詰状態で勉強できるんだから!*(ニヤ)*(負け惜しみ)

さて、熱も下がったことだし、ずっと寝ていたから体がなまっているみたいだし、今日もお天気はよさそうだから、溜まった洗濯物を片付けて、病原菌だらけのお布団を干そうっと*(ウインク)*!


そして12時間後・・・。
症状はぶり返すことなく、今日は、布団を干し、枕カバー、シーツやタオルケット、綿毛布を全部洗濯し、ついでに洗面所にあふれかえっていた子どもたちの洗濯物も一気に洗濯。(全部で洗濯機5回分を回した*(汗)*)
洗濯の合間に、今まで気になりながら見ぬ振りしていたところが気になりだし、風呂から洗面所からトイレからリビングから掃除しまくった。
それでインフルエンザ菌が一掃されるわけではないのだが・・・。

気がついたら、高熱を出して大汗かいた以上に汗みどろになってしまったので、シャワーを浴び、シャンプーして体重を量ってみたら!なんと1kgも減っていた。
今朝量った時も、2日も寝込んで2kgも減っていたので、合計3kgも減ったことになる。3日で3kgはちょっと減りすぎかもしれないが、体調はいたって快調。(先週打った腰と背中を除けば)
この調子で、謹慎期間中は家中掃除しまくって、家事ダイエットといきますか?!

午後、学校から連絡があり、漢字検定は、インフルエンザの場合は、次回2月に延期が出来るとのことだった。
ようし!伸びた分頑張って勉強して、100点目指すぞ!!

一期一会

2009-10-28 06:19:00 | 徒然なるままに
10月27日(火)

娘の熱も、薬が効いてか平熱状態が続き、本人もいたって元気。ちょっと咳が気になるが・・・。

お天気の方も、台風一過のきれいな秋空が澄み渡る1日だった。

今日は、1年生の授業だけで、読書感想画の下書きの修正をした。
最初のクラスは、質問攻めやあちこちのHELP に机間巡視して対応したが、45分授業の中では対応しきれないので、質問事項を下書きの隅に書いてスケッチブックを提出させた。
次のクラスでは、予想される質問事項に関して、最初に黒板に例をあげて板書してから対応した。

一点透視図法も、人体のバランスも、俯瞰・鳥瞰・煽りのカメラアングルも、全部事前に教えたはずなのだが、いざ、自分の作品に応用するとなると、何をどう使っていいのか分からないらしい。

昼掃除の時に、黒板に貼ってあった参考作品をはずしていた生徒が、しげしげとそれを見て、
「ああ、一点透視図法って、こういうことなんだ。全部の線がこの一点に集まっている!すげー!!」
と言った。
「わかってくれた?この一点の所が『消失点』で写真で言えば、カメラのレンズのピントを合わせる所なの」
「そうなってんだ~!天井を広く見せるにはこの点が下の方になって、床を広く見せる時はこの点が上にあるって、そういうこと?」
「そうそう、分かってきたね。自分でカメラで撮る時、それを意識して撮ってみてごらん。上から見下ろすように撮る時は『俯瞰』、鳥の絵の高さのように上空から撮る時は『鳥瞰』って言うの。下から見上げるように撮る時は『あおり』。普通に撮る時は『横位置』。」
「うんわかった~!おもしれ~!!」

私は、美術を教えていて、この瞬間が一番好き。
何かに気づくことによって、今まで何気なく見ていたものが、意味を持って見えてくるのだ。
前々任校の廊下の壁にあったピカソの『ゲルニカ』にこめられたメッセージ。
ゴッホの『ひまわり』が何故14本描かれているのか。
『縄文土器』が何故先が尖っているのか。
広重の『江戸名所百景はいつ制作され、どんな思いがこめられているのか。
ディズニーの『ファンタジア』の公開時、この作品を海外で見た日本人はなんと思ったのか。
『篆刻』のとき、自分の文字のルーツを知ることで、親がどんな思い出自分にその名をつけてくれたのか、その文字にどんな意味が含まれているのか。

子どもたちは、興味を示すと一足飛びで成長する。
『目からうろこ』と言う言葉があるが、今まで見えていなかったもの、見ようともしなかったものが、見えてきて分かってくると、乾いたスポンジのようにどんどん吸収していく。
そうなると、もっと知りたくて、もっと上手になりたくて、自分で調べてきたり、何回でも挑戦してくる。
そうなったらこっちのもの。
ちょっとしたヒントや、違うやり方を教えただけですぐできるようになるし、途中で諦めたりしない。
そうやって完成したものは、多少の出来不出来はともかく、達成感のある本人の『お気に入り』の作品となる。
分かったことや出来るようになったことは、今度は人に教えたくなるのだから不思議だ。
だから、『手法』の実技の時は生徒の中に『達人』やら『名人』やら『プロ』やら『師匠』をたくさん作って、出来ない生徒の面倒を見てもらっている。
そうすると、みんな喜んで偉そうに教えている。

小学校で教えていた時、美術室での授業は3年生からしか教えられないのだが、お掃除は1年生から6年生までの縦割りの6人グループで担当してくれていた。
1、2年生は、美術室が大好きで、掃除と言うよりは、上級生の作品鑑賞やら、私の作りかけの作品を何を作っているのか根掘り葉掘り聞いて来たり、見に来ているようなところがあった。(もちろん、上級生が注意して、お掃除もそれなりにやってはいたが)

あるとき、マーブリングの授業の後で、その作品を見て興味を持った1年生が、
「僕もそれをやってみたい!」
と言い出した。
「じゃあ、一生懸命やって、早くお掃除が終わらせられたら、一回だけやらせてあげるね」
と言ったら、その後はすごいすごい。頑張って5分前に終わらせたので、約束通りやらせてあげたら、大喜びで、でも慎重にマーブリングをし、その作品を大事そうに持って帰って行った。でも、それだけでは終わらなかった・・・。
翌日の業間休み。次の授業の準備をしていると、廊下の扉から例の1年生が覗いている。
「おはよう。どうしたの?」
と言うと、
「先生、昨日の、もう一回やらせてください」
と言ってきた。
実は私は、その子担任の先生から、教室でその子が皆に自慢げにマーブリングの作品を見せていたことや、その子のお兄ちゃんが1,2時間目の授業の時に、家でも皆に自慢していたことを聞いていたのだ。
「今日も、お掃除頑張ってくれる?」
「はい!」
「じゃあ。1回だけね」
と言ったら、なんと彼の後から3,4人の1年生が入ってきて
「僕たちにも教えてください」
と言うではないか。
「こんなに面倒は見切れないから、○○君、昨日教えたことを皆にも教えてあげてくれる?」
「はい!!」

そうしたらその○○君は、昨日私が説明したことを一言一句も漏らさずに説明し、優しく友達に教えてあげながら自分でもやってみせているではないか!お見事!
やんちゃで有名な1年生だったが、これには正直驚いた。
業間休みが終わる頃には、皆ニッコニコで、その不思議な模様の紙を大事そうに持って教室に帰って行った。
これは、きっと放課後や明日の業間休みには大変なことになるぞと思った私は、1年生の担任の先生に事後報告をした。
そうしたら、1年生の図工の時間に『マーブリング』を取り上げてくださることになり、もちろん、美術室で先にやっていた子達はいい助手として働いてくれたそうだ。

もうひとつ。ある学校の1年生に一点透視図法の室内パースの描き方を教えた時のこと。
ある生徒が、昼休みに、さっきの授業で習ったことを応用して、自分の部屋をリホームした絵を持ってきた。いろいろアドバイスをしたら、翌日、色鉛筆で着彩までして持ってきた。
彼の担任の先生が翌年の年賀状で、
『△△君は、1年生の時、先生に褒められたのがうれしかったのか、『職業体験』先の建築事務所で、実際に製図の仕方を教えてもらって、喜んでいましたよ』
と教えてくれ、その3年後には、
『△△君は、大学の建築科を目指して、受験勉強中だそうです』
と言う年賀状が来た。
彼は、自分の
『1級建築士になって、パテシエになったお姉ちゃん(当時中3)の店を俺が設計してあげるんだ』
と言う夢にどんどん突き進んでいるんだなぁ・・・。えらいえらい。きっとその夢が叶いますように・・・。

そんなこんなを思い出しながら、一人で寒い美術室でスケッチブックを添削していると、なんだか心はホッコリしてくる。
私が今の生徒たちと一緒にいられるのもあと5ヶ月もない。
毎年、毎年、まさに『一期一会』だ。
何年か経っても、私と一緒に美術を勉強した年に作った作品だと思い出して、大事にしてもらえるような作品を完成させてあげられるように、あと5ヶ月、頑張ろう!

*(青ざめ)*末娘、ついにインフルエンザ発症!

2009-10-26 23:08:00 | 徒然なるままに
10月26日(月)

やはり、末娘は新型インフルエンザにかかっていました。

昨日の昼過ぎに37度8分だったのが、夜には36度台に下がったものの、今朝は37度7分に上がっていたので、朝一番で病院に行った。
正規の入り口ではない裏口から入り、隔離部屋で待つこと1時間。その時には36度9分まで下がっており、ただの風邪かも?と言う思いを、検査はあっさり裏切り、『新型インフルエンザ』と言う診断が下った。
その時点で、末娘の中学校の2年生は、娘のクラスが10人、隣のクラスが8人インフルエンザになっており、病院からもすぐに学年閉鎖するように学校側に申し送っていたとのことだった。
娘は1週間の外出禁止の自宅療養を命じられ、31日のハロウィンパーティーがお釈迦になったのを『最低~*(ショック)*』と腐っていた。

娘を自宅に送り届けてから出勤し、何度か定期的に連絡を入れるたびに、薬局でもらった、新型インフルエンザ対応の『リレンザ』と言うお薬が効いたのか元気な声だった。
現勤務校の生徒たちの中には40℃の熱が2、3日続き、点滴を打ちに通院したという生徒もいたので、覚悟はしていたのだが、今のところ、元気いっぱい食欲モリモリで、昨日の午後~夜とは打って変わってケロッとしている。やれやれ・・・。

さあ、明日からの一週間、どうやって過ごすのかな?
溜まっている『進研ゼミ』をやるもよし、ギターやピアノの練習をやるのもし、先日、山ほど掘ってきたサツマイモを使った新作のお菓子作りを研究するもよし、部屋の模様替えをするもよし、読書の秋だからお気に入りの本を読むのもよし・・・。
でも、部活も友達と遊ぶのも、お買い物にも出られないというのもかわいそうだなぁ・・・。

クラスメイトたちの中には高熱で苦しんでいる子もいるかもしれない。
早く皆が元気になりますよう、心からお祈りします。

*(映画)*『おくりびと』

2009-10-25 21:00:00 | 徒然なるままに
遅まきながら、*(映画)*『おくりびと』を見た。

この感覚は、日本ならではありながら、国境を越え、宗教を超え、見る人の心にすうっと入り込んで、心の奥の琴線をそおっと撫でるような優しい気持ちになる映画だ。

命を受けてこの世に生まれ出し者は、人間であろうが、動・植物だろうが、皆等しくこの世を去る瞬間がくる。
寿命を全うし静かに旅立つ者、不慮の事故や、不治の病に犯されて、志半ばで召される者、生まれて間もなくこの世の空気も日の光も感じることなく儚く散る者、生きる望みを失い、自ら命を絶つ者・・・。

人は、どう生まれたかでもなく、どう死んだのかでもなく、どう生きたのかと言うことが一番大切なのだと思った。
たとえ、罪を犯し、それを悔いながら生きたとしても、思いは残り、伝わるのだと思う。

そして、遺された人々は、その死をどう受け止め、見届け、見送り、その人の生きた証を心に刻んで生きていくのか。

宗教によって、その死生感は多少は異なるのだろうが、根本的なことは同じだと思う。

この映画で、『職業』と言うものを考えさせられた。
稼業・・・生計を維持するための職業。生業。
生業・・・生計のための職業。暮らしを立てるための職業。なりわい。
なりわい・1.生活を営むための仕事。
      2.五穀が実るようにつとめるわざ。農業。また、その作物。
家業・・・1.その家の生計を立てるための職業。生業。多く自営業についていう。
      2.代々、その家に伝わってきた職業。また、世襲的に継承していく技術や才能。

主人公の『納棺師』と言う職業は、最初は『稼業』だったが、後に、『転職』としての誇りを持ち、主人公を成長させていく。
それが、主人公役の本木雅弘の所作の美しさに象徴される。
ただ美しいのではない。その無駄のない一連の動きには、この職業の発生から今に至るまでのたくさんの納棺師達の誇りと英知が結集されているのだ。
そこに、旅立つ人への敬意と愛情が注がれ、それを見守る人々の気持ちも、同時に癒され、浄化されていくような気がした。

死化粧、死装束というが、最後のお別れに、見送る人たちに、生前のような生き生きとした表情で見送られることの大切さ。それが、魂も命も宿っていないただの骸だとしても・・・。
ああ、つくづく、できることなら死ぬ時は五体満足な骸で、縁のある人達に見送られて棺に収まりたいと思った。(まだ気が早い?)

見た後、とても穏やかで、心が澄み渡っていくような気がする映画だった。



ついに!我家にも新型インフルエンザ襲来か?!

2009-10-25 16:54:00 | 徒然なるままに
10月25日(日)

今日は、末娘の*(テニス)*の新人戦の県大会の応援に行って来た。
1回戦は勝ったものの、2回戦目は惨敗。団体戦で、娘たちのペアまで順番が回ってくる前に終わってしまったのだ。
1番手のペアの一人が今朝発熱のため欠場し、にわかに補欠が入ったものの息が合わないままに敗退。
2番手は向かい風に悩まされ、本来のプレーが出来ないまま敗退となってしまった・・・。

昨日からの雨は朝方小雨になり、気温も上がらないまま、試合開始となり、そのうち結構風が吹いてきた。
体温を奪うような風と気温の低さの中、応援しているほうもカイロを持ってこなかったのを後悔するほどだった。

昼過ぎには解散となり、私も早めに帰宅して、庭の草取りをしていたら(抜くたびに尾てい骨に響くので途中で止めた*(汗)*)、娘が帰ってきて、なんだかだるそうにしている。
熱を測ったら、なんと37度8分もあるではないか。
「のど痛い・・・」
と言う娘に、とりあえず市販の風邪薬を飲ませ、おでこに冷えピタを貼って寝かせた。
もし新型インフルエンザだとしたら今夜から明日・明後日にかけてすごい熱が出るだろう。
今日は日曜日と言うこともあり、病院はお休み。発熱してから24時間経たないと診断はしてもらえないし・・・。
今日は午後からの予定をすべてキャンセルして、様子を見なくっちゃ。

と言うところに、いつもの『置き薬屋』さんが来て、薬箱の中身を入れ替えながら、インフルエンザにも効くとか、予防になるとか言う商品をどっさり置いていってくれた。

別れ際、「次回は年明けになります」
と言われた。
「じゃあ、『良いお年を』になっちゃうんだねぇ。次回は花粉症の薬をよろしく!」
言いながら、自分で愕然とした。
もう、年末の挨拶なんだ・・・・*(ショック)*

さて、今週は10月最後の週。
週末には漢字検定(2級受験!)がある。
夏休みに結構頑張って勉強したつもりが、だいぶ忘れているようなので、今週は気合を入れて試験勉強頑張るぞ!
また、今週は、2,3年生の美術の作品提出の週でもある。風邪なんか引いて寝込んでいる暇はない。
うがい・手洗い・マスク着用・ビタミンC摂取で何とか元気に乗り切ろう!*(グー)*

『諦めたら、そこで試合終了ですよ!』

2009-10-24 21:23:00 | 徒然なるままに
10月24日(土)

今日は、前々任校の文化祭に行って来た。
体育祭は現勤務校と同じ日程だったので、みんなの勇姿を見届けるのは断念した。そのときに陣中見舞いに送った梨のお礼の電話を頂いた時に、教頭先生から今日のことをお聞きしていたのだ。

暗い体育館の後ろのほうから見ていたにもかかわらず、何人もの生徒が私を見つけて会釈や手を振ってくれていた。
休憩時間には教え子たちが駆け寄ってきて、みんな口々に
「先生、小っちゃくなっちゃったね~!」
「2年前だっけ?先生、ぜんぜん変ってない~!すぐ分かった~!私のことは覚えてる?」
「今、どこの先生やってるの~?」

本当に、みんな私の身長を越すぐらい大きくなって・・・。女の子はすっかりお嬢さんって感じ、男の子は背も高く、がっしりした体つきになり、声も低く、精悍な感じになっていた。
「先生、去年も来てくれていたよね~。どんだけこの中学校好きなんだよ」
「大好きだよ!だってあんた達がいるんだもん。最後の文化祭でしょ。これが終わったら、受験一色だね。頑張れよ!」
「先生アレ言って~!!」
「そうそう!総体の時も、試験の時もアレ言って皆でがんばってたんだ!」
「「「言って~!!」」」
「『諦めたら、そこで試合終了ですよ!』」
「やったー!これで頑張れるー!!」

なんだか2年間離れていた時間がいっぺんで吹き飛んだみたいだった。

出番を控えて、3年生のあるクラスが第2体育館で声合わせをしていた。
そうしたら、一人の男子が
「もう、ここまで来たら、後は練習通りいこうよ」
と言った。
なんてすごいことだろう。これから本番を前にして、「練習通りやれればいい」と言うことは、このクラスは、どれだけ練習を重ねてきたのだろう。

また、別のクラスの女子は、
「先生、うちのクラスは昨日まで学級閉鎖で、今日がぶっつけ本番なの。まだ治ってなくて休んでいる子もいるし、優勝なんて無理だ~」
と言って来たので、
「ここでじたばたしてもしょうがないよ。出られない子の分も頑張って、心を込めて歌うしかない。その歌で、何を伝えたいのか、聴いてくれている人に届くように歌ってよ。歌は、テクニックや人数じゃないよ。ハートだよ。客席で聴いているから、私に鳥肌立たせて、号泣させてよ」
と言ったら、
「『諦めたら、そこで試合終了』だもんね。頑張ってくるよ。応援してね!」
と言って、手を振りながらクラスに戻っていった。

いよいよ3年生の歌が始まった。
課題曲は『大地賛讃』
難しい曲をどのクラスも精一杯頑張って歌っていた。
1組は『消えた八月』
原爆をテーマにした重厚な歌だったが、歌の背景や状況が映像を伴って伝わってきた。一つ一つの言葉を大切に歌っているのが印象的だった。
2組は『春に』
この春、3年生を送った時に一生懸命歌った歌なので、心の中で一緒に歌っているうちに、とめどなく涙が出てきて止まらなかった。すごく暖かい気持ちになった。
3組は『十字架の島』
隠れキリシタン弾圧をテーマにしたこれも深い歌だった。
イメージポスターのマリア像は目から血の涙を流していた。
時代背景をしっかり学んで取り組んできた様子が伝わってくる歌い方だった。

どのクラスも甲乙付けがたいほど感動したが、何より感動したのは、これから歌おうと移動するクラスに、出番待ちおよび、出番が終わったクラスが
「頑張って来いよ!」
歌い終わって帰ってきたクラスに
「良かったよ!」
と声を掛け合っていたことだ。

これは、今まで見てきたどの学校の合唱コンクールでも見られなかった光景だった。
お互いにエールを掛け合い、賞賛しあうなんて、体育祭の応援合戦のパフォーマンスには組み込まれていても、合唱コンクールでは見たことがない。

もしかしたら、同じ部活動の生徒同士だったのかもしれないが、こんな時に、自然にこういう声の掛け合いが出来るなんて、素敵な学年に成長してくれていたことに心のそこから感動した。
後から聞いたところによると、エールを送られていたのは昨日まで学級閉鎖だったクラスだった。
でも、そのエールが効いたのだろう。そのクラスがグランプリを受賞した。
ハーモニーもすばらしかったが、お休みの生徒の分まで大きな声で体全体を使って一生懸命歌っていた姿に、誰もが感動したのだと思う。
結果発表の時には、残念ながら賞を逃したクラスは、心からの拍手を送っていた。

終わってから、何人かの生徒に、
「今までもいろいろあっただろうし、これからもいろいろあるだろうけれど、あなたたちの学年は大丈夫。いい学年になったね。どのクラスのどの歌も、卒業式の歌みたいに気持ちがこもっていて、上手だったよ。皆でこの調子で受験突破してね!卒業式、うちの中学と同じ日じゃなかったら、絶対見に来るから!」
と言い残してきた。

嗚呼、懐かしい生徒たち。
あなたたちを2年生の時も、3年生の時も一緒に教えたかった・・・。
もっとたくさん教えたいことがあったし、みんなの成長ぶりを見守り、見届けたかった・・・。
もう2度と一緒に美術を勉強することも行事に取り組むことも生活を共にすることもないだろう・・・。
けれど、いつでも、どこにいても、みんなの一番の応援団長だからね!
皆が頑張っているなら、私も負けてはいられない。
今の学校の生徒たちとも、来年再来年、こんな風に再会できるように、精一杯頑張るよ!
いつかどこかの街角で会っても、私だと分かるように、変らずに元気でいるよ。

帰り際、担任していた生徒の保護者と話をした。
お互い思春期の子を持つ母親同士の話をした。
もしかしたら、どこかの高校で、今度は同じ学校のPTAとして出会えるかもしれないなんて話で盛り上がった。


来週の土曜日は、前任校の文化祭だ。
末娘の授業参観とバザーの日と同じ日なので、ちょっとハードスケジュールだが、その学校にも、可愛い教え子たちがたくさんいるので、2年生と3年生の歌声だけは聴きに行きたいと思っている。

末娘の*(音符)*合唱コンクールにて・・・

2009-10-23 17:25:00 | 徒然なるままに
10月23日(金)

今日は、午後から特別(育児)休暇をいただき、末娘の合唱コンクールを聴きに行った。
給食を食べてからすぐに出かけたものの、到着した時には、1年生が終わったところだったが、何とか娘の2年生の発表には間に合った。

体育館の入り口で、マスクを配られ、消毒用アルコールで手を洗っての入室だった。
入り口付近では、熱が上がってきた生徒が、皆と離れて座り込んでおり、生徒たちはほとんどマスクをかけていると言う状態だった。
保護者席に向かうと、これまた全員がマスクをかけていた。

現勤務校の近隣の小・中学校でも、インフルエンザの猛威は収まらず、各校で合唱コンクールが延期になったり、中止になったり、ホールを借り切っている学校では、予約制なので日にちを延期できず、参加できるクラスだけでも出場するという異例のコンクールが開かれているようだ。

そんな中での合唱コンクールで、欠席者がいて少ない人数での合唱だったが、どのクラスも一生懸命歌っていて、好感を持った。
家では最近むっつり気味な末娘も、遠くから見てもはっきりわかるような大きな口を開け、彼女の声だと分かるきれいなソプラノで歌っていた。

体育館での合唱で、ピアノの音も、歌声も、ホールに比べればきれいには響かないのだろうが、一人ひとり一生懸命口を開け、声に出して、歌に込めたメッセージが聞き手に伝わるように歌っている姿が良かった。

あの子達が小学生の時に、一緒にソーランを踊っていたメンバーがたくさんいた。皆、大きくなったなぁ・・・と思いながら見ていた。
3年生の最優秀指揮者賞に選ばれた男子もそのメンバーの一人で、表彰式で登壇に向かうとき、思わず
「○○ちゃん、おめでとう!」
と声をかけたら、びっくりしてこちらを見、にっこり笑って軽く会釈をして走り過ぎて行ったのが実に爽やかだった。

彼は、以前授業参観に行った時も、廊下で私を見かけ、声をかけてきてくれた。
あまりに背が伸び、精悍な感じになっていたので、最初、名乗られるまで分からなかった。
「俺、せっかく中3になったんだから、『南中ソーラン』踊りたかったのに、体育祭で踊れなかったんですよ!」
と言ってきたので、
「うちのお兄ちゃんの年は、林間学校や、修学旅行で他校と一緒になったときなんか、交換会のスタンツで踊ったりしていたよ。行事で踊らなくても、何時だって、どこでだって踊れるし、○○ちゃんなら、誰にだって上手に教えられるでしょ」
「そうっか~!やってみるよ!ところで、△△さん(私のこと)は、今でもソーラン踊ってるんですか?」
「今は踊っていないんだ。以前勤めた学校では体育祭で教えて、私がいなくなってからも、毎年踊り続けているらしいけど」
「そうなんだ~。いいな~!また一緒に踊りたいですね」
「そうだね。またいつか。高校に行ったら、体育のダンスでソーラン踊るらしいから、ソーラン踊れる子はリーダーだってよ、頑張って!」
「はいっ!!」

会場に来ていた彼のお母さんに挨拶したら、
「修学旅行のスタンツでソーラン踊って、大好評だったみたい。帰ってきて、『ソーランやってて良かったー!』って言ってたわよ。」
と言われた。*(音符)*

かつての教え子たちが、それぞれのステージで、ソーランを踊って活躍してくれているなんて、本当にうれしい。
いつか、また地域で踊るようなことがあったら、ぜひ一緒に踊りたいものだ。


明日は、一昨年私が始めて担任した生徒たちの最後の合唱コンクールを聴きに行く。
懐かしい顔が目に浮かぶ。
当時の面影が残るであろう顔を見た時、元担任として、ちゃんと名前で呼んであげられるように、当時の名簿を見返しておこう。

注意一秒、怪我一生

2009-10-22 20:00:00 | 徒然なるままに
10月22日(木)

なんとこの3日間、私は怪我をして寝込んでいました。
でも、仕事には休まず行き、早めに帰宅をして、すぐに布団に入って安静にするという状態でしたが。

事の起こりは、合唱コンクールの前日、講師に渡す楽譜の表紙をカラー印刷しようとした瞬間、事故が起きたのでした。高い位置にあるカラープリンターに用紙をセットする際に、踏み台に載ったものの、バランスを崩して、80cmぐらいの高さからまともにお尻から落ちて、背面のキャビネットに後頭部をぶつけ、床に倒れて側頭部をぶつけてしまいました。
意識はあったけれど、起き上がれず、様子を見て起き上がり、少しは歩けたけれど、椅子に座ったとたん激痛、そこから立ち上がるのに更に激痛。
残っていた職員が、心配してあちこち病院に電話をかけてくださり、やっと救急病院に連絡がつき、車で病院まで送っていただいた。
診断結果は、骨には異常はなく、打撲と言う診断でしたが、
「これから2,3日はあちこち痛みが出てくるだろう。頭も打っているので、今なんともなくても、後で頭痛がひどくなってきたら、夜中でも再審に来てください」
と言うことでした。
湿布薬をどっさりもらい、別の先生に迎えに来てもらって帰校したものの、歩くことも座ることも辛く、そのままその日は帰宅することにしました。
ところが、その帰宅のための50分の運転がきつかった。
痛みをこらえながら、汗だくで運転し、帰宅するなり、末娘が敷いていてくれた布団にもぐりこんでそのまま意識を失い、泥のように眠り込んでしまいました。

翌朝は、体中が痛くて起きあがれない。
でも、今日は3Aの授業があり、午後からは合唱コンクールがあるのだ。休んでいる場合ではないと、動かぬ体を何とか運転席に座らせ、出勤しました。
起き上がったり、座っている姿勢から急に立ち上がる時に、腰や座骨に激痛が走るけれど、立っていたり、静かに歩く分には大丈夫そうなので、何とか、授業やコンクールの受付、交通指導の役割はきちんと果たしました。
でも、合唱コンクールの最中に、拍手をするたび頭に響き、そのうちにズキズキが一箇の偏頭痛から頭全体への疼痛になっていったので、下校指導後、再診してもらいに行きました。
即、CTスキャンを撮ってもらったが、頭蓋骨に骨折やひびはなく、血の塊もないと言うことで一安心。
「でも、落ちたショックと、頭をぶつけた衝撃で、首に負荷がかかっているので、来週になっても頭痛と首の痛みがあったら、整形外科で見てもらってください」との事でした。『ムチ打ち』になっているかもしれない。

その日は、学校に診断結果を報告に帰校し、報告後、すぐに帰宅した。
帰るなり、食事も取らず、昏々と眠り続けた。

そして今朝。ぐっすり眠ったおかげか、頭痛は覚悟していたほどひどくはなく、あちらこちらが擦り傷や打撲で痛むが、呼吸が止まるほどの激痛は治まってきた。
それでも、痛いのを忘れて急に立ち上がろうとしたり、かがみこもうとすれば、いきなり息が止まるような痛みが走る。でも、何とか痛みをやり過ごせれば、歩くことや立っていることはさほど辛くない。

今日は、教育事務所と教育委員会の視察訪問があり、、午後には生徒会役員選挙と、2Aの美術の放課後補習があるので、休むわけには行かなかったのだ。
何とか痛みをだましだまし授業をこなし、午後からの生徒会役員選挙時の担当の役割もちゃんと果たした。
午後の美術の補習もやった。
ただ、ここで、まだやれると思って、無理して、治りが長引いては、各方面にご迷惑をおかけすることになりかねないので、早めに帰宅してきてしまった。

とにかく、『注意一秒、怪我一生』とは、まさにこのことです。
今回は、床が毛足の長い弾力性のあるじゅうたんだったからこの程度で済んで良かった。
これがPタイルやコンクリートの床だったらと思うと冷や汗が出る。
何事も『横着をしない』『危険予測を怠らない』『慎重に行動する』。どれも同じことだが、自分が痛い思いをするだけでなく、周りに心配やご迷惑をかけてしまったことと、私が落下した時に犠牲になったプリンターの手差しトレイが壊れてしまったのには、本当に申し訳なく思います。