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交流

誕生日を持って母の日とする 2

2006-07-18 00:41:00 | 徒然なるままに
7月17日

今日は私の誕生日。
46年前の朝、母が私を必死の思いでこの世に送り出してくれた日だ。

小さい頃から自分の生まれた日のことを父母、祖母からよく聞かされてきた。
暑い日で、微弱陣痛だった母は途中でこむら返りを起こし、足がつって痛くてますますいきめず、父がそのふくらはぎを一生懸命ほぐし、さすりながら応援したとのこと。
46年前なら、元祖立会い分娩と言ったところか?

生まれてからは、なかなか名前が決まらず、母が付けたかった名前は姓名判断で却下され、父の選んだ名前が通った。
後に、その名前の由来がラジオドラマの主人公の名前だと言うことを、私は年頃になってから知ることになる。

父の世代の方と知り合い、名乗るときにはたいてい
「お父様はそのドラマのファンなのですね」
という話が出る。
どんなドラマだったのだろうとずっと気になっていたら、高校時代、偶然知ることができた。
当時ラジオで『ナッチャンチャコチャン』という番組があり、野沢那智と白石冬実が昔のラジオドラマの再現をするコーナーで、それは放送された。

貧しくても父一人子一人清楚に明るく生きる主人公が、とても美しく聡明に描かれていた。
当時の私は、それを知って乙女心にかなりのコンプレックスを抱いてしまった。
というより、父がもし、そんな女性に成長するようにと言う思いでつけてくれた名前だとしたら、そんな風に育たなくて申し訳ない気持ちになった。

あれから30年たったけれど、やはり私はその主人公のようには成長せず、『私は私』でここまで来た。
今は自分の名前に対してコンプレックスはなく、愛着もあり、好きな名前だ。
去年の生徒たちは、後半、私のことを苗字ではなく、名前で呼んでいた。
離任式のときはその名前でコールがかかり、まるでアイドルスターのコンサートみたいだった。
先日の高校の同窓会で旧友と話したとき、名前で呼ばれるとなんだか懐かしく、うれしくなった。
今の性で呼ばれるのは、妻であり、嫁であり、母であり、仕事上でありと、本来の自分ではなく、それぞれの立場で呼ばれているような気がする。
名前で呼ばれるのは、自分の『素』の部分のようで、ちょっと照れくさい・・・。


自分自身子どもを生み、親になってみてはじめて分かる親の苦労とありがたさ。

私がどん底で苦しんでいるとき、心から支えてくれたのは両親であり、弟妹だった。
特に、父の
『お前は、試練を背負って生まれてきたが、同時にそれに打ち勝つだけの力も持って生まれてきたのだよ。自分を信じて、どんな試練にも負けるな』
の言葉には何度も励まされ、救われた。

今、わが子たちも17歳、15歳、10歳と立派な思春期・反抗期真っ盛りのティーンエージャーとなり、あの子達自身が持って生まれた『試練』との戦いが始まっているらしい。

私自身も『親』としての試練の毎日だ。
でも、『試練』を心のトレーニングと言う見方で捉えると、私はそれによって頭を鍛え、心を磨かれ、魂を清められているのだと思えば、困難な『試練』ほど、乗り越えられた後に得られるものは大きい。

その渦中のときは先が見えず、周りも見えず、思い悩み、苦しい。
そんな時、心配してくれ、励ましてくれ、一緒に考えてくれ、叱ってくれ、最後は私を信じてくれる両親は本当にありがたい。
私はまだまだ、人間としても親としても半人前だ。
今の自分の年齢のときに両親がおかれていた立場を考えると、本当に尊敬する。
そんな中で私たち三人兄弟を育ててくれたことに本当に感謝する。
私は自分は両親からしてもらったことの何分の一も、まだ親にも自分の子どもにも返してはいない。

今、私にできることは、ちゃんと親孝行するためにも、子どもたちを無事育て上げるためにも健康で自立した人間になること。

46歳。
世の中では私と同世代で、親を見送るより先に、まだ手のかかる子どもを残して逝ってしまう人もいる。
どんなにか心残りだろう。


人は何のために生まれてくるのか。
『なりたい自分になるため』
に生まれてくるのだと思う。
どんな自分になりたいのか。
40歳を過ぎたとき、ようやく分かってきたものの、あまりにも引きずるものや乗り越えるものが多すぎて自分自身を見失っていた。
これからは、自分に必要なもの、優先順位を付けて、時間を有効に使っていかなければならない。
体力的にも時間的にも経済的にもますます余裕がなくなってくるのだから。
その中で、子として、また親として、なすべきことをし、自分の思いや夢を大切にして生きていこう。

昨日、10歳の娘に教えられた。
いつ何時、どんなことが起きるかもしれない、いつまで生きられるか分からないというような話をしていたら、
「だから、今を大事に生きなきゃいけないんだよ。起きるかどうかわかんない先のことを心配ばかりしてないで。」

『背負うた子に教えられ』た。

今日は、その末娘がケーキを作り、家を掃除してくれると言う。
「ママは夕方まで、映画を見たり、展覧会に行ったり、あかすりにでも行ってきなよ」
でも、学校に仕事しに行くことになったといったらプンとむくれてしまった。
ごめんね、ピッピ・・・。

誕生日、改めて両親に感謝。
『私を生んでくださって、ありがとうございます。』

子どもたちにも感謝。
『私のところに生まれてきてくれてありがとう』

今日は素直に、自分が今日まで生きてこられたことを喜び、これから始まる46歳の日々を楽しみに、第1日目を大切に過ごそう。

水を得たTODO

2006-07-16 23:47:00 | 徒然なるままに
今日は、玉川大学千葉支部会で、教員採用試験に向けての水泳の練習に参加してきた。
久しぶりのプールだった。
5年ぶりぐらいかもしれない。
子どもが生まれてからというもの、自分だけでプールで泳いだことがなかった。
いつも危なくないように見張っているか、流れるプールで浮き輪を持つ係りみたいな感じだった。

私は海辺の町で育ちながら、平泳ぎでは50mは泳げるが、クロールの呼吸法ができない。
今日、泳げるメンバーに呼吸法を教わり、必死に練習したら、なんとなくコツがつかめてきた。
1時間半程度だったけれど、すごく楽しくて、泳げるようになったのがうれしい!
毎日暑くて、クーラーに冷たい飲みもの、みたいな生活だったけれど、おなかは減るし、ご飯はおいしいし、体はなんかすっきりして、心地よい疲れがなんともいえず、はまりそう・・・。ダイエットにも良さそうだし。
なんだかすごく懐かしい感覚。
ああ、夏なんだなあ・・・。私泳いでる~!水って気持ちいい!

この夏中にクロール50m泳げるようになるぞ!小5の娘とどっちが早く目標達成できるか競争だ!

それにつけても、この5年間で、立派なおばさん体型になってしまった私。
今日、水着を買いに行って、試着室で鏡を見て愕然としてしまった。
どんなに白髪染めをして気持ちは若いつもりではいても、この体型は・・・・・。
いつもたっぷりめの楽なスタイルで甘やかしていたぽっこりお腹に本気で『渇!』を入れなきゃ!!

私の高校時代のニックネームはTODO。
別に海に住む『トド』からきているわけではないのだが、そっちの由来がすっかり定着している。
その名にかけても泳げるようにならなくては。


わらび座ミュージカル『銀河鉄道の夜』八千代市公演

2006-07-16 14:09:00 | 徒然なるままに
7月2日

わらび座ミュージカル『銀河鉄道の夜』を見た。
今回の公演は、ミュージカルナンバーのイラスト入りミニ歌本のイラストと当日のたて看板を担当した。
歌のイメージイラストを描くため、5月に1010シアターに公演を観に行った。
そのとき、主役のジョバンニとカンパネルラの役者さんに、
「7月2日の八千代市公演を成功させるため、歌本のイラストと看板描きを頑張ります。皆さんも頑張ってください。楽しみにしています。」
と硬い握手をし、台本とCDにサインをもらってきた。
今回、公演終了後、そのお二人に出来上がった本を渡し、握手をし、一緒に写真を撮らせてもらった。

毎日車の中でCDを聞き、歌はすっかり覚えてしまった。
原作と台本を何度も読み、イメージを膨らませた。
イラストは全部で16点。
今回の公演を再度観ながら、各シーン、歌のイメージを自分の中で再確認した。

看板は、子どもたちやお母さんにも協力をしてもらい、ほぼイメージどおりのものが出来上がったが、直前に後援団体を全部書き込むことになり、レイアウトのやり直し。当日の朝までかかった。
午前中から市民会館に取り付けておいたが、公演直前に突然の大雨が降り、ポスターカラーで描いた部分が少し流れてしまった。
描いている最中に、看板だから雨にぬれてもいいようにアクリル絵の具で描くべきだと思ってはいたのだが・・・。
後悔先に立たず。次回は気をつけよう。

公演は大成功。二階席まで埋まるほどの観客で、役者さんのノリもすごく良かった。

歌本も看板も評判が良く、長かった私の『銀河鉄道の夜』は終わった。

『人生の登りも降りも、ただひとつの幸いに至るために通らなければならない(必要な)道筋だ』

賢治の言葉が胸に響いた。




夏休み 美術の宿題

2006-07-16 11:36:00 | 徒然なるままに
7月16日(日)45歳最後の日!

一週間たった。
頭痛もなく、長引いていた夏風邪の咳もあまりでなくなって、快適な一週間だった。

一年生のモダンアートテクニックは、夏休み前の授業ではぼかしとスパッタリングまでしか教えられなかったが、色作りとみぞ引きの成果を試すいい機会と、ポスター作りを宿題にした。

二年生はユニバーサルデザインを生かした未来の絵。
2回の授業でユニバーサルデザインの主旨は理解はできたようだが、それを生かした『未来の絵』となると、表現が難しいかもしれない。
小学生のように『自由な発想で』、とはいっても、その自由な発想が難しいのだ。
『すべての人が使いやすく、人と環境に優しいデザイン』がユニバーサルデザインなのだが、『ドラえもん』で育った世代なのに、アイディアがなかなか浮かばないらしい。
中には、私の話にヒントを得て、溢れんばかりのアイディアを出してくる子もいるのだが・・・・。
先日はカンボジアで写真家活動をしている方の話とその写真の話をしたら、前回は便利文房具を描いていた子が、地雷撤去車とロボットを描いてきた。
阪神大地震や、中越大地震のときのことを話したら、防災グッズを描いてきた子もいた。

カンボジアは太平洋戦争後の食糧難の日本に、お米を送ってくれた国だと聞いた。
カンボジアの今の姿は、60年前の日本の姿であり、もしかしたら近未来の姿かもしれない。
今自分が当たり前に住んでいる空間が、いつ、どんな大きな災害が起きて、一瞬にして危険で不便な場所に変貌するかもしれない。
そのとき、どう生き延びられるか。
子どもたちはとても真剣に聞いてくれた。
夏休み、どんな『視点』を持った『未来の絵』を書き上げてくるか、楽しみだ。

3年生は、ついに夏休み前には『CDジャケットデザイン』が仕上がらず、夏休みの宿題になってしまった。
でも、涼しいお家の中で、曲を聴きながらのほうがイメージ作りにはいいかもしれない。夏休み前最後の授業は、どのクラスも必死で慌ただしく、じっくりイメージを表現できるような雰囲気ではなかったし。
同じ曲を選んでも、人それぞれ曲に対するイメージが違う。
「習った手法の内3種類以上使うこと」
「タイトルとアーティスト名はレタリングすること」
この条件をどうクリアーして、どんな作品が集まってくるのか、楽しみだ。

それにつけても中学校の美術の時数の少なさよ!
この少ない次数の中で、1年間契約講師の私がどうやって、意欲、発想力、技能、鑑賞力を子どもたちにつけてあげられるか。

放課後、部活が早く終わった女子たちに
『どうしてもっと美術の時間をくれないのか』
と責め寄られた。
45分授業の内、導入、後片付けの時間をやりくりしても、作業時間は正味長くて30分。気分が乗ってきたときに「ハイ、撤収!」
一週間に1コマあればいいけど、二週続けてないクラスもあり、教えるほうも教わるほうも大変だ。

美術なんて息抜きぐらいにしか思っていない生徒もまだいるらしいが、息抜きなら息抜きでいいから、気分転換やリフレッシュタイムとしての美術活動に参加させたいと思う。

一人ひとりにじっくりついて教えるのは不可能だが、途中作品や評価カードを一人一人チェックして、励ましたり、はっぱかけたり、ほめてあげたりを心がけて書いている。
楽をしよう、手を抜こうと思えばできる部分で、全く手を抜けない私。

1年間しかいられない分、美術の楽しさは3年分は教えていきたい。
その一念で教えている。
1コマ1コマの授業が私にとっても、生徒にとっても『一期一会』となるように・・・・。

夏休み、私自身もしっかり充電して、夏休み明けには更にバージョンアップした授業が展開できるように頑張ろう!

「背中ぎっくり」の次は・・・・

2006-07-16 08:24:00 | 徒然なるままに
7月9日(日)

毎日フルタイムで働くようになって、一雨ごとに庭が雑草畑、植木がジャングル化していくさまを横目に、早朝出勤・夜帰宅で、どんどん荒れていく庭を心苦しく思っていた。

暑い夏本番が来る前に、今日こそは!と思い、昨日頑張って雑草抜きと植木の剪定を日が暮れるまで汗だくになってやった。

それがたたってか・・・・?今日の朝から偏頭痛がひどくて起きられなくなった。
ちょっとした動作のたびに、右側の頭に釘を刺されるような痛みが走る。

頭痛薬もさっぱり効かず、あまりの痛さに耐えかねて、以前、長男や長女の腰痛を治してもらった治療院に電話し診察してもらった。
診察の結果、体にねじれがあり、ストレスがかなりたまっているとのこと。
体のねじれは整体で、ストレスは気功で取り除いてもらったところ、すっかり治ってしまった。

体もしゃんとし、身長が伸びた感じ。自分で言うのも変だが、胸や腰の位置が高くなったような気がする。
頭もすっきり。振ってもジャンプしてもい痛まなくなった。不思議~!

無理な姿勢で木を切ったりしたのが、体の筋にねじれをおこして、頭痛を引き起こしていたらしい。
以前『背中ぎっくり』なったときとは反対側の筋だった。
痛むところに神経を集中し、痛みをイメージする。先生の指先が痛みをほぐすと言うか、吸い取るように痛みを取り除いていく感じ。

不思議だったのは、ストレスの取り方。
仰向けになった胸の上に布をかぶせ、先生が手をかざし、気功を送っていくと、その布がどんどん湿気を帯びていくのだ。
私は空調のきいた部屋の中で汗ひとつかいていないのにである。
「『邪気』(ストレス)がたくさん出てきますねぇ。苦しかったでしょう。こんなに湿ってきて、ここに空気の層ができているのがわかりますか?」
と言われ、自分の手を胸の上にかざすと、本当に温度差と湿度差のある空気の層ができていたのには驚いた。布も湿っていた。(『邪気』って、湿気を伴っているんだ・・・)

実は以前、この治療院で『トラウマ』を取り除いてもらったこともある。
当初は半信半疑ではあったが、その後、あれほど悩まされていた『フラッシュバック』が起きなくなったのには驚いた。

今回の『邪気』を取ってもらったら、私は何か変わることができるのだろうか・・・?

夜、久々に妹と電話で話しをした。
「お姉ちゃん、声のハリが違うよ」


毎日、忙しくも充実しているとはいえ、職場でも家庭でもかなり体も心も酷使して、ストレスを溜め込んではいた。

頭痛は私の体からの危険信号だった。
心も体も悲鳴を上げていたのだ。

もうすぐ誕生日。人生の折り返し地点が迫っている。
もっと自分の体を労わってあげなくては。

『甲斐ある人と いわれなむ』  高校の同窓会に出席して

2006-07-15 09:06:00 | 徒然なるままに
7月2日

宮城県立石巻女子高等学校(現・好文館高等学校)の関東支部同窓会に出席してきた。
私たち昭和54年度卒業生は今年から参加が認められ、会場には昭和15年度卒業生をはじめ、大先輩方がたくさんいらっしゃった。

今年81歳になる恩師伊藤みゑ先生(科学)にも卒業以来久々にお会いした。先生は私のことを覚えていた下さっただけでなく、先生に
「相変わらずめんこいごだ」
と言われ、うれしくって気持ちはすっかり15歳に戻ってしまった。
同級生たちと旧姓やちゃん付けで呼び合い、懐かしい話に花が咲く。
久しぶりに歌う校歌も、ちゃんと2番の最後まで歌えた。
歌いながら、高校生活のさまざまなシーンがよみがえってきた。

歌いながら、SMAPの「夜空ノムコウニ」の歌詞がオーバーラップしてきた。
「あの頃の未来に僕らは立っているのだろうか・・・」
当時、恩師に
「10代・20代は誰でも皆若く美しい。30代の生き方で、40代の顔ができる。『美しき40代』を目指して頑張りなさい。」
と言われてきた。
10代が思い描く40代は遥か遠い未来の姿だった。
何にでもなれると思っていた『無敵の10代』『恋に恋する夢見る乙女』だった高校時代。
当時の私を、『藤村甲子園』と呼んだ友人がいた。『直球』しか投げられない彼と私は共通点が多いらしく、それは今でも変わっていないかも・・・。
演劇部での3年間、友情あり、恋あり、悩み、感動した、まさに『青春時代』だったなぁ・・・。
あの頃の自分は、抱きしめたくなるほどピュアで、一生懸命で、何事にも全力で前向きに頑張っていた。不器用で、真っ直ぐすぎるために損ばかりしていたり、周りが見えていなかったり、勇気がなかったり・・・。今なら気づけていることが、当時は分からなかったんだろうなあ・・・。
でも、自分で言うのもおかしいけれど、可愛かったなあ。もちろん『顔』のことではなく、生き方というか、性格が。
『あの頃の自分がなりたい自分になれているか』
あんなに憧れていた『美しき40代』に私はなれているのだろうか・・・。

今、もし、高校時代の私自身に会って話すことができたら、何て言うかな・・・。
「今のうち、しっかり勉強しておくんだよ」・・・?
あんなこと、こんなこといっぱいあるけど、もしかしたら
「ごめんね。なりたい自分になれなくて」
と謝ってしまいそう・・・。
でも、あと5年40代は残っている。
前半は「想定外」のことが次々起こり、心身ともにぼろぼろになってしまったけれど、後半はそれをバネにして、今度こそ、今からでもあの頃なりたかった自分に近づくために頑張ってみる!

次に会いに来るときは
「ありがとう。夢見てくれて。あの頃の自分に恥じないように頑張ってこれたよ。」
と言えるように。

校歌の最後に
『甲斐ある人と いわれなむ』
というくだりがある。

これからもその言葉を胸に刻んで、人生を切り拓いて行こう思う。