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4月の総括と*(学校)*学級だより *(時計)*『時こくと時間』

2011-04-30 13:07:00 | 徒然なるままに
4月30日(土)

4月も、早、最終日となった。

この年度末年度始めは、いつもの年以上に大変な1カ月だった。

中学校から小学校への転勤。
小学校の担任。
故郷石巻の被災。
教員免許取得の手続きと、採用試験を中学校と小学校のどちらで受けるか。

毎日が自信喪失と自問自答の連続、疲労の蓄積だった。
帰宅するなり、倒れこむように寝てしまい、そのまま気がついたら夜明け前で、飛び起きては持ち帰りの仕事を片付け、風呂に入り、朝食の準備をし、娘を駅まで送り届け、出勤。
朝の8時から4時に子どもたちを下校させるまで、給食を食べる時以外は、座ることもできず、トイレに行く暇も、職員室に戻る時間もない。
小学校は終礼で、夕方打ち合わせがあるのだが、座ったら最後、睡魔が襲いかかってくる。
それから採点やらゴム印押しやら翌日や一週間先の準備、打ち合わせ、教室環境作りなど、終わりが見えない細々した仕事が次々に湧いてくるようにある。

それらを着々と時間内に、手早く、でもきめ細やかにサクサクこなしていく他の先生方がとても優秀に見える。
それに比べて、何をやるにも畑違いと言うか、要領を得なくてモタモタしている自分のなんと無能なこと。

夜起きていられる時は、ニュースで流れる石巻の被災状況に、翌日泣きすぎて瞼が腫れあがるぐらい泣き、仕事があって駆け付けられない自分を責め、身を引き裂かれる思いだった。

ついには、体調を崩し、起き上がれなくなってしまい、病院で検査を受けることになってしまった。幸い、大したことはなく、咳止めと鉄剤とビタミン剤を処方された。

そんな時に、私を心配してくれる友人たちからは、叱咤激励の電話をたくさんもらった。
「泣き言は俺の前でだけ言え。いくらでも聞いてやる。でも、生徒の前では泣き顔は見せるな!おまえは教師だろう!毎日元気で笑顔でいろ。」
「全校生徒と一緒に津波に呑まれて亡くなった幼なじみのことを思えば、何だってやれる。がむしゃらに頑張れる。私は、そう思って頑張っている。
あなたにとっては教職は『天職』でしょう?何を弱気になって迷っているの?
あなたには、あなたを待っている子どもたちがいるんでしょう?元気に毎日学校に通ってきているんでしょう?
こんなに幸せなことはないでしょう?」
そして、被災地で教員をしている友人たちの頑張りは、私の想像を超えるものだった。

実家に震災直後とその後の大きな余震の後の2回帰省した弟からも、
「元気な地域の人が、普通に元気で日常生活をすることが最低限のボランティアになる。
しっかり働いて、消費して、物資や義援金を贈る。医薬品を被災地に回せるように健康でいることも、立派なボランティアなんだ。
風邪引いたり、疲れやストレスをためて具合悪くなっている場合じゃないぞ。被災地はその何倍のストレスや余震の恐怖や食料も燃料もないところでみんな頑張っているんだから!」

私にできることってなんだろう。
これは、私だけでなく、今、日本中の人が、世界中の人が、真剣に考えて取り組んでいることなんだと思う。

原子力発電に頼らない生活。
災害に強い街づくり。
明日は我が身と思っての、防災準備と訓練。

今回の震災を教訓にして、改めなければならないこと、新たに取り組まなくてはならないことが、国家レベル、地球レベルでたくさんある。


小学校2年生でも、子どもたちは真剣に話を聞いてくれる。自分の意見を言ってくれる。そしてそれを家庭に帰ってから、家族にも話してくれる。

私のミッション(使命)は、次の時代を担う子どもたちに、この震災や原発事故について、また、これまでの日本の歴史を正確に伝え、同じ過ちを犯さないことと、日本中、世界中が一つになって、この困難を乗り越えようとしていることを実感させてあげることなのだと思う。
それが、もしこの先、この子たちが大きな災害にあった時に、生き延びるための知恵となり、被災者になった後の復興への勇気となるだろうことを信じて。


*(学校)*学級だより*(笑顔)*

2年生の4月の算数は『時こくと時間』を学習した。
みんな、1年生でもやっているので、時こくは読めるのだが、時間の計算が苦手だ。
「学校まで20分かかります。8時に学校に着くには、遅くとも家を何時何分に出ればよいでしょうか? 」
「公園について、サッカーを始めた時こくは10時です。サッカーを終えた時こくは11時45分です。サッカーをやっていた時間はどれだけですか?」
「水族館に着いたのは10時です。イルカショーが始まる10時50分までは、何分間あるでしょう?」
と言うような文章問題になるとみんなこんがらがってしまうようだ。
先日、一通り授業をやった後のテストの点数は惨憺たるものだった。
翌日
「皆さんに聞きます。時間の計算ができるようになりたい人は手を挙げてください」
と言ったら、28人中27人が手を挙げた。上げていない一人に理由を聴くと
「読めた方がいいとは思うけど、分からないから考えていると気持ち悪くなるし、面倒くさくて嫌になっちゃうから。」

そこで今度は、「時計が読めるといいこと」「時計が読めないと困ること」について各自考えてもらい、発表してもらった。
それを聞いているうちに、めんどくさがっていた子も、顔つきが変わってきた。

そして、今度は、グループになって2枚のテスト問題を全員で解かせた。
「算数セットでも、今までのプリントや教科書を見ても、他人に聞いてもなんでもいいから、とにかく班全員で話し合って100点を目指そう!
発表するこが分からなくなったら、半のメンバーで助けてあげてね。」
結果は上々。その本当の成果は翌日のテストに出るはずだ。

テスト当日。前の日に黒板に書いておいた
「算数のテストで70点以上取った人は、G,W中は算数の宿題はなし。
取れなかった人は、全部できるまで、やり直してくるのが宿題」
を見たのだろう。
朝、私が教室に行くなり、男の子が進みでてきて
「先生、午前中の授業を全部算数にしてください!」
と言ってきた。
「何で?他にもやらなくちゃならないお勉強があるから、全部は算数にできないよ。」
「ぼくたちは、G.Wには遊びたいんです。
どうしても、今日70点以上取りたいので、算数を教えてください!」
と言ったら、クラス中が
「「「算数!算数!!算数!!!」」」
の大算数コールになってしまった。
「分かった、分かった。じゃあ、連休明けの6日の算数と今日の2時間目の生活科の授業を取り替えるのならいいよ。1時間しかあげられないから、この1時間で覚えられるように、みんな集中できる?」
「「「はい!!!」」」

その時間は、みんなよく頑張った。
教科書やプリントに乗っている問題ではなく、5月2日の全校遠足のシュミレーションを兼ねて問題を出した。
「8時半に学校を出発して、公園に9時25分につきました。学校から公園までは何分間かかったでしょう?」
と言うように、当日の自分の行動とリンクさせた問題をたくさん出した。

その甲斐あってか、次の時間の算数のテストは、前回に比べて、ほとんどの子が点数が上がった。
中には相変わらず苦手な子もいたが…。それはまた、この先、機会を見つけては日常生活の中でわかるように支援して行こうと思う。


去年、中学校で数学のTTをやった時も、からない生徒を集めて、昼休みの美術室で教えたりしていたが、そのうち、分からない生徒はもちろん、分かっている生徒たちまで美術室にやってきて、問題の出し合いや教え合いっこをしてたっけ…。

みんな、分からないままでいいなんて思ってはいないんだ。分かりたいし、分かるようになりたいと思っている。
分かっている子は、分かっているということを認めてもらいたがっている。
それを人に教えることで、また自分のできていない所や説明不足の事に気がつくのだ。

それにしても、朝からのクラス全員の算数コールには驚いた。
でも、あれだけシュミレーションしておけば、遠足当日にはみんなスケジュールどおりに行動できると思うのだが…。
連休3日間が明けたら、忘れているかなあ…?

大津波にも負けない、薔薇の木の生命力

2011-04-29 07:55:00 | 徒然なるままに
今朝、宮城県石巻市在住の父のブログを見た。
今回の東日本大震災の石巻の被災状況の画像が掲載されていた。http://blog.goo.ne.jp/teruotojo

特に、父の実家があった渡波地区の画像は、話には聞いていたが、知っている場所なだけに、見た瞬間、涙も言葉もな出ないぐらいに衝撃を受けた。
悲惨な状況を見ながら、かすかに面影残るもの見つけては、在りし日の町の様子を思い出し、涙が決壊し、画像が見られなくなった。
私の思い出の中の渡波の町とはあまりにも、違いすぎて・・・。


この地域は、私が幼稚園から小学校4年生までを過ごした、私の『原風景』となる町だ。

家の裏は、全国でも有名な『渡波海水浴場』があって、海水浴シーズンには全国から観光バスが集まり、にぎわっていた。
私たち渡波小学校の生徒は、海開き前に、全校生徒で浜に出て、漂流物やゴミ拾いをしたものだった。

北上川の河口まで続く長い砂浜は、その名の通り、『長浜』と言って、渡波から北上川に向かって、砂浜の右手には、防風林としての美しい松林がずっと続いていた。

私はその砂浜を、桜貝などを拾いながら、

♪ 松原遠く  消ゆるところ

   白帆の影は 浮ぶ
 
  干し網 浜に高くして

   かもめは低く 波に飛ぶ

   見よ昼の海 見よ昼の海

とか、『我は海の子』や『浜辺の歌』を歌いながら散歩をするのが好きだった。

その砂浜も、今はない。

私の思い出の海は、広くて大きくて、豊かで、静かで、優しかった。
今の実家に引っ越してからしばらくは、海が見たくて、夜寝るときは波の音が聞こえないと眠れなくて、毎晩泣いていたものだった。(アルプスの少女ハイジが、アルムの杉の木を思い出し、夢遊病になるシーンと自分を重ねては泣いたことがある。)



渡波の家には、無き叔母が娘時代に植えたと言う薔薇の木がある。
私が住んでいた時は、6月になると淡いピンク色の花を咲かせ、私は毎年その花を母に切ってもらって、教室に飾ってもらった。

今回の津波で、父の実家は土台とブロック塀だけを残して跡形もなくなってしまったのだが、その薔薇の木だけが残っていた。

こんなに大変な津波だったのに、実家の薔薇の木は残り、この春も、忘れずに芽吹いていたなんて・・・。
人が作ったものはもろくても、自然生命力は、災害なんかには負けていないのだ。

その薔薇の芽吹きは、実家を見に行った両親をどれだけ励ましてくれたたことだろう…。

写真では、海の青さも、山や松林の緑も、記憶の色と変わらないように見えるのに、実家は跡型もなく、ご近所の痛ましいまでの被災状況には胸がつぶれ、言葉もない。
亡くなられた方々のご冥福を祈るとともに、無事避難された方々へのお見舞いと、渡波の町が一日も早く元の活気を取り戻し、安心して生活できる日がまた訪れますよう、お祈り申し上げます。



たくさんの方々から、お見舞いのメールを頂き、ありがとうございます。
お返事やご挨拶がまだの方、申し訳ありません。追って、書き込ませていただきます。

新たな勤務先での仕事も、ひと山越えて、ようやく休みが取れました。
これから続く『険しい山脈』に挑み続けながら、その行程をを楽しむためにも、このG.Wを有意義に使って、リフレッシュし、エンジンをかけなければならない。

故郷に戻り、ボランティアをするべきか悩み続けたが、石巻女子高時代の友人と先日話した時、
「帰りたい気持ちは誰より強いが、両親が無事でいるのなら、こちらで頑張ってはたらいで、帰る旅費の分、実家に物資を送ったり、母校の義援金に充てよう」
と言うことにした。
このG.Wは、弟が帰省し、家の片づけや修繕の手伝いに行ってくれると言う。
G.W明けには、整体の仕事をしている妹が、両親の体ほぐしに行くことになっている。
私は・・・。
まずは、自分のミッション(使命)を果たすこと。
小学校教員免許取得と、教員採用試験に合格すること。
今すぐは役には立たないけれど、これからの石巻を支え、元気にするためにも、今、自分がしなければならないことに全力を注ごう。


人間と言うものは、不思議なもので、あまりにも悲惨な状況を毎日映像で見ていると感覚がマヒしてしまうのか、慣れてしまったようになっている。
震災当時は、泣きすぎて目が腫れあがり、立ちあげれないほどのショックや悲しみや喪失感、絶望感でボロボロだったのに…。
今は、むしろ、被災者の方々が、悲しみや疲労の中、立ち上がろう、踏ん張ろうと頑張っている姿や、ボランティアの方たちに向ける感謝の笑顔に、涙が止まらない。
そして、国内外からのボランティアの方たちの献身的な支援活動や、応援メッセージに、胸がいっぱいになる。
今、日本中の人たちが、世界中の人たちが、
『自分にできることは何だろう』
と自身に問いかけ、自分にできることから何かをしようとしている。

震災や津波の被害を免れた人たちは、自分たちは、『生かされた』と言う。
亡くなった人たちの分、生きたくても生きられなかった人たちの分、『生かされた』自分たちには、しなければならないことがある。
新盆までには、この町を元気にするために、立ち上がらなくてはならない。
そうやって、連日の余震におびえながらも、それぞれの場所で踏ん張って、この悲しみと苦境を乗り越えようと頑張っている。
きっと、生まれ変わった石巻は、今まで以上にいい街になる。
日本全国に、そういう町の前例はたくさんある。
災害に強い町に・・・!
地震国日本の行政のプライドをかけた取り組みと、被災地復興への血の通った支援を心から願う。

千葉に住む私も、いつ、同じような被害に遭うかもしれない。
故郷に学び、故郷の人々を見習って、私もまた『生かされた』人間として、故郷を、両親を支えていきたいと思う。


石巻市松原町は、危険区域として、もう人は住めなくなるのだと言う。
渡波地区は、日々、地盤沈下が進んでいるという。
海の底に沈んでしまう前に、薔薇の木を今の実家の庭に移植してくれるように、両親にお願いした。

夏には、また穏やかになった渡波の海にお線香と花をたむけに帰ろうと思う。

頑張れ!石巻!!

2011-04-10 07:35:00 | 徒然なるままに
4月10日(日)

久しぶりにCafeにやってきた。
すっかりご無沙汰してしまいました。
掲示板や書き込みのお返事もためてしまってごめんなさい。
後ほど書きこみにお邪魔いたします。

まずは、近況報告から。
年度末、年度初めの、飲まず食わず寝る間もない忙しさもようやく一段落。でも、この1ヶ月間の無理がたたって、病院で検査を受ける羽目になってしまった。
検査結果は月曜日に出るのだが、元気にこの1年を乗り切るためにも、早期発見早期治療だと思って、どんな結果でも前向きにとらえて体調管理に努めよう。

4月から、今度は小学校の先生になった。
2年3組の担任だ。
身体が中学生の半分ぐらいしかないような、かわいいかわいい児童達。
エネルギーも吸われるが、その倍以上のパワーと癒しをもらっている。

着任式の後、3組のみんなを連れて、教室に入った時、耐震工事の影響で天気がいいのに教室はなんだか薄暗い。
一人の子が、
「先生、電気を点けていいですか?」
と聞いてきたとき、別の子が私の前に来て、
「先生、今、東北関東大震災で、東北地方の人たちは大変な思いをしています。教室は明るいから、電気を付けないで、節電しましょう。」
といってくれたのだ。
「ありがとう!みんな、○○くんがこう言ってくれて、先生はとってもうれしいです。みんな、お勉強が始まったら電気を点けるようにするけれど、今日は、教科書を配布したり、席を決めたりするだけだから、電気を点けなくてもいいかしら?」
と言ったら、
みんなが、大きな声で
「いいで~す!!」
と返事をしてくれた。

これが2年3組のスタートだった。

この小学校は、今年創立50年のかなり古い校舎だ。3月11日の大地震の時には、校舎も体育館も校庭もかなり痛んで、卒業式も入学式も、他校の体育館を借りなければならない状態だった。校庭は工事中でいまだに使用できない。
また、この学区は、両親ともに都心で働いている家庭が多く、地震の日は保護者に連絡が取れないうえ、電車が止まって、迎えに来てもらえず、避難所になった学校に泊まることになってしまった児童も多数いたそうだ。

そんな怖い、心細い、不安な体験をしたせいもあるからだろうか、私が話す被災地の故郷石巻の様子や、地震の際の心構えなどの話を、真剣に聞いてくれた。

その話を、津波で壊滅的被害を受けた北上町の小学校で先生をしている友人に知らせたところ、とても感激してくれていた。


地震から明日で1カ月。未だに故郷の被災地に駆けつけることもできず、できることと言えば、募金や援助物資の提供ぐらいしかなく、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
幸い、両親、親戚も無事で、実家も流されることはなかったので、今すぐ安否確認に帰省する必要はなく、仕事に専念できることはありがたいと思っている。
それなら、私にできることは、自分の受け持ちの児童たちの安全を守ること、安全を呼び掛けること、被災地の人たちの思いや、自分たちもいつ何時被災者になるかわからない危機管理を考えさせ、児童達から被災地の人たちへの応援メッセージを届けることだと思う。

宮城県では早いところは11日から、遅くとも21日から学校が再開するそうだ。
入学式や新学期を心待ちにしている児童・生徒たちがたくさんいることだろう。

でも、そうなると、今学校で避難所生活をしている人たちは、どこで生活することになるのだろう?
自宅に戻り、泥や瓦礫を取り除きながら次にまた大きな余震が来たら崩れてしまいそうな危険な家で、ヘドロの匂いの中寝泊まりしている人たちは…?
学校自体が流され、津波で何もかも流された学校の生徒たちは、さらに遠くの学校に統廃合されることになるのだが、通う家は?
児童・生徒たちの大切な個人情報をはじめ、教材も、資料も、道具も何もない中での教員たちの心労、苦労は想像するだけでも気の毒でならない。

瓦礫が邪魔をして、未だに収容できない遺体が海や町に無数にあるという。
遺体確認ができれば幸運。お葬式が出せるだけでもありがたい。
身元を確認する人もいない、行方不明の届けも出せない、出す人も一緒に流されてしまった・・・。
故郷から届く、また、故郷を見に帰った人たちから聞かされるあまりの惨状に胸がつぶれ、涙が止まらない。

そんな中、ネットでうれしい知らせを見た。
石巻の川開きが、この夏開催されるという話だ。
「川開き」は、石巻の人間にとっては、1年中で最大のお祭りだ。
江戸時代に北上川河口部の改修を行い、石巻発展の礎を築いた川村孫兵衛の偉業を讃えるとともに、海難事故、水難事故によって亡くなった英霊を供養するために行われる祭りである。
ここ最近は、市街地のドーナツ化現象で、シャッター街になってしまった商店街で、祭り自体も縮小化し、寂しい祭りになっていた。
でも、この「川開き」を今年も開催することによって、石巻を再興しよう!と言う地元の仲間の心意気に触れて、石巻人として、心から嬉しく、誇りに思う。


かつて、歌川広重(安藤広重)は、安政の大地震で大きな被害を受けた江戸の人たちを勇気づけるために『江戸名所百景』を作成した。
日々、復興して行く江戸の姿と、失われた在りし日の江戸の姿を毎日描いて、擦り上げ、江戸の人たちに配ったという。
特に、地震で亡くなった人たちの慰霊のために打ち上げた『両国の花火』の絵は圧巻だ。

今回の地震で亡くなった方、行方不明者の数は一つの町単位で1万人以上と言う。
石巻の小学生だけでも125人死亡、75名行方不明だと言う。
スポンサーの造船所も製紙工場も商店街も魚市場も壊滅的な打撃を受けただろうに、例年通り花火大会を打ち上げると言うのだ。
これは、なんとしても帰省して、地元のみんなを応援してあげたい。
天気が心配だが、天国に行ったみんなにも見えるぐらい、きれいで大きな花火をたくさん打ち上げてほしい。

今は瓦礫で人一人通るのもやっとの商店街。建物の上に船が刺さっているというような信じられない光景を、元のようにすることは困難なことだろう。
でも、生まれ変わった街で、地元の人も、帰省してきた人も、川開きを楽しめるような町づくりを頑張って欲しいと思う。
きっと、今、一生懸命活動してくれているボランティアの人たちも、元気になった石巻を見に来て、一緒にお祭りを楽しんでくれるはずだ。

私も、帰省のときには、両親に胸を張ってうれしい報告ができるよう、採用試験勉強がんばるぞ!