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「教育現場の不祥事根絶に向けて思うこと」

2007-08-30 19:25:00 | 徒然なるままに
今、教育現場では度重なる教員の不祥事について、全国展開で意識改革が行われている。
千葉県でも、昨年は事例報告と職場への呼びかけ程度だったのが、今年度は、各校で全職員のレポート提出と校長面接という取り組みがなされている。

この夏休み、私もレポート提出に向けて思いつくまま書いてみた。
実際はこの内容を更に半分ぐらいのページ数に要約して提出するのだが、今回、原文のまま自分のHPにアップしてみようと思う。

この内容を読んで、何かご意見を伺えれば幸いに存じます。結構長い文章ですが、しばしお付き合い下さい。


テーマ「職場の不祥事根絶に向けて思うこと」

ア.職場全体及び職員個々のモラルアップにために、日ごろ考えていること、必要だと考えていること

 結論から言えば、どんなに、守るべきモラルを並べ上げ、違反した場合の罰則を提示し、実際に違反した場合、見せしめの処罰を与えて見せても『根本的な問題』を解決せずして、『不祥事』を根絶することはありえないと思っている。

 『不祥事根絶』の核になるのは、かつてクラーク博士が言った『紳士たれ』にならい、『教育者たれ』という言葉に立ち返ることだと思う。
 まずは、自分が教師を目指そうと思った初心に帰る。生徒の前に立つ時、どういう人間でありたいと思ったかを思い返すことが大切だと思う。
 教師を目指した動機は、人それぞれであろうし、各自、教育や自分の教科に対しての意識については『温度差』というものがあるとは思う。しかし、生徒を前にして、自分は『尊敬される教師』であり、『人生の先輩』でありたいという理想は誰でも共通に抱いて教職に就いたはずだ。
 それがいつの間にか当初の情熱を失い、楽を求め、保身を気にして、激務に追われているうちに、理想とは違う現実に流されてはいないか。
 モラルに欠ける言動、精神的に余裕のない心理状態や、慣れや怠惰から来る慢心は、集中力にも思いやりにも欠け、心無い言葉が口をついて出たり、自分自身への甘さから、小さなミスを繰り返し、それが大きなミスを生みかねない。
 教育者、社会人としての『理想』と『初心』を忘れぬ努力を貫くことができないことを、自分自身の弱さではなく、周りに責任転嫁していること、その背景こそが『不祥事の根本的問題』だと私は考える。

イ. 職務や人間関係について日ごろ不安に思っていること、心配していること、自分の考えていることについて
  
 『不祥事』を起こす人は、自分本位のあまり、自分のその後についても、相手だけでなく自分の家族の迷惑、学校にかける迷惑までシュミレーションができないのだろう。そういう意味では、事例と具体的な処分を公表するのは効果的かもしれない。が、その人に愛校心や同僚への仲間意識、家族への愛情が欠けている場合はあまり効果がないかもしれない。
 教師だって、人間だ。家庭を持っていたり、いろいろなしがらみや責任を背負っている人もいる。うかつに同業の人に相談できない事情を抱えていたり、そういう状況にいる人もいる。
 同じ学校の教員同士の信頼関係、チームワークが取れていなくて、どうして生徒達にその大切さを指導することができるのだろう。
 私自身も、人間関係やその学校での自分の教科の位置づけに悩み、疑問を持ち、激しく自信を失った経験がある。
 不祥事を起こしてしまった教師は、その辺に問題はなかったのだろうか。
 教科で、学年で、学校で、職員室で、『孤立』していたり、『ホウ・レン・ソウ(報告/連絡/相談)』したくてもできないでひとりで抱え込んでしまったり、助けて欲しくてもSOSを受けてもらえるような人間関係がなかったのではないか?
周りであの人はおかしいと思われていても、誰からも指摘してもらえたり、心配や励ましの声をかけてもらっていなかったのではないだろうか。
 逆に、プライドが高すぎて、また、自分の年齢やキャリアを過信したり、立場をかさに着たり、傲慢なせいで、周りから敬遠されてはいなかっただろうか。

 教員は子どもの前に立つときは、『聖職者』で無ければならない。
 そのためにも、教員にも学校カウンセラーが必要だと思う。
 あまりにも煩雑な校務分掌や、難しい学級運営、困難な事情を抱えている生徒やその保護者を担当することへのストレスは、精神も身体をも蝕んでいく。
 心や身体が悲鳴を上げている。その信号を見逃さず、ストレスを軽減したり、マイナス思考を良い方向に転換するためにも、健康診断と同じように、早い段階で心の健康診断や相談を定期的に行うことを提案したいと思う。

ウ.不祥事を防止するために、職場環境のみならず、自分自身や同僚の言動で気になることや改善すべきことなどについて

 暴力には体罰のほかにも、言葉による暴力と、『無視』という暴力もあると思う。
身体だけでなく、人の心を傷つける行為は全て暴力であり、人として許されない行為であると思う。
 それは生徒間のみならず、生徒対教師、また、教育現場に限らずだが、同僚同士間でもあるのは情けない限りだ。
 『道徳』や『いじめ問題』について教える立場にある人間が、生徒や同僚をいじめている現状があるのは甚だ情けない。

 子どもは敏感だ。本気で向き合ってくれる先生と、義務や馴れ合いで自分に接する先生は本能で分かる。
 そういう生徒に対して、子どもだからといって、騙したり、欲求不満のはけ口にしたり、利用したりというのは、その生徒にとって、どれだけの心の傷を与えるかを思い知って欲しい。
 不用意な言葉や、行き過ぎた指導は、生徒自身が反省すべき点や欠点を改善し、苦しみの乗り越え方を模索するというよりも、恐怖や憎悪や挫折感しか残らない指導であって、もはや『指導』ではなく、『いじめ』でしかない。
 まして、教師という立場を利用した性的不祥事は人の道にあらず。被害にあった子どもには生涯消えない心の傷が残る。
 性犯罪者は罪を繰り返すという。それは性癖というよりはそういう心の病を持った人間なのだ。そういう人間には、生徒には絶対に関わらないで欲しい。

エ.自分がモラルアップのために実践していることについて

 人の一生は、『出逢い』によって決まる瞬間があると思う。
 『一期一会』の精神こそが、教育の原点だと思う。
 その生徒と向き合えるのは、そのときだけなのだ。翌年、同じ教室、同じ学年で、同じ単元を教えたとしても、全く違う個性、顔を持った生徒たちなのだ。
 今教えたことが、分からない生徒、分かる生徒、ずいぶん経ってから、『あのときのことはこういうことだったのか』と分かる生徒、それぞれだと思う。
 切り捨てないで、諦めないで、可能性を信じて、自分にできる精一杯で向き合ってあげること。そういう姿勢で生徒に向き合っている。
 期間ではない、共有できる時間の『濃さ』だと思う。
 私は講師なので、同じ学校での『来年』はない。だからこそ、1日1日を大切に過ごし、一回一回の授業を全身全霊で展開している。
 『生涯、美術を愛好する人間』を育成することが私たち義務教育の美術教師の使命である。『記憶に残る授業』を目指して、教材研究と指導に励みたい。
 また、学校生活においても、生徒指導の反面、潤いと生徒がホッとできる居場所作りができればと思っている。
 その気持ちを常に忘れないよう、生徒の前に正々堂々と立ちたい。
そして、心に傷を負っている子や、認められたいと努力している生徒の信号を見逃すことのないよう、常に心のアンテナを張り巡らし、精神的に余裕のある教師を目指したい。

実践例として、この夏大きなヒントを得ることができた。
トイレ掃除だ。不浄の場を磨くことで、自分自身と向き合うだけでなく、生徒に対して『率先垂範』ができる。生徒に『やらせる』のではなく、生徒を『やる気にさせる』言葉かけを学んだ。自分を磨き、自分の邪な心を無くす、貴重な実践だと思う。

終わりに。
 私は、今の時代、教育現場に立つべき人は、品行方正、成績優秀、一度も挫折  したことのない優等生、恵まれた家庭環境の人だけでなく、むしろその逆の人生を歩み、弱い自分と向き合い、社会と戦い、乗り越えてきた人、弱者や『軌道』から落ちこぼれた立場の人の心の痛みや実情を知っている人にこそ、教育現場に立って欲しいと思っている。

 私自身、生徒・学生だった時代もあり、保護者・PTA役員として学校で活動したこともあり、現在、非常勤講師として教育現場に立ってみて、だからこそ見えてきたり、分かってきたことがたくさんある。

 また、これから教職を目指す人には、本採用試験を受ける前に、いろいろな社会経験を積んできて欲しい。できればサポート校的な現場で、講師経験を積むとか。
 教育現場以外の職場体験があれば、生徒達の職場体験学習や進路指導の際に役立つネットワークができたり、さまざまな視点から生徒の相談にも乗れるし、いろいろな職場のプロのノウハウを教育現場に生かすこともできると思う。
教科書で学んだことやマニュアルは、参考程度にしかならない。実践経験と臨機応変できる柔らかい心、初心を貫く固い決意で採用試験に臨んで欲しい。

 管理事務所の方へ。教職免許を持ちながら、多方面でのさまざまな職業経験を持つ人を広く採用して欲しい。採用試験の年齢制限などは廃止し、門戸を開いて欲しい。そして、 現職の教師も一緒に、『適性検査』『道徳観』『意欲』という点に重点を置いた採用試験、更新試験をするべきであると思う。

 さらに、できれば、過ちを犯してしまった人間には、それで教師人生が終わってしまうような、それまでの、また、それ以外の面での努力と功績が無に帰してしまい、人間的に全否定させてしまうことのないような措置を講じて欲しい。(本人にとって転職したほうが最良であれば別だが) 『失敗から学んだこと』、『挫折から立ち直ること』それらを身をもって体験し、それを子ども達に伝えることも、教育の一環であると思う。
 たとえどん底からでも、『いつもここから。人生七転び八起き』の精神で、たくましく生きる力を教えられる教師として復活、継続できるような、フォロー体制を望む。

 子どもは国の宝。その大事な宝を預かり、けして二度と戦への道を歩ませることなく、人として生きる道を説くには、それなりの経験と智恵と愛情と責任感が無ければならない。その自覚を持てる人間こそが次代を担う子ども達の前に立てると思う。
そういう人間に私はなりたい。

 そして。私は今、忙しくもとても充実した毎日を送っていることに感謝する。
仲間に恵まれ、生徒達もかわいく、家族も応援してくれている。
少ない時数を最大限に生かして指導できるような配慮、私の指導内容や目標に対しての理解と支援と評価が更に意欲と達成感をますことができる。
私は、この学校のために、仲間のために、生徒達のために、家族のために、精一杯頑張ろうと思う。


ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。お疲れ様でした。
できましたら、簡単で結構ですので、ご意見ご感想をいただければ幸いに存じます。
9月7日提出までに推敲する参考にさせていただきたいと存じます。



心惹かれるもの

2007-08-27 00:08:00 | 徒然なるままに
小さい頃から、神話や伝説、おとぎ話が好きだった。

特に、ギリシャローマ神話が大好きで、小6のときに『海のトリトン』を見てからは、アトランティス大陸の伝説に夢中になり、中1のとき、NHKの『未来への遺産』の影響もあって、『古代文明』にのめりこんでいった。

民族音楽にも興味があり、特に、フォルクロ-レとモンゴル音楽には無性に惹かれるものがある。
高校生のとき、音楽を選択し、カンツォーネが好きでよく歌っていた。

エーゲ海に憧れ、カンツォーネを聴いたり、歌ったりすると、なぜか涙が出た。

虫プロ制作の『アンデルセン物語』の中に『プシケ』と言う話があり、なぜか泣けて泣けて、切なくなった。

こんな小さな、でも、私の中では煌く記憶の断片が、ある時、くるっと一繋がりの首飾りのように輪になった。

以前、ある人に私の『過去世』を見てもらったことがある。

私はかつて、
『現在のイタリア南部の港町、貧しい家庭に生まれ、陶芸、彫刻のようなものを製作する工房に奉公のような形で弟子入りした。生活はそれほど豊かにはならず、苦労は多かったが、仕事は好きで一生懸命働き、立派な職人となった。

(わたしには、手に石膏のようなものを持って運ぶ瞳の茶色い少年の姿と、港からの美しい海の眺望が見えます)』

と、その人は語ってくれた。

これは、私にとって、ばらばらだったジグソーパズルのピースがぴったりはまっていって、1枚の絵が現れてくるような感覚をもたらした。

過去世に少年だった私は、『プシケ』に出てくるクルト少年のように、恋する少女の像を作ったり、その像の前で『カタリ』や『帰れソレントへ』や『サンタルチア』を歌っていたのだろうか・・・。

『コーリング』と言う言葉があるが、私はきっとそこに呼ばれている。
いつかはその地に立たなければならないのだろう。
時代を超えて、性別をこえて、芸術を愛し、欲する魂が私の中に受け継がれている。

子どもたちに土器作りや彫塑を教えていて、すごい高揚感と意欲と充実感を感じる。

どうしてこれほどの思いに、今まで封印をしてきたのだろう。
 
1度しかない人生。
心を解き放って、作っていこう、描いていこう、歌っていこう。

久しぶりに心揺さぶられるカンツォーネを聴きながらそう思った。


『ミヨリの森』 考

2007-08-26 19:30:42 | 徒然なるままに
昨夜、フジTVで『ミヨリの森』と言うアニメを見た。http://www.fujitv.co.jp/miyori/index2.html

劇場公開したものをTVで見るというのではなく、昨日1晩のためだけのTV放映作品だった。

小学校6年生のミヨリという名前の少女が主人公の物語。
現代の子ども達が抱える様々な問題(いじめ、複雑な家庭環境)や、環境問題を下敷きに、ミヨリの父の実家がある飛騨の自然の中で成長していく物語。

1時間半の中でよくまとまった作品だと思った。
美術監督があの山本二三氏なだけあって、見ごたえのある背景だった。
自然の表現だけでなく、飛騨の民家の外観も内部も、細かいところまで生活観あふれる描き方だった。
これこそ、劇場の大画面でじっくり見たいほどの書き込みの細かさ、リアルさだった。

ストーリーを楽しむと言うより、職業柄か、『このたった2,3秒のために、何時間かけて描いたのだろう』と、背景ばかりに目が行ってしまった。

一番印象に残ったのは、ミヨリが、男に捨てられて自殺した女性の幽霊と戦うシーン。
『何でも人のせいにして、誰かを恨んでひどいことをする弱いやつは嫌いだ』
と言って、戦いながら、自分が今置かれている状況を、両親や自分をいじめていた子、田舎のせいにして、誰かや環境や社会のせいにして、ひねくれていた自分を思い起こす。
幽霊と戦いながら、弱い自分と対峙して全身でぶつかっていく。
その瞬間、夜叉のようになっていた幽霊は、優しい顔になって、
「ありがとう、ミヨリちゃん」
と微笑んで、浄化され、『オコジョ』に変化して森に帰っていく。
その後姿に
「今日からあなたも森の仲間よ」
と声をかけるミヨリ。

もうひとつ。
自分を迎えに来た母親をバス停で見送るシーン。
「お父さんとお母さんが一緒のところには戻るけれど、そうじゃないなら私はここで暮らす」
とミヨリ言われ、
「お父さんはどう思っているかしら」
と言う母に、
「お父さんの気持ちはお父さんに聞いてよ」
と言う。すると母は、
「そうね。しばらくお父さんと話をしていなかったからね。話してみる。」
と言って、バスに乗って去っていくシーン。
それを見送るミヨリの顔は、親に捨てられて、不安で自暴自棄になっていた頃の顔ではない。

守られる立場の子どもが、自分の意思で自分の居場所を守り、仲間を思い、自分をはぐくんでくれる人を思いやることができるようになっていく。

同級生の男子が、学校の友達に、敵対していたミヨリのことを
「ミヨリは本当に強いんだぞ」
というシーンがあるが、
喧嘩やスポーツが強いだけでなく、優しくて勇気があることを言っているのだ。
守るべきもののために、自分の弱さを認め、それに打ち勝とうと言う気持ちを「強さ」を言う言葉で表した少年の気持ちがうれしかった。

この物語でちょっと物足りなかったのは、森の精霊がいろいろいっぱい出ていたわりに、なんだか見た目のわりには個性が出ていなかったこと。
主要なキャラクターはそこそこ個性は出ていたが。
何の精霊かわからない。でも、いちいち紹介していたらきりがないからか・・・。
なんだかその他十把一からげみたいでもの足りなかった。

私が小学校6年生のときに、NHK少年ドラマシリーズで『ユタと不思議な仲間たち』と言うドラマを見た。
都会から転校してきたユウタ少年と座敷童たちの友情の物語。
座敷童たちがオムツをしているのを不思議に思ったユタに、「座敷童は間引きされた水子の幽霊だ」とリーダー格の座敷童が話すシーンには子ども心に泣けた。

森の精霊たちにはそんな過去も事情も無いかもしれないけれど、あまりインパクトが感じられなかった。


それにしても、昨年劇場アニメ映画化された『ブレイブストーリー』もそうだったが、主人公がいろいろ複雑な家庭所事情を持っていると言う設定の物語が多いように思う。
今までにもそういう物語が無かったわけではないし、むしろ、童話や昔話の世界にも古今東西たくさんある。
ただ、いわゆる『大人の事情、言い分』と言うのはあまりリアルに取り上げられていなかったように思う。
子どもの成長と対極に設定される『大人の事情、言い訳』は、身に詰まされるほど現実的でこっけいで、大人気ない。
つくづく、子どもたちにとって、一番いい環境というのは、物や交通事情、設備に恵まれていることではなく、両親をはじめ、子どもと関わる大人たちの生き様なのだと思う。
『はだしのゲン』の両親のような、ゆるぎない信念と、愛情深さ。
 
子どもたちの『受難の時代』を繰り返さないためにも、かつて子どもだった大人たちにもぜひ、見てほしい作品だと思った。

『精霊の守り人』を目指して

2007-08-26 19:28:32 | アニメ


毎週土曜日のお楽しみ。
現在、BS11のNHK衛星アニメ劇場で放映中の
『精霊の守り人』http://weekly.yahoo.co.jp/25/moribito/index.html
『彩雲国物語』http://www.kadokawa.co.jp/saiunkoku/index.php

ストーリーの面白さ、登場人物の魅力、絵の上手さ・動き、表情の描き方は他のアニメの群を抜いている。
特に、背景の質の高さは圧巻だ。
『精霊の守り人』の背景画は、あのまま劇場用としても申し分ないほどの密度と表現力 だと思う。一枚一枚が『絵画』になっている。
毎回毎回、ため息が出るほどだ。

かつて、劇場で『もののけ姫』を見たとき、あの背景を見て、血がざわめき、逆流して、まさにかのアシタカの如くに右腕が暴れだしそうになるのを拳を握り締め、唇を噛んで我慢し、泣きながら画面に釘付けになっていた。

帰宅するなり、何かにとりつかれたようになってスケッチブックに描きなぐっていた。
悔しくて、悔しくて・・・・。
自分だけ取り残されたような気持ちになって・・・。
イメージはあるのに思うように描けなくなっている自分の腕に情けなくなって、不安になって・・・。
私は何をしているのだろう・・・。
筆を置いて、何年たったのか・・・。
描かなくなってどれだけ過ぎてしまったのか・・・。

あんなに描く事が苦しかったのに・・・。

何枚も描きなぐった絵は、下手くそだった。
思うように描けなかった。
すごく焦った。
でも、腕は覚えていた。
紙に水張する絶妙なタイミングを。
絵の具同士の相性を。
絵の具と水分の微妙な表現を・・・。

人形劇団に入ってすぐ、『ジャックと豆の木』のジャックのキャラクターデザインを描いていたときに、先輩に
「本当に絵を描くのが好きなのねぇ」
と言われてハッとした。

忘れていたのだ。
いや、自分で封印してしまっていたのだ。
絵を描く喜びを。
描きたいという意欲を。


「絵の上手いお前を選んだんじゃない」
と言われた時、
「美術っていらない教科だよね」
と言われた時、
自分の存在を全否定されたような傷つき方をした。

自分を見失ってもがき苦しんだ。


今、いろいろとしんどいことはある。
けれど、誰にも遠慮せずに絵が描け、今までやってきたことを生かせ、必要とされたり、誰かの役に立てることがすごくうれしい。
もっと上手に描けるようになりたいと意欲を持つ生徒に教え、その子の上達を見守ることや、美術を苦手に思ったり、嫌いだった子達が、少しでも好きになって、興味を持ってくれることがうれしい。

今、『精霊の守り人』の背景を見て、悔しさと言うのはない。素直に感動し、逆に創作意欲が掻き立てられる。

『もののけ姫』との出会いは、私の封印を解いた。

人形劇との出会いは、舞台芸術としての立体・空間表現の面白さを教えてくれた。

そして、図工・美術の授業を通して、教える立場でありながら、子ども達から教わることや刺激を受けることのほうがはるかに多い。

私は、今、アニメの世界からも、舞台の世界からも離れたところに身を置いている。

でもどんな環境や立場であれ、一人の表現者として、自分自身を封印することなく、貪欲に絵を描いていきたいと思う。

『精霊の守り人』のサイトを見たら、原作本があることを知った。
現在、1話~4話まで無料配信している。
自分自身に渇を入れ、活性化させることができる作品に出会えたことに感謝する。

『スラムダンク』にハマって1年

2007-08-26 19:25:42 | アニメ


1年前、バスケ部の教え子から『スラムダンク』の面白さを教えられ、夏休みにDVDでアニメを見、その続きが見たくてコミックを買い、すっかりハマって、完全版を読破した。

制作に6年もかかったという作品を一気に読み終えた後、作者に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
と同時に、連載当時、リアルタイムで読まなかった残念さ・・・。

遅ればせながらのファンではあるが、以来、すっかりハマってその熱は冷めるどころか、周りを巻き込むほど。
同時に今までさほど興味も無かったバスケが好きになり、自分ではできないけれど、生徒の試合を応援にいったり、バスケ部の生徒とは自分の学校の生徒だけでなく、他校の生徒でも、卒業生とでも、誰とでも仲良くなることができる。
いわゆる『スラムダンク世代』といわれる大人の人とでもすぐ打ち解けられるのだ。
スラムダンク効果はすごい!

当初、そんな私のハマリぶりを笑って見ていた娘(小6)もいつの間にかハマり、『スラムダンク』は今や彼女のバイブルとなり、中学に進学したら、女バスに入部するのを夢見て、毎日基礎練習に励んでいる。

昨年、3年生の副担任だったこともあり、テストや試合のたびに『諦めたらそこで試合終了ですよ』の名言を紹介し、入試直前にはバスケットボールの水墨画にその言葉を書いて貼り出し、皆にエールを送った。

そんな小さなきっかけでも、たくさんの『スラムダンク』ファンが生まれた。
最初は「何それ?先生、本貸してよ」
といっていた生徒たちも、卒業する頃にはいっぱしの論客ぞろいだった。
受験で引退したバスケット部の連中も、『先生、バスケがしたいです(涙)』とコメントを送ってよこしながら、高校受験を突破して行った。

今度の赴任先でも、『スラムダンク』ファンとバスケット人口を増やすべく、私の『スラムダンク』『布教』は続けている。


作品についてのキャラクター、ストーリー構成の良し悪しは、様々な人が書いている。
同感!と思うコメントもあるし、そういう視点で見るとなるほどと思うもの、いろんな先入観や表面的なことにこだわって、本質を見ていない人など、読んでいてなかなか面白い。

6年がかりで書かれた物語は、主人公たちだけでなく、作者自身の成長振りも目覚しい。
1億人突破記念に発表された新聞各紙の一面に描かれた湘北メンバーのイラストとコメント。桜木花道の『1番楽しんだのは自分かもしれない』というのはそのまま、作者の本音だと思う。

この夏、再度読み直して、更に新たな感動を覚えた。
この物語のすべてはの、あのハイタッチシーンのためであり、山王戦のの勝敗を分けたシュートが、ダンクではなく、あの『合宿シュート』だったことは最高だった。
ラストシーンの終わり方は、多くの『自称小説家』を生み出したことだろう。
それだけ創作意欲を掻き立てる登場人物たちだった。
名作は名作を生む。
あの物語を読んでバスケットを始めた人たちと同じように、今も、あの物語は自分自身の中で現在進行形なのだ。

それほどの影響力を持つほどすごい作品だと思う。
まだ読んだことのない人はぜひ、読んでみてほしい。
時代設定は古いかもしれないが、たとえ、更に10年、20年たっても色あせることの無い名作だと思う。

もし、私が作者であれば、連載終了10年を経た今、第2部を書くとすれば、登場人物も、時代もまったく新しい設定で書くだろう。ただ、物語の中で、回想シーンやエピソード、近況報告として第1部の登場人物に触れることはあるだろう。
設定としては、高校教師として赴任し、人気の停滞したバスケを復活させ、部顧問として再び全国を目指す小暮君の視点で見た物語として。
でも、桜木花道や流川楓を越すぐらい魅力的なキャラクターを活躍させるのは、至難のわざだなぁ・・・。

『ミヨリの森』 考

2007-08-26 09:27:00 | 徒然なるままに
昨夜、フジTVで『ミヨリの森』と言うアニメを見た。http://www.fujitv.co.jp/miyori/index2.html

劇場公開したものをTVで見るというのではなく、昨日1晩のためだけのTV放映作品だった。

小学校6年生のミヨリという名前の少女が主人公の物語。
現代の子ども達が抱える様々な問題(いじめ、複雑な家庭環境)や、環境問題を下敷きに、ミヨリの父の実家がある飛騨の自然の中で成長していく物語。

1時間半の中でよくまとまった作品だと思った。
美術監督があの山本二三氏なだけあって、見ごたえのある背景だった。
自然の表現だけでなく、飛騨の民家の外観も内部も、細かいところまで生活観あふれる描き方だった。
これこそ、劇場の大画面でじっくり見たいほどの書き込みの細かさ、リアルさだった。

ストーリーを楽しむと言うより、職業柄か、『このたった2,3秒のために、何時間かけて描いたのだろう』と、背景ばかりに目が行ってしまった。

一番印象に残ったのは、ミヨリが、男に捨てられて自殺した女性の幽霊と戦うシーン。
『何でも人のせいにして、誰かを恨んでひどいことをする弱いやつは嫌いだ』
と言って、戦いながら、自分が今置かれている状況を、両親や自分をいじめていた子、田舎のせいにして、誰かや環境や社会のせいにして、ひねくれていた自分を思い起こす。
幽霊と戦いながら、弱い自分と対峙して全身でぶつかっていく。
その瞬間、夜叉のようになっていた幽霊は、優しい顔になって、
「ありがとう、ミヨリちゃん」
と微笑んで、浄化され、『オコジョ』に変化して森に帰っていく。
その後姿に
「今日からあなたも森の仲間よ」
と声をかけるミヨリ。

もうひとつ。
自分を迎えに来た母親をバス停で見送るシーン。
「お父さんとお母さんが一緒のところには戻るけれど、そうじゃないなら私はここで暮らす」
とミヨリ言われ、
「お父さんはどう思っているかしら」
と言う母に、
「お父さんの気持ちはお父さんに聞いてよ」
と言う。すると母は、
「そうね。しばらくお父さんと話をしていなかったからね。話してみる。」
と言って、バスに乗って去っていくシーン。
それを見送るミヨリの顔は、親に捨てられて、不安で自暴自棄になっていた頃の顔ではない。

守られる立場の子どもが、自分の意思で自分の居場所を守り、仲間を思い、自分をはぐくんでくれる人を思いやることができるようになっていく。

同級生の男子が、学校の友達に、敵対していたミヨリのことを
「ミヨリは本当に強いんだぞ」
というシーンがあるが、
喧嘩やスポーツが強いだけでなく、優しくて勇気があることを言っているのだ。
守るべきもののために、自分の弱さを認め、それに打ち勝とうと言う気持ちを「強さ」を言う言葉で表した少年の気持ちがうれしかった。

この物語でちょっと物足りなかったのは、森の精霊がいろいろいっぱい出ていたわりに、なんだか見た目のわりには個性が出ていなかったこと。
主要なキャラクターはそこそこ個性は出ていたが。
何の精霊かわからない。でも、いちいち紹介していたらきりがないからか・・・。
なんだかその他十把一からげみたいでもの足りなかった。

私が小学校6年生のときに、NHK少年ドラマシリーズで『ユタと不思議な仲間たち』と言うドラマを見た。
都会から転校してきたユウタ少年と座敷童たちの友情の物語。
座敷童たちがオムツをしているのを不思議に思ったユタに、「座敷童は間引きされた水子の幽霊だ」とリーダー格の座敷童が話すシーンには子ども心に泣けた。

森の精霊たちにはそんな過去も事情も無いかもしれないけれど、あまりインパクトが感じられなかった。


それにしても、昨年劇場アニメ映画化された『ブレイブストーリー』もそうだったが、主人公がいろいろ複雑な家庭所事情を持っていると言う設定の物語が多いように思う。
今までにもそういう物語が無かったわけではないし、むしろ、童話や昔話の世界にも古今東西たくさんある。
ただ、いわゆる『大人の事情、言い分』と言うのはあまりリアルに取り上げられていなかったように思う。
子どもの成長と対極に設定される『大人の事情、言い訳』は、身に詰まされるほど現実的でこっけいで、大人気ない。
つくづく、子どもたちにとって、一番いい環境というのは、物や交通事情、設備に恵まれていることではなく、両親をはじめ、子どもと関わる大人たちの生き様なのだと思う。
『はだしのゲン』の両親のような、ゆるぎない信念と、愛情深さ。
 
子どもたちの『受難の時代』を繰り返さないためにも、かつて子どもだった大人たちにもぜひ、見てほしい作品だと思った。


『バスケットは好きですか?』

2007-08-25 19:43:00 | 徒然なるままに
今日、初めて小6の娘のバスケット*(バスケ)*の練習を見た。

娘はこの夏休みからバスケをはじめたばかり。
小4~小6までの男の子女の子が入り混じっての元気な練習風景。
中学校の部活のそれとは雰囲気は違うものの、真剣さは負けていない。

しばらく練習(チームに分かれて試合形式)を見ていて思ったのは、バスケットは身長が高ければOKというわけではないということ。
小さくても、敏捷性があって、シュートを打った後の戻りの速さや、スクリーンをかけられたときの身のこなし、パス回し、そして確実なシュートフォームがあれば、身長差のハンデなど物の数にも入らない。

何度もシュートを決めていた小4の子に、休憩のとき、思わず
「上手だねぇ!どうしたらあんなにシュートが決められるの?」
と声をかけたら、
「慣れと練習」
と答えが返ってきた。
「いつからやっているの?」
と聞いたら、
「1年生のときから」
と、はにかみながら答えてくれた。

子どもたちの生き生きと駆け回る動きの良さと、1つのボールをみな一丸となって真剣に追いかけるひたむきな姿は、見ているこっちが元気をもらえる。

まだ初心者ながら、早くみんなに追いつくべくがんばっている娘の姿に感動した。

仕事が始まると練習を見に行く時間も取れなくなるが、いつも元気にバスケができるよう、健康管理にだけは気をつけてあげよう。

がんばれ!ぴっぴ!!*(バスケ)*



帰省2 両親の携帯電話

2007-08-25 18:44:00 | 徒然なるままに
先日帰省したとき、両親の携帯電話*(携帯)*を、最新モデルに機種変更&新規登録してきた。
5年前に購入したにもかかわらず、電気代がもったいないからとのことで、ほとんどの時間電源を切ってスタンドにさして、居間に飾ってあっただけの携帯電話。
登録されているのは私たち三兄弟の番号だけで、上京するときだけ携帯すると言った使い方。
でも、着信履歴も、発信履歴も見方がわからず、メール機能もなかった。

そこで。
今回帰省したときに、その旧モデルから、父には『ワンセグ付き、マイクロSD内臓』のWIN、母には写メールも送れて、短縮ボタン機能が付いている『簡単携帯』に変更すべく、auショップに父を連れて行った。

父は6年前、癌の手術をし、現在もその時取り除ききれなかった癌細胞と戦いながら、私たち若い者や健康な者に負けず劣らずバイタリティーのある毎日を送っている。

今回も、手術してから2度目の回顧展を開き、現在も年数回の各展覧会応募に向けて、意欲的に制作活動をしている。

手術後当初、ワープロしか使えなかった父に、私のパソコンを持ち帰り
「この窓からいろんなところに行けるし、いろんな人に自分の作品を見てもらったり、情報を発信できるんだよ」
と、インターネットの面白さと可能性を見せた。

発病前、元気なうちに本物の絵を見たいと海外旅行をして、美術館巡りをしたり、いすを倒せば布団も敷けるワンボックスカーで日本中スケッチ旅行していた父。

癌と診断され、どれほどショックだったことだろう。
とりきれないがん細胞を抱えての闘病生活は、爆弾を抱えるような不安と諦めの毎日・・・。

そんな父に、パソコンは、いろんな可能性を提供してくれた。
いながらにして世界中の美術館をめぐることができたり、自分のHPを立ち上げて、作品を発表したり、ン仲間探しができたり。今では、パソコン機能を使って、絵の会の画集を編集したり、チラシをデザインしたりと、パソコンを紹介した私以上の使い手になっている。

携帯をワンセグにしたのは、『地震情報』が入るのと、自分で撮った画像を大きめの画面で見ることができるから。
毎日マニュアルと格闘しながら、母と一緒にauショップお姉さんに使い方を教えてもらいに行っているのだとか。

母は、『冬のソナタ』の待ち受け画面と着メロ登録に四苦八苦しているみたい。
毎晩、二人で、あーでもないこーでもないと携帯をいじりながら、時々、間違って私の番号につながったりして、悪戦苦闘している様子は実にほほえましい。

今度こそ、土産物と一緒に棚に飾られている『置き電話』ではなく、『携帯する電話』として活用してもらえるよう、千葉の空の下から子供たちの様子を写メールで送ってあげよう!



『精霊の守り人』を目指して

2007-08-25 10:48:00 | 徒然なるままに
毎週土曜日のお楽しみ。
現在、BS11のNHK衛星アニメ劇場で放映中の
『精霊の守り人』http://weekly.yahoo.co.jp/25/moribito/index.html
『彩雲国物語』http://www.kadokawa.co.jp/saiunkoku/index.php

ストーリーの面白さ、登場人物の魅力、絵の上手さ・動き、表情の描き方は他のアニメの群を抜いている。
特に、背景の質の高さは圧巻だ。
『精霊の守り人』の背景画は、あのまま劇場用としても申し分ないほどの密度と表現力 だと思う。一枚一枚が『絵画』になっている。
毎回毎回、ため息が出るほどだ。

かつて、劇場で『もののけ姫』を見たとき、あの背景を見て、血がざわめき、逆流して、まさにかのアシタカの如くに右腕が暴れだしそうになるのを拳を握り締め、唇を噛んで我慢し、泣きながら画面に釘付けになっていた。

帰宅するなり、何かにとりつかれたようになってスケッチブックに描きなぐっていた。
悔しくて、悔しくて・・・・。
自分だけ取り残されたような気持ちになって・・・。
イメージはあるのに思うように描けなくなっている自分の腕に情けなくなって、不安になって・・・。
私は何をしているのだろう・・・。
筆を置いて、何年たったのか・・・。
描かなくなってどれだけ過ぎてしまったのか・・・。

あんなに描く事が苦しかったのに・・・。

何枚も描きなぐった絵は、下手くそだった。
思うように描けなかった。
すごく焦った。
でも、腕は覚えていた。
紙に水張する絶妙なタイミングを。
絵の具同士の相性を。
絵の具と水分の微妙な表現を・・・。

人形劇団に入ってすぐ、『ジャックと豆の木』のジャックのキャラクターデザインを描いていたときに、先輩に
「本当に絵を描くのが好きなのねぇ」
と言われてハッとした。

忘れていたのだ。
いや、自分で封印してしまっていたのだ。
絵を描く喜びを。
描きたいという意欲を。


「絵の上手いお前を選んだんじゃない」
と言われた時、
「美術っていらない教科だよね」
と言われた時、
自分の存在を全否定されたような傷つき方をした。

自分を見失ってもがき苦しんだ。


今、いろいろとしんどいことはある。
けれど、誰にも遠慮せずに絵が描け、今までやってきたことを生かせ、必要とされたり、誰かの役に立てることがすごくうれしい。
もっと上手に描けるようになりたいと意欲を持つ生徒に教え、その子の上達を見守ることや、美術を苦手に思ったり、嫌いだった子達が、少しでも好きになって、興味を持ってくれることがうれしい。

今、『精霊の守り人』の背景を見て、悔しさと言うのはない。素直に感動し、逆に創作意欲が掻き立てられる。

『もののけ姫』との出会いは、私の封印を解いた。

人形劇との出会いは、舞台芸術としての立体・空間表現の面白さを教えてくれた。

そして、図工・美術の授業を通して、教える立場でありながら、子ども達から教わることや刺激を受けることのほうがはるかに多い。

私は、今、アニメの世界からも、舞台の世界からも離れたところに身を置いている。

でもどんな環境や立場であれ、一人の表現者として、自分自身を封印することなく、貪欲に絵を描いていきたいと思う。

『精霊の守り人』のサイトを見たら、原作本があることを知った。
現在、1話~4話まで無料配信している。
自分自身に渇を入れ、活性化させることができる作品に出会えたことに感謝する。