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キリスト教を学ぶ

2005-01-20 23:02:00 | 徒然なるままに
1月18日(火)

午前中、友人が来て久しぶりにお茶をした。
彼女は敬虔なクリスチャンで、彼女の信仰の深さと勉強熱心さにはいつも学ぶものが多い。

私は、この夏、玉川大学のスクーリングで、いろいろな講義の中で、キリスト教について学ぶ機会があった。
特に、『教師論』や『教育学名著』の講義では前提および、発展として、キリスト教の思想についての勉強は必須だ。

そういう意味もあって、これから毎週彼女にキリスト教について教えてもらうことにした。

仏教でもそうだが、元はひとつなのに、いろいろな宗派に分かれているように、キリスト教についても、カトリック、プロテスタント、エホバの証人、モルモン教ETCといろいろに別れている。
それぞれ解釈は違うのだろうが、仏教も、キリスト教も、どんな宗教も一番の元は『愛』であり、『平和』なのだと思う。
人として生きていくうえで、親として子どもを育て、教師として人を導く上で、あまりに迷いも多く、経験も少なく、自身のない私としては、その欠落部分を補強し、自分自身を成長させるために、『知識』が必要だと思う。

以前ある人に、
「おぼれている人を助けとうとするとき、むやみに飛び込めば自分もおぼれる。でも、しっかりした木に縛られている綱につかまっていれば安心して救助できる。その木や綱が信仰だ」
と、いわれた。
でも、私の中でだからと言って自分も信仰しようと言うところまではいけない、「引っかかり」がある。
それが何かわからないと彼女に言ったところ、彼女の言葉で興味深かったのは
「私が心から身を投げ出して助けようとしたとき、神はけしてあなたの手を離さないでしょう。神はあなたにとって、必要な助けを与えてくださる。それが信仰です。」
と言う言葉と、
「『聖書』は人として生きていくうえでの『マニュアル』であり、『知識』です」
と言う言葉だ。

以前、NHKの特集で、コルベ神父のことを放送していた。
第二時世界大戦中、収容所の中で、拷問の身代わりを買って出、あらゆる拷問ね耐えながらも人としての尊厳を失わず、獄死した人だ。
彼を支え、ともに苦しんだ人たちを救ったのは「マリア信仰」だった。
遺体を処理した人たちが、後に、「最後まで人として死んだのは彼だけだった」と語ったと言う。
泣きながら番組を見終え、彼の意志の強さと慈悲深さに感動した。
コルベ神父について知りたいと思い、彼のこの生きる姿勢はどこから来るのだろうと大いに興味を抱いた。

「真理」についてはあまりにテーマが大きすぎて、多くは語れないが、人智を超えた大きな力、法則と言うのがこの宇宙には存在するのは確かだと思う。
このたびのスマトラ沖地震・津波など、人間の文明をあざ笑うかのような現象だ。

そういう自然や目に見えない力に対しての恐れと畏敬の念は、昔の人ほど強かった。
そして、自然の中の自分を意識し、自然との共生を真摯な気持ちで実践してきた。
今、生態系に限らず、いろいろなメカニズムやリズムが狂ってきている。これは『警告』だと思う。
自然や自分があるべき姿と、それに対してなすべきことを真剣に考えたいと思う。

午後、子宮がん検診に行った。
初めてのことで緊張したが、健康管理・早期発見・早期治療は親としての最低限の責務と思う。

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