東日本大震災、なぜ長く揺れた

2012-03-29 16:19:21 | 報道
 東日本大震災が起こった昨年3月11日、私は東京のオフィスの14階にいました。

 揺れがいつまでたっても収まらないので、次第に不安感が増していったことを覚えています。


 宮城県大崎市古川の地震計記録を見ると、東日本大震災では、50ガル(ガルは加速度の単位で地震動の大きさを示す)以上の強い揺れが3分も続いています。過去20年間に国内で被害を出した地震の3~9倍の長さです。1995年の阪神・淡路大震災の震動継続時間は、10~15秒ほどでした。


 東京大学地震研究所・広報アウトリーチ室によりますと、地震は、地下深くで、岩盤がばりばりと割れていく現象です。最初に割れ始める点を「震源」と言い、割れた面積の合計が「震源域」の面積です。地震のエネルギー(マグニチュード=M)は、この面積に基づいて決めます。面積が広いほど、マグニチュードも大きくなります。


 岩盤の破壊は時間をかけて進んでいくので、割れた面積が広い地震、つまりマグニチュードが大きい地震ほど、揺れる時間も長くなるのです。

 東日本大震災では、南北500キロ・メートル、東西200キロ・メートルという広大な範囲の岩盤が割れました。だからM9という巨大地震となりました。一方、阪神・淡路大震災はM7.3で、割れた範囲は50キロ・メートル×20キロ・メートルくらいでした。


 大正(1923年)の関東大震災はM8程度だったと推定され、当時の日記などには「揺れが1分から2分続いた」と書かれています。近い将来起きると想定されている首都直下地震は、阪神・淡路大震災と同じM7クラスなので、継続時間は10秒から数十秒と予想されます。


 揺れが長かった場合、海の近くに住んでいる人は、津波への警戒を強めた方がよいでしょう。地震の揺れの強さだけでなく、継続時間についても、避難行動を考える「ものさし」として意識すべきだと思います。
(調査研究本部研究員 芝田裕一) 

チェルノブイリ原発事故、除染の盲点

2012-03-29 00:21:34 | 政治
原発を乱造した自民党は謝罪しないのか?

 福島第一原発の事故を受け放射性物質の除染作業が本格化していますが、実はある「モノ」の存在が見落とされている可能性があります。チェルノブイリ原発事故の際、1400キロも離れた場所で除染作業をしていた作業員が相次いで7人も死亡しました。一体、何が起きていたのでしょうか。

 友はもう何も語りません。

 「そこに墓があります」(オットー・ツェルナーさん)

 オットー・ツェルナーさん(79)。今から26年前、ある作業に従事したことで次々と仲間を失いました。この場所には同僚だったノイキルヒさんが眠ります。

 「彼はがんで亡くなりました。原因は放射能です」(オットー・ツェルナーさん)

 1986年4月、旧ソ連のチェルノブイリで起きた原発事故。破壊された原子炉から大量に放出された放射性物質は周辺の国々を汚染しました。この時、放射性物質を運んだのは風や雲だけではありませんでした。

 「東ドイツからの車両は全て徹底的にチェックされます」(ドイツのTVニュース 1986年5月)

 事故の直後、原発から1400キロほど離れた東西ドイツ国境の様子。多くのトラックが足止めされています。当時、ウクライナや東欧から農産物など安い物資が西ドイツに運ばれていました。しかし、西ドイツは放射能汚染を恐れ東側からの入国を拒否、車両が列を成しました。そこで、東ドイツ政府はツェルナーさんら運送公社の職員8人に「トラックの除染」を命じたのです。

 「ガイガーカウンターを渡されて私たちが放射線量を測定するよう指示された。測定器はけたたましい音を鳴り響かせていたが、耐えられずに除染作業中は音を消していた」(トラックの除染に当たったオットー・ツェルナーさん)

 すでに放射性物質に汚染されていたトラック。しかし、作業員たちはマスクなどで防護もせず、モップを使い除染の作業をこなしました。その数は100~200台に上るといいます。

 任務は洗車だけではありませんでした。エンジンに送る空気をろ過する「エアフィルター」の交換です。このフィルターにはほこりや細かいちりなどが付着します。

 「フィルターも放射能汚染されていた。外から空気を吸い込むので放射能がたまる。外側よりフィルターの方が汚染されていた」(オットー・ツェルナーさん)

 除染作業は2か月で終わりましたが、3年後に悲劇が始まります。まず、フィルターを交換していた作業員が肺がんで死亡しました。まだ30代でした。10年のうちに除染の作業員8人中6人が亡くなりました。全てがんでした。

 作業員の死亡と放射性物質の因果関係はあるのか・・・そもそもトラックはどれほど汚染されていたのか・・・ある場所に原発事故後の記録が残っていました。当時、トラックは国境にほど近い東ドイツのサービスエリアにも集められていました。そして、交換されたエアフィルターは倉庫に保管されていたといいます。山積みになっていたというエアフィルター。扉の前で、東ドイツ政府の命令を受けた放射線の専門家たちが線量を測定していました。

 「倉庫の入り口で測定したところ、毎時20ミリシーベルトの放射線量を記録した」
Q.1時間あたり?
 「そう、1時間あたり。とても高い数値です」(マクデブルク大学病院 トリーネ教授)

 同時のメモが残っています。2レントゲン、つまり20ミリシーベルト。これは国際的な基準で原発作業員が年間で許容される被ばく量に相当、それを1時間で浴びてしまう計算です。

 「この線量を一度に浴びると遺伝子に異常を起こすおそれがある。すぐではないが、3~4年後に 甲状腺がんを発症するおそれも出てくる」(マクデブルク大学病院 トリーネ教授)

 その後、ツェルナーさんと一緒に除染に当たっていたノイキルヒさんも直腸がんと前立腺がんを相次いで発症しで亡くなりました。除染に当たった作業員8人のうち7人ががんで死亡したことになります。

 「私は日本でも被害者が出るのではと不安を感じている。大量の放射線量を浴びれば病気になり、がんで苦しんで死ぬことにもなる。そう考えただけでも気が重くなる」(除染作業に当たったオットー・ツェルナーさん)

 原発事故の現場から遠く離れた場所で起きた「被ばく」をどうとらえるのか・・・警鐘が鳴らされています。(