喜寿をむかえた男の遊々生活!

喜寿を迎えた老人の日々を日記に・・・

あれから早や24年経ちました。

2019-01-18 08:54:27 | 日記
 17日午後、何時も通り 小学校へ入りました。
先日 治した剪定ばさみを持ち、校内の植木を見て
周り、枯れ枝や 何処からか運ばれてきたであろう
自生した木や、運動場西側のサツキの中に笹が生え
ているのを切ったり、北西隅に大きな木を切って
いるのが株元から 新しい新芽が出ているのを
切ったり、 それらを生ごみとして取ってもらう
為に50センチ内に切り、生ゴミ袋の詰め込んだり
の作業。

 一段落して、校舎の中庭に揚げてある校旗を見る
と半旗になっている。
”あぁ 今日は神戸・淡路大震災の日だった”。
学校では午前中に 避難訓練が行わる日でもあった。

半旗で掲げられた校旗。

 当時を思い起こしました。
あれは確か 早朝6時前、私の自宅裏は山ですが
ゴオーと言う 山鳴りがして床で目を覚まして
いた私は”これは大きな地震がくるな”と思う
まもなくガタガタと大きな揺れ、 当時家には
 妻と高校生だった娘と 今は亡き母親でした。
その頃、長男は京都の㈱トーセに勤め、次男坊は
大阪の福島から学校へ通っていました。

 母が「何処が震源地やろ」と言うのでテレビを
付けるもののNHKの放送局内が写されるだけ、
7時になると神戸駅周辺を映し出しました。

 私は その頃 宅建業にトラバーユしてから
3年目、何とか軌道に乗り、これから本格的に
・・・と言う矢先でした。

 それからのテレビ番組は 何処の局も地震
ニュースばかりでした。


 私の事務所へは毎日のように被災者が立ち寄っ
たり、ひっきりなしに電話が掛かってきたり。
”貸家がないか?アパートはないか?”との
問い合わせでした。
その頃、私は 大東建託と提携したりしていた
ので 今のように大東建託は西脇に事務所はなく
加古川、姫路にしかなかったので 沢山の被災
者に斡旋し契約を取り交わしました。
また当時、”あんな怖い所に住みたくない。
家を探してほしい」。と言われ お世話した
ものですが、 それから10年も経つ頃には
”やはり田舎は住み難い。街へ帰りたい”。
との事で、家を売り払い、神戸へ殆どの方が
帰られました。

 不幸にも大勢の方が亡くなった大震災でし
たが、私の仕事は、開業して以来 毎日が忙し
かったのを思い出します。
既に その頃、当然の事、西脇市や多可郡
南は三木市、小野市、加古川、三田市をエリアに
仕事をしていた私は走り回っていました。

 震災が落ち着きを取り戻したときも、神戸の
芦屋で商売をしましたが、園田競馬場の横を
通り、門戸大橋とか言う陸橋が崩れていたのを
尻目に何度か羽衣町の同業者と共同仲介で商売を
行ったものです。
また吉田司法書士の吉田康男先生ともに何度も
取引に立ち会ってもらうため、ご一緒しました。

当時 あの大塚薬品の社長の豪邸が 地震に
見舞われ崩れていたのを思い出します。

 当時は私も50歳そこそこ 油も乗りに乗り
この年、私は個人から法人に切り替え 支部は
当時 西脇商工会議所7階に有ったのですが 
役員に加わって欲しいとの要請もあり、商工会
議所の下には証券会社や、お越安の姉妹店で
”さくら”と言うレストランもあり、 そこで
何度となく会合を持ったことを思い出します。