「ちょうど、翌々日の朝だっけね、烏から、取り上げたのさ。中に、字が書いてあってね、そういうので仰いだら、なかなか優雅な気分になれるんじゃないかってね・・・。」
広げられた白い扇には、和歌が記されている。・・・恋の別れの歌?男手で書かれている。実資(さねすけ)にも、見覚えのある字だった。・・・通雅か・・・三位の中将、藤原通雅。故関白道隆の孫で、その道隆の嫡男、伊周(これもすでに故人)の息子。伊周が、今の関白道長に政争で負けなければ、もっと日のあたる人生を歩めたかもしれなかった人物だ。三位の位ではあるが、ある意味、政治からは干されたような日々を送っており、これからも、ずっと変わらないだろう。道長の娘の産んだ皇子が即位しており、嫡男の頼道が左大臣についている。すでに、同じ摂関家九条流の権力闘争も勝負はついていた。屈折した思いのせいか、通雅は、荒三位といわれるほど、暴力沙汰を起こしたり、人々が眉をひそめる人物だ。
しかし、それもここのところ、あまり噂も聞かなくなったはずだが・・・・・。
「荒三位は、かの女房と、付き合いがあったのか・・・。」
わざわざ、扇に恋歌を書いて女に与えるのだから、それなりに、遣り取りのあったと見なすべきだろう。
「・・・今はただ思ひ絶えなんとばかりを・・・なぜ、別れの歌なぞを?」
他に特徴はないかと、扇を月明かりに照らして、掲げてみたりして、よく見る。裏返したり、表を向けたり、白い扇面が闇夜にひらひらと舞う。すると、優雅な香がふわり、ふわりと、風に浮かび上がる。実資(さねすけ)が首を傾げる横で、月冴えがくんくんと、その匂いを嗅いでいる。その月冴えが。
「ここに、落ちてたってことは、そいつが犯人ってことか?・・・それにしても、これ、男が持つには甘過ぎる香りが混じっているね。」
月冴えは、この扇が男物だと思っているから、単純にそう思っているようだ。
実資(さねすけ)は、広げた扇をバサッと煽る。薫香の香りが強くなり、風に流れた。扇を閉じる。
何で、別れの歌なんか大事に持っていたのだろう。
持っていたからには、まだ、心が残っているからで・・・・。
しかし、歌の内容から、男の方も未練たらたらだ。刃傷沙汰に発展しそうな要素はなさそうだが・・・・。無理心中?いやいや、別に二人を引き裂く要素も見当たらない。
「人づてならで言ふよしもがな・・・この歌、どこかで・・・?」
使いまわしか?歌の不得手の者ならば、古歌や、代作の歌をちょっとひねくって送るということもあるだろうが・・・。同じ自分の歌をまんまじゃないか。・・・普通は、やらん。使われていた歌が、わりと有名になった恋愛沙汰だったのですぐ思い出した。別の女との別れの歌を扇に書いて男が与え、女はそれを持っていた?一体、どういう仲なのだ。
実資(さねすけ)が、閉じた扇を手の中でぽんぽんと打ち鳴らしながら。
「いや、これを持っていたのは、かの女房・・・。香りが染みているということは、長く彼女の持ち物だったのではないか?・・・・荒三位のものではなかろう。」
月冴えが、眉を寄せた。
「じゃあ、亡くなった時に持ってた物ってことか。・・・いいのかい?あんた達、死人の持ち物だったら、穢れに触れたとか、大騒ぎするんじゃないのかい?」
実資(さねすけ)は、しっかりと閉じられた扇の柄を握っている。
「亡くなる前に落としたのかもしれん。それだと、穢れの程度が違ってくるとか、陰陽師達は色々いうが、まあ、目撃者がいるわけでなし、これが、死者の物だといって騒ぎ立てる者も今ここにいない。それに・・・年のせいか、すぐ物忘れするからのう。明日になって、どうしても気になったら、鉦(かね)でも打たせておけばいいだろう。」
鉦は、邪気を祓うために打たせるのだ。つまり、気が変わって、怖くなりでもしたら、適当にお祓いっぽく済ませておけばいいか、ということだ。
「あたしが言うのもなんだけど、いいのかねえ・・・。」
「構わんさ。それに、これに、悪い感じはしないしなあ。」
「・・・そう言えば、たまに見えたりすることあったっけ・・・。」
「ほっ。見えるだけなら、ごくたまに見えるぞ。特に、人の悪意の塊なんかはな。白昼堂々、道長殿の膝に無数の呪いの矢が刺さって見えた時は、さすがに驚いたが。」
「何だかねえ・・・・・。あたしら物の怪より、性質(たち)の悪い奴がいるよ。お貴族さまって。」
月冴えが、肩を竦めている。
実資(さねすけ)が、ふと注意を逸らし、首を傾げる。
「変だ。誰かに呼ばれた気がしたが・・・。」
「やばっ。時間を食っちまった。部屋に戻るよ。」
「何?」
実資(さねすけ)は、月冴えに、また手首を持たれたと思ったら、行きと同じように体の重みが感じられなくなり、眼下に京の大路小路の碁盤の目を見た。目に飛び込んで来た月はもう、山の端に沈もうとしている。来た時と逆回し、しかも、数倍速い速度。目がまわる・・・っ。
「ああ、結局勝負がつかなかった。唐(から)菓子(かし)は、お預けだねえ。」
くらりと、眩暈がして、朦朧とした意識の頭に月冴えの声がする。実資(さねすけ)の口元が、笑っていた。
また、今夜にでも来ればよいではないか。」
「さあね。次はいつになるか、わからないよ。じゃあね、小野宮殿。」
どこかで、夜が明ける気配を感じた。実資(さねすけ)は、そのまま眠りに落ちる。はっと、目が覚めると、朝の仕度をするために身の回りの世話を任せている女房の声がする。主が、起きているのか、もう、朝の仕度を始めても良いかどうか、伺いを立てる声に、返事をする。
実資(さねすけ)は、きちんと臥所(ふしど)に横になっていた。昨夜着ていたものは、さすがにそのままだが、上げられた格子戸は、閉まっている。碁盤も、その位置には見当たらない。
「・・・夢・・・・?」
大儀そうに体を起こすと、額に手を当てて、ほっと息を吐いた。近付いてきた女房が、心配そうに見ている。それに気付くと、苦笑いしつつ、実資(さねすけ)は体をしゃんとさせる。手に、扇の柄の角があたり、目をぱちぱちさせた。
「昨夜は、書見の途中でどうにも眠くなって、そのまま眠ってしまった・・。」
「左様でございますか。いつも殿様は、すぐにお目覚めになるのに、お返事がございませんでしたから、具合でも悪いのかと思いましたわ。」
「うむ。具合が悪いわけではない。・・・少し、庭を歩いて来るから、その間に、粥を用意しておいてくれぬか。それから、参内する。」
「いつもはお食べにならぬのに?かしこまりました。用意いたします。」
めずらしいこともあるものだという顔の女房は、それでも腹がすくぐらいだから、お元気なのだと勝手に納得して、準備を整えるために部屋を退出して行く。
するするする・・・と廊下を長い裾を引いて、彼女が出て行くと、実資(さねすけ)は、扇を取りあえず文箱の中にしまう。それから、部屋に置いてあった入り豆を懐紙に包んで、庭に出た。昨日あたり、月冴えが出てきそうだと、つまむものを本当に用意してあったのだ。見た目は、ちょいと好い女なのに、あの物の怪は、いつも腹をすかしている。美味そうに食うので、予感がするときは、用意してやるのだ。
お気に入りの泉のそばに、懐紙に包まれたそれを置いておく。
その日は、いつもよりかは、ゆっくりの時間に、実資(さねすけ)は出勤した。
月冴えが、いり豆に気付いたのかどうか・・・・・。それは、わからない。
ただ、帰って来て確かめて見ると、いり豆は無くなっていた。豆だから、鳥が食べたのかもしれないが、懐紙ごとなくなっていたから、おそらく、月冴えの仕業だろう。鳥が紙ごと持っていくはずがないではないか。きっと、月冴えが持って行ったのだ。
今度はいつやって来るのだろう。そう思った実資(さねすけ)も、しばらくの間、忙しさに取り紛れて、忘れていた。扇のことも、調べるべく動くこともなかった。何しろ、正月だ。それでなくとも、儀式や何やかや、年中行事で、下手すると一年中、貴族たちは忙しいのだ。上が、そんな感じだからか、捜査が進まないのはいつものことなのか、犯人らしき男は捕まったが、検非違使から、目新しい進展も聞こえてこなかった。
広げられた白い扇には、和歌が記されている。・・・恋の別れの歌?男手で書かれている。実資(さねすけ)にも、見覚えのある字だった。・・・通雅か・・・三位の中将、藤原通雅。故関白道隆の孫で、その道隆の嫡男、伊周(これもすでに故人)の息子。伊周が、今の関白道長に政争で負けなければ、もっと日のあたる人生を歩めたかもしれなかった人物だ。三位の位ではあるが、ある意味、政治からは干されたような日々を送っており、これからも、ずっと変わらないだろう。道長の娘の産んだ皇子が即位しており、嫡男の頼道が左大臣についている。すでに、同じ摂関家九条流の権力闘争も勝負はついていた。屈折した思いのせいか、通雅は、荒三位といわれるほど、暴力沙汰を起こしたり、人々が眉をひそめる人物だ。
しかし、それもここのところ、あまり噂も聞かなくなったはずだが・・・・・。
「荒三位は、かの女房と、付き合いがあったのか・・・。」
わざわざ、扇に恋歌を書いて女に与えるのだから、それなりに、遣り取りのあったと見なすべきだろう。
「・・・今はただ思ひ絶えなんとばかりを・・・なぜ、別れの歌なぞを?」
他に特徴はないかと、扇を月明かりに照らして、掲げてみたりして、よく見る。裏返したり、表を向けたり、白い扇面が闇夜にひらひらと舞う。すると、優雅な香がふわり、ふわりと、風に浮かび上がる。実資(さねすけ)が首を傾げる横で、月冴えがくんくんと、その匂いを嗅いでいる。その月冴えが。
「ここに、落ちてたってことは、そいつが犯人ってことか?・・・それにしても、これ、男が持つには甘過ぎる香りが混じっているね。」
月冴えは、この扇が男物だと思っているから、単純にそう思っているようだ。
実資(さねすけ)は、広げた扇をバサッと煽る。薫香の香りが強くなり、風に流れた。扇を閉じる。
何で、別れの歌なんか大事に持っていたのだろう。
持っていたからには、まだ、心が残っているからで・・・・。
しかし、歌の内容から、男の方も未練たらたらだ。刃傷沙汰に発展しそうな要素はなさそうだが・・・・。無理心中?いやいや、別に二人を引き裂く要素も見当たらない。
「人づてならで言ふよしもがな・・・この歌、どこかで・・・?」
使いまわしか?歌の不得手の者ならば、古歌や、代作の歌をちょっとひねくって送るということもあるだろうが・・・。同じ自分の歌をまんまじゃないか。・・・普通は、やらん。使われていた歌が、わりと有名になった恋愛沙汰だったのですぐ思い出した。別の女との別れの歌を扇に書いて男が与え、女はそれを持っていた?一体、どういう仲なのだ。
実資(さねすけ)が、閉じた扇を手の中でぽんぽんと打ち鳴らしながら。
「いや、これを持っていたのは、かの女房・・・。香りが染みているということは、長く彼女の持ち物だったのではないか?・・・・荒三位のものではなかろう。」
月冴えが、眉を寄せた。
「じゃあ、亡くなった時に持ってた物ってことか。・・・いいのかい?あんた達、死人の持ち物だったら、穢れに触れたとか、大騒ぎするんじゃないのかい?」
実資(さねすけ)は、しっかりと閉じられた扇の柄を握っている。
「亡くなる前に落としたのかもしれん。それだと、穢れの程度が違ってくるとか、陰陽師達は色々いうが、まあ、目撃者がいるわけでなし、これが、死者の物だといって騒ぎ立てる者も今ここにいない。それに・・・年のせいか、すぐ物忘れするからのう。明日になって、どうしても気になったら、鉦(かね)でも打たせておけばいいだろう。」
鉦は、邪気を祓うために打たせるのだ。つまり、気が変わって、怖くなりでもしたら、適当にお祓いっぽく済ませておけばいいか、ということだ。
「あたしが言うのもなんだけど、いいのかねえ・・・。」
「構わんさ。それに、これに、悪い感じはしないしなあ。」
「・・・そう言えば、たまに見えたりすることあったっけ・・・。」
「ほっ。見えるだけなら、ごくたまに見えるぞ。特に、人の悪意の塊なんかはな。白昼堂々、道長殿の膝に無数の呪いの矢が刺さって見えた時は、さすがに驚いたが。」
「何だかねえ・・・・・。あたしら物の怪より、性質(たち)の悪い奴がいるよ。お貴族さまって。」
月冴えが、肩を竦めている。
実資(さねすけ)が、ふと注意を逸らし、首を傾げる。
「変だ。誰かに呼ばれた気がしたが・・・。」
「やばっ。時間を食っちまった。部屋に戻るよ。」
「何?」
実資(さねすけ)は、月冴えに、また手首を持たれたと思ったら、行きと同じように体の重みが感じられなくなり、眼下に京の大路小路の碁盤の目を見た。目に飛び込んで来た月はもう、山の端に沈もうとしている。来た時と逆回し、しかも、数倍速い速度。目がまわる・・・っ。
「ああ、結局勝負がつかなかった。唐(から)菓子(かし)は、お預けだねえ。」
くらりと、眩暈がして、朦朧とした意識の頭に月冴えの声がする。実資(さねすけ)の口元が、笑っていた。
また、今夜にでも来ればよいではないか。」
「さあね。次はいつになるか、わからないよ。じゃあね、小野宮殿。」
どこかで、夜が明ける気配を感じた。実資(さねすけ)は、そのまま眠りに落ちる。はっと、目が覚めると、朝の仕度をするために身の回りの世話を任せている女房の声がする。主が、起きているのか、もう、朝の仕度を始めても良いかどうか、伺いを立てる声に、返事をする。
実資(さねすけ)は、きちんと臥所(ふしど)に横になっていた。昨夜着ていたものは、さすがにそのままだが、上げられた格子戸は、閉まっている。碁盤も、その位置には見当たらない。
「・・・夢・・・・?」
大儀そうに体を起こすと、額に手を当てて、ほっと息を吐いた。近付いてきた女房が、心配そうに見ている。それに気付くと、苦笑いしつつ、実資(さねすけ)は体をしゃんとさせる。手に、扇の柄の角があたり、目をぱちぱちさせた。
「昨夜は、書見の途中でどうにも眠くなって、そのまま眠ってしまった・・。」
「左様でございますか。いつも殿様は、すぐにお目覚めになるのに、お返事がございませんでしたから、具合でも悪いのかと思いましたわ。」
「うむ。具合が悪いわけではない。・・・少し、庭を歩いて来るから、その間に、粥を用意しておいてくれぬか。それから、参内する。」
「いつもはお食べにならぬのに?かしこまりました。用意いたします。」
めずらしいこともあるものだという顔の女房は、それでも腹がすくぐらいだから、お元気なのだと勝手に納得して、準備を整えるために部屋を退出して行く。
するするする・・・と廊下を長い裾を引いて、彼女が出て行くと、実資(さねすけ)は、扇を取りあえず文箱の中にしまう。それから、部屋に置いてあった入り豆を懐紙に包んで、庭に出た。昨日あたり、月冴えが出てきそうだと、つまむものを本当に用意してあったのだ。見た目は、ちょいと好い女なのに、あの物の怪は、いつも腹をすかしている。美味そうに食うので、予感がするときは、用意してやるのだ。
お気に入りの泉のそばに、懐紙に包まれたそれを置いておく。
その日は、いつもよりかは、ゆっくりの時間に、実資(さねすけ)は出勤した。
月冴えが、いり豆に気付いたのかどうか・・・・・。それは、わからない。
ただ、帰って来て確かめて見ると、いり豆は無くなっていた。豆だから、鳥が食べたのかもしれないが、懐紙ごとなくなっていたから、おそらく、月冴えの仕業だろう。鳥が紙ごと持っていくはずがないではないか。きっと、月冴えが持って行ったのだ。
今度はいつやって来るのだろう。そう思った実資(さねすけ)も、しばらくの間、忙しさに取り紛れて、忘れていた。扇のことも、調べるべく動くこともなかった。何しろ、正月だ。それでなくとも、儀式や何やかや、年中行事で、下手すると一年中、貴族たちは忙しいのだ。上が、そんな感じだからか、捜査が進まないのはいつものことなのか、犯人らしき男は捕まったが、検非違使から、目新しい進展も聞こえてこなかった。