「勝ったら、夢を見せてくれる・・だったな。」
この時代では、囲碁と賭けはセットのようになっていた。掛け物を決めて、勝負をする。月冴えが、白の碁石をつまみ、にっと目を細めて応じる。
「うん。唐菓子をたんまりもらうよ。」
彼女が勝ったら、唐菓子を翌日、指定の場所にそっと置いておくのだ。この間は、勝負がつかず、続きをやっている。勝負は一晩でついたりつかなかったり、つかなかった時は次に持ち越す。いつも、月冴えは、突然現われる。物の怪のくせに、昼間、大路を堂々と歩いていたりすることもあった。
ぱちん。白い碁石が置かれ、黒い碁石が置かれようとしている。
月冴えが、じっと碁石のように目を丸くしてみてる。
「相変わらず、会いたい人の夢かい。・・・欲があるんだか、ないんだか。摂政・・いや、位を退いて今はただの入道殿(道長)だっけ・・と左大臣(頼通)殿を呪ってほしいとか、言わないんだね。」
ただの入道とは言ったが、もちろん実権は道長にある。実資(さねすけ)と道長とは、同じ藤原北家の嫡流摂関家だが、系統が違う。曽祖父の代でひとつになる、はとこの関係なのだが、祖父の代からの、実資(さねすけ)は兄実頼の小野宮流、道長は弟師(もろ)輔の九条流、というと小野宮のほうが主流のように聞こえるが、後宮政策で遅れをとり、主流は九条流に持っていかれた状態だ。参議以上の重要なポストについているものは少ない。今、朝廷を牛耳っているのは、九条流道長で、その跡は子の頼通、彼らが急にいなくなれば、混乱に乗じて、小野宮流の実資(さねすけ)が浮かび上がれるのではないかと、物の怪の月冴えが言う。
物の怪の誘惑の言葉に、実資(さねすけ)は動じるふうもなく、淡々としている。
「物の怪に付け込まれそうな願いなど、するものか。・・・・この年になると、会いたい人は皆、鬼籍の人が多いんじゃ。」
「なるほど・・・。寂しいってか・・・。」
「・・・・・・・・。」
そうかもしれない。親や兄弟は、末っ子だから置いて逝かれるのは仕方がないことだとしても、沿うた妻たちにも死に別れ、幼い子にも先立たれた。七十に手が届きそうな今、人より長生きしている分、友人たちも考えてみれば、あの世へ旅立ったほうが多い。
碁石を握ったまま、実資(さねすけ)は、ぼんやりと考えていた。
待っているのに飽きたのか、月冴えが姿勢を崩し、ごろんと床に横になった。肘を床について掌を枕に、くわっと大口を開けて欠伸をひとつする。物思いに耽る実資(さねすけ)の姿を見て、悪戯を思いついたように目をきらんと輝かせる。ほんの一瞬でその姿を変えて、だらしなく寝っ転がっている。
「うふん。寂しいなら、この姿はいかがあ・・?」
「!」
声がして、顔をあげた実資(さねすけ)の目に飛び込んできたのは、麗しの亡き我が妻の姿。ただし、中身が月冴えなので、なんとなくだらしなく、行儀の悪い格好をしている。肘をついて頭を乗せているので、重ねた袿(うちき)の袖がまくれて腕が丸見え、足元にある碁石入れを手元に引き寄せようと、つま先でちょいちょいと動かそうとしている。長いはずの緋の袴がめくれて、足の指が見えかかった。
「う・・・・。」
懐かしさに目を奪われたのは、認識するまでの一瞬の間で・・・。みるみる凍ったような微笑を浮かべ、怒っている。怒っているのに、笑うとはどういうことか。長年の習慣で、感情を露わにせぬ訓練のたまもの。京の貴族なら当たり前のことだが、こんな時でも板についている習慣に、物の怪の月冴えは内心感嘆の声をあげた。大したもんやな、物の怪より分りにくいわと、感心している。
「婉子(よしこ)の麗しい姿が・・・。」
実資(さねすけ)は、懐から扇をとりだすと、その先で、月冴えの肘、足、尻を打つ。パシッ、パシッと音を立てるごとに鞠のように、物の怪がころころ姿勢を変えていく。続いて金魚すくいのようにくるっとどうやったものか、掬い取るようにすると、月冴えは正座させられていた。膝に両手を置き、目を真ん丸くあけている、その片方の膝を仕上げに、軽く叩かれる。
「膝っ。」
元のように肩膝をたて、流した衣の裾も黒髪の乱れもなく、美しい女性が座っているのに、満足したのか、うんとひとつ頷くと、黒い碁石を自分の思ったとおりのところに置く。
「小野宮殿。怒るところがちょっと、ずれてやしないかい?」
「言葉づかい。・・・・何にせよ、姿を見れるのはうれしいが、その顔で、品のない、みっともないまねは止めてくれ。・・・いつも見ている姿が月冴えの本当の姿なのかどうかわからぬが、そなたはそなたのままの方が良いのと違うのか。それならば、別にどんなふうにしていても、かまわん。その方が、月冴えらしいであろう。」
「うわっ。ちょっと、感動・・・かも。」
月冴えは、えへっと単純に気を良くして、元の姿にかえり、石を置こうとする。あらあら・・・ぜんぜん、動揺してへんやん。やっぱり、あそこに、置かはったわと、置いたばかりの黒石を確かめる。月冴えの反応に、実資(さねすけ)が、ほんのわずか口の端をあげて、満足げな顔を浮かべている。そうして、仕返しをしてやろうと、何気なく、口を開いた。
「小腹が空いたら、いり豆が部屋に取り置いてあるぞ。」
「えっ?どこ?どこに?」
月冴えがすばやく反応し、きょろきょろと辺りを見回す。うっかり、手を下ろして、とんでもないところに白石が置かれる。はっと、気付いたがもう遅い。
「ずっるう・・・っ!」
「こんな手にひっかかるとは・・・。食い意地は変わらんな。」
「う・・・、も一回、やりなおし、お願い。」
「うむ・・・。」
実資(さねすけ)はにやにやしながら、勿体ぶっている。月冴えが、脱力してはあっと溜息をついた。
「仕様がないね・・。何が、見たい。何が知りたいんだい?」
「言うまでも、なかろう。それで、出てきたのではないか?」
京を騒がした事件。事件が続く時に、なぜか出現することが多い。知りたいと思っているとき、あるいは、政局で迷っている時などにも、よく、月冴えは姿を現す。こいつは、一体、どういう物の怪なのか。馴れ合っているのも、不思議な存在だと、実資(さねすけ)。
「うふふ。強い意思を持った魂を頂く機会なんざ、なかなか、ないさ。迷っているときもそうだけど、好奇心を強めている時もつけいる隙はありそうだからね。・・でも、これまで一度も付け入れなかった。あんたみたいな奴は、そういない。このまま、逃げ切られて天寿を全うするのをみるのも、たまにはいいさ。」
物の怪には寿命のようなものはない。長い長い時が過ぎていく中で、ただの退屈しのぎになっても、かまわないのだと、月冴えが、実資(さねすけ)の胸の思いに答えをくれた。
「遊び半分、仕事半分か・・・。」
月冴えの手が、実資(さねすけ)の手首を掴む。
「小野宮殿。それじゃ、行くよ。事件現場へ。」
「・・・・・。」
実資(さねすけ)の視界が奇妙に揺れた。体から、重みが抜けたように軽くなり、このままでは宙に浮く・・と思った瞬間、夜空の上にいた。都の大路、小路が交わってつくる碁盤を視界の下に見るようだ・・・それも、つかの間、確かに認識したけれど、再び、足が土の上に立っている感覚がして、気がついたときには、あやふやな記憶になっていた。
この時代では、囲碁と賭けはセットのようになっていた。掛け物を決めて、勝負をする。月冴えが、白の碁石をつまみ、にっと目を細めて応じる。
「うん。唐菓子をたんまりもらうよ。」
彼女が勝ったら、唐菓子を翌日、指定の場所にそっと置いておくのだ。この間は、勝負がつかず、続きをやっている。勝負は一晩でついたりつかなかったり、つかなかった時は次に持ち越す。いつも、月冴えは、突然現われる。物の怪のくせに、昼間、大路を堂々と歩いていたりすることもあった。
ぱちん。白い碁石が置かれ、黒い碁石が置かれようとしている。
月冴えが、じっと碁石のように目を丸くしてみてる。
「相変わらず、会いたい人の夢かい。・・・欲があるんだか、ないんだか。摂政・・いや、位を退いて今はただの入道殿(道長)だっけ・・と左大臣(頼通)殿を呪ってほしいとか、言わないんだね。」
ただの入道とは言ったが、もちろん実権は道長にある。実資(さねすけ)と道長とは、同じ藤原北家の嫡流摂関家だが、系統が違う。曽祖父の代でひとつになる、はとこの関係なのだが、祖父の代からの、実資(さねすけ)は兄実頼の小野宮流、道長は弟師(もろ)輔の九条流、というと小野宮のほうが主流のように聞こえるが、後宮政策で遅れをとり、主流は九条流に持っていかれた状態だ。参議以上の重要なポストについているものは少ない。今、朝廷を牛耳っているのは、九条流道長で、その跡は子の頼通、彼らが急にいなくなれば、混乱に乗じて、小野宮流の実資(さねすけ)が浮かび上がれるのではないかと、物の怪の月冴えが言う。
物の怪の誘惑の言葉に、実資(さねすけ)は動じるふうもなく、淡々としている。
「物の怪に付け込まれそうな願いなど、するものか。・・・・この年になると、会いたい人は皆、鬼籍の人が多いんじゃ。」
「なるほど・・・。寂しいってか・・・。」
「・・・・・・・・。」
そうかもしれない。親や兄弟は、末っ子だから置いて逝かれるのは仕方がないことだとしても、沿うた妻たちにも死に別れ、幼い子にも先立たれた。七十に手が届きそうな今、人より長生きしている分、友人たちも考えてみれば、あの世へ旅立ったほうが多い。
碁石を握ったまま、実資(さねすけ)は、ぼんやりと考えていた。
待っているのに飽きたのか、月冴えが姿勢を崩し、ごろんと床に横になった。肘を床について掌を枕に、くわっと大口を開けて欠伸をひとつする。物思いに耽る実資(さねすけ)の姿を見て、悪戯を思いついたように目をきらんと輝かせる。ほんの一瞬でその姿を変えて、だらしなく寝っ転がっている。
「うふん。寂しいなら、この姿はいかがあ・・?」
「!」
声がして、顔をあげた実資(さねすけ)の目に飛び込んできたのは、麗しの亡き我が妻の姿。ただし、中身が月冴えなので、なんとなくだらしなく、行儀の悪い格好をしている。肘をついて頭を乗せているので、重ねた袿(うちき)の袖がまくれて腕が丸見え、足元にある碁石入れを手元に引き寄せようと、つま先でちょいちょいと動かそうとしている。長いはずの緋の袴がめくれて、足の指が見えかかった。
「う・・・・。」
懐かしさに目を奪われたのは、認識するまでの一瞬の間で・・・。みるみる凍ったような微笑を浮かべ、怒っている。怒っているのに、笑うとはどういうことか。長年の習慣で、感情を露わにせぬ訓練のたまもの。京の貴族なら当たり前のことだが、こんな時でも板についている習慣に、物の怪の月冴えは内心感嘆の声をあげた。大したもんやな、物の怪より分りにくいわと、感心している。
「婉子(よしこ)の麗しい姿が・・・。」
実資(さねすけ)は、懐から扇をとりだすと、その先で、月冴えの肘、足、尻を打つ。パシッ、パシッと音を立てるごとに鞠のように、物の怪がころころ姿勢を変えていく。続いて金魚すくいのようにくるっとどうやったものか、掬い取るようにすると、月冴えは正座させられていた。膝に両手を置き、目を真ん丸くあけている、その片方の膝を仕上げに、軽く叩かれる。
「膝っ。」
元のように肩膝をたて、流した衣の裾も黒髪の乱れもなく、美しい女性が座っているのに、満足したのか、うんとひとつ頷くと、黒い碁石を自分の思ったとおりのところに置く。
「小野宮殿。怒るところがちょっと、ずれてやしないかい?」
「言葉づかい。・・・・何にせよ、姿を見れるのはうれしいが、その顔で、品のない、みっともないまねは止めてくれ。・・・いつも見ている姿が月冴えの本当の姿なのかどうかわからぬが、そなたはそなたのままの方が良いのと違うのか。それならば、別にどんなふうにしていても、かまわん。その方が、月冴えらしいであろう。」
「うわっ。ちょっと、感動・・・かも。」
月冴えは、えへっと単純に気を良くして、元の姿にかえり、石を置こうとする。あらあら・・・ぜんぜん、動揺してへんやん。やっぱり、あそこに、置かはったわと、置いたばかりの黒石を確かめる。月冴えの反応に、実資(さねすけ)が、ほんのわずか口の端をあげて、満足げな顔を浮かべている。そうして、仕返しをしてやろうと、何気なく、口を開いた。
「小腹が空いたら、いり豆が部屋に取り置いてあるぞ。」
「えっ?どこ?どこに?」
月冴えがすばやく反応し、きょろきょろと辺りを見回す。うっかり、手を下ろして、とんでもないところに白石が置かれる。はっと、気付いたがもう遅い。
「ずっるう・・・っ!」
「こんな手にひっかかるとは・・・。食い意地は変わらんな。」
「う・・・、も一回、やりなおし、お願い。」
「うむ・・・。」
実資(さねすけ)はにやにやしながら、勿体ぶっている。月冴えが、脱力してはあっと溜息をついた。
「仕様がないね・・。何が、見たい。何が知りたいんだい?」
「言うまでも、なかろう。それで、出てきたのではないか?」
京を騒がした事件。事件が続く時に、なぜか出現することが多い。知りたいと思っているとき、あるいは、政局で迷っている時などにも、よく、月冴えは姿を現す。こいつは、一体、どういう物の怪なのか。馴れ合っているのも、不思議な存在だと、実資(さねすけ)。
「うふふ。強い意思を持った魂を頂く機会なんざ、なかなか、ないさ。迷っているときもそうだけど、好奇心を強めている時もつけいる隙はありそうだからね。・・でも、これまで一度も付け入れなかった。あんたみたいな奴は、そういない。このまま、逃げ切られて天寿を全うするのをみるのも、たまにはいいさ。」
物の怪には寿命のようなものはない。長い長い時が過ぎていく中で、ただの退屈しのぎになっても、かまわないのだと、月冴えが、実資(さねすけ)の胸の思いに答えをくれた。
「遊び半分、仕事半分か・・・。」
月冴えの手が、実資(さねすけ)の手首を掴む。
「小野宮殿。それじゃ、行くよ。事件現場へ。」
「・・・・・。」
実資(さねすけ)の視界が奇妙に揺れた。体から、重みが抜けたように軽くなり、このままでは宙に浮く・・と思った瞬間、夜空の上にいた。都の大路、小路が交わってつくる碁盤を視界の下に見るようだ・・・それも、つかの間、確かに認識したけれど、再び、足が土の上に立っている感覚がして、気がついたときには、あやふやな記憶になっていた。