飛魚的日乗 (現代詩雑感)

詩のことを中心に書いていきます。

Tod

2008-08-28 | Weblog

der Tod ist ein Meister aus Deutschland sein Auge ist blau.

 そういう気分だった。(僕には飯吉訳が一番しっくりする。)
一人称も二人称も三人称も、相互に交互可能であり、錯綜する状態が生じるかと思われることが一番悲しいのだと思う。

 君の金色の髪マルガレーテ

 

いたずらぼうず

2008-08-24 | Weblog
 しばらく預かっていたいたずらぼうずが、今日、帰っていった。寂しくなったせいか、風もいきなり冷たくなった気がするし、秋だなと思う。
 それにしても幼い猫のエネルギーはすごい。朝の暗いうちから紐を咥えてきて遊ぼうと誘う。冷蔵庫の上や食器棚の上を飛び回る。帰っていって大人しくしていられるのかと心配になる。
 
 「田村隆一という詩人について語ろうとするとき、私はどうしても平静ではいられない。」と書いた笠井嗣夫さんへの共感とはなんだろう。「ある種の感情の波」に加えて、工藤の顔が浮かぶ。救い出すというのは不遜なのだ。誰についても。救われようとするのはいつも自分だろう。こういうときはいつも、太宰を読みたくなる。
 今日も仕事だ。今週は週休を取れなかった。今日は、採用試験の試験官だ。面接もやる。あまり気乗りがしない仕事だが、受けに来る方は真剣だからこちらもそれに応える義務がある。できることなら柳田國男みたいに旅でも命じられたいが、会社の違いもあって、そんなことは夢のまた夢だ。

灯籠流

2008-08-19 | Weblog
 家族が集まって森戸海岸で灯籠流しをしてきた。母は毎年参加しているが、不信心者の僕は今年が初めてだった。町の有志が実行委員会形式で主催しているため、多宗派のお坊さんが何人がで一斉に違うお経をあげます。言葉と言葉が混じりあって、意味不明な唱和になって可笑しかった。ビーチサンダルを履いた稚児さんの行列があったり、夜の海での行事で、それなりに楽しかった。

 松下さんのブログを読んで涙が出ました。ひさかたぶりに涙というものを感じて、ずいぶん長い間、何かを忘れていた気がしました。

松下育男さんのブログ

 松下さんは、詩に対する思いを、まるで賢治の「貝の火」のように絶やさず持ち続けている人です。鳥に二人、魚に一人、で、人間にも一人という。
 ふと、「銀河鉄道の夜」を思い出します。もし僕がジョバンニとすればというのも変ですが、僕は、彼がカンパネルラであるかのように思って、家を訪ねていた気がします。
 僕はその後学生運動に走りそのまま労戦に入り、すべてに挫折してもう一度詩に出会いました。いや、正確には、詩に出会いたいと願っているのに過ぎません。でも、少年時代に、かけがえにない人と共有できる、そういう時期を持てたことに感謝しています。僕は、これからもずっと松下さんを見つづけていくのだと思います。

Auf welcher Instrument sind wir gespannt ?(LYRIK-Lied」)

八月十五日

2008-08-16 | Weblog
 「八月十五日の正午の敗戦の放送は、寺の境内で、第一小隊とともに聞いた。土佐高出身の快男子の小隊長は、号泣し、僕もつられて泣きそうになった。そして、やれやれと、思った。これからは歯もなおさなければならないし、服もつくろわなければならないのか----そのとき、『時』がうごき出したのだ。詩の雑誌を出そう、フッとそう思った。」(田村隆一「如矢」から)

チュリンガ

2008-08-10 | Weblog
 この間、渋谷のイタリア料理店で同人の座談会をやったとき、北爪満喜さんとエミリー・ウングワレー展の話になった。すごくよかったという話だったが、アボリジニについて、僕はレヴィ・ストロースのことを話題にした。でも、かなり記憶違いをしていた。サルトルとの論争のときにチュリンガをかざして反論したというの話は、中沢新一さんの「イコノフィア」で読んだ記憶だが、僕の中でチュリンガはチュリンガの図柄の旗になって記憶されていた。なぜか議場への騒然とした乱入と話が結びついてしまっていた。最近、「イコノソフィア」を読み直して、記憶違いというより、むしろ僕の願望が混ざっているのかもしれないと思った。ドリーム・タイムにおいて与えられたものを守り続けて生きていくことがどんなことなのか、ほんとうのところははわからない。チャトウィンのソングラインの話も出たが、僕自身はどう理解するのかわからないでいる。中沢新一さんも、単なるアイデンティティーの問題としてではなく、「彼らは生をいつも前方に謎や問題をはらんだプロブレマティツクなものとして確認していたかったのではないか」と言っている。
いつももっと突き詰めた話がしたいと思っているのに、その場その場で話が過ぎてしまう。そうしないようにするのは、僕自身の問題なのだが。

シャガール

2008-08-09 | Weblog
 箱根の投宿先がポーラ美術館に近かったので、ついでにシャガール展を見てきた。シャガールーの「わが回想」を軸に構成された展示で、見やすかった。かなり長時間滞留して何度も絵を見て歩いた。いつみてもシャガールはいいなと思った。祝祭という言葉が素直に浮かぶ。そうえいば若い頃、「人間は両端から燃えるローソクだ」というローザ・ルクセンブルグの言葉に感動したことがあったなと思った。
 システムの内に生起するもの、共鳴しあうコードの<まか>で生起するもの。欲動の宇宙的な広がりにへ乗り越えは襞を折るようになされる。ことばが。

六郷

2008-08-08 | Weblog
夏休みが取れたので、箱根で静養してきた。帰ってきて松下育男さんのブログを覗いたら、六郷のことが書かれていた。アドマチックの六郷の映像は、妻がビデオ録画していたので見ることが出来た。コメントを入れようと思ったが、YAHOOのパスワードを失念していてコメントできなかった。それで、ここに、コメント代わりに六郷のことを書くことにした。
 映像を見て、いまさらながら踏切がなくなっていることに驚く。実は、何人も死んでいる踏切で、僕の友達の父親もそこで轢死している。歩道橋になってよかったと思うが、あの踏み切りのせいで、僕の日常はいつも死がま近だった気がする。まだ小学生の頃、踏切内に犬が侵入しているので、危ないと声をかけたら、どんどん電車に近づいて吸い込まれるように轢かれてしまったことがあった。いま思い出しても、つらい思い出だ。
 僕の家もご多分に漏れず親の代で上京してきた。松下さんと同じ九州の出身だが、僕は大分県の竹田市で生まれた。滝廉太郎と田能村竹田で有名な町で、岡藩の居城があった。僕は小学生の時以来、竹田には帰っていない。最近、千葉に居た叔父が定年退職して中津に帰った。うらやましい。
 六郷に住んだのは、母の実家があったからだ。母方の祖父は、大田区の小学校に勤めていた。僕たちが九州から出てきたときには祖父は既に亡くなっていたが、母の実家のそばということで、六郷に住んだ。5歳くらいから高校生までの、13,4年だったと思う。ただ、僕にはちょっと事情があった。小学校2年くらいから、父に連れられて東京や神奈川を点々としていた。大田区で3回、品川で1回、川崎で2回、転校を味わった。学校に行っていないときもあった。六郷の家族のところに帰ってきたのは、小学校4、5年になってからだ。父にはそれ以来、ほとんど会っていない。数年前に一度父を訪ねたが、会うのは最後にしたいと言われた。父には父なりの、僕が知る必要のない生活があるということだ。
僕が六郷に帰った頃には、母は、日銭が入るというので、小さな乾物店を開いて家族を養ってくれていた。母一人と姉妹3人(姉と僕と妹と)のほんとうに貧しい暮らしだった。
 転校を繰り返す少年にとって、自己の矜持を保つには勉強しかないと、つくづく思い知らされていた。つまり、当時はいじめられっ子だったのだ。人を信用しない性格になっていた。友人と呼べる人はほとんど居なかった。どうやら僕の孤独癖はその頃に端を発しているらしい。とにかく独りで本ばかり読んでいた。以前、母は、大修館に勤めていたことがあって、母の影響もあって僕は小学生の頃からヘッセの詩集を読んでいた。そういえば、母にヘッセの詩を何篇か暗記させられたりした。万葉集も暗記させられた。北欧やギリシャの神話やグリムやアンデルセンの本が家にあって、本が買えないのでそればかり何度も読んだ。特にグリムと北欧神話が好きだった。母は僕がそういう方向に進むことを願っていたらしいが、不肖の息子は学者にはならなかった。
 中学生の頃か、いつも僕の方から松下さんを誘って、いろいろな話をした。何冊か交換ノートのようにして作った詩を見せ合った。松下さんと同じ高校へ行きたかったが、都心の学校は駄目だと叔父に言われた。それで、多摩川の辺の素朴な校風の高校へ進んだ。それでも、時々松下さんを誘って、多摩川の河川敷を歩きながら、いろいろな話をした。蒲田の本屋で詩集の立ち読みをしたりした。それからはそれぞれの道だったが、何年かして、松下さんの「肴」がH賞になった時、僕はもう子供二人を抱えて生活と苦闘していた。内容は忘れたが、なんだか訳のわからない長い手紙を書いて松下さんに送って、詩集を送ってもらった。
 どうもブログらしからぬ長さになりそうなので、これぐらいにしておく。とにかく、六郷は懐かしい場所だ。

外部

2008-08-03 | Weblog
 もう3年ほど、その思いに苦しんでいるということは、誰にも告げられない。たまに酒の席で口にすることもあるが、不思議な顔をされるだけだ。それはそうで、僕の方も何か答えを期待しているわけではない。行動としてではなく、ただ訪れる思いだから、抱えたままでいれば日常は回っていく。経験的にしか対応できないのだろう。
 なぜ「フットスタンプ」を辞めたいのか。特集に象徴されるとおり、僕にとって「フットスタンプ」は、通常では考えられない外部との衝突だった。また、独りだけでやってきた僕にとって、他者との共同は新鮮だった。そして、そのことで僕も変わることができた。でも、今はうまく関われない。向かっている方向もみんなとは違うと感じる。ひとつの役割が終わり、僕は僕なりに新しい契機が問われているのだ。それは、誰か<に>寄り添って行く道ではないと感じている。
 作品を書くことだけに専心できればいい。ことごとしさからも逃れていたい。外部を内部として、折畳むこと。内部を外部に晒すこと。増殖させること。タンパク質が固有の折りたたみを記憶しているように。ことばを光子のように振動させる。シュレディンガーの猫と共に行く道だといいが。

なぜタナトスか

2008-08-02 | Weblog
 「銅鑼の合図を逸脱した空虚な時間、形式的で、かつ厳密にして静謐な秩序、 圧倒的な集合、不可逆な系列を備えたこの時間は、まさに死の本能である。」
 そう、ドゥルーズは書いた。タナトス。欲望の激しい減退と無関係ではない。どこまでもひび割れている自分。リビドーの逆流するなかで、内圧を増してくるもの。この位置から、書くことへ出ること。欲望もなく、無性化した、不可視の身体として。走る。ひび割れながら走る。内部と外部を観念が行き来する。そのとき、夢が息づくのだと感じる。