飛魚的日乗 (現代詩雑感)

詩のことを中心に書いていきます。

すはやみはしる

2006-11-12 | Weblog
 黄と かがやきながら すはやみはしる光へ
    わぎ
       音波がくわわって
     あ、いまじわる城、きうなしている
  まとわりながら
     まわりつ、
        論み へ、めぐる、青灰の球


       山本陽子「青春--くらがり」

 最近読んだ詩の中で、いまさらながら山本陽子の詩が刺激的だった。もうひとり気になっているのは、崎山多美だ。
 帰ってこなければならない。それが書くということだ。その世界と応答していければいいと思っているが、できるかどうか不安だ。別の世界ではない。

InterCommunication

2006-11-08 | Weblog
 ずいぶん前から愛読している雑誌だが、いつも刺激的な記事が多い。「現代詩手帖」や「詩学」はたまにしか買わないくせに、この雑誌は毎号ちゃんと買って読むようにしている。教えられるものが多いからだ。今号も浅田彰と岡崎乾二郎の「現在を考える」、東浩紀と稲葉振一郎の「ポストモダン以後の知・権力・文化」が巻頭の対談だが、かなり鋭い議論になっている。
 印象的だったのは、浅田と岡崎がロベルト・ロッセリーニの「ドイツ零年」に触れている部分だ。岡崎は、主人公の少年エドムントが自殺する直前の15分間の映像を、「生き生きと子どもらしく無目的に遊ぶ場面」だとし、あわせて、「銀河鉄道の夜」のジョバンニや「不思議の国のアリス」「オズの魔法使い」「のんちゃん雲にのる」などの主人公も臨死体験であり、死後の世界=歴史的時間の外部=子供の発見という図式で語っている。「死を通過した恢復期の中でのみ、はじめて子どもである自由を得る」「そのときはじめて、光を反射する水たまりや石ころ、などなど世界の細部が輝いて見えてくる」ということだ。「歴史、ストーリーから切断する仕組み、条件を構成して、はじめて「いま、ここ」に生起する生々しい知覚の表現が可能になる」と言う。
エドムント少年は、「生き生きとした」遊びの中で突然、廃墟の窓から飛び降りて死ぬ。僕にはそれが「死を通過した恢復期」とは思えない。いやおうなく死の側へ流れだした時間のなかの幻影のような映像だと感じる。光と影の美しさは見事だと思うが。
 もちろん岡崎は、「残酷、過酷な条件」であることを自覚しているのだが、「切断」に至る時間の持続を生きると言う過酷なのではと思った。
ともあれ、「InterCommunication」は、僕にいろいろなことを考えさせてくれる雑誌だ。