飛魚的日乗 (現代詩雑感)

詩のことを中心に書いていきます。

四隅の天使

2017-01-28 | 

倒れたり立ち上がったりする
僕の四隅を埋めている天使たち

たとえば一人はひげづらの老いた男
ひげづらは激しく鼻をかむ
祭壇の陰ってこんなもの
天井まで伸び上がろうとする

もう一人は赤ん坊のすがたで隅をよたよた歩く
宙から炎をつかみ出しながら死んだ母親を運んでみせる

それからもう一人は猫の顔で伸びたりちじんだりする
さびしい場所を探しながら
小さく鳴いてみせる

そして 最後の一人は
いつまでたっても見えないまま

ミルピエ

2017-01-27 | 


仕事が早く終わったので、渋谷の東急文化村の「ミルピエ ~パリ・オペラ座に挑んだ男」を観てきた。バレエ作品が組立て作り上げられるプロセスを追ったドキュメンタリー映画だが、映像の美しさだけではなく、バレエ団の一人一人のひたむきな努力、真摯さ、踊ることの喜びに心を打たれた。妥協せずに、自身の表現に向かっていく姿は、素晴らしい。パンジャマン・ミルピエは、様々な境界を越えることで、人としてのナチュラルな自己解放を考えていると感じた。
「平面的になるな!」「音は怒涛のように襲う!」とか、そんなことばにこちらもドキッとする。遅ればせながら、可能なら、僕も、「ことば」の「シャンジュマン」や「プリエ」を見つけて、プラクティスに励もうかと思った。
それから、「文化」を冠にする組織に居る身として、「文化」を創り上げるとはこういうことかと思った。借物ではない、独自の。全力でそれを支援できないなら、存在そのものを疑われてしまうと感じた。

天井桟敷の人々

2017-01-27 | 
深夜に目が覚めてしまったので、「天井桟敷の人々」の第一部「犯罪大通り」(Le Boulevard du Crime)の後半と第二部「白い男」(L'Homme Blanc)を観た。ラストシーンは、主人公のパティストが、謝肉祭に沸く「犯罪大通り」を馬車で去ってゆくガランスを追いながら、激しく渦巻く群衆の波に翻弄され飲み込まれていくシーンで終わる。「ナロード」と言うと恐らく語弊があるかもしれないが、カオス状態の民衆の姿は、何かを象徴していると思う。プレヴェール達の「10月グループ」には、そう考えたくなる要素があった。そもそも原題の(Les Enfants du Paradis)は、「天国の子供たち」で、1席4サンチームの安い天国(天井桟敷)で、劇に共感して子供のように大騒ぎする民衆を意味している。
一時は協同したブルトン達が居て、また一方にアラゴンが居て、もちろんアルトーなども居るのだから。それに、ヴィシー政権の非占領地区で数年の歳月をかけて制作していることも考えると、頭の固いナチに対抗するプレヴェール流の洒落の効いた仕掛けがありそうだと思うのは間違っていないと思う。
憧れの女性がGarance(茜色)で、主人公は染まりやすい(L'Homme Blanc)のBaptiste(麻、浸礼派)というのはたぶん意味があるのではないか。だからこそ、ガランスは犯罪大通りの見世物小屋で浸礼するかのような裸身で登場しているとか。
でも、これ以上書くと、敷衍しすぎて脱線してしまいそうなので止めておく。
 映画を観終わってから、確かに良い映画と感じながら、なんとなく共感に躊躇する気持ちがあった。時代が違うせいなのか、僕が個人的に恋愛が苦手だからなのか分からないが、何度も観たい映画であるのは間違いないと思う。

夢のフーガ

2017-01-27 | 

真夜中のピアノ庫のなかを
ことばに吊るされて移動する
喉がいきなり遥か遠くの海に繋がる
窶れたぶらぶらの脚が海までの細い道を感じる
夢の隅でぼんやりとケルアックのことを考える
ハドソン川に無数の薔薇が静かに落ちている
宙づられたテラテラの禿げ頭の僕に並んで
真実はこれにありと叫ぶ影がある
人を愛することなんて単純で簡単だと
ボソボソと呟く影がある
それはたぶん僕の守護天使だと言っている奴だ

夢のなかでは薄くしか息ができない
腕の半分が闇に侵されて消えている
肉の焦げたような匂いがする
何本もの枯れ枝が突き出た額だ
小刻みに肩を揺すりながら歌おうとするが
暗い歌の底に声が引っかかってくぐもる
急激な悪寒が来る
貧しい奴は貧しくしか死ねないという声がする
解っているはずなのに
それでも光が宙を走しるのを見る
みんな見えると思っている
真夜中のピアノの庫の扉が閉まる音がする
僕を吊るしていることばが消えかけている
だんだんに
たぶんニ短調で夢のなかの首が絞まる

※夜中に、「天井桟敷の人々」の映像を観ながら、来たことばを造形してみました。