日常に追われながら、なかなか思うようには日々を過ごせないと諦めているが、それでも書くことに関わる何かを探るようにして、すこしでも生きている思いが整理できればと思っている。でも、もともと気が多いこともあって、「詩」に関わることに始まり、間口ばかりが広がってしまって収拾がつかない状態だ。これではいけない、初心に帰らねばと思いながら、思い切って自分の時間を作ろうと家族の用事を放置して散歩に出かけてきた。
立石から森戸海岸まで散策しながら、神奈川県立美術館葉山館にふらりと寄ってみた。ここに来るのは、ジャコメッティ展やモーダーゾーン・ベッカー展以来かもしれない。近所だし、気になる展覧会もあったが、何となく足が遠のいていた。入館してみると「戦争/美術1940-1950」という戦前・戦後のモダニズムをテーマにした展示をやっていた。すこし駆け足だったが、靉光、松本竣介、藤田嗣治などの絵画を見られたのは嬉しかった。特に松本竣介は世田谷美術館での展示を見損なっていたので、「立てる像」を見られて感激した。また、丸木位里、俊夫妻の「原爆の図」の凄まじさには圧倒された。確か、丸木位里は川端龍子の青龍社に所属していたことがあったらしいが、日本画の技法が生かされた龍子ばりの大作だと思った。「原爆の図」が孕んでいる時間は一瞬であり、同時に永遠でもある。物としての人間の四肢が剥き出しにされた瞬間に、閃光とともに時間を超え出てしまった人の霊性が永遠に曝されている。あまりに悲惨な光景が描かれているが、美しくすらある。激しい閃光が焼き尽くしたのは人の体だけではなく、人の心でもあったのだと感じた。
展示のコンセプトは、戦中の暗い時代にも、現代に繋がる胎動があったということらしかった。戦意高揚の絵画や従軍記などが多く展示されていた。何らかの形で戦争に関わらざるを得なかった時代だったと思う。展示の解説に次のように記されていた。
「1940年代の日本は、戦争という美術家たちにとって非常に困難な時代でありながらも、モダニズムの成熟と転換という豊かな可能性を秘めた時代でもありました。本展は、戦前から戦後の時代を1940年代という時間の経過で捉え、これまで分断されてきた戦前、戦後の日本の美術史を新たな文脈でとらえ直そうという展覧会です。当館のコレクションの根幹を形成する松本竣介、朝井閑右衛門、麻生三郎、鳥海青児、山口蓬春などの戦前戦後をつなぐ作品や資料に新たな照明を当てるとともに、丸木位里、俊夫妻の《原爆の図》に結実するまでの画業など、同時代の広がりも、絵画を中心に紹介します。」
門外漢の僕には「新たな文脈」を理解できなかった。モダニズム絵画という括り方も、作品の時系列の展示も、よく理解できなかった。一人ひとりの画家の作品に流れている時間を、時代で括ることに無理があるのではと思えた。なぜなら作品に流れている時間は輻輳していると思えるからだ。外部へ表象される時間、内部に落下し沈澱する時間、絵に触れる一瞬とそれに到達する時間の襞、個としての、あるいは他者に囲繞されることで対流する時間がある。歴史とはその総称であり、「地平」として切り取られた時間の姿だと思うが、「地平」として切り取られることが避けられず孕む幾重もの襞のなかで、作品は出来事として息づいている。時間は輻輳する襞ごとに問いを秘めて流れている。だから、歴史的なコンテキストによって新たな相貌が顕わになるのか、期待される「地平」に違和を起こさせるか、その亀裂こそが見えなければという思いがある。
ともあれ、目に残ったのは、松本竣介の黒、藤田嗣治の筆使いや靉光の赤だった。久々に絵を眺められて幸せだった。ただ、いかに素晴らしい作品でも、「原爆の図」を凝視して生きるのは辛いと感じた。ふと窓の外に視線を逃がしながら、「美術館で絵から目を逸らすことの至福」について誰かが書いていたことを思い出した。
立石から森戸海岸まで散策しながら、神奈川県立美術館葉山館にふらりと寄ってみた。ここに来るのは、ジャコメッティ展やモーダーゾーン・ベッカー展以来かもしれない。近所だし、気になる展覧会もあったが、何となく足が遠のいていた。入館してみると「戦争/美術1940-1950」という戦前・戦後のモダニズムをテーマにした展示をやっていた。すこし駆け足だったが、靉光、松本竣介、藤田嗣治などの絵画を見られたのは嬉しかった。特に松本竣介は世田谷美術館での展示を見損なっていたので、「立てる像」を見られて感激した。また、丸木位里、俊夫妻の「原爆の図」の凄まじさには圧倒された。確か、丸木位里は川端龍子の青龍社に所属していたことがあったらしいが、日本画の技法が生かされた龍子ばりの大作だと思った。「原爆の図」が孕んでいる時間は一瞬であり、同時に永遠でもある。物としての人間の四肢が剥き出しにされた瞬間に、閃光とともに時間を超え出てしまった人の霊性が永遠に曝されている。あまりに悲惨な光景が描かれているが、美しくすらある。激しい閃光が焼き尽くしたのは人の体だけではなく、人の心でもあったのだと感じた。
展示のコンセプトは、戦中の暗い時代にも、現代に繋がる胎動があったということらしかった。戦意高揚の絵画や従軍記などが多く展示されていた。何らかの形で戦争に関わらざるを得なかった時代だったと思う。展示の解説に次のように記されていた。
「1940年代の日本は、戦争という美術家たちにとって非常に困難な時代でありながらも、モダニズムの成熟と転換という豊かな可能性を秘めた時代でもありました。本展は、戦前から戦後の時代を1940年代という時間の経過で捉え、これまで分断されてきた戦前、戦後の日本の美術史を新たな文脈でとらえ直そうという展覧会です。当館のコレクションの根幹を形成する松本竣介、朝井閑右衛門、麻生三郎、鳥海青児、山口蓬春などの戦前戦後をつなぐ作品や資料に新たな照明を当てるとともに、丸木位里、俊夫妻の《原爆の図》に結実するまでの画業など、同時代の広がりも、絵画を中心に紹介します。」
門外漢の僕には「新たな文脈」を理解できなかった。モダニズム絵画という括り方も、作品の時系列の展示も、よく理解できなかった。一人ひとりの画家の作品に流れている時間を、時代で括ることに無理があるのではと思えた。なぜなら作品に流れている時間は輻輳していると思えるからだ。外部へ表象される時間、内部に落下し沈澱する時間、絵に触れる一瞬とそれに到達する時間の襞、個としての、あるいは他者に囲繞されることで対流する時間がある。歴史とはその総称であり、「地平」として切り取られた時間の姿だと思うが、「地平」として切り取られることが避けられず孕む幾重もの襞のなかで、作品は出来事として息づいている。時間は輻輳する襞ごとに問いを秘めて流れている。だから、歴史的なコンテキストによって新たな相貌が顕わになるのか、期待される「地平」に違和を起こさせるか、その亀裂こそが見えなければという思いがある。
ともあれ、目に残ったのは、松本竣介の黒、藤田嗣治の筆使いや靉光の赤だった。久々に絵を眺められて幸せだった。ただ、いかに素晴らしい作品でも、「原爆の図」を凝視して生きるのは辛いと感じた。ふと窓の外に視線を逃がしながら、「美術館で絵から目を逸らすことの至福」について誰かが書いていたことを思い出した。
ご指摘いただいた方に感謝するとともに、校正畏るべしを今後の戒めとしたい。