飛魚的日乗 (現代詩雑感)

詩のことを中心に書いていきます。

何処から来て何処へ行くの

2018-12-13 | 
 イマーレ・イポレット

いきなり腰骨から加速する
とりあえず脊椎を抽象する
加速する腰骨が思考する加速する腰骨の時間と加速されない腰骨の時間が
たえまなく傾斜する
傾斜する夥しい断面がキキキと音を放ちはじめる
あるいは音を放つことをかたちづくるキキキが
いきなり腰骨から走る逃走線に沿って襞となって連続する
その襞のなかをさらに引かれる逃走線が
走る
断絶する
消えかかる

イマーレ・イポレットはそれを甲高い鳥たちの声で話す
それを裏がえる魚たちの声で話す
だから彼女は何かを歌わなければならないと感じる

イマーレ・イポレットは夢のなかで出会う狼を歌う
いつも違う別の狼に出会う歌を歌う
その狼が夢のなかで出会う違う狼が歌う
狼は無数に現れては消える
まるで降り積もる雪と同じくらいに永遠だ
イマーレ・イポリットは信じている
昨日の夕暮れに近い風景のなかのずっと遠い場所でちいさな息を吐いた狼がいる
その息を感じた別のわたしがいるわたしは きっと
わたしでママでママはいつも狼に短絡する
お上に向かって撓む
婉曲する
降り積もる
沈黙する
昨日の夕暮れに近い風景に中で起こった時間はわたしの腰骨を幾重にも折りたたむ
永遠に裂け続ける時間と激しく脊椎が衝突する
だから音は声であり声でない
誰もこちらがわでは生きていない
だれもあちらがわから来ない
せわしなく行き交うのはいつも影でありわたしであり違う狼たちだけなのだ 
イマーレ・イポレットはそれを感じるとせつなくなる
勇気を出して狼の内部に降りるときっとそこには海が広がる
海には島があるはずよ たとえばのことだけれど
イマーレ・イポレットは歌う考える歌う少年の声で歌う
イマーレ・イポリットの島にいるイマーレ・イポリットを歌う考える裏返る声で歌う
イマーレ・イポレット
小さな島の青い色を考える歌う
彼女の下着のこんがら髪の天使の半分の透き通った翼のことを
歌う考える
向こう側から蘇える回転する少女を連れた男の前を猫の絵を持って通る歌を歌う
雨と夜を狼の声で逝ったり来たりする
狼のしぐさで指を曲げる背中の透明な羽を折りたたんでみせる
イマーレ・イポレットの中をざわざわと声があがる
音と音が世界を抱きすくめる
世界とは狼のことで狼の群れで孤独なママでわたしで悲しい
わたしのこんがら髪の天使たちで自転車で乗るでみんな
きぃきぃといきなり走る世界が腰骨から暮れる
夕暮れの遠い駅舎の風景のなかの板敷きの階段に激しく乗り上げている
激突する風景裏側にイマーレ・イポレットの横顔がずらっとならんでいる
彼女は綺麗ねって花がほめる
綺麗ねって
花がほめたあとふたたび腰骨から加速する
加速された腰骨と加速されない腰骨の時間はたえまなく夥しい傾斜をかたちづくる 

もういちどイマーレ・イポレットは感じる
今度激突するのは誰かしら
少年の声で囁くのがわたしでママで狼
いつも 起こることは起こらない
いつも 起こらないことが起こる
出来事は空を覆うように降り止まない
いつもしんしんと降り積もる
永遠に雪の中の腰骨まで
イマーレ・イポレットは加速し連続する加速し
断絶する
すべては夢のなかでなだれる おしよせられる 消える
カチカチと点滅するイマーレ・イポレットの見る夢で
彼女が告げる黒イチゴに何か告げているなにかが溶けはじめる
こめかみのなかで密かにイマーレ・イポレットの歌の声で
ヒヨドリの大群が旋回するこめかみでもう夕焼けが始まっている



(反歌)
小鳥たちが騒いでいる空の端のあたりで死とならんで奔られる直線が始まっている
始まっては消える白いかすかな線状の風の流れしかしそれが何処で終わるのか誰にも解らない
夏の午後の悔恨には運河が必要なのだとふっと思う目を閉じればいきなり目の前を水が流れはじめている
夢は幾何学模様にざわざわと降り積もる夢のなかの乱れ飛ぶかもめの白い残像を携えて
夢のなかの死んだはずの君に会いに行くため
夢の狭間の白く濁った水の流れの裏に静かに潜り込み再び眠りにつく









グドの鎮魂のために

2018-12-12 | 

その駅には何層にも線路が重なり合っている
無秩序に造られた無数の階段が囲んでいる
長い階段や幾重にも折れ曲がる階段が交差する

駅の四方からは何本もの鉄路が乱雑に延び
どれが何処にたどり着くやら誰にも想像がつかない
ホームへ走り込む電車の両側で街は激しく勾配を増す
だから昼も夜も駅のまわりの景色はチカチカしながら
伸びたり縮んだりしている
キィキィとブレーキの音が響いてる
ワオンワオンと人の叫び声が渦巻いている

あたりを鎮めるために
やむなくグドはピアノを弾く
見えない別のグドと一緒に連弾する
グドのピアノにも何層もの線路が重なり
錯綜する無数の階段がグドを囲んでいる
グドがピアノを弾くと
長い階段も折れ曲がる階段も途中で消える
グドから何本もの鉄路が乱雑に延びる
どれがどれにたどり着くやら
まるで想像がつかない

グドはかつてキリストみたいに
死んだことがある
別のグドも死んでは蘇える
何回も死ぬ
死んだら終わりなのだが
グドは死んだままモーニングを着る
カタコトとピアノを連弾する
それから家に帰って奥さんを抱き
四万十川まで連れて行く
川のほとりで二人で魚を食べる

駅の脇のゴミだらけの道路で
白いエプロン姿の曲目の女王が僕に囁やいてくる
生活圏の柩の中には猫が密生する
柩の中の生活圏には亭主が住み着いている
つまり女王には猫に似た絵描きの亭主がいて
さっき死んだばかりで
次に死ぬまではまだ間があるということだ

グドは死んだ絵描きに弟子入りする
連弾する飛び跳ねる指が
赤や黄や青でまだらに染まる
ピアノの音がぶつかるから
みんな我先に駅から逃げ惑う
音がぶつかると何かが浮かぶ
それが何だか誰にも分からない

分からないと
頭のなかの傾斜がだんだん急になり
そこをすかさず電車が走り
走る電車はいつも
ひゆるひゆると警笛を鳴らす
警笛が鳴ると
クリネズミが走る
クリネズミと一緒に女王も走る
グドも別のグドも絵描きも猫も
みんな走る
みんな生きたり死んだりする
つまり世界は単純に発動するのだ

四隅の天使

2017-01-28 | 

倒れたり立ち上がったりする
僕の四隅を埋めている天使たち

たとえば一人はひげづらの老いた男
ひげづらは激しく鼻をかむ
祭壇の陰ってこんなもの
天井まで伸び上がろうとする

もう一人は赤ん坊のすがたで隅をよたよた歩く
宙から炎をつかみ出しながら死んだ母親を運んでみせる

それからもう一人は猫の顔で伸びたりちじんだりする
さびしい場所を探しながら
小さく鳴いてみせる

そして 最後の一人は
いつまでたっても見えないまま

ミルピエ

2017-01-27 | 


仕事が早く終わったので、渋谷の東急文化村の「ミルピエ ~パリ・オペラ座に挑んだ男」を観てきた。バレエ作品が組立て作り上げられるプロセスを追ったドキュメンタリー映画だが、映像の美しさだけではなく、バレエ団の一人一人のひたむきな努力、真摯さ、踊ることの喜びに心を打たれた。妥協せずに、自身の表現に向かっていく姿は、素晴らしい。パンジャマン・ミルピエは、様々な境界を越えることで、人としてのナチュラルな自己解放を考えていると感じた。
「平面的になるな!」「音は怒涛のように襲う!」とか、そんなことばにこちらもドキッとする。遅ればせながら、可能なら、僕も、「ことば」の「シャンジュマン」や「プリエ」を見つけて、プラクティスに励もうかと思った。
それから、「文化」を冠にする組織に居る身として、「文化」を創り上げるとはこういうことかと思った。借物ではない、独自の。全力でそれを支援できないなら、存在そのものを疑われてしまうと感じた。

天井桟敷の人々

2017-01-27 | 
深夜に目が覚めてしまったので、「天井桟敷の人々」の第一部「犯罪大通り」(Le Boulevard du Crime)の後半と第二部「白い男」(L'Homme Blanc)を観た。ラストシーンは、主人公のパティストが、謝肉祭に沸く「犯罪大通り」を馬車で去ってゆくガランスを追いながら、激しく渦巻く群衆の波に翻弄され飲み込まれていくシーンで終わる。「ナロード」と言うと恐らく語弊があるかもしれないが、カオス状態の民衆の姿は、何かを象徴していると思う。プレヴェール達の「10月グループ」には、そう考えたくなる要素があった。そもそも原題の(Les Enfants du Paradis)は、「天国の子供たち」で、1席4サンチームの安い天国(天井桟敷)で、劇に共感して子供のように大騒ぎする民衆を意味している。
一時は協同したブルトン達が居て、また一方にアラゴンが居て、もちろんアルトーなども居るのだから。それに、ヴィシー政権の非占領地区で数年の歳月をかけて制作していることも考えると、頭の固いナチに対抗するプレヴェール流の洒落の効いた仕掛けがありそうだと思うのは間違っていないと思う。
憧れの女性がGarance(茜色)で、主人公は染まりやすい(L'Homme Blanc)のBaptiste(麻、浸礼派)というのはたぶん意味があるのではないか。だからこそ、ガランスは犯罪大通りの見世物小屋で浸礼するかのような裸身で登場しているとか。
でも、これ以上書くと、敷衍しすぎて脱線してしまいそうなので止めておく。
 映画を観終わってから、確かに良い映画と感じながら、なんとなく共感に躊躇する気持ちがあった。時代が違うせいなのか、僕が個人的に恋愛が苦手だからなのか分からないが、何度も観たい映画であるのは間違いないと思う。

夢のフーガ

2017-01-27 | 

真夜中のピアノ庫のなかを
ことばに吊るされて移動する
喉がいきなり遥か遠くの海に繋がる
窶れたぶらぶらの脚が海までの細い道を感じる
夢の隅でぼんやりとケルアックのことを考える
ハドソン川に無数の薔薇が静かに落ちている
宙づられたテラテラの禿げ頭の僕に並んで
真実はこれにありと叫ぶ影がある
人を愛することなんて単純で簡単だと
ボソボソと呟く影がある
それはたぶん僕の守護天使だと言っている奴だ

夢のなかでは薄くしか息ができない
腕の半分が闇に侵されて消えている
肉の焦げたような匂いがする
何本もの枯れ枝が突き出た額だ
小刻みに肩を揺すりながら歌おうとするが
暗い歌の底に声が引っかかってくぐもる
急激な悪寒が来る
貧しい奴は貧しくしか死ねないという声がする
解っているはずなのに
それでも光が宙を走しるのを見る
みんな見えると思っている
真夜中のピアノの庫の扉が閉まる音がする
僕を吊るしていることばが消えかけている
だんだんに
たぶんニ短調で夢のなかの首が絞まる

※夜中に、「天井桟敷の人々」の映像を観ながら、来たことばを造形してみました。

2014-12-22 | 


 細いビニール管の先端を二つ折りに
 丸まった先から腸管に押し込む
 鈍いズズという音がズズと
 下腹部から胃の辺りまで響いてくる
 
 これは 夢
 
 夜のバスが急停車する
 激しい衝突音に身体を仰け反り
 両腕を伸ばして耐えようとするが
 頭がふらふらしている
 倒れている乗客の間を誰かを呼ぶ声が走る
 キュルキュルという擦過音に似た名
 若い男が恐ろしい速さで
 ぶっぶっと何か独言している
 ところどころ
「あ」とか「お」とかの母音が聴こえる

 気付いて見ると辺りは絶壁になっている
 群生するエノコログサ
 汚れたスニーカーや破れたビニール袋が散乱している

 これも たぶん夢

 起き上がろうとするが身体が重い
 身体がどんどん重くなっていく
 窓の外では甲高い女の声が
 世界の構造について叫んでいる
 レートを変えなければゲームオーバーだ
 観光客は増え続けるがパンパニケイユは絶滅する
 口数の少ないものから先に死ぬ

 おそらくこれも夢だ
 夢から醒めたら僕は何をするのか
 何か探しに行かなくてはとしきりに思う

 そうやってしかたなく夢を
 しかたなく一行づつていねいに
 できるだけていねいにまっすぐに書く
 なのにまっすぐに書いたそばから
 インクの匂いを連れてはみだすものがある
 夢のなかに僕を置き去りにして逃げるものがある
 夢の外とぶつかりあいながらこぼれるものがある

 陽気なロバが見ている僕の夢に
 無口な天使たちが狼狽えて飛び交う音や
 小さな花束を抱えた男たちの
 朝焼けの空を行き来する笑い声やら
 荒れ野を逃げまどうをネズミたちの千切れる影の
 キィキィと響く喉鳴りが雨を降らせる
 病んだ街路 病んだ海 病んだ風 ほとんどの病んだが
 かなりインクの匂いがする
 だからいつまでもはみ出してはいられない
 しかたなくまっすぐの線に寄せながら
 こぼれているものをなんとか片付けようとするが
 ひとつひとつが温度も速さも違うために
 片付けようとする僕の記憶も仕草も
 どんどん壊れてくる
 ネズミはコウモリ傘になり
 ロバは尻尾のない電気ストーブになり
 みんなまだ少しインクの匂いがする
 逃げ出そうとするが
 壊れながら形を変えつづける妻が
 戸口に犇めいている
 恥ずかしくも生き延びるためには
 壊れながら僕をずらすしかないから
 空は押し黙ったまま錆色の光で降りてくる
 ことばは消えかかりながら
 いつまでも薄っすらとインクの匂いがする


小船   ・・・須永紀子さんの詩集を読む(その3)

2014-12-13 | 
狩野正信筆「周茂叔愛蓮図」

前回、「夏の旅」と題された作品に触れて、
「須永さんという作者が居て、作者が書いている作品の主人公が居る。」と書いた。そういうものとして作品を読んでいくということを書かせてもらった。主人公という言葉が適切かどうかは自信がないが、作者と作品のなかの一人称単数の存在を区別して考えていくということだ。詩は、ややもすれば、作者の内心の吐露として読まれる。意志表明であろうが、感情表現であろうが、作者が「思い考え意志する」ことが書かれているものとして読まれる。作品の中の一人称単数は作者と同一視される。だから、「詩」について書かれたものの多くは、「作品」に向き合うより、「作者」について握持しようとする。作者の経験的現実を作品解釈の前提にしようとする。
しかし、「詩」も「小説」も、作品として読むということは、作者によってことばで書かれた、創造された「テクスト」を読むということだ。こう書くと、「作品とテクストは別ものだ」とか「いまさらテクスト主義か」とかの声が返ってきそうだが、僕としては「テクスト」から始めるしかないのではと考えている。作品論と作家論は相補的だが、テクストを読み解くことからしか作品論にも作家論にも行き着けない。そして、テクストを読むことは、作者とともに「詩」のなかを進むことだと思う。それが詩を読む悦楽なのではないかと思う。
詩や小説の場合、そのテクストは「ことば」だということが最大の問題だ。パウル・ツェランは「詩」を「対話」として捉えるとしたが、ブレーメン文学賞受賞記念の挨拶で、名高い「投壜通信」の話しをしている。

「詩は言葉の一形態であり、その本質上対話的なものである以上、いつの日にかどこかの岸辺に―おそらくは心の岸辺に―流れ着くという(必ずしもいつも期待に満ちてはいない)投壜通信のようなものではないでしょうか。」
(1958年 「ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶」 パウル・ツェラン詩文集 飯吉光夫編・訳)

これに続いてツェランは、「詩は途上にある」と語っている。テクストの読むとは、作品という、「途上にあるもの」とともに行くことだ。「書くこと」や「書かれたもの」を「対話」と呼ぶとすれば、その「対話」は「誰と誰のものか」という問いが峻立する。詩はその問いを孕んでことばが記されている。そして、「途上にあるものと」ともに行くことが、ツェランが詩のめざしているものとした、「開かれているもの」、「獲得可能なもの」、「語りかけることができる「あなた」」を見出すことになるのではないか。対話として刻まれるのではないかと考える。
須永さんの作品に戻ろう。

踏みしめれば沈む
泥の階段

須永さんの<小舟>と題された詩は、この二行で始められる。始めに場の特性が書きしるされる。詩集冒頭の「森」と同じように、そこに、その場に「ある」ことが強いられている。あらかじめ。そこに、人の形を立たせようとするが、輪郭が定まらない。ただ漠とした陰が寄り添ってくる。そこ誰がいるのか、いないのか、不明だ。主語は露わにされない。行の背後に具体的な人称も浮かびあがらない。いや、むしろ作者が、作者が行為させるものが、その場に、あらかじめ仕掛けられた場に、輻輳して置かれているとも言える。
誰かが「踏む」のではなく、「踏みしめる」行為。その場では、「意志する」ことと「強いられる」ことが共起する。「泥の階段」を登るためには、「踏みしめる」ことが強いられる。そして、「踏みしめる」ためには、明確に行為を意志しなければならないからだ。アンビバレンスが作品の基底をなし、輪郭の線形が逸脱する。述部と主部が倒置され、ことばは新たな一行へ移ろっていく。詩行の行為主体は宙に浮かんでいる。「わたし」である「わたし」、「わたし」でない「わたし」。「わたし」は顕であり、隠されている。だから、読み手の<何が?>という問いも無化され、宙に浮かんだままだ。「わたし」は、宙に浮かんだまま、かろうじて辿り着く場所へ出ることができる。

たどりついたホームに
列車の姿はなく
線路にはゆったりと川が流れ
ホトケノザなども群れ咲いて
春の河原の風情である、

階段を登る「途上」から、読み手の眼の端にホームが浮かんでくる。そのことばに引き寄せられながら、開けた場に出る。「ホーム」、home、次行の「列車」が「駅」であることを明らかにする。
そうやって辿り着く「ホーム」なのだが、辿り着いて初めてホームが見出されたのか、あらかじめホームがめざされていたのかは判然としない。しかし、めざしていた場所には、あるべき「列車」は存在しない。線路は川となって流れている。
いつも次行が、「何が」という問いの潜伏する行に連なる次行が、その問いと交差しながら、ことばの意味を照らす。この「ずれ」がひき起こす、微かな異次の時間の流れがある。時間は、交差しながら、未来から過去へ揺らされながら同時に「いま」である「途上」を行くことになる。「ホトケノザ」、紫の小さな花、白い小さな花、唇に似た小さな花。群生する花が辺り一面を紫に染めあげる。それと同時に、夥しい数の小さな唇が一斉に囁くような幻視が来る。これはたぶん、読み手が逸脱する彼岸の風景なのだ。だから、「なども」と置かれることばの違和感は癒されているし、現実に存在しない場に出たことも自然に受け止められる。

人々はボートに飛びのり
慣れた手つきで漕ぎだして
伝令のように散っていく
北行きの切符は湿り
手のなかで吹雪になっていて
はじめての小舟の上
先を行くひとをまね
オールを動かしてみる
くちばしをつかんでいるようで
ひるむ気持ちが伝わるのか
いうことをきかない

物語のように繰り広げられる光景をどう理解すればいいのだろうか。水は全ての水脈が繋がっているという世界観、例えば中国では「井戸は水の眼」という言い伝えがある。伝習であるかのように舟をこぐのか。儀式のようにだろうか。あるいは義務、使命なのか。何か大きな集団に属している人達の姿だ。「伝令」ということばに戸惑うが、自分のやるべきことを理解しているということか。「伝令」が伝えるものは何か。それは自己を超えたことばなのだと思える。そういう言葉を持つのは組織された人達なのだろうか。伝えるべきものがあり、伝えるべき人たちがいる。しかし、「切符は湿り/手のなかで吹雪になっていて」、ということばは鮮やかだが、動作はうまく行かない。いくつか気になる言葉が置かれている。「はじめての小舟の上」「くちばし」、これを受けとめることができない。受けとめることができない読み手である僕は、小舟が翻弄される姿、古ぼけたオールの木肌を感じながら、途方に暮れる。途方に暮れていると、次の連が立ち上がってくる。

魚の大きな影が過ぎて
ボートが傾き
それが合図であったか
突然、闇が降りてきてしまう

 これは夢の中の出来事ではないのかという思いが来る。「魚の大きな影が過ぎる」というのは、生きものの、他者である生きもののに「横切られる」ということか。

(続く)


夏の旅   ・・・・須永紀子さんの詩集を読む(その2)

2014-12-12 | 
 須永さんの詩集について触れようと思って書き始めたが、冒頭詩の「森」を読むことで終わってしまった。須永さんの前作である詩集「空の庭、時の径」(2010.4.10書肆山田)について書いたときもそうだった。詩集「空の庭、時の径」の冒頭詩である「囲繞地にて」に触れただけで、ブログには「続く」としたのに果たせないままでいた。僕は、そのことが申し訳なく、ずっと気になっていたのだが、なかなか「続く」を書けないでいた。気が付くと、それから四年以上も経ってしまった。だから、今回、詩集「森の明るみ」について書くことは、僕にとってひとつの救済の機会が与えられたように思える。今回は、二つの詩集を遡ったり進んだりして交互に読みながら、須永さんの作品と僕の書くこととの交点を見つけられるように、少しだけでもその交点が光を帯びているのが見えるように、何回かに亘って須永さんの詩集について書かせてもらうことにする。

 
1 「夏の旅」・・・・・詩集「空の庭、時の径」

 2010年の須永さんの詩集「空の庭、時の径」」には、十二篇の詩が、四篇ずつ三つにまとめられている。<「囲繞地にて」「夏の旅」「星の下で」「谷を渡って」>、<「旧市街Ⅰ」「旧市街Ⅱ」「旧市街Ⅲ」「遠い庭」>、<「孤島」「刺草の夜」「記憶の書」「伝言」>というまとめ方だ。何篇か選んで読んでいきたいと思う。
 「夏の旅」は、家族で房総へ出かけた思い出を書いている。東京から見て南に位置する房総は、夏の明るいイメージがある土地だ。そこに住んでいるおばさんの家へ出かけた時のことで、作者の八歳のときの思い出である。作者は須永さんだが、須永紀子≠作者を含んでいる「思い出」という読み方になる。つまり、須永さんという作者が居て、作者が書いている作品の主人公が居る。

  週刊誌と冷凍みかんを買って
  列車に乗り込んだ
  チョコレート色の外房行き
  よそゆきの服はツルミ用品店のぶら下がり
  クーラーがかかりハワイアンが流れ
  レイをかけたマネキンのいる
  常夏の店
  そこで選んだ一枚が
  その夏、母の定番になった

 「夏の旅」は、ノスタルジックな作品だ。古い何枚かのスチル写真が浮かんでは消える。「週刊誌」や「冷凍みかん」や列車の「チョコレート色」、「ツルミ用品店」、「ハワイアン」、「マネキン」。ことばであるものが鮮やかな像を結ぶ。ことばであるものが聴こえない音を響かせる。それは須永さんが置いたことばが曳きだしている記憶の像であり音であり、須永さんのことばに示されていると考える「僕」の記憶の像であり音だ。そこには、半分は僕の母の姿をした、見知らぬ女が夏服を着て立っている。
ことばが指示するものは、分節された世界では明確な対象を持っているという信頼があるだろうが、もちろんそれは表層のことであり、一歩踏み込んでいけば幾層もの断面や破片によって形作られている。ことばを読むとは、幾層もの断面や破片のなかに生起するものを捉えようとすることだ。意味であれ、像であれ。「捉えている」と思える「わたし」は「わたし」であり「わたし」でなく、「他者」へ還すことばは届かずに消えてしまうばかりだ。

  みかんは溶け
  スターのグラビアページもめくり終え
  両国を過ぎあたりで
  ずいぶん遠くへ来たような気がして
  わたしは心細くなってくる
  父も従姉妹もそばにいるが
  この心細さを消すことはできない
  八歳のわたしにはわかっている

 たぶん、「世界」は年齢とともに伸縮している。確かに、八歳の女の子が抱えられるだけの世界は、冷凍みかんの解ける時間で測れる広さかもしれない。「スターのグラビアの」数ページを捲るだけの時間かもしれない。この「心細さ」はどこから来るのだろうか。自分の「棲処」である「世界」を出てしまう「心細さ」、それは「不安」ということなのか。「不安」は、「世界」内に棲まう自己を、自己の目で見ることに繋がっていく。傍に肉親が居たとしても、個別化された自己が自己に向き合うときには、絶対的な孤独の中に入り込んでしまうのだと思う。そのうえ、「棲処」から出てしまう事態は「死」の影を帯びる。「八歳のわたし」は、すでにそのことを「気分」として感じているということだ。読み手の心象風景の中には、「世界」の果てで「スターのグラビアの」数ページがゆっくりと風に捲られているのが見える気がする。

  海辺の駅から
  ボンネットバスに乗った
  ベンチのある雑貨屋で
  わたしはコーヒー牛乳を 
  妹はフルーツ牛乳を飲む

 「海辺の駅」「ボンネットバス」「ベンチのある雑貨屋」ということばに、僕の脳髄の奥から切り出されるようにノスタルジックな光景が広がる。コーヒー牛乳もフルーツ牛乳も知っている年代の読み手は、味の思い出さえ甦る。

  小さな蟹の群れが横切り
  その影が長く伸びる道
  軍艦のような工場があって
  火薬を作っているのだと
  誰かが小声で話している
  叔母の家はすぐそこ
  パーマで髪をふくらませた
  六〇年代の母が
  いそいそと歩いてゆく

 「小さな蟹の群れが横切り/その影が長く伸びる道」ということばに惹きつけられる。そこに「軍艦のような工場があって」、誰かの小声で話される「火薬を作っているのだ」ということばは、秘密話しとして不気味さをともなっている。「死」の臭いというのは言い過ぎになるのだろうか。ことばや想念の流れを交差させたり、相反する語句がぶつかる。
 須永さんは読み手の揺らせ方が巧みだ。読み手は、叔母の家のすぐ手前で解放される。「六〇年代の母」は「叔母の家」を目指していそいそと進むのだが、詩行のテンポの変化は、読み手に「母」のさっそうとした逃走の印象を呼び起こす。すくなくとも退場しようとしているように思う。ふくらませた「髪」や「いそいそ」とした様子は、ユーモラスでさえある。
                                   (続く)


須永紀子詩集「森の明るみ」思潮社

2014-12-08 | 
 須永紀子さんが、思潮社から新しい詩集を出された。詩集のタイトルは「森の明るみ」で、ハイデガーが「杣道」で使った比喩、「暗い森のなかに明るみ(間伐地)が開かれ、その光のなかで、そこに現れるすべてのものがその形を見せることになるが、それと同時にそれをとりまく森の暗さもまたそれとして見えてくる。」からヒントを得たと、「あとがき」に書かれている。「明るみ」は、光を集める場を切り開くこと。その光により現前するものがある。そしてまた同時に、その光が周囲の森の暗さを顕にする。「明るみ(Lichtung)」とは、「開かれ」であり、ハイデガーにとって、「明るみ」は現存在(Da-sine)そのものの比喩ともいえる。しかし、周知のとおり、「明るみ(Lichtung)」には失われ隠匿されたものが伏在している。それによってその場所が人間固有の場(外立:de-Ek-sistenz)であり、真理の生起する場所と呼ばれる。作品として置かれた言葉は、指示するものと指示へと送り出したもの、顕になるものと秘されたものが輻輳する。作品は、その「間(Zwischen)」に生起する意識の流れであり、須永紀子という経験的存在の通ってきた時間や空間に照らして置かれた言葉なのだと思う。そして、その作品を「私」が「読む」。その「私」も、個体としての経験的存在である「私」である。そしてまた、「明るみ(Lichtung)」にある生身の存在として、「作品を読むとはいかなることなのか」という、「詩」と呼ばれるものの発生から延々と繰り返されている問いを抱えながら、作者が仕掛けた問いを「読む」ことになる。私は、須永さんが詩集のタイトルに託したものを、「明るみ(Lichtung)」にあるものと、暗闇(これを「ピシュス」と呼ぶのは思い止まるが)にあるものとの、「間(Zwischen)」に置かれた「問い」と考えたい。作品として置かれた言葉が「照らし出すもの」と、その言葉が示す「見えない暗いもの」が読みとれるかという、須永さんの問いかけとして読み進みたいと思う。

「詩」として書かれたことばを読んでいくとき、読み手はことばや文に現れてくるひとつひとつの「裂け目」(そう言ってよければだが)を渡らなければならない。その「裂け目」が、意図されて置かれたものか、生理として生じたものかはともかく、読み手はどんな姿態でそこにある空隙をくぐるのかを考えることになる。しかし、これが、なかなかに困難な事態なのだ。書き手がそこに置いたことばやことばの連なりが、微妙に揺れ続けていると思えるからだ。さらに事態を複雑にするのは、書き手も読み手も、多人称にわたる「私」であり、過去であり未来であり今である「現在」に輻輳して舫って「在る」存在なのだと思えるからだ。 詩集「明るい森」には、十七篇の作品が収められている。冒頭作の「森」は、この詩集のまとめとして置かれているように思えるが、それは「あとがき」を読んでしまった者の目からの印象である。これをクリアして、作者の苦渋や戸惑いに共感しながら、すこし丁寧に読んでみたい。

   どこから入っても/いきなり深い/そのように森はあった/抜け道はふさがれ/穴は隠され/踏み迷う/

 
 <森>は、<深い>。それも、<いきなり>にだ。「森」のなかで「行暮れる」イメージが鮮明だ。「そのように/あった」ということが大切なのだ。入口は複数あるが、いきなり踏み迷うほどの深みとして、「森」、「森と呼ばれるもの」が「ある」ということだ。それもアプリオリにそこに「ある」。たった一歩の踏み出しで深みに入る。抜け道も穴も見つからない。出口見つからない。容易には抜けられない。囲繞されたままか。息苦しさが伝わってくる。囲繞されたのは誰。作者か、それ以外の他者か。そこはうっすらとしている。区切れない。そう感じる。私が?私達が?一人称単数から切り込んでいくと、森はいばらの森になる。ペローの森。魔法の森。魔女の森。眠り姫。錘の鋭い針の光。いばら。必死に切って伸びてくるもの。だが、これは作者の意図を逸脱するだろう。では、古代の森。椨の森。あるいはマングローブの。ヤマネコの夜の森。これも作者は意図していないだろう。一人称複数であれば、森は抽象化される。「森」とよばれる場所。覆いしげる樹木。生き物たちが棲まう森。人以外の。人は森には棲めない。不可解な場所。未知の場所。恐ろしい場所。作者すら意図しない所へ連れ去られる。でも森に恐怖しているとは感じられない。顕在化するのは、「迷う」ことへの困惑だ。「詩」の、「エクリチュール」の、「森」ではないかという思いが起こる。しかし、先を読んでいかないと確かめられない。イメージは積み残し抱きかかえて進むことになる。

   空を裂く/鳥の声は小さな悲鳴/枝をかきわけて/つくる小径/落下した星と虫たち/死骸の層に靴は沈み/凶音の泥が付着する/  実をみればかじり/青くしびれる舌/

 空を裂くのは何か。鳥は死者の化身。空を裂くのは鳥か、悲鳴か。それ以外の何か。小さな悲鳴に身を伏せ、伏せられた視線に、灌木のイメージが広がる。小径はつくれるのだから、希望はある。星や虫たちも親しい。苛酷な印象は浮かばない。ここまでは。どれから、死骸だ。誰の。踏み迷った幾多の者たちか。小さな悲鳴をあげた鳥たちか。星や虫か。死骸が層になっているのは地獄絵。凶音の泥。「凶」なので不吉を感じる。不吉だが歩く。実をみればかじるのは。人か、鳥か、鳥の、青くしびれる舌か。「しびれる」が内向する向こう側で、ちいさな舌骨が青く染まる。だが、人間は舌で話すが、鳥は鳴管で啼く。鳥の舌は蛇に似ていると、一人称単数は感じている。

   角。/壁。/目印。/町にあって/ここにないもの。/それなしではつかめない/
  方向もやりかたも/

 角や壁や、街にある目印を見つける。人が目印を生み出す。町では発信されるものを受け止められるが、「森」には目印がないということか。異人として踏み迷うからか。僅かな小径を。青い舌がしびれながら、異人として彷徨うということ。

   愚かさに見合った/わたしの小さな森で/行き暮れる/出口は地上ではなく他にあ
  る/そこまではわかったが/急激に落下する闇に/閉ざされてしまう

 いきなり「森」が縮小することに驚く。等身大の「森」。それは須永さんの慎ましさなのか。それでもなお、行暮れるのだが、出口の予感はある。迫ってくる危機感は消えている。「そこまではわかった」のは場所か。地上になければ空か地の底か、あるいは水路か。でも、急激に落下する闇に閉ざされる。落下するのは闇か、作者か、作者が仮託する語り手。そしてまた、冒頭に飛ばされ、繰り返される。どこから入っても/いきなり深い/そのように森はあった/抜け道はふさがれ/穴は隠され/踏み迷う/
「森」とは何なのかという問いの答えは隠されたままだ。ほんとうに「森」から脱出したいのかとも思う。それで、もう一度読み返して、ことばを「森」に繋いでみる。踏み迷う、空を裂く鳥小さな悲鳴のする、落下した星と虫たちの死骸の層を踏み越える、凶音の泥が付着する、青くしびれる舌、街ではない場所、方向もやりかたもつかめない、出口は地上ではなく他にある、急激に落下する闇に閉ざされてしまう、そういう場所。個体としての経験的存在である「私」が、「明るみ(Lichtung)」にある生身の存在として、作者が仕掛けた問いを読むことは、「私」の「書くこと」と交差する。まだ書き足りないのだが、須永さんの「書くこと」に支えてもらいながら、送っていただいた詩集のお礼を兼ねてこの文を書かせてもらった。機会があったら、もうすこし一人称単数の好みを挙げさせてもらえれば嬉しいかもしれない。






カフカを探して

2014-12-06 | 
暗い潮溜りで、恐ろしく大きく深い呼吸を繰り返している、巨大な磯蟹の夢から覚めた。

まだ、夜中なので、枕元に積んである吉本隆明、江藤淳、屈原、ル=グウィンの本を拾い読みする。
少し前に読んだカフカの「変身」についての文章が誰の何の本だったか思い出せず、それを見つけようと枕元の本の山を猟歩しながらだったので、手あたりしだいの感だが、「変身」についての記述はどの本にも見つからなかった。
吉本隆明のものは、「空虚としての主題」(1982年 福武書店)で、雑誌「作品」に書かれた文芸時評を集めたものだ。吉本が言う「小説を詩のように、詩を小説のように」批評する手法の一端なのかと思いながら読んでいる本だ。書かれたのは昭和55年なのだが、抜いた刀をやすやすと「私性」の鞘に収めない姿勢は、今なお爽快だと思いながら、時々引っ張り出してきて読んでいる。この中に『「私」及び「彼」の位置』という文章があり、書き出しでアイザック・B・シンガーの「カフカの友人」という作品について触れている。カフカの友人であるイディッシュ語劇の元俳優が、カフカについて語るという小説だが、作者、語り手、主人公、語られる者という構図のなかで、「わたし」は「幾重もの影に重層されて作品のなかに出現している」とする。それが、全てを「わたし」に置き換えても文体も描写も変わらないような、私性を要に体験的行為を繰り広げる昨今の日本の小説とは違うといった主旨だ。昨今と言っても昭和50年代のはなしだが、「いま」と「詩」に引きつけて考えると、自戒も胸の痛みもあると思える。
江藤淳のものは、「批評家の気儘な散歩」。批評を書き切りたいが儘ならない僕が、「家」である人の「散歩」を学ぶことで、すこしでも「批評」に迫りたい思いで読んでいるものだ。残念ながらカフカについての記述はなかったが、江藤淳お気に入りの文章が紹介されているので、書き写してみた。

We are such staff as dreams are made on.
And our little life is rounded with a sleep.
「われわれは夢と同じ材料でつくられていて、
われわれの小さな生は眠りに囲まれている。」(シェイクスピア「テンペスト」)

実は、江藤淳の本を読んで、本の扉を閉じるとき、いつも僕の頭を掠めることがある。恥ずかしい思いかもしれないのだが、「なぜ西脇は江藤淳を嫌ったのか?」ということだ。江藤淳が出席していると、西脇は授業をしなかったらしい。何が二人を隔てていたのか気になりながら、まだ真相は調べていない。
ル=グウィンも手離さず読み続けている作家だが、最近読んだ「いまファンタジーにできること」にもカフカの記述はなかった。この本の中の「眠れる森の美女」の記述で、シルヴィア・タウンゼンド・ウォーナーの詩が紹介されている。
たったひとつの王子のキスが、静謐を破り、館や小鳥の歌う荒野が抹消されることを悲しむ詩だ。確かにそういう見方もあるなと思える。前述したシェイクスピアではないが、dreamsとsleepは同義であって、わざわざ胸の痛む世界を生きるのも辛い。野卑な王子の愚行をこそ呪いたいのも理解できる。
屈原だが、最近見た「ある海辺の詩人」という映画の中に屈原が出てきた。屈原は座右の書で、これについてはまたにする。

And my little life will be rounded with a sleep.