飛魚的日乗 (現代詩雑感)

詩のことを中心に書いていきます。

合評会

2005-07-28 | Weblog
 昨日、新橋のポアで「フットスタンプ」11号の合評会。珍しく同人全員が顔をそろえた。それぞれの作品の寸評をやったが、みんな優しくて好意的な意見が多いけど、そこはさすがに「詩人」達だけあって、辛口の評を必ず付け加えてくる。一人一人、作品の読み方が違うと思うのと、ああ同じだと思うのと、半々くらいかなという感じだった。今回の僕の作品は中途半端なものだったので、みんなのコメントは少なかった。出色は小島さんの作品で、「金曜の夕方、ジョセフ・コーネルの箱」、「日曜の午後、馬に乗った丹下作膳」だった。「丹下作膳」の方は今年の始めの朗読会「アンチョビ・セレナーデの夕べ」で朗読を聴いていたので知っていたが、「コーネル」の方は新作だった。いろいろ議論になった面白かったけれど、いつもの小島さんとは違って、物語りに入り込んだ位置ではなく、もっと日常に近い浅い場所から書いていて安心して読めた。本当はここに引用したいが作品が長いからこんどにしておく。





台風

2005-07-26 | Weblog
 今日は台風に振り回された一日だった。国土交通省の水位データを覗きながら仕事をした。自宅に帰ってからテレビで海の映像を見て、こういう日に休みだったら、ひがな海を眺めているのにと思った。昔は大西や台風のときは海に出たくてうずうずしたが、最近はさっぱりその気にならない。テレビ映像などで波と格闘している人を見ると、うらやましいと思うのだが。
 シーカヤックでもやるかと思って、ショップを覗いてみた。ショップの人がいろいろ説明してくれた。なかなか面白そうなのだが、これ以上中途半端な趣味を増やすのも家族に気が引ける。

 昨日のボンジュの続きになるが、例えば
  太陽が私に光を注ぐ(darder)
  雀蜂が私を針で刺す(darder)
 これは同音異義語によるイメージの喚起になっている。フーコーは「すべての表象は記号として互いに結ばれ、全体として巨大な網目のようなものを形成している。」と書いているが、「もの」そのものとの衝突により表象が記号に引き寄せられている。意味の胎動に開いているボッシュの繰り広げている言語世界は、豊かさを感じるが、一つの位置をずれながら回転する独楽の世界のようにも思える。
 
  

 

表現の炎

2005-07-25 | Weblog
 フランシス・ポンジュの「表現の炎」の中に「雀蜂」という章がある。この本は作詩法についての本ともいえるが、オブジェとしての「もの」の持つ衝撃をエクリチュールとして表現する試行をまとめたものだ。オブジェの相貌をことばに映し出すこと。その探索の軌跡を断片的にまとめてある。
 
 ボッシュの「雀蜂」から少し引用しよう。(「表現の炎」安部昭一訳 思潮社)

 「しなやかな、----しかも虎斑状の縞模様の---空飛ぶ猫科の膜翅類。蚊にくらべると、身体がはるかに重いのに、翼は、相対的に小さく、振動しているもののあきらかに著しく減速されている。雀蜂は、あたかも蝿が最大の危機に陥ったときに(例えば、蜜や蝿取紙から脱出するために)みせるような必死の翼の振動をあらゆる瞬間においてくりかえしている。
  雀蜂は、雀蜂を危険にさらす継続的な危機状態のなかで生きている。」

 こうした書き出しの後、

  情熱をこめて腰を使ってポンプを働かす 
  小さな抜取装置
  成熟の結果を輸送する蜜房を形成する句点
  蜜の色、陽差しの色、蜜の、糖分の、そして糖蜜の運搬者。猫かぶりの、蜂蜜
  水質の

 翻訳してしまえばこうなのだろうが、類語や同音多義のことばの織り布を思わせる。僕は、言語の分節作用とは、制止的に分類的に存在するのではなく、言語による不在の表現として、幾層もの多義的世界を内包しながら私たちの位置を揺らしていると思っている。
 「詩」と呼ばれるものにどうしようもなく引き寄せられる理由は明確には出来ないけれど、この形式でしか表現できない何かを抱えてしまっているという実感が強い。発語。ことば。それが「シュレジンガーの猫」に似ているというのは、言い過ぎかもしれないが、ことばによってオブジェはオブジェとなると言うのはボッシュからすれば相容れない世界の衝突と批判されるかもしれない。ボッシュは「もの」そのものを「存在」という次元でつかっているのかもしれない。



  

 




きいろすずめばち

2005-07-21 | Weblog
 庭の雪ヤナギの茂みにキイロスズメバチが巣を作った。まだ小さな巣だったが、母が刺されたというので、ごみ袋を使って除去した。キイロスズメバチは精悍で美しい生き物だ。なんだかかわいそうな気がした。
 今日は七月堂で出版の打ち合わせをしてきた。七月堂の内山さんと昆虫食の話をした。内山さんによると人間は胎児期に生物の進化の全過程を壮大な夢として見るのだと言う。そして、昆虫を食べると、人間の太古から引き継いでいる潜在化された何かが目覚めるという。鎌倉近辺は百足が出るという話をしたら、百足を集めておいて欲しいと言われた。だが、きっと僕には触れないだろうと思う。

スターウォーズ

2005-07-15 | Weblog
 今日、ワールドポーターでスターウォーズ エピソードⅢを見てきた。映像が凄かった。アナキン・スカイウォーカーがダース・ベーダーになっていく過程が解ったが、なぜか直線的な物語展開だった。愛するものを守るという思いと愛するものを失いたくないという思いとどちらなのだろうか。守るならば守るものの傍で生きることを選ぶと思うのだが、失いたくないという思いが利己的であればあるほど、暗黒面に落ちるのだろうか。このずれがダースベーダーを生み出したのかと考えた。
 映像は凄いのだが、それほど驚かずに映像を受け入れている自分にむしろ驚く。CGが作り出す世界に慣れてきてしまって、あたりまえになってきているのだろうか。ともあれ、エピソードⅠをもう一度見たくなった。

雨の詩 vol.2

2005-07-10 | Weblog
 とっかかりなので、雨の詩にこだわってみよう。こういうのはどうだろうか?

 雨                           雨 

 南風は柔い女神をもたらした。         南の風に柔い女神がやって来た
 青銅をぬらした、噴水をぬらした、       青銅をぬらし噴水をぬらし
 ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、       燕の腹と黄金の毛をぬらした
 潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。    潮を抱き砂をなめ魚を飲んだ
 静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした、    ひそかに寺院風呂場劇場をぬらし
 この静かな柔い女神の行列が          この白金の弦琴の乱れ
 私の舌をぬらした。                 女神の舌はひそかに
                               我が舌をぬらした


 ともに西脇順三郎の「雨」と題した詩だ。左が詩集「ambarvalia」右が詩集「あむばるわりあ」に掲載されたものだ。二つの詩集には14,5年の隔たりがある。西脇は詩作については晩生だったようだから、どちらもそんなに若い頃に書いたとはいえない作品だ。
 「あむばるわりあ」は「ambarvalia」を全面的に改作している。再録されていない作品も多いなかで、この詩は捨てきれなかったらしい。書き手の位置の変化や行運びの成熟は比べようもないが、僕は前作のたどたどしさが示すものに惹かれる気がする。意識的に抽象化するのではなく、生身のままに抽象を受け止めている。そういう舌足らずな断片のなかから、ほんとうにそこから風が吹いてくるようだと思った。

雨の詩

2005-07-10 | Weblog
 昨日は激しい雨だった。昨夜遅く一般道を通って帰宅したが、高速なみにワイパーを最速にしないと視界を確保できない状態だった。でも、僕としては、雨のドライブがなぜか好きだ。落ち着く気がする。そういえば、雨の詩はあまり書いたことがない。
北村さんの雨は、「冬を追う雨」で、同名の詩集の巻頭を飾っている。

 冬を追う雨  北村太郎
 
 雨のあくる日カワヤナギの穂が
 土に一つのこらず落ちていた
 はじめは踏んだら血(青い?)の出る毛虫かと思った
 かたまって死んでいる闇の精
 ヤナギは不吉な植物なんていうけれど
 たしかに繁ったおおきなシダレヤナギは
 髪ふり乱してう薄きみわるい
 カワヤナギは穂をつけて
 冬のあいだは暖かそうでかわいい
 春になると黄色い細かな花で穂がおおわれ
 近くに寄って観察すると
 その一つ一つは大層かれんだが
 少し離れて見るとややわいせつで
 この変形は自然の悪い冗談みたいだ
 ゆうべの雨はひどい音だった
 冬を追っぱらうひびきを枕にきいた
 そしてけさふとカワヤナギの毛虫を見てもう桜が近いと思った

 初出誌一覧によると1977年とある。カワヤナギの穂に触れながら、春の訪れを書いている詩だが、おだやかな書き方のなかに、どきっとするような視線を隠している。北村さんは日常の底の裂け目をいつも意識して書いているのだと思った。その裂け目が、どういうもので、どこに繋がっているかは明示しないが、そうある自分から逃走線を引くことに器用ではなかったと思う。狂気と言ってしまえば狂気かもしれない。死への緩やかな傾斜を感じる。家族から「きちがい」と言われたという詩があったが、そういう位置で詩を書き継ぐのは辛かったろうと思う。北村さんが亡くなってずいぶん経つが、時々本棚の北村さんの詩集を引っ張り出して読んでいる。
 雨の話を書こうとして、詩のことになった。いつか僕も雨の詩を書くだろうか。

バスの窓からの景色

2005-07-08 | Weblog
 駅から10分程度の時間、バスを利用している。短い距離だが、箱根の旧街道なみの坂をバスが上っていく。道の両側は山の斜面なので、樹木が鬱蒼と茂っている。バスがその坂を上り始めると、「ああ帰ってきた。」と思う。
 今日は雨なので窓の外の景色はあまり見えなかった。そういうときは、ぼんやりと考え事をしていることが多い。いつもは仕事のことや家族のことを考えるのだが、今日はなぜか昔のことを思い出していた。
 まだ10代の頃。雪の代々木公園。代々木体育館。コンクリートの橋。数人の友達とふざけあっている姿。暗い樹木の翳。そのころ僕は家を出て、渋谷で一人暮らしをしていた。
 「雪は惨劇を秘めている。」というフレーズが浮かんできた。「惨劇」を隠しているのではなく、「惨劇」が浮き出してくる予兆。「惨劇」が何なのかは自分でも分からないが、受け入れるしかない「景色」と同義のような気がした。なぜ雪のことを考えたのかはわからない。バスの窓の外の雨のせいかもしれない。