飛魚的日乗 (現代詩雑感)

詩のことを中心に書いていきます。

六郷

2008-08-08 | Weblog
夏休みが取れたので、箱根で静養してきた。帰ってきて松下育男さんのブログを覗いたら、六郷のことが書かれていた。アドマチックの六郷の映像は、妻がビデオ録画していたので見ることが出来た。コメントを入れようと思ったが、YAHOOのパスワードを失念していてコメントできなかった。それで、ここに、コメント代わりに六郷のことを書くことにした。
 映像を見て、いまさらながら踏切がなくなっていることに驚く。実は、何人も死んでいる踏切で、僕の友達の父親もそこで轢死している。歩道橋になってよかったと思うが、あの踏み切りのせいで、僕の日常はいつも死がま近だった気がする。まだ小学生の頃、踏切内に犬が侵入しているので、危ないと声をかけたら、どんどん電車に近づいて吸い込まれるように轢かれてしまったことがあった。いま思い出しても、つらい思い出だ。
 僕の家もご多分に漏れず親の代で上京してきた。松下さんと同じ九州の出身だが、僕は大分県の竹田市で生まれた。滝廉太郎と田能村竹田で有名な町で、岡藩の居城があった。僕は小学生の時以来、竹田には帰っていない。最近、千葉に居た叔父が定年退職して中津に帰った。うらやましい。
 六郷に住んだのは、母の実家があったからだ。母方の祖父は、大田区の小学校に勤めていた。僕たちが九州から出てきたときには祖父は既に亡くなっていたが、母の実家のそばということで、六郷に住んだ。5歳くらいから高校生までの、13,4年だったと思う。ただ、僕にはちょっと事情があった。小学校2年くらいから、父に連れられて東京や神奈川を点々としていた。大田区で3回、品川で1回、川崎で2回、転校を味わった。学校に行っていないときもあった。六郷の家族のところに帰ってきたのは、小学校4、5年になってからだ。父にはそれ以来、ほとんど会っていない。数年前に一度父を訪ねたが、会うのは最後にしたいと言われた。父には父なりの、僕が知る必要のない生活があるということだ。
僕が六郷に帰った頃には、母は、日銭が入るというので、小さな乾物店を開いて家族を養ってくれていた。母一人と姉妹3人(姉と僕と妹と)のほんとうに貧しい暮らしだった。
 転校を繰り返す少年にとって、自己の矜持を保つには勉強しかないと、つくづく思い知らされていた。つまり、当時はいじめられっ子だったのだ。人を信用しない性格になっていた。友人と呼べる人はほとんど居なかった。どうやら僕の孤独癖はその頃に端を発しているらしい。とにかく独りで本ばかり読んでいた。以前、母は、大修館に勤めていたことがあって、母の影響もあって僕は小学生の頃からヘッセの詩集を読んでいた。そういえば、母にヘッセの詩を何篇か暗記させられたりした。万葉集も暗記させられた。北欧やギリシャの神話やグリムやアンデルセンの本が家にあって、本が買えないのでそればかり何度も読んだ。特にグリムと北欧神話が好きだった。母は僕がそういう方向に進むことを願っていたらしいが、不肖の息子は学者にはならなかった。
 中学生の頃か、いつも僕の方から松下さんを誘って、いろいろな話をした。何冊か交換ノートのようにして作った詩を見せ合った。松下さんと同じ高校へ行きたかったが、都心の学校は駄目だと叔父に言われた。それで、多摩川の辺の素朴な校風の高校へ進んだ。それでも、時々松下さんを誘って、多摩川の河川敷を歩きながら、いろいろな話をした。蒲田の本屋で詩集の立ち読みをしたりした。それからはそれぞれの道だったが、何年かして、松下さんの「肴」がH賞になった時、僕はもう子供二人を抱えて生活と苦闘していた。内容は忘れたが、なんだか訳のわからない長い手紙を書いて松下さんに送って、詩集を送ってもらった。
 どうもブログらしからぬ長さになりそうなので、これぐらいにしておく。とにかく、六郷は懐かしい場所だ。

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